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タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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野生の証明

「男は強くなければ、生きていけない。
優しくなければ、生きていく資格がない」
1970年代の終わり頃、この台詞が、繰り返し、繰り返し、テレビで流れていた時期がありました。
角川映画「野生の証明」(映画と、レイモンド・チャンドラーは何の関係もありません)のCMでしたが、当時の少年たちには、間違いなく、大きな影響を与えていたと思います。
「オレも、大人になって、いや、男になって、こんな生き様の人生を歩んでみたい」
そう感じた男の子も多かったでしょう。

あきおがバンコクから戻って来る朝、私は、あの子と、どんな態度で接するべきか、ずっと考えていました。
「今度という、今度は・・・」
怒鳴り散らすべきか、ぐっと我慢して、もう一度、言って聞かせるべきか、それとも、完全に、「知らんぷり」すべきか・・・・。
考えが、まとまらないうちに、あの子が部屋に入ってきてしまいます。
私は、気付かないふりをしていましたが、あきおの方から声をかけてきました。
「パパ、ごめんなさい」
ヨック・ムー・ワイ(タイ人が挨拶するときに、両手を合わせる礼儀作法)の姿勢をとって、実に丁重な挨拶でした。しかも、頭は丸坊主で、眉毛まで剃っていましたから、なんだか、異様な風貌で、完全に意表を突かれてしまいます。
「・・・・・・・あきおか・・・・、お腹空いてるだろう。ご飯食べろ・・・」
そうとしか、言いようがなく、またまた、あきおに、してやられました。
迷いのある相手に、先制攻撃を仕掛け、自分のペースに引きずり込んでしまう・・・・、剣術使いのような、あきおの戦法に、どうしてなのか、いつも、ごまかされてしまうわけです。

やられたのは、ラントムも同様で、この日の我が家は、実に不思議な空間でした。つい前日には、2人とも、カンカンで、
「絶対に許さん」
と息巻いていたはずだったのに、一夜明けて、あきおの顔を見ると、まるで、
長い修行から戻って来た、1人息子を迎えるような態度になっていたのです。
「澤野さんがなあ・・・・、最近なんか、奥さんとアツアツでなあ・・・、どうしちゃったのかなあ・・・」
「テンちゃん(うちのお店のスタッフ)、また、フラレちゃったのよ、中学生に・・・・」
「あきお兄ちゃん、知ってる?ピー・ヨム(ヨム姉さんの意。姉のマヨムのこと)に、新しい彼氏ができちゃったの・・・」
私も、ラントムも、きよみも、そして、ラントムのお父さんや、お母さんも含めて、学校の話には、ほとんど触れず、世間話を、ずっと続けていました。

夜になって、あきおの気分も、ずいぶん解れてきたようでしたから、私は、あの子を呼んで、また、ブレイクポイントの奥の席に座らせました。ここだと、個室ほど、改まった感じもしませんし、他人には聞かれずに済みますから、都合のいい場所だといえます。
「あきお、どうして、こうなったんだ。説明してみろ」
私が、そう切り出すと、あの子は、口ごもりながらも、ボソボソと話してくれました。
「みんな、やってるから、ついつい、気が緩んで・・・」
あきおの話を簡単にまとめると、こんな感じでした。

「みんな持ってるよ・・・・・、だから、買って」
「みんな行くみたいだよ・・・・・、だから、行かせて」
子どもが、よく使う言い訳ともいえますが、
「みんなって、誰なんだ?」
そう突っ込まれると、
「えーっと、山田くんでしょ・・・・・、それと、えーと、えーと・・・・・、あっ、佐藤くんもいた」
結局、2人だったりします。
きっと、あきおの言う、「みんな」というのも、一郎くんと、その他少数の仲間なんでしょう。

「この学校、絶対に、クビにならないから、大丈夫」
一郎くんらは、いつも、そんなことを言っていたそうですが、確かに、彼は、度重なる不祥事にも関わらず、1年近く、生き延びてきた「実績」がありますから、信憑性があったのでしょう。
「でもなあ、それで捕まってるのは、あきお1人なんだから、これは問題があるぞ。彼らは通学生で、あきおは寮生だ。置かれている立場が違うんだよ。
通学生なら、多少のことは多目に見てもらえるけど、寮生だと、そうはいかない。何かあったら、学校の責任になっちゃうからな。大人の世界は、そうなってるんだ。みんな、責任を取りたくないから、予め危険な目は排除したい。そういうことだな。
“みんなが捕まってないのに、あきおだけ捕まってる”
“あきおは大丈夫と思っていても、実際は大丈夫じゃない”
これは、あきおの判断が間違っているから、そうなるんだよ。世の中には、危ないことは、いっぱいあるけど、どこが危なくて、どこなら、安全なのか、その見極めを間違えると大怪我するぞ。菱和のときも、そうだっただろう。
学校をクビになるくらい、大したことじゃないんだけど、もしも、命の危険があるような場面なら、大変だよ。死ななきゃダメだ。それで、本当に死んじゃう人、結構いるだろ、プーケットには。
もっと、用心深くならなきゃダメだよ」

