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タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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絶対に逃げん!

「西岡さん、聞きました?また、地震があったみたいですよ」
補習校で運営副委員長をやっている関根さんから、そんな電話が入ってきたのが、9月12日水曜日の午後6時50分ごろだったでしょうか。
すぐに、テレビのスイッチを入れ、チャンネルをNHKワールドに合わせると、地震情報が流れていました。
「午後6時10分頃、インドネシア、スマトラ島沖で大規模な地震が発生した模様。マグネチュードは7.9・・・・」
時刻は7時5分前、地震発生から既に45分経過しています。
もしも、津波が発生し、それが大規模なものであるのなら、震源地の近くでは、もう被害が広がっているでしょうし、今は、世界中のマスコミが津波には敏感になっていますから、大きな被害があったのなら、必ず外電に乗って、テレビでも速報が流れてくるはずです。
「西岡さん、逃げなくて大丈夫ですか?」
心配する関根さんに対して、私は自信満々に、こう答えました。
「逃げる?地震発生から、もう1時間近くも経っているというのに、警報も鳴らないし、被害報道も皆無です。大丈夫ですよ。津波は来ません」
この夜は、終始強気だった私ですが、二年半前のあの夜は、こういうわけにはいきませんでした。


インド洋沖大津波から約3ヵ月の2005年3月28日、スマトラ沖で、マグネチュード8.5規模の大地震が再び起こりました。
「みんなっ、早く逃げなきゃ、大変よ!」
車で走り去る、オリジナル・ワン(近所のマッサージ屋)の女主人ピーシー(シーさん)の言葉に怯えたのか、女房のラントムが、
「パパ、あんなこと言ってるけど、大丈夫かしら」
と、心配顔で私に尋ねます。

あの頃の私は、自分のビジネスだけでなく、リゾート地としてのプーケットの将来にも、少なからず不安を感じていましたし、津波でショックを受けて、
「もう、プーケットにはいたくない」
という、ラントムの言葉にも、敏感になっていました。ですから、この夜も、条件反射のように、
「大丈夫だ。年中地震がある日本だって、人が死ぬような津波なんて、めったに、あるわけじゃないんだから」
自分に言い聞かせるように、強い口調で、そう言い切っていました。

ところが、インターネットで読売新聞のホームページを開くと、
<スマトラ沖で、また大地震。マグネチュード8.5>
いきなり、大きな見出しが目に飛び込んできます。
「スマトラ・・・・?、マグネチュード8.5?」
前回と同じ場所で、地震の規模も、ほとんど変わりません。これでは、安全とは、言い切れないでしょう。
「・・・ごめん。やっぱり、ちょっと危ないわ。すぐに、逃げよう」
私は、手の平を返すように、そう言うと、混乱気味の頭で、どう行動すべきかを考え始めました。

地震発生が、午後11時10分頃、そして、現在時刻が、0時ほぼジャスト。前回の大津波が、地震発生後、約2時間かかって、プーケットまで到達したわけですから、今回も、同程度の規模と想定すれば、まだ充分時間があるはずです。
「ママ、慌てなくてもいいよ。もし、津波が来るとしても、1時間後だから、よく考えて、大事なものだけ車に載せて運びだそう」
現金に会社謄本、貯金通帳に土地登記簿、そして、野宿になった場合に備えて、家族全員分の着替えをバッグに詰め込み、私は、一階に下りていきました。

「ガガガーッ、インドネシアで・・・・・・によって、・・・・・・発生する恐れが・・・・、ビーチ近辺から、速やかに・・・・・、ガガガーガッ」
前年の大津波以降、電柱に取り付けられていたスピーカーからも、津波警報のサイレンと警告が大音響で流れ始めます。雑音だらけで、何を喋っているのか、よく分かりませんでしたが、異常事態が発生しているのは、誰の耳にも明らかでした。

しかし、逃げるといっても、どこに向かえばいいのでしょうか?
最初は、パトンビーチの奥の山に避難しようと思いましたが、計算上は、まだ、もうちょっと時間が残っているようにも思えます。
「よし、カロンに逃げよう」
前回の津波でも、カロンビーチは、ほとんど被害がありませんでしたし、ここなら、家もあるので、野宿する必要もありません。いざというときには、裏山に駆け上がればいいわけですから、安全地帯と言えます。

