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タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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サドンデス

1983年春。
アメリカ大陸をバスで横断していた私は、2月27日、ついにニューヨークに入りました。
49stの安宿にチェックインし、ブロードウエイから、タイムズスクエアを通って7番街へ。真っ直ぐに歩いていくと、巨大な円柱形の建物が見えてきます。
「これが、MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)か・・・」
大都会の、ど真ん中に作られた現代のコロッセオ、私は興奮を抑えきれず、正面ゲート前まで近づいていきました。
“レンジャースVSニュージャージー”
「何だろう、これは?」と思いながらも、よく読んでみると、アイスホッケーの試合でした。
「よし、入ってみるか」
ゴーオオオオーン・・・・・。
場内に入るや、凄まじい熱気が、私を包みます。
「レッツゴー・レンジャース!」
チャッ、チャッ、チャチャチャッ(手拍子音)。
地元・ニューヨーク・レンジャースのファンが、獣のような獰猛さで声援を送っていました。
その、なんと凄まじいことか!
バシーン、バシーン(記者用の机を叩く音)、ブウウウウーェ(激しいブーイング)、ズバッ、ズバッ、ズバッ(足を踏み鳴らす音)・・・・・。
「阪神ファンが怖い」
「いや、広島ファンの方がエゲツない」
「違う、勝ち損なったときの浦和レッズファンが、一番危ない!」等と、日本国では言われているようですが、レンジャースファンと比べれば、紳士的に見えるんじゃないでしょうか。

その2週間前、LAで見たロックコンサートで熱狂する、ティーンエイジャーの女の子たちが叫び、渦巻き、波立っていた、大嵐のような会場風景といい、やっぱり、この人たち(はたして、彼らを人と呼んでしまっていいものでしょうか)とは、「パワーが全然違うんだなあ・・・」と強く実感したのが、この旅、最大の発見だったような気がします。どちらの会場でも、肉食獣が飢えて、大暴れしてるとしか見えませんでしたもの・・・。

試合は、5-2でリードしていたはずのレンジャースが、いつの間にやら、同点に追いつかれ延長戦へ。なんとなく、レンジャース負けムードが漂ってはいましたが、延長戦の開始早々に放たれたデビルズのシュートは、無常にも、レンジャースゴールに突き刺さります。
「オー、シーッ!」
「ファック!」
ガックリとうな垂れる、レンジャースファン。ニュージャージーの選手が点を入れるたびに、場内を覆いつくしていたブーイングも、ほとんど聞かれません。みんな肩を落とし、空ろな表情で席を立っていきます。

観客たちは、前後半のとき以上に吼えまくると思っていましたが、いったい、何が起こったのでしょうか。
「ちょっと、みんな、どうしたんだ?まだ、諦めるのは、早いだろう。延長戦は、始まったばかりじゃないか」
最初は、そう思いましたが、すぐに、ゲームオーバーだということに気付きました。
「終わっちゃったんだ・・・・・」
追いつ、追われつの、シーソーゲームでしたが、最後は、実にあっけないものでした。文字通り、サドン・デスだったと思います。
見ている者にも、プレーしている本人たちにも、心の準備を許さない、その冷酷非常な終了システムは、ある意味、人生そのものを暗示しているかのようで、私は、あの日の、突然の終わりが、今でも忘れられません。


2月中旬のある日。
プーケット補習校のPTA会長を務める山口さんが倒れたというニュースが入ってきました。
原因は、脳溢血ということでしたが、大変なことになった、と思う反面、
「恐らく、命には、別状はないだろう」
と、私は楽観していました。

2年前に倒れた女房ラントムのお父さんも、入院時は悲惨な姿だったものの、退院し、リハビリを行っていくうちに、みるみる元気になって、右半身の麻痺は、まだ、少し残ってはいますが、今では日常生活に、ほとんど支障はなくなりました。従業員や近所の人と、しょっちゅう喧嘩しては問題を起こすのも、以前と、まったく変わっていません。
多少の後遺症は残るものの、山口さんの年齢(まだ58歳でした)を考えれば、リハビリすれば、かなり、動けるようになるだろうと、私は考えていました。