野性動物が生き残るために必要な条件、それは、
1.食べ物を探し出す能力
2.仲間とコミュニケートする能力
3.危険を察知する能力
の、3つだそうです。

1は、人間社会では、「金を稼ぐ能力」と置き換えることもできますが、今のあきおには、まだ、必要ないかもしれません。せいぜい、私や、ラントムが、一生懸命、働いている姿を見せることくらいで十分でしょう。学校で、やっている勉強が、その手助けになると、分ってくれればいいのですが。

以前は、2が、一番心配でした。
あきおが小学校に入学したての頃、私が、あの子に、
「どうだ、友だちできたか?」
そう聞いても、あの子は、いつも、
「できない」
と一言。
「学校楽しいか?」
と尋ねても、
「楽しくない」
の一言。それが、今や、新しくガードマンさんがやって来る度に、初日から、親しげに話しこんでいたり、見るからに、夜のお姉さんタイプの女(もちろん、初対面です)と、夜遅くまで、お店の裏で、ビールを飲んでたり(奢ってもらえるようです)、いつでも、どこでも、すぐに友だちができるようになりました。
もう大丈夫でしょう。

そして、今、問題になっているのが、3です。
これからも、あの子は、失敗し続けるでしょうし、場合によっては、危ない思いもするかもしれませんが、何とか生き延びていく術を、時間をかけてもいいから、教えていかねばなりません。

「この後、どうするつもりなんだ?
もし、あきおが学校に行きたくないのなら、別に行かなくてもいいぞ。自分の好きなことをやってくれ。好きなことをやるのが、一番いいからな」
私が、こう言うと、あの子は、
「高校は、卒業したいんだけど・・・・」
そう答えます。
「わかった。じゃあ、2、3日したら、ママに電話してもらって、学校に戻れるかどうか、聞いてもらおう」

2日後、ラントムが学校に電話を入れました。
「高校生活を続けたい」
という、あきおの意思を学校側に伝えると、
「わかりました。でも、しばらくは、家庭学習で様子を見ましょう。担任が宿題を出しますから、それを送り返してください。前期も、あと半分ですから、それが終わったら、もう一度考えてみましょう」
この学校、パッと見の印象は、あまり良くなかったのですが、「タイの学校に入れない」という、こちらの事情を十分に考慮してくれているようで、
「少なくとも、今年一年は面倒見て、高1終了の単位だけは取らせてやろう」
という、広すぎるほどの度量を持っているようです。

「さすが、タイだ」
と思いました。他の国では、なかなか、こうはいかないでしょう。
「微笑みの国」という表看板の裏では、
「笑って、ごまかし、マイ・ペンライ(気にしない)」
実に、いい加減な裏看板も存在していますが、
「どんな人間だって、失敗することは、あるんだから・・・」
過ちを犯した者に対する、限度外れの寛大さによって、この国の秩序や伝統は、守られてきたのかもしれません。
タイで暮らすことの、居心地の良さを、改めて私は、実感できたような気がしました。

(続く)
# by phuketbreakpoint | 2010-03-11 10:27

魔球

1973年8月、杉並区・少年野球大会・準決勝。
“一回の表、高井戸・第四小学校の攻撃は、2アウト、ランナー二塁、一打先制のチャンスです。バッターは、昨日、3安打を放った、四番の西岡くん(当時12歳)。
さあ、ピッチャー、セット・ポジションから、第一球を、投げたー!”

打てそうなときのバッターは、ネクスト・バッターズ・サークルで待っている間にも、なんとなく、そんな予感があるものですが、打順が回り、相手投手の第一球目を見た瞬間、それが確信に変わります。
「ふふふ・・・、楽勝、楽勝」
あの日も、そうでした。
ところが、二球目で、そんな自信は、一気に崩れてしまいます。
スイングに入り、バットが、ボールを勢いよく弾き返したと思った瞬間、球は、ストンと沈み、バットを、すり抜けていきました。
当時の少年野球では、カーブを投げるピッチャーは結構いましたが(今は禁止になっているようです)、落ちるカーブを投げてきたのは、この子以外には、一人もいませんでした。
結局、この日は、4タコの3連続三振で、お手上げでした。

思えば、あの頃は、純粋でした。
バカが付くくらい、純粋でした。
当時の野球漫画や、少年雑誌は、チームワークや男の友情を、気持ち悪いくらい誇張して描いていましたが、野球少年にとっては、大袈裟で、うそ臭い話ほど、盛り上がり、真似したくなったものです。
そんな中に、女房役(キャッチャーのこと。私のポジションです)の努め、というのがありました。

試合の数日前、エースが、風邪を引いて寝込んだといっては、徹夜で看病してたり(お母さんに、怒られなかったんでしょうか?)、エースが、失恋しそうだといっては、相手のところにいって、うまくいくように骨を折ったり・・・、好きな女の子のためにでも、「さすがに、ここまでは、やらんだろう」という程のお節介を、エースのために、かきまくるのが女房役の努めだと、私は信じていたのです(たぶん、当時の他のキャッチャーたちも、同じだったでしょう)。