私は、子どもたちとラントムを車に乗せ、ガードマンに、この後の行動予定を説明しました。
「悪いけど、エム(元名物ガードマン。働き者でした)も、俺のバイクで、一緒に来てくれ。カロンに家族を送った後、オレは、そのバイクでパトンに戻るから」
車を使ってパトンまで戻れば、もし、本当に津波が押し寄せてきた場合、買ったばかりの新車が流されてしまいます。エムにバイクで同行させるのも、それを避けるための手段でした。

さあ、出発です。
ソイを抜け、ビーチロードに入ると、暗闇の中で、静かな波打ち際が微かに見えています。まだ、1時間近く余裕があるとはいえ、このときは、やはり緊張しました。
バングラーの角で右折すると、海から遠ざかっていきます。50m、100m、車がビーチから離れるにしたがって、少しづつ、不安が小さくなっていきましたが、まだ、安全とは言えません。
バングラーでは、バーも、お店も、すべてシャッターを降ろしていました。観光客が、ガランとした繁華街を、皆足早に山に向かって歩いていきます。殺伐とした雰囲気は、3ヶ月前の光景と、ほとんど同じでした。

山の麓にあるカロンの家に着くと、私は、脇の私道に車を入れて、200mほど上にある分譲住宅の工事現場まで、急勾配を登っていきました。
「ママ、ここなら、絶対に大丈夫だ。オレは、これからパトンに戻るから、ママは、子供たちと一緒に、ここにいてくれ」
私がそう言うと、ラントムは、心配して止めようとします。
「パパ、やめた方がいいんじゃないの。津波が来たらどうするのよ」
確かに、その可能性があるから、ここまで逃げてきたわけですが、私一人なら、なんとかなるような気がしました。

前回の津波のときに、お手上げだったのは、家族全員、店舗の屋上で取り残されてしまったことです。もし、それ以上の高さで波が襲ってきたのなら、一人残らず流されていたのは間違いありません。四人もいる子供たち全員の命を助けることは、不可能だったでしょう(子供の作り過ぎに注意しましょう!)。

パトンビーチに戻ろうと、バイクに跨ると、ガードマンのエムが近づいてきました。
「キミは、ここで、みんなと待機していればいいから」
本当は、彼にも一緒に戻ってほしかったのですが、臆病なタイの人に、そんなことを言っても、無駄でしょう。
ところが、エムは、
「ボス、私も、一緒に戻ります。一人じゃ、何かあったら、大変ですよ。大丈夫です。私も、行きます」
なんと泣かせることを、言ってくれる男なのでしょう。
4ヶ月前の津波のとき、クモの子を散らすように、離れていった従業員も多かった中で、彼の一言には、ジーンとくるものがありました。

エムと二人乗りでパトンビーチに戻り、とりあえず、乗ってきたバイクを、店舗の外にある二階の共用部分に上げました。津波が来るかどうかは、まだ分かりませんが、じっと、それを待っているのも、芸がないような気がします。
私は、まず、ブレイクポイントの店内に入り、レストランにとっては、命とも言うべきメニューブックを片付け、オーディオ機器や、ファックス、コーヒーメーカーなど、移動可能な機械類を二階に移しました。仮に前回並みの津波が襲って来た場合でも、だいたいの水位は分かっていますから、それより上の位置に避難させておけば、浸水から逃れることができるでしょう。

「エム、悪いけど、サウスロード(おみやげ屋)の商品も、二階に上げておこう」
既に、私の考える津波の到達予定時刻に達しており、いつ津波が襲ってくるかわかりませんでしたが、私とエムは、なるべく値段の高い商品を優先して移していきました。
時間は、午前1時を、とっくに回り、周りには、もう誰もいません。スピーカーからの警報も、いつの間にか止まっていたようで、静まり返っていました。

真っ暗なソイの中、サウスロード一軒だけが、明かりを煌々と照らして、二人は作業を続けました。津波が来るかもしれない真夜中で、これに付き合ってくれるタイ人は、スタッフだろうと、身内だろうと、そうはいないと思います。本当に、彼には、今でも頭の下がる思いがします。

