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タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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楽園が震撼した日

「最近Sさん、見かけませんねえ。もう日本に帰っちゃたんですか?」
パトンビーチのバングラーロードでカウンターバーを経営していたSさんが数ヶ月、姿を見せなくなったことを不思議に思ったわたしは、うちの近所で中華料理店を経営している中村さんに、こう尋ねました。
中村さんは、「ああ、そのことか」という感じで、わたしに答えます。
「うーん・・・。まだいるけど、もう一人じゃ歩けないよ」
まったく予想もしていなかった中村さんの返答に、わたしは言葉を失いました。
だって、ほんの数ヶ月前まで、Sさんはピンピンしていて、うちでハンバーグステーキを食べていたんですから。

中村さんの話は続きます。
「どうも 肺ガンの末期らしいよ。先週パトンの病院に入院したけど、もう40キロもないんじゃないのかなあ。髪の毛も、髭もボウボウで、おじいさんみたいに見えるよ」
わたしは、Sさんとは、それほど親しくはありませんでしたが毎日顔を合わせて挨拶する仲でした。
お見舞いくらいは行くべきだと思いましたが、あまりにも急激に体調を崩してしまったSさんの <今の姿>を見るのが恐ろしくて、なかなか、その決心がつきません。
翌週、その事で中村さんに相談したら、彼はちょっと、ためらう素振りを見せた後、わたしに、こう言いました。
「実は病院で検査したら、H.I.V.の陽性反応が出たんだ」
H.I.V. (ヒト免疫不全ウイルス)、わかりやすく言えばエイズウイルスです。
ただでさえも気乗りしなかったお見舞いですが、中村さんのこの話を聞いて、わたしは、ますます気が重くなってしまいました。

ほぼ毎日姿を見せていたSさんを最初に見かけなくなったのが、その年の7月初旬ごろ。約1ヶ月後の8月中旬のある日、久しぶりに顔を見せたSさんは、随分やせていました。
元気な頃のSさんは、身長は175センチくらいで体重は90キロ以上あったと思います。サラリーマン・カットを無精にしたようなヘアスタイルで黒ぶちメガネをかけていました。年はわたしより一つ上。ジョン・レノンが大好きで、よくそんな話をしていました。うちの近所のマッサージ屋に頻繁に顔を出し、マッサージが終わった後は、そこの女の子を<テイクアウト>していたものです。チップの払いが良かったようで、女の子達の評判は上々でした。
「あれ?ちょっと痩せたんじゃないですか?」わたしがこう言うとSさんは、
「風邪をこじらせちゃって一ヶ月くらい寝てたんだ。でも、もう大丈夫」
結局、これがSさんと外で交わした最後の会話になりました。

中村さんの話を聞いた後、わたしの気持ちは連日揺れていました。
「そんなにひどい状態なら、やっぱり、お見舞いに行かなければ・・・」
「いや、よれよれのSさんを見るのは、辛いよなー、実際の話・・・」
何度も心が行ったり、来たり。
それでも一人で寝ているであろうSさんを、ほったらかしにしておくのは、ちょっとまずいのでは、と思い、クリスマスの夜、女房のラントムに「明日、お見舞いに行こうと思うんだけど・・・」と打ち明けてみました。このとき、もし彼女がイヤだと言ったら、わたしも行かなかったと思います。ところがラントムは、すぐに乗ってきてしまったので翌日行くことになりました。

パトンビーチにあるカトゥーホスピタル(現パトン・ホスピタル)。
受け付けで入院患者の病棟を聞くと、Sさんは新館にいると教えてくれました。
完成したばかりの新館は、塗装の臭いがまだ残っていて、そのひんやり静かな雰囲気は、わたしとラントムの緊張感を、より一層高めます。
新館の入口でSさんのベッドの場所を確認し、緊張しながら接近すると、どういうわけか全然違う人が寝ています。もう一度別の看護婦さんに聞き直したら、全く正反対の方向を指差しました。普段なら、タイはこんな調子だから、と余裕のあるわたしですが、このときばかりは少し怒りを覚えました。

教えられた場所は、病棟の一番どん詰まりにありました。 わたしは歩きながら、自然と足が竦んできてしまいます。怖じ気付く、という言葉が正にピッタリでした。ラントムがもし一緒でなかったら、引き返していたかもしれません。生と死の現実を見せられる事への恐怖は、隠しようがありませんでした。
出来る事ならラントムに先に歩いてほしかったのですが、彼女にもそれが分かっているのか、わたしより、もっとゆっくり歩こうとします。わたしは、追いつめられるようにSさんのベッドに近づいて行きました。

Sさんは、薄目を開けて、じっと動かず、横たわっていました。
しかし、中村さんの話どおり、やせ衰えてはいましたが、ボウボウであるはずの髪と髭は、入院後に切ってもらったようで整えられています。わたしは、ちょっとホッとしました。

Sさんは、時々寝返りを打つような動きを見せましたが、起きているのか、眠っているのか、よくわかりません。いや、わたしはそのとき、Sさんに眠っていてほしかった。
「ねてるのかな」
わたしはラントムに話しかけるふりをしながらSさんの反応を待ちました。
それでもSさんのリアクションはありません。わたしは、なんと声をかけていいのか、いや、声をかけるべきかどうかもわからず、どんどん時間が過ぎていきます。この時間のなんと重く、長かったことか。

結局、Sさんは、ほとんど動かず、わたしもSさんにかける言葉を見つける事ができず、困り果てたわたしは、横にいるラントムに「帰ろう」と声をかけました。
彼女は、黙ってわたしについてきました。

2002年12月26日のことです。

この項続く予定 次回は別の話です。
by phuketbreakpoint | 2005-09-14 02:35