“正捕手は、移動中、エースの荷物を、全部持ってやる”
というのもありました。
荷物を肩からかけることで、大事なエースの肩が壊れでもしたら大変だという理由からだったと思いますが、たかだか、グローブとスパイク、タオルだけが入ったバッグですから、大した重量はありません。肩にかけても、その後のピッチングに、影響を与える程のことはなかったと思いますが、とにかく、真似がしたかったのでしょう。
“桜井(エースでした)、オレが持ってやるよ”
「いいよ。こんなもん、自分で持つよ」
“遠慮するなって。オレが持ってやるから”
「大丈夫だよ。オレは平気だから、気にしないでくれ」
“ダメだって、ほら。オレに貸せって・・・。
なにー?
いやだ?
お前、オレに恥かかすのか?表に出ろ!”
熱い友情を演じるつもりが、逆に大喧嘩になってしまったこともありました。

小学校の頃は、サッカークラブにも所属して、二股かけていたのですが、
「見るならともかく、自分でやるなら、野球だろ」
と、子ども心にも、思ったものです。
“人を押しのけていかなければ、活躍できない”
サッカーというスポーツが持つ、宿命的な部分に、馴染めなかったのかもしれません。
海外で、サッカーや、バスケ等のチームスポーツをやった経験のある人なら、分ると思いますが、南米や、アラビックの人たちは、同じチームに日本人が入っていても、端から見下して(肉体的な意味です)、パスなんか、絶対に回ってきません。
活躍しようと思ったら、相手から自分でボールを奪って、そのボールを、自分で相手陣地まで持ち込み、自分でシュートを打って、点を取らねばならないのです(15歳で、ブラジルに渡って、プロになって帰ってきた三浦少年は、もの凄い男ですね)。そこには、仲間のことを気遣っている余裕など、入り込む余地がありません。
その点、野球なら、奥手の子でも、一人一回ずつ、平等に打席は与えられますから、
「オレが、オレが・・・」
と、他人を遮って前に出て行く必要もなく、仲間のことを気遣う余裕も、十分にでてくるのです。

純粋な少年だった私ですが、中学では、野球部に入りませんでした。
自分の才能に限界を見ていたのかもしれませんが、その理由の一つとなったのが、この落ちるカーブでした。
なにせ、打てそうな気が、ぜんぜん、しなかったですもん。
よっぽど無念だったのか、あれから、30年以上も経過し、自分が、岩田鉄五郎と、同じ年齢に近づきつつある今になっても、不思議なもので、どうやったら、落ちるカーブが打てるのか、考えてしまうことがあるのです。

先日、高校時代に、神奈川県のトップチーム(神奈川は、「裏プロリーグ」と言われるほど、強豪校が多い)で、3番を打っていた男性と話をしていたときのことです。
「高3のとき、今、レッドソックスにいる、松坂と対戦しました。当時でも、スピードガンで、147キロ出ててましたよ。
凄い球でした。オレ、3番打ってたのに、2三振喰らって・・・」
軟式を使った少年野球のエースですら、速い人の球は、打者の手元に来ると、
“シュルシュルシュルシュル・・・・・・・”
と、激しく空気を裂く音が聞こえてきます(この音、打者として聞くとイヤなんですが、捕手として聞くと、頼もしく、気持ちいい音なんです)。ましてや、高校の一流投手、しかも、松坂選手ほどのピッチャーになれば、その球がいったい、どんなスピードなのか、想像しただけでも、チビリそうでした(こういう話を聞かせてくれる男を、私は無条件で尊敬します)。

「ところで、保川くん(仮名)。ちょっと、お願いがあるんだけど・・・」
私は、30数年間、ずっと、心に引っかかっていたことを、思い出したように、この青年に尋ねました。
「うーん・・・、落ちるカーブを、打つ方法ですか?」
彼は、少し考え込むような素振りを見せましたが、次の瞬間、
「・・・・・・・ありませんね」
(ズルっ!)
あっさりと、答えます。
「人間の目というのは、横の動きには付いていけますが、縦の変化には、対応できないようになっているんです(はっきり、言ってくれるじゃねえかよ)」
「しかし、完璧に打ち返すのは無理としても、ミートするくらいなら、できなくもありません(それよ、それ。それ教えてちょうだい!)」
「まず、リラックスして構え、睾丸で、体の軸を意識するように安定させます(チン〇〇っていうのは、スケベなとき以外でも、使えるんですね。初めて知りました)」
「次に、ボールの軌道を予め予測します。これは、2通りです。
そのまま、ストレートで伸びてくる場合と、落ちる場合です。かなり実力のあるバッターでない限り、途中での切り替えは難しいですから、山を張ります。
例えば、西岡さんの場合、相手は最初から落としてくるわけですから、ストレートは捨ててもいいでしょう」
「そして、最も大切なのは、重心を、できるだけ残すこと。ストレートを打つタイミングから、ワンテンポ遅れるような感じでスイングすれば、いいんじゃないでしょうか」
なんと、完璧なアドバイスでしょう。これなら、30数年越しの、私の怨念(?)が晴らされるのは、間違いありません。
「落ちるカーブ、敗れたり!
我が宿命のライバル、〇〇くん(名前忘れた)、もう一度勝負だ!」