作業が終わり、私は、インターネットで津波関連のニュースを確認しました。
地震発生から3時間以上、被害情報は何もありません。こうなると、私の確信は、より確かなものになっていきます。
「今夜は安全だ。間違いない!」
1時間後、ラントムから電話が入ってきました。
「パパ、テレビで、もう大丈夫だって言ってるから、今から迎えに来て・・・」
私は、再びエムと2人で、バイクにまたがり、カロンで待つ家族を迎えにいきました。
午前4時半、再びパトンビーチに戻ってきた私たち家族は、この夜も、いつもどおり、自分の家で眠ることができたのです。


あれから2年半、警報システムも確立され、今では気象衛星からの情報も、すぐに届くようになりました。防災体制は、万全と言ってもいいでしょう。
ところが、今回も地震発生後、二時間近く経って、また、オリジナル・ワンが騒ぎ始めます。マッサージ中のお客さんを、お金も取らずに追い返し、すぐに店を閉めてしまいました。
こうなると、連鎖反応を起したように、隣接するお店も、どんどんシャッターを降ろしていきます。最初、笑っていたブレイクポイントの従業員も、そわそわし始めました。携帯片手に、持ち場を離れようとしています。

「お前たち、いいかげんにしろ。まだ、営業中だ。テレビでも、津波の情報は何もないんだ。警報機が作動してから逃げたって、充分に間に合うよ。キミたちが、そわそわすれば、食事中のお客さんも動揺するから、みんな、持ち場に戻るんだ。津波先進国の日本(?)から来ている俺が保障する。
津波は来ない。絶対に来ない!」
私は厳しい表情でこう言うと、スタッフを定位置に戻しました。

そうは言っても、このソイで、まだ営業を続けているのは、うち以外には、カールソン、オールドダッチ、ボスの三軒だけしかありません。こういったとき、お店のトップが、うろたえていたのでは総崩れですから、私は笑顔一杯で、各テーブルを回りました。
「御心配なく。前回も、2時間かかって、プーケットに津波が届きました。ですから、今回は・・・・・、(ちょっと、時計を見ながら)あっ、そろそろですね」
こういった冗談を、なぜ安全なのか、というデータの中に入れて説明すると、ほとんどのお客さんは、落ち着いてくれました。

ところで、今回の津波騒動で気がついたことがあります。
地震発生後、三時間以上経って、タイ国政府は、津波の危険性はない、と宣言しましたが、これを受けて日本大使館は、
「危険がないと断定することはできない」
という微妙な言い回しを使っていました。
対外イメージを考えて、「安全」を強調したいタイ王国と、万が一の場合、責任追及されないように、逃げが打てる表現を使おうとする日本大使館の間には、はっきりと、違いがあったのです。
この辺の事情が分かった上で、両者を足して、2で割れば、だいたいの実像が見えてくるのではないでしょうか。
# by phuketbreakpoint | 2007-09-20 03:27
何事もなく、順調に初日が終わって、「やれやれ」と思っていた翌19日の2時間目でした。
「ドッドッドッドッ・・・・・・・」
3階から毛利先生が走って上の教室に上がってきました。
「西岡先生、たいへんです。山下先生が・・・・・・・」
状況はよくわかりませんでしたが、私が慌てて下に降りてみると、子どもたちは、楽しそうにフルーツバスケットに興じていました。
「なんだ、なんとも、ないじゃないか」
そう思い、上に戻ろうとして、ふと床を見ると、バンコクから来られた山下先生が、ゴロンとゴザの上に転がされ、
「うーん・・・・・」
と、苦しそうに唸り声を上げていました。

1978年、毎週金曜日夜8時から全国中継されていたテレビ朝日「ワールド・プロレスリング」の生本番中、リングサイドで観戦していたファンが興奮し、パイプ椅子と共にリングに駆け上がるや、タイガー・ジェット・シンに殴りかかって、返り討ちにあい、ノック・アウト状態でゴロンとマット上に転がされたプロレス史に残る大事件がありましたが、私は苦しそうな山下先生を見ながら、ついつい、あのときの光景を思い出しました。

