タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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探し屋5 ラントムと一緒に歩けば棒に当たる?

1991年に、日本のバブル崩壊が始まったと言われていますが、当時、それに気付いた人は、ほとんどおらず、まだまだ、世の中は浮かれていました。
ジュリアナ東京、お立ち台、ワンレン、ボディコン、ドンペリ、ロマネ・コンティ、オヤジギャル、アッシー、メッシー、ミツグ君、DCブランド、トレンディー・ドラマ、三高、新人類、24時間戦うリゲイン・・・あの頃は、みんなチャラチャラしていて、女の子がやたら輝いて見えたものですが、私は、大儲けで笑いが止まらない不動産業者を回っては、社長さんや担当者の「自慢話」を聞くのが仕事でした。

「へー、そうなんですか・・・」「はー、それは凄いですね」「ふー、そんな大金見たことありませんよ」「ほー・・・なるほど」「ひえー、ホントですかー?」
相槌をハ行で打ちさえすれば、相手は上機嫌で、聞いてもいないことを、どんどん喋ってくれましたから、てっきり、こちらの願いも聞き入れてくれるのかと思っていたら、
「短期貸し?あんた、バカなこと言いなさんな」
と手の平を返したように説教が始まってしまいます。そんなショボい仕事に手をつけなくても、どんどん金が回ってくるんですから、当然のリアクションかもしれません。
しかし、どんなに景気がよくて、売買も賃貸も、右から左に次々と捌けてしまう御時世でも、取り残されてしまう「落ちこぼれ物件」はあるものです。説教をじっと我慢して粘っていると、
「うーん、しかたねえなあ・・・じゃあ」
数千万、数億と投資した物件が焦げ付く寸前で、向こうも困っていたのは間違いありませんから、もっと感謝されてもよかったはずですが、相手業者は、いかにも恩着せがましい口調で、貸し残った賃貸物件を回してくれました。そして、それをさらに買い叩いて、4ヶ月だけ借りてくるのが私の任務だったのです。


プーケットで暮らし始めた1993年当時、セカンド・ロード(200ピーロード)では、まだ商売になりそうもありませんでしたから、私は、ビーチ・ロード周辺に絞って物件探しをしていましたが、最南端のシービューホテル周辺(当時の値で、700万バーツ/ユニット)を除けば、既に入り込む余地はありませんでした。
いや、ごく稀に、売り物件が出たとしても、アッという間に、かっさらわれてしまいます。売り看板を見かけたのも、16年住んでいて、2回しかありませんでした。

「ママ!なんか、『売り』って書いてあったみたいだから、明日、行ってみる?」
そんな会話を、ラントムと交わした翌日には、もう看板が外されています。まったくのお手上げでした。きっと、話が表に出る前に、ほとんどの物件が、ブローカーたちの手によって捌かれてしまうのでしょう。
それは、あたかも、
虎や、ライオンなどの猛獣が、大きな獲物を求めて、ウジャウジャと群がっている状況に思えました。
割って入るには、いかにも資金が不足していましたから、私は次善の策として、少し奥まったソイの中で探すようになります。
それなら相手も、ハイエナや、コヨーテといった小型獣ですから、なんとか蹴散らして獲物に有りつけるかもしれません。
もし、ここもダメなら、さらに後方に下がって、禿げタカや、イボイノシシの群れに紛れ込んで、棲家を確保しようと思っていましたが、今の店舗(サウス・ロード)が見つかって、安住の地に落ち着くことができました。

そして、5年後の2000年6月、ブレイクポイントのオーナー(当時)、スーマリーさんが、うちに来て、
「トム(ラントムのこと)、私のお店を、買ってちょうだい」
と言ってきたときは、
“ついに、来るべきときが、来た!”
そう思いました。
スーマリーさんと、夫のビルさんには、商売を、うまく回して借金を返済していく資質が大いに欠けているように感じましたし、遅かれ、早かれ、行き詰まって、お店を人手に渡さねばならい状況が来るような気がしていました。
その際には、自分が名乗りを上げようと、ずいぶん前から心に決めていましたので、この日は、特に驚くこともありませんでした。
「ここは、いずれ、自分のものになるんじゃないかなあ・・・」
なんとなく、そう思っていたのです。

不動産業にいた頃の私は、店舗契約で狙った場所があれば、繰り返し同じ地域を巡回してチャンスを待ちましたが、そのときは、いつも、こう念じていました。
「落ちてこい・・・、落ちてこい・・・、オレの手の中に、落ちてこい・・・」
まるで悪魔の囁きですが、こうやって好機を窺っていると、本当に、そうなってくるから不思議です。
別に、オカルト現象とかではなく、こうすることで常に心構えを作っておけば、いざというときにも、早く行動に移れますから、獲り逃がすことはありません。
ですから、私が時間調整と称して、仲良くなった同業の井上くんと、頻繁にサボっていたのも、それなりの理由はあったのです。
業界では、時期が熟していないときは、何をやっても無駄・・・、下手に足掻いて、余計な体力を消耗すれば、肝心なときの瞬発力を失いますから、じっと辛抱して機会を待つ・・・、そんな感覚がありました。
まるで、雪山で遭難した登山者みたいですが、実際、ノルマに追われて、仕方なしに契約してきた物件では、その後の営業部の成績も振るわなかった記憶があります。

プーケットで不動産探しをする場合、何箇所か試しに値段を聞いてみるだけで、あまりの高さに、買う気が、どんどん失せていくのは、昔も、今も、変わりませんが、地主が言う値段、つまり、売りたい値段と、実際に、買い手がつく値段とは、ずいぶん開きがありますから、焦って決めないで、辛抱強く時期を待つべきだと私は思います。
そして、待っていた好機が、遂に、やって来たとき、いかに逃さず、確実に掴んでいくかが勝負といえます。

今のように、みんなが、「買い」に走っている状況では、ちょっと難しいかもしれませんが、要するに、売る側の人が、
「すぐに金が欲しいから、できるだけ早く売りたい」
そういう状