杉並区・中年野球大会・決勝戦も、いよいよ、大詰めです。7回の裏(少年野球は、7回制)、一点を追う、高井戸・第四小学校OBチーム、最後の攻撃は、2アウト・ランナー二塁、一打同点のチャンスを迎えています。
バッターは、これまで、3連続三振の西岡くん(48歳)。
(間違いない。初球から、落ちるカーブだ!)
さあ、ピッチャー、セット・ポジションから、第一球を・・・投げたー!
“シュルシュルシュルシュル・・・・・・・・・・・”
にょほほほほほほほ・・・・・(岩田鉄五郎風)」
“カッキーン”
打ったああああ!
右中間の、真んなかあああ・・・・・・。
センター・バック、センター・バック、センター・バック、センター・バック・・・・、
どうだー、抜けたかー・・・・・・・?

夢よ、もう一度。
あの輝きを、もう一度。
# by phuketbreakpoint | 2010-03-03 11:08
「あきお、どうしたの、いったい!?」
朝一番で、バンコクに飛んだラントムは、学校の応接室で、あきおと対面しました。
「ママ、コートー(ごめんなさい)」
事件を起こすたびに見せる殊勝な態度は、相変わらず見事なもので、まんまと、怒るタイミングを外されてしまうわけですが、この日も、やっぱり、そうだったようです。
「・・・・・本当に頼むわよ。ママも、忙しいんだから」
「約束するよ。もう、絶対にしないから、安心して・・」
まさか、ラントムも、この言葉を信じたわけでもありませんでしたが、さすがに、プーケットから飛んできた母親の手前、しばらくは、自重してくれるだろう、とは思っていたわけで、それは、私も同じでした。
校長先生にお詫びして、担任の先生にお願いして、寮のおばさんに、心づけを渡して、
「とにかく、あきおを、お願いします」
と言い残し、その日の夜便で、ラントムは、プーケットに戻ってきました。

その一週間後です。
♪ピロピロピロピロ・・・・。
再び、バンコクから電話が入ってきました。
「クン・メー(お母さん)ですか?実は、あきお君が・・・・」
寮で、ビールを飲んでいるところを見つかってしまったようです。さすがに、前回の事件から、まだ1週間しか経っていませんでしたから、ほとぼりは冷めておらず、今回は、停学処分になってしまいました。
「マジ?ホントなの?」
我が耳を疑いましたが、すぐに、
「あいつ、いったい、何を考えているんだ・・・」
怒りが込み上げてきます。
「パパ、今回は、どうしよう?」
動揺するラントムに、そう聞かれ、私は、
「先週行ってきたばかりだからなあ・・・。今回は、(バンコクの大学に在学中の)マヨムに行ってもらおう」
姉のマヨムが、すぐに駆けつけ、前週にラントムがしたのと同じように、寮で謹慎中の、あきおに言い聞かせ、先生方に謝ってもらいました。

入学後、僅か一月余りで、早くも、崖っぷちに追い込まれてしまいましたから、さすがのラントムも、怒り心頭でしたが、気分を持ち直したのか、毎日、あきおに電話を入れるのが日課になりました。
「あきお、一週間の辛抱よ。頑張りなさいね」「あきお、あと3日よ。しっかり、自習しときなさいよ」「あきお、いよいよ、明日学校に行けるわよ。大丈夫ね」
母親というのは、本当に、ありがたいものです。
「今更、怒るのも、バカバカしいし(体力使うだけですからね)、かと言って、甘い顔もできないし・・・」
父親の場合、いろんなものが邪魔をして、どうしても裸になれないものですが、ラントムは違っていました。一生懸命、説いて聞かせば、
「きっと、あの子は、分ってくれる」
本当に、そう信じているようで、実に、健気な姿に見えました。そんな母の気持ちが分っているのか、いないのか、
「うん、約束するよ。今度は、本当に頑張るから・・」
いつも調子だけはいい、あきおですが、このときは、私も、ラントムも、その言葉を信じるしかありませんでした。ところが・・・・。

停学が、ようやく終わった翌日の正午頃。
♪ピロピロピロピロ・・・・・・
また、呼び出し音がかかり、電話に出てみると、
「クン・メー(お母さん)ですか?」
この頃になると、午後に携帯が鳴ると、なんだか、不吉なムードが漂って、嫌な気分になりましたが、案の定、学校からでした。
「あきお君が、また、タバコを吸いまして・・・」
信じられないニュースに愕然としながらも、処分内容を聞くと、再停学一週間だといいます。なんと、寛大な学校なんでしょうか!
「一発退学」の菱和を持ち出すまでもなく、普通なら、停学明け初日の再犯では、弁解の余地はゼロで、どんな学校でも、まず退学は免れなかったでしょう。もしかしたら、理事長は、高名な宗教家なのかもしれません。