「どうしました!?山下先生・・・」
「すっ、すいませんせん・・・・。どうも、ぎっくり腰のようで・・・」
子どもたちと一緒に、言葉遊びの指導をしていた山下先生は、
♪ アブラハムには、7人の子、一人はのっぽで、あとはチビ・・・と、かなり派手な動きで、子どもたちをリードしていたようです。ところが・・・・・、
ギクッ・・・という鈍い音が突然、彼女の腰の辺りを突き抜け、次の瞬間、
ズッキーン・・・・という衝撃が、脊髄から延髄を走って脳天を貫いていきました。

フラフラフラフラ・・・・・・・・バタン。
一緒に遊んでいた子どもたちは唖然、呆然で、みな真っ青になって、慌てて先生の元に駆け寄り、今にも泣きそうな声・・・・・・と書きたいところですが、それまでの山下先生のノリノリの指導が余りにも、はまり過ぎていたためなのか、保護者も含めて全員、
「これは教育指導の一環で、オーバーなアクションで盛り上げるための演出だ」
と思っていたようです。
「素晴らしい!さすがわ、プロの先生は凄い!たかだか巡回指導のために、ここまで、やってくれるのか!」
周りにいた者は、全員感動してました。

ところが、山下先生は、「ウーン」という唸り声をあげるだけで、いつまでたっても、起き上がってきません。
子どもたちは、
「山下先生、楽しすぎて、ぶっ倒れちゃった」
と、単純に考えていたようで、私が降りていったときも、山下先生を放ったらかしにして、大喜びで走り回っていました。過去6回の巡回指導の中でも、児童が軽い怪我をしたことはありましたが、先生、しかも、バンコクから来られた先生が重体で身動きとれず、といった事態は、今回が初めてでした。

授業が終わり、両校の先生方に集まっていただき、勉強会を開きました。
山下先生も、激痛を堪えて出席され、最後まで質問に答えていました。たとえ、どんな状況になろうとも、与えられた役割は、最後までやり抜く・・・、プロとは、そうあるべきだという、いいお手本を見せられた思いがします。

帰り際、先生方を空港に見送る際、
「山下先生、荷物をお持ちしましょう」
と、私は深く考えることもなしに、こう言ってしまったのですが、どうも、彼女が手にしているキャスター付きのキャリーバッグは、杖の役割も果たしていたようです。
「すいません。これ、とられちゃうと、歩けないんですよ」
痛々しい姿で、山下先生は出発ゲートに消えていきました。

中田先生、西沢先生、山下先生(すべて、仮名)、本当にありがとうございました。
特に中田先生と山下先生は、12月の巡回指導にも来られるようですから、それまでに、名誉の負傷が完治していることを、心よりお祈り申し上げます。
# by phuketbreakpoint | 2007-08-28 01:56
先週のプーケット補習校は、毎年8月恒例の巡回指導が行なわれました。
巡回指導というのは、バンコクの日本人学校から、本職の先生方に来ていただいて、この週だけ、土曜日と日曜日、2日連続で授業を行い、それを生徒児童のみならず、プーケット補習校の先生方、場合によっては保護者の方々にも見学してもらって、今後の授業や家庭学習の参考にしていこうという、多目的な企画です。補習校の各先生方には、全員出席していただき、自分が受け持っているクラスの授業レポートの提出も、義務付けられています。
巡回指導は、タイの国内では、プーケット補習校以外でも、チェンマイ補習校や、シラチャ・パタヤ補習校でも行なわれており、日本国から出される国庫補助に加え、バンコク日本人学校の特別予算も使われているようで、各方面からの協力がなければ実現できません。