ところが、山口さんは倒れた後、いくつかの病院で、たらい回しにされてしまったようで、公立のワチラ病院に運び込まれたときには、もう手術のタイミングを逸していたようです。
“病院はあっても、治せる医者は少ない”
プーケットで長期滞在を考えている中高齢者のみなさんも、そういった医療環境の実情は、認識しておいた方がいいと思います。

3日後に、一か八かで、挑んだ手術の甲斐もなく、山口さんは、帰らぬ人となってしまいました。
連絡を受けた翌日、私は女房のラントムと、遺体が安置されているワット・クラーンまで弔問に出かけました。
「子どもたちは、まだ、よく分かっていないようで、『パパは、いつまで寝てるの?早く、起こして帰ろうよ』って、私の手を掴んで・・・」
山口さんの奥さんが、目に涙を溜めながら、私たちに説明してくれました。
残された奥さんや、小さなお子さんのことを考えると、本当に心が痛みます。

授業のない平日に、三階の教室に集まって、補習校の教務会議をやっていると、
「みなさんも、大変ですねえ」
と言いながら、様子を見に来てくれた山口さん。
日本人会の会議が紛糾し、長時間のサバイバルレースになってしまったとき、逃げ出すように、一階の事務所わきで、タバコを吸いながら、
「上は、まだ、やってますか?」
と、他人事のように、ボヤいていた山口さん。
補習校といわず、日本人会といわず、事務局を用事で訪れた人が、胸のうちを誰かに打ち明けて、「気分を楽にしたいなあ」、と思っているとき、
「どうですか、最近?」
タイムリーに話しかけてくれる、ありがたい山口さん。
「ヤマちゃん、今年も、司会頼むよ」
トップシーズンの真っ盛りに、カマラ慰霊碑で行われる慰霊祭の司会を務めるよう依頼され、
「うーん・・・・、さあ・・・・、どうでしょうか、今年は・・・」
と、困った表情で言葉を濁しておきながらも、結局は押し切られ、受けてしまう山口さん。

場面、場面で、特に大活躍するようなキャラクターではなかったと思いますが、そこにいてくれるだけで、みんなを暖かい気分にさせてくれる、ティーブレイクのような山口さんが、もういないという実感は、正直言って、まだありませんが、ここで暮らしている日本人は、じんわりと、それを味わっていくのではないでしょうか。
「西岡さん、よろしかったら、どうぞ。返すのは、いつでもいいですよ」
これが、山口さんと交わした最後の会話になりました。
私の手元には、山口さんが事務所で貸してくれた、三冊の文庫本が残っています。

3月3日、焼きつくような暑さの中、山口さんと最後のお別れをするために、大勢の人々が集まってきました。
5年前、エイズで亡くなられたSさんの亡骸を、病院で見てしまった私は、山口さんの火葬の直前に、葬儀屋の人たちから、
「さあ、みなさん、一人ずつ、お別れを告げてあげてください」
そう言われて、思わず、足が竦みましたが、勇気を出して見た山口さんの表情には、心和むものを感じました。
すやすやと、気持ちよく眠っているようで、無理に起こしてしまうのも憚るほど、穏やかな顔をしていたのです。
私はとても、こんな表情で死ねる自信はありませんから、家族だけに見送られ、ひっそりと、こっそりと、消えていくのが、いいんじゃないでしょうか。
「そういえば、西岡さん、最近見かけませんねえ」
「あれ、知りませんでした?半年前に死んじゃいましたよ」
そんな終わり方が、理想的だと思います。

「山口さん、お疲れ様でした。静かに、そして、安らかに眠ってください・・・」
大勢の弔問客と共に、ジリジリと照りつける太陽の下、私は目をつぶり、両手を合わせました。
人生の終わりは、ある日、突然やってきます。
その日が、いつ訪れるかはわかりませんが、この島で、家族と楽しく過ごせた日々があるのなら、私は、いつでも、笑って死ねるような気がします。
by phuketbreakpoint | 2008-03-21 10:25