怒りも、頂点に達していた私は、
「もう、放っとけ!オレは、知らん・・・」
思わず、そんな言葉も口に出してしまいましたが、やはり、母親の粘りは、大したものです。ラントムも、怒っていたのは同じでしたが、
「我が子を、見捨てるわけにはいかない」
と、また、せっせと電話をかけるようになりました。
「あきお、今度こそ、頼むわよ。ママも、お祈りしているわ」
その翌日も、
「あきお、あと少しよ。大丈夫ね。ママは、信じてるから・・」
そして、その翌日も、
「あきお、頑張るのよ。ママは、いつも、あきおと一緒よ」
森進一の、「おふくろさん」、いや、浜田幸一の、「おかあさん」を、あの子に聞かせてやりたくなりました。

再停学明けの日は、インフルエンザのために休校となり、それが終わると、今度は連休で、ようやく、再登校が許されたのが、停学処分を受けてから、2週間後のことでした。もちろん、前日の夜には、ラントムが、また電話をかけていました。
「本当に、大丈夫ね。今度こそ、絶対よ」
「心配しないで。もう、すっかり、心を入れ換えたから・・・。神様に誓って、約束するよ(いったい、何回約束してるんだ、あきお!)」
嘘か誠か、あきおも、真面目な口調で、そう言っていたようですが・・・。

翌日、午後2時頃、
♪ピロピロピロピロ・・・・・・。
ドキリ!)・・・心臓が、一瞬止まり、またも、呼び出し音です。
タラーリ)・・・・背筋を、冷や汗が流れていきました・・・・・。
「まっ、まさか!」
と思いながらも携帯を取ると、電話の主は、やっぱり、担任の先生でした。
「あきおくんが、午後から行方不明です。どうも、一郎くんらと出かけてしまったようで・・・」
授業ボイコットの上に、無断外出で、しかも、夜になって、酔っ払って戻ってきた、あきおは、悪びれる様子も無く、上機嫌だったという話でした。
「あの野郎、もしかしたら、お父さんの孫じゃないか?(実際、孫なんですが・・・、ラントムの父親は、こういう人でした)」
私は、もう呆れ返って、怒りすら感じませんでしたが、
「いよいよ、今度こそ、退学処分、間違いなしだな」
それだけは、覚悟しました。

ところが、翌日の協議の結果、
「無期限の通学停止処分」
という、信じられないくらい寛大な処分になり、またまた、クビを免れてしまいます。何という、辛抱強い学校なんでしょうか。創設者は、マザーテレサ?それとも、釈迦の化身かもしれません。
編入から1年、何度も、何度も問題を起こし、反省の色も、まったく見えない一郎くんが、未だに退学処分になっていない一方で、一応、
“反省している、フリだけはする”
あきおの殊勝な態度が評価されたのでしょうか?同情する意見も、一部に出ていたようで(ラントムや、マヨムが、頭を下げまくった甲斐がありました)、一郎君と、バランスをとる意味もあったのかもしれません(「やじろべえ」の法則だ!)。

しかし、寮からは、
「もう面倒見切れません」
と追放処分を受けてしまい、これ以上、学校に迷惑をかけるわけにもいきませんでしたから、とりあえず、あきおを、プーケットに帰すことにしました。
首の皮一枚・・・、というよりも、細胞単位で微妙に繫がっているような状態でしたから、私も、ラントムも、再び心を奮い起こし(親というのは、本当に、エネルギーを必要としますねえ・・・)、マヨムに、迎え行ってくれるように電話を入れました。
「マヨム、悪いけど、また、行ってきてくれ。うん・・・・、今度は、自宅待機だ。飛行機代が、もったいないから、夜行バスで帰してくれ。それから、『頭丸めろ』と、あきおに言っといてくれ」
マヨムにも、いくら弟のためとはいえ、本当に、何度も面倒をかけてしまいました。身内や、親類の結束が固いところは、タイ王国最大の美点といえるでしょう。

翌朝、あきおは、プーケットに戻ってきました。

(この話は続きます)
# by phuketbreakpoint | 2010-02-25 15:13

再出発

大喧嘩の翌日、親子で病院送りとなった、私と、あきおは、ラントムに付き添われ、プーケット・インターナショナル・ホスピタルを訪れていました。
「痛ててて・・・・・、ママ、イテテテテ・・・・・」
私は同情を買うために、しきりと、そんなアピールを続けていましたが、ラントムからは、完全に見捨てられていたようで、
「パパは、ここで待ってなさい。お医者さんに呼ばれても、みっともないから、左の方向いて、耳を見せちゃダメよ。分ったわね」
結局、あきお一人、診察してもらうことになりました。