年に一回、プーケット補習校きってのビッグイベントだった巡回指導ですが、今年度は、12月にも実施されることになりました。
これは、四月にバンコク日本人学校で開催される、在タイ日本人補習授業校連絡協議会(年一回、各補習校の関係者がバンコク日本人学校に集まり、今後の支援内容についての要望や現状報告等を行なう)で配られた資料の中にあった、昨年度の各校に対する支援実績報告書での、
「チェンマイ校、8月11日から14日まで巡回指導、派遣教師4名」
「シラチャ・パタヤ校、8月28日と1月28日に巡回指導、派遣教師各4名(ほか補助2名)」
という部分を、私が目ざとく発見し、
「あのー、たいへん、申し上げにくいことなんですが、資料によりますと、プーケット以外の各校には、かなりの人数が派遣されておられるようですねえ・・・。しかも、チェンマイ校では、四日間も実施されています。
どうして、プーケット校だけ、先生1名プラス補助1名なんでしょうか・・・・」
外国暮らしが長くなってくると、遠慮よりも、まず、
「なぜ?どうして?」
という素朴な疑問を、躊躇することなく、ズケズケと言えてしまいますから、こういうときに、言いそびれることはありません。

もともと、タイ国内の補習校の中では、最弱小のプーケット校ですから、
「ダメです」
と一言、はっきり言われてしまえば、それまでだったのですが、無法地帯のプーケットとは違って、キングダムの首都クルンテープ(バンコク)は、理屈が通用する世界のようです。

会場には、一瞬、
「しょうもないことに、気づかれてしまった」
という雰囲気が漂っていましたが、さすがに、そう指摘されてしまうと、無碍な返事もできなかったようで、
「それでは、この件に関しては、今後、検討いたします」
ということになり、その結果、出された結論が、
「今年度は、8月にプラスして、12月にも、巡回指導を行なう」
ことでした。

年に2回、巡回指導を行なう意義というのは、単に回数だけの問題ではありません。
やはり、いかにプロフェッショナルな先生方といえども、初対面の生徒・児童を相手に、充分な情報もなしで指導するのは、教える側にとっては、かなり無理がある企画だと思います。今回来られた先生方の中にも、はっきりと、その点を指摘される方もおりました。

初日、まだ先生も、生徒も、お互いに慣れていないうちから2時間連続で同一クラスを指導し、その翌日には、僅か1時間の授業しかありません。ようやく、クラスの中で、先生と生徒の意思の疎通ができてきたかなあ・・・と思ったときには、もう終了で、その直後に、2日間の成果を見せるべき、学習発表会が待っていますから、これでは、バンコクから来られる先生方には、大きなプレッシャーが、かかってしまうでしょう。
もし、年に2回、同じ先生か、それに準ずるメンバーで来て頂ければ、子供たちの実力も、かなり把握できており、場合によっては、事前に、バンコクからメール等で宿題を出してもらうなりすれば、より内容の深い2日間になるのではないでしょうか。

巡回指導は、下準備が大変で、まず、バンコク側が参加する先生方のメンバー人選と日程を決定し、それを受けて、授業内容の打ち合わせに入ります。
その間、プーケット補習校では教務会議を開いて、こちら側からのリクエスト、巡回指導対象クラスの編成と人選、各児童の日本語理解力等をバンコク側に伝え、我々が入手しにくい教材類(特にマス目のあるノート類など)も、一緒に持ってきてもらえるように要請します。
バンコク側からは、補習校にある教材や、機材類の確認と、こちらが具体的に、何を巡回指導に求めているのか(例えば、読み重視、書き重視、理解力を重視する等)などの問い合わせが行なわれ、いよいよ日程が近づいてきたら、改めて教務会議を開いて、各自の役割分担を最終確認します。

「日本人学校側との最終連絡窓口と、先生方の送迎、そして歓迎食事会の主催は、西岡が担当します。初日のお弁当の手配と、最終日の研究会は黒崎先生、飲料水の手配と、ビーチレクリエーションの決定は・・・・・・・」
こうして事前に、何度もミーティングをやり、細部を詰めた上で、最後は担任の先生方から、生徒・児童一人一人に電話を入れて、出席確認と時間厳守の徹底を行います。