「どうしたんです?喧嘩・・・?悪い奴は、いるもんですねえ・・・。こういうのは、ウヤムヤにしちゃあ、ダメですよ。私が診断書を書いてあげますから、それもって、警察に行った方がいい(そうしちゃうと、私が捕まってしまいますね、はい)」
まさか、親子喧嘩で、そうなったとも言えず、ラントムは、
「不良グループに、やられた」
と言葉を濁していましたが、帰り際、私は、うっかり、正面を向いていたようで、このお医者さんは、
「あれ?お父さんも、どうしたんですか!うーん、これも、ひどいなあ・・・。でも、お父さんは、誰にやられたんです?」
ようやく、私のダメージに気付いてくれた人がいましたから、ちょっと嬉しかったのですが、やはり、真実を語るわけにもいかず、
「ええ・・・、まあ・・・、ちょっと、サメにやられまして・・・」
苦し紛れに、そんな言い訳をしてしまいましたが、バレていたでしょう。

1ヵ月後の5月、
ようやく、長かった浪人生活も終わり、いよいよ、あきおの高校生活が再スタートしようとしていました。
今度の学校は、バンコク郊外にある病院の敷地内に建てられており、小学校から高校までの一貫教育で、生徒数は、約200名です。施設は新しく、清潔感に溢れていますが、校庭は無く、学校というよりは、専門学校という佇まいで、菱和を始めて見に行ったときのような、アカデミックな印象は、あまり感じられません。
「よーし。これから、頑張るぞー!」
そんな気になるには、気合が必要な雰囲気のように感じました。他に道がないのは事実でしたが、果たして、あきおは3年間、ここで辛抱できるのでしょうか?
非常に、疑問に感じていた私は、バンコクに出発する前日、あきおを呼んで話をしました。

「あきお、ちょっと、来い」
私は、あきおと大切な話をするときは、ブレイクポイントの奥の席に座って、1対1で、ひそひそと話すようにしていますが、この日も、そうしました。
「いよいよ、学校が始まるけど、どうだ?なんとか、頑張れそうか?」
私が、そう聞くと、
「大丈夫だと思う。頑張るよ」
大喧嘩以来、一応、無視はなくなりましたが、言葉とは裏腹に、相変わらず、あきおからは、やる気があまり感じられませんでした。
「あきおは、この学校を出たら、その後は、どうするつもりなんだ?」
私がこう尋ねると、
「日本に行って、もう一度勉強する。料理の学校に、入りたいんだ」
以前にも、そんな話は聞いたことがありましたが、あきおが再び、同じようなことを言ったのを受けて、
「だったら、それを忘れるなよ。とにかく、何でもいいから、目標を作るように。目標があれば、大きな失敗は、しないで済むからな。
それと、あきお。もっと、自信を持っていけよ。あきおは、パパが望んだように、日本に行って、日本語を覚えてきたんだから、それは大したもんなんだ。神明中の友だちや、プーケットの仲間たちの中で、2ヶ国語を話せるのは、あきおだけだと思うよ。それは、あきおの努力で身に付いたわけだから、他のことだって、きっと、できる。
とにかく、自信を持っていけよ」

“タイにいれば、タイ語が話せるのは、当たり前”
“日本にいれば、日本語が話せるのは、当たり前”
どちらの国にいても、両方の言葉を覚え、両方の国で勉強する大変さは、他人には、ほとんど分りませんが、それを曲がりなりにも三年半、やり遂げた、あきおには、その達成感を味わうことのできる場所がないのかもしれません。
あの子が自信を感じられるような機会を作ってやらねばならないのですが、私には、それを言葉で言う以外には何もできませんでした。

神明中学に入学したときも、菱和に入ったときも、付き添って同行しましたが、今回は、ラントムに、代わりに行ってもらいました。
「もう、高校生なんだから、自分の道は、自分の頭で考えるように」
菱和を退学してから、私は、ずっと、そう教えてきましたが、今回も、出発前に同じことを言いました。ここ、2、3ヶ月、ずいぶん生活は乱れていましたが、それでも、高校に入れば、気持ちを切り替えて、自己責任で判断してくれると思っていました。
自分の青春時代を振り返っても、大人の世界への憧れから、タバコや、酒に手を出していた時期もありましたが、それは、単なる通過点で、
「大切なものを棒に振ってまで、するようなものではない」
という判断くらいは、できていたと思います。
「自分にできたことは、息子にも、できるはずだ」
このときは、そう信じていました。

学校が始まって4日後、あきおから、電話がかかってきました。
「週末に、ピー・シィン(あきおの義理の兄)の家に、遊びに行っていいかなあ」
学校の寮は、校舎のすぐ近所にある一軒家でしたが、外出するには許可が必要でした。始まって、僅か4日で、いきなり遊びに行く話でしたから、
「何を考えているんだ」
と、一瞬思いましたが、学校の周辺には何もなく、寮生も中学生ばかりでしたから、あそこに、ずっと缶詰では、確かに息が詰まりそうです。
「よし、わかった。でも、来週は、ダメだからな」
私とラントムは、許可を出しました。