こうした入念な準備を整えた上で、プーケット補習校は、8月18日と19日の2日間、2007年度巡回指導を迎えました。


この話、続きます。
# by phuketbreakpoint | 2007-08-22 01:31

人間はやればできる

タイ人は、災害時の復旧作業に、とても精通しているように思えます。
インド洋大津波のときも、どうやって、家や、お店、街並みを元の状態に戻すか、段取りがよくわかっているようでした。毎年、タイ全土で洪水が発生しますから、作業の手伝いをすることも、きっと多いのでしょう。
「あっ、ダメ、ダメ。砂も、ゴミも、ちゃんと、袋に入れてから捨てないと、二度手間だよ」
プーケットで生まれ育ち、泥にまみれた復旧作業等とは、無縁に思われたスウィートレストランのマネージャー、コ・ブンですら、私に、いろいろ指導してくれました。
「はい、じゃあ、手袋つけて、長靴履いて、ポリ袋持って・・・・」
自分で買い揃えてきたのか、全部準備ができているのです。
こんな彼の指揮の元、脅威のパマー(ミヤンマー)軍団が動き出しました。


8時過ぎから始めた復旧作業も、連日の疲労のためか、時計の針が12時を回る頃になると腰にきて、体が重くて、動きません。
50歳になっても、60歳になっても、人間は、いざとなれば、かなりの重労働に耐えられると思いますが、その反動は、必ず体に返ってきます。実際、津波の後、連日、復旧作業の陣頭指揮にあたり、自らも、精力的に働いていたフォラン(白人)の男性が、そのダメージで体を壊して、死んでしまったという話を耳にしました。40代の前半で、津波を迎えた私は、ラッキーだったのかもしれません。

津波後、最初の3日間は、日中ほとんど何も食べず、作業が終わって夜寝る前に、ビールと一緒に食事を流し込むような状態でしたから、さすがに、この頃になると疲れが溜まって、長時間、働き続けるのは、かなり苦痛になっていました。
「じゃあ、ちょっと、休憩しようか」
ラントムや、彼女のお父さんと一緒に、お店の入り口に座って、お弁当を食べようとしたときです。ミヤンマー人のチームが、ちょうど、うちのお店の真ん前で作業を始めました。

スコップで、泥や砂をかいて袋に詰める者、大きな破片やゴミを、押し車に乗せて運んでいく者、流されてきた家具や機械類を、何人かで持ち上げて運んでいく者、みなそれぞれ、与えられた役割を忠実に遂行していました。いや、誰が何をやるかまでは、細かく指示は受けていなかったと思いますが、最終的なゴールだけは、明確に与えられ、みな、そのゴールに向かって、力を合わせて前進しているように見えました。
恐らく、コ・ブンは一言、
「これを、全部片付けてくれたら、・・・バーツ」
とだけ、言っていたのでしょう。

こう言われれば、
「できるだけ早く片付けて、金を貰いたい」
普通なら、そう思うところですが、タイ人労働者の場合は、それほど単純ではありません。1日で、できる仕事を、自分で勝手に3日、4日とペース配分しておいて、
「3日掛かりの、この仕事が、たったの500バーツじゃあ、やってらんないよ」
と、逆恨みするような人も、多いのです。
以前、うちのお店の、塗装塗り替えを任せたペンキ屋のロートさんは、真夜中の作業中に、いつも、私用でドロンといなくなり、朝方戻ってきては、
「あー、昨夜も、たいへんだった」
なんて、言っていました。たまたま、ラントムのお父さんが田舎出身の年寄りだったので、毎朝4時、5時に目が覚めてバレましたが、そうじゃなければ、余分な経費を計上されていたでしょう。

「この連中、結構まじめに、働いているんだな」
そんなことを思いながら、ソイの奥に目を向けると、驚きました。
津波というのは、海の方向から襲ってきますから、流された物は、その逆方向、つまり、ここではソイの奥に入れば、入るほど集積され、巨大な瓦礫の山を、累々と築くことになります。
しかし、彼らミヤンマー人は、わずか四時間ほどの間に、この山脈を、平らな状態に戻していました。
「凄いなあ・・・。これもしかして、素手でやっちゃったのか?」
うちのお店は、ソイのちょうど中間にありますから、すでに折り返し地点です。こうなったら、もうゴールは見えたも同然なのでしょう。

貧しいミヤンマー人たちが驚異的な働きをしているのですから、私も、ぼんやり昼飯食べながら、見物しているわけにもいきません。
「兄ちゃんたち、力があるんだなあ。このデカイ商品台(重量にして100kg近くあったのではないでしょうか。100m先から流れてきました)、邪魔でしょうがないから、持ってっちゃってよ」
すると、お兄ちゃんたちが5~6人集まってきて、いともアッサリと運び去っていきました。