一ヶ月ほどは、こんな感じで何とか過ごしていた、あきおでしたが、2ヶ月目に入ると、菱和のクビ友(?)である、一郎くんや、そのグループと、つるむことが多くなったようです。学校からも、電話が入ってくるようになりました。
「一郎くんは、この学校の問題児で、退学処分寸前ですから、あまり付き合わない方がいいと思います」
いつも問題を起こしている一郎くんのグループが、これ以上、増殖しては敵わん、と先生方も不安だったのでしょう。先手を打ってきたようです。
「それなら、ご安心ください。うちの、あきおも、彼以上のワル・・・・」
ついうっかり、そんな返事をしてしまいそうでしたが、慌てて、
「いえ、すいません。よく言って聞かせますから」
と、この日は電話を切りました。

それから、また何日か経った、ある日の午後、バンコクから、再び電話が入ってきます。
「実は、あきおくんが・・・・」
一郎くんら、数人と一緒に授業をサボって、タバコを吸っていたようで、厳重注意処分を受け、今度やったら、停学という話でした。
「本当に、あきおったら・・・。一体、何を考えてるのかしら」
ラントムは、かなり怒っていましたが、
「ママ、悪いけど、明日、ちょっと様子を見に行ってくれないか。こういうときは、できるだけ早く、注意しといた方がいい」
そして、翌朝、彼女はバンコクに飛びました。

(続きます)
# by phuketbreakpoint | 2010-02-18 11:54

彼らは犬ですか?

前回、交通事故に遭ったと書きましたが、このとき、非常に不愉快な出来事がありました。

相手の運転手は、ぶつかった後、すぐに降りてきましたが、私とラントムには、見向きもせず、
「うわー、凹んじまってるなー」
と大きく身をかがめて、自分の乗っていたミニバスのフロント部分を心配げに見ています。些細な交通事故は、これまで何度か経験したことはありますが、相手が低姿勢に、
「すいません・・・」
と謝ってきたら、こちらも、
「ちょっと、傷が付いちゃったけど、まあ、いいから、いいから・・・」
あっさりと許してやるのが、大人というもんでしょう。保険会社に連絡を入れて、とっとと話をつけてしまうのが普通だと思います。
ところが、運転手の、
「あんたたち、ケガはなかったんだから、いいんじゃないの」
と言いたげな態度に、私も、ラントムも、ムカッと、きてしまい、
「お前、少しくらい、こっちの心配もしろよ」
と、運転手に詰め寄ってしまいました。

近くにいた交通整理中の警官が、すぐに、やってきましたが、やはり、この程度の事故で調書を取るのは面倒くさいから嫌なんでしょうか、運転手に向かって、
「500バーツあるか?彼らに、金を渡して、この件は、一件落着だ」
なんて、勝手に裁いてしまいます。たまたま、相手に所持金がなかったので、話は纏まりませんでしたが、翌日、運転手の所属するサイモンキャバレーで、話をすることになりました。

「こっちが被害者なのに、何で、こちらから出向かなきゃならないんだ?」
出かける前から、私は不機嫌でした。
サイモン・キャバレーで、保険会社の担当者と話をすることになりましたが、この男は、私とラントムの顔を見ても、挨拶するわけでもなく、名詞を出して、身分を明かすわけでもなく、いきなり用件に入っていきます。
ここでも、カチンときた私でしたが、こんなことくらいで怒っていては、タイでは、キリがありませんから、ぐっと我慢して、私は、ラントムと、この男の会話を聞いていました。

「心配はいりません。ちゃんと、うちの保険で、おたくのバイクは直しますから。なあに、大した修理代じゃないでしょう」
男は終始、話をバイク修理に限定し、簡単に決着を着けてしまおうとしていましたが、こちらは、昨夜と今朝、2度も病院に行っているわけですから、ラントムの体が本当に大丈夫なのか、心配なわけです。
「病院?大丈夫、大丈夫。それで、バイクなんですが・・・・」
医者でもないのに、そんなことを言っていますから、
「あのねえ、あんた。誰も、バイクの心配なんかしてないんだよ。あんなもんは、全損しても、5万(バーツ)くらいだろ。こっちは、彼女の体が心配なんだよ。朝から、出血してるんだぞ」
ここで、私が口を挟み、治療費等の話を始めようと思ったのですが、
「ですからですねえ、バイクのことは心配いりませんから、この書類に・・・・」
男は、私とは目も合わさず、ラントムに向かって、自分がしている話を止めようとしませんでした。

「聞こえなかったのか?」
と想い、もう一度、私は男の話を遮るように言い直しましたが、まったく反応がありません。あからさまな無視です。
タイに来て17年、少々のことは我慢してしまう私も、このときは、さすがに頭にきました。
「ふざけるな。人の話を聞け!彼女の体に問題が起こっていたら・・・・」
と私が再び口火を切っても、
「バイクの修理が終わったら、その領収書を・・・」
再び完全に無視でした。
「この野郎、いいかげんにしろ!」
小競り合い寸前になって、ラントムが割って入り、乱闘にこそなりませんでしたが、日本で日本人から同じようにやられていたら、間違いなく、ぶん殴っていたと思います。