ゴミや土砂を運ぶだけでなく、後続部隊の女性たちは、ほうきを持って一列に並び、残った砂を、きれいに掃いていました。
シャカッ、シャカッ、シャカッ、シャカッ、・・・・・・・・・・ピカリ。
「おおおっ・・・!」
当分、お目にかかることはない、と諦めていた路面のタイル張りが、なんと現れてきます。
「・・・・元通りだあ・・・(涙)!」
うちのお店の前をやり終えると、あたかも加速がついたように彼らはスピードをあげ、見事な手際のよさで、最後の仕上げに入っていきました。

そして、ダメ押しとばかりに最後尾では、コ・ブン自らホースを持って、僅かに残った砂や泥を、水圧で弾き飛ばし、津波以前の状態を、さらに上回るほど、きれいなソイに仕上げてくれたのです。
この間、六輪トラックが、捨て場と現場を何十回と往復し、200mほどのソイに数十箇所も積み上げられていた巨大な瓦礫の貝塚を、すべて運び出しました。

午後3時、彼らは、ようやく動きを止めました。ガラーンと、きれいに片付けられた通りの、あちらこちらで腰を下ろし、休憩に入ったようです。
しばらくすると、トラックが戻って来ました。今日、何十回と、ピストン輸送を繰り返したトラックの最後の荷物は、彼らミヤンマー人労働者でした。別に、疲れた様子も見せず、来たときと同じような身軽さで、車に乗り込んだ彼らは、荷台にゆられて消えていきました。

わずか、二十数名のミヤンマー人が、たったの5、6時間で、悪臭がたちこめ、途方に暮れていた我々の劣悪な生活環境を、元に戻してくれました。
日本人が見下しているタイ人から、さらに見下されているミヤンマー人が、自分の手と体だけをつかって、見事、この難題を片付けてくれたのです。
「人間って、機械なんかなくたって、やれば、できるもんなんだなあ・・・」
今の日本人に、こんな芸当ができるのでしょうか。
私は、このときのミヤンマー人の働きっぷりを、ハッキリ言って、脅威に感じました。
# by phuketbreakpoint | 2007-08-03 14:13

途方に暮れて

山のように積み上げられた難題を前にして、途方に暮れたことってありませんか?
「私には、無理だ・・・」
「できるかもしれないけど、いったい何日、いや、何ヶ月かかるか、見当もつかない」
「できる、できない以前に、余りにも膨大な量で、やる気にすらならない」
私も、小学生時代の夏休み後半、宿題の山を前にして、呆然としたことが何度かありました。

ところが、難しいと思ったことでも、ダメもとで、やっているうちに見通しがたってきて、結局、うまくいってしまったということも、あるのではないでしょうか。
一人では困難に思えることでも、ある程度の人数が集まって、組織的、計画的に、目標に向かって進んでいけば、だいたいのことは、可能なのかもしれません。
私は、それを2年半前、ミヤンマー人に教えられたような気がします。

2005年1月中旬。
インド洋大津波がプーケットを襲った約三週間後、被災直後には恐がって、自分のお店にすら近づいてこなかった各商店街のオーナーたちも、被害の状況を調べたり、修理や清掃作業を行なったり、現場で復旧作業に精を出すようになっていました。

ブレイクポイントも、土建屋さんのピーチャンや、長期滞在者の河野さん、女房ラントムの田舎から手伝いに来てくれた親戚たちのおかげで、海水と共に店内に流れ込んだ泥や砂、一瞬にして、粗大ゴミと化してしまった機械類や家具、大破したドアや、カウンターの残骸などを、お店の外に運び出すことはできましたが、出したゴミの山を、いったい、どうすればよいのかが、さらに、大きな問題として残っていました。

お店の裏の瓦礫は、一週間ほど前にやってきたタイ陸軍が、ブルドーザーとパワーショベルを使って片付けてくれましたが、お店の正面側にある歩行者専用道路の方は、表通りから二段ほど高くなっているせいか、行政からも、見捨てられてしまったようで、タイ陸軍の部隊も、ここに手をつけることなしに、他の場所に、転進していってしまいました。

通常は、毎日来てくれるゴミ回収車も、路上の障害物が邪魔になって、ビーチまで近づくことはできません。
また、電気が使えませんから、各レストランの厨房に置いてあった生鮮類はもちろん、フリーザーに入れてあった冷凍食材も腐り始め、復旧作業の合間に食べ捨てられた残飯類も加わって、辺り一面、異様な匂いが立ちこめ始めていた頃でした。

「ちょっと、みんな、集まってくれよー」
ブレイクポイントの真向かいにあるスイートレストランのマネージャー、コ・ブンが、近所で作業をしていた各店のオーナーたちに、声をかけていきました。
「どうも政府は、歩行者用の通路までは、面倒みてくれないようだね。こうなったら、自分たちで何とかして、少しでも早く、お店を再開しようじゃないか」
自分たちで何とかするといっても、膨大な瓦礫の山を、いったい、どうすればいいのでしょうか。

「明日、ミヤンマー人の作業員を連れてくるから、みんなも、ちょっとづつ、お金を出してくれないか」
コ・ブンがそう言うと、
「お金を出すのはいいんだけど、彼らは、道具を持ってるんだろうねえ。こんなもの、人力じゃあ、一ヶ月はかかるんじゃあないの」
聞いていた一人が、そう口を挿みました。

1週間前のタイ陸軍は、わずか5時間足らずで、何から何まで、きれいに片付けていってくれましたが、彼らは、軍用の大型重機をフル稼働させ、十輪トラックを何往復もさせていたのです。しかも、彼らは、戦場整理(死体回収や道路、橋等の復旧)のプロですから、ノウハウがすべてわかっているのでしょう。

一方、明日、コ・ブンが連れてくるというミヤンマー人たちは、どこで何をやっていたかもわからない寄せ集めの集団です。タイの建築現場にありがちなように、チンタラチンタラ、適当に時間稼ぎされて、日給だけ持っていかれたのでは、目も当てられません。
どのオーナーも、あの時期は、年に一度の大切なハイシーズンが台無しになっただけでなく、家具や機械が全部使いものにならなくなって、修理代、清掃代、新たに買い直す資金、従業員への保証等、いくらお金があっても足りない状況でした。

ですから、コ・ブンの提案に対して、みんな反対はしないものの、
「いいかげんなものには、できることなら、お金を使いたくない」
といった本音が、ありありと覗え、誰も積極的に、いくら払えばいいのか、という話はしませんでした。
そんなムードを察したのか、コ・ブンは、細部を詰めることなしに話を打ち切り、
「じゃあ、明日やりますから」
と、それだけ言い残し、帰っていきました。

翌日、私がカロンの家(家族で疎開していました)から、ラントムとお父さんを、バイク(車は流されてしまいました)の後部座席に乗せて、ブレイクポイントに戻ってきたときです。
ダンプカーの荷台に乗せられた肉体労働者の集団が、ソイの中に入ってきました。その数、二十数名、みんな小柄で、しかも、かなり女性が含まれていました。
まちまちの作業着(古着)に長靴を履いて、手ぬぐいを載せた頭には、麦藁帽子を被っています。タイの工事現場に、よくあるスタイルですね。

「この人たち、本当に、使いものになるのかなあ・・・」
彼らを、ひと目見たときの、私の正直な感想でした。
「どの程度のことができるかわからないけど、どうせ、大したもんじゃないから、こっちは、こっちのペースで、作業を進めよう」
私は、長いタイ生活の間に培った経験をもとに、こういった寄せ集め集団が、だいだい、どの程度の働きをするのかは、自分なりに見切っていましたから、彼らのことなど無関心で、いつものように、砂だらけになった食器類や、まだ使える机や椅子を、復旧したばかりの水道(ずっと断水していました)で、洗い流す作業を続けていました。

しかし、そのとき既に、彼らミヤンマー人たちの大活躍は始まっていたようです。
その働きっぷりは驚異的なもので、私の浅はかな認識を、遥かに凌駕していました。

この話、続きます。
# by phuketbreakpoint | 2007-08-01 19:32