恐らく、AIGの米国本社から、送られてきた社員教育用マニュアルには、
「真の交渉相手(事故被害者)が誰か見極め、たとえ同伴者が何人いようとも、これを相手にせず、あくまでも、1対1で交渉を進め、自分のペースを守るよう、心がけるべし」
そんなことが書いてあるのでしょう。
タイ王国や、タイ人の美徳を完全に踏みにじり、まとめて肥溜めに捨ててしまうような内容を、そっくりそのまま、タイ語に翻訳し、一字一句、忠実に従わせているのではないでしょうか。

以前、ラントムがキリスト教に改宗した件を書いたと思いますが、日本国のキリスト教というのは、キリスト教本来の教えからみれば、ずいぶん、いい加減なスタンスを執っているように思います。ある新聞記者の回想録にも、こんなことが書いてありました。
「1979年のお正月、敬虔なクリスチャンである、大平総理に同行して、伊勢神宮にお参りに出かけた・・・・
ラントムや、仲間たちが聞いたら、きっと、唖然とし、
「こいつの、どこが、敬虔なんだ」
と憤慨すること間違いなしなんですが、日本のキリスト教は、一神教の本質を、うまくカムフラージュして、
「まあ、同時並行で、他の宗教をやりたいという人がいても、あえて、咎めないし、冠婚葬祭等、世間一般の付き合いってものもあるから、その辺は、あんまり、顰蹙を買わないように・・・」
国情に合うように、うまくアレンジされていると思います(まあ、大人の態度ですね)。
外資系企業のマニュアルも、同じように、日本の風土に合うよう、微調整されていると想像しますが、タイでは、混じりっけなしの、直輸入ものを、そのまま利用するだけなのかもしれません。

それにしても、堪えました。
本当に、大きなダメージを受けました。誰かを傷つけたり、落ち込ませたり、そんなことを目論んでいる人がいるのなら、この手は使えるんじゃないかと思いました。
家に帰ってきてからも、
「ママ、今日は、まいったよ。本当に、ショックだった。あれじゃあ、オレは、犬だもんねえ・・・。この明るい国で、あんな奴もいるんだなあ・・・」
いまだに気分が悪いです。

しかし、考えてみれば、日本人も、同じようなことを平気な顔して、やっていると思います。ラントムは、よく、こんなふうに憤慨しています。
「あの人、こちらから挨拶してるのに、何にも言わないわ」「気付かなかったのかも・・・と思って、目を見て、正面から挨拶してるのに、また無視されたわ」「何をしゃべりかけても、一言も返してこないの。いったい、何なのかしら」
こういうコンプレインを受けたのは、1度や2度ではありません。

たとえば、日本人が、プーケットのどこかで、知っている日本人に会ったとします。その人が、タイ人の配偶者や恋人等を同伴していたとしても、その同伴者とは、会話はもちろん、挨拶すら、交わされないことって、ありませんか?
タイ人は、ほとんど、犬扱い・・・。いや、動物好きの人なら、
「あらま、可愛いワンちゃん。お名前は?そう、ジョンちゃんっていうの? 『ジョンちゃん、始めまして。よろしくね』」
なんて、やってる人がいますから、これは、もう犬以下で、アクセサリーか、なんかと同じ類なんでしょう。

かく言う私も、在タイ歴が浅かった頃は、やっていました。
いや、極力、そうならないように努力してはいますが、知らず知らずの間に、今でも、やっているのかもしれません。
「タイ人にも、分け隔てすることなく、しっかり、挨拶と会話」
いつも、それができている人は、そうはいませんね。

以前プーケットで旅行社を経営していた品川さんは、うちに飲みにきたら、必ず、こうやっていました。
「テンちゃん、サワッディー・カップ」
「ウーティットくん、サワッディー・カップ」
スタッフ全員の名前を覚えたうえで、一人一人に対し、ニコッと笑顔を作って、挨拶していくのです。
そう言われれば、どんな人だって、
「サワッディー・カップ」「サワッディー・カー」
と返すのが人間社会ですし、それを何度か繰り返しているうちに、相手も名前を覚えて、
「シナガワさん、サワッディー・カー」
自分のほうから、挨拶してくるようになります。
日本人が、タイ人を人間扱いしていないのと同じように、タイ人たちも、外国人をエイリアン扱いして、疎外している部分もありますが、品川さんだけは、みんなから、身内扱いされていました。
この人は、なかなか立派だと思いました。

みなさんも、心当たりがあったら(絶対に、みんなあるはず)、大いに反省してください。そして、
「アイツら、挨拶もしやがらねえ・・・」
なんて、ブーたれているのなら、品川さんを見習って、自ら笑顔で積極的に挨拶したらどうでしょうか。
きっと、周りのタイ人たちの態度も、変わってくると思います。

私も、自ら範を示し、この前、喧嘩になった保険屋に、どこかで、また会ったら・・・・・・、
もしも、本当に、会ってしまったら・・・・・・・・・・、
今度こそ、思いっきり、ぶん殴ってやろうと思っています
だって、彼は、タイ王国の、「面汚し者」ですよ、ホントに。
# by phuketbreakpoint | 2010-02-11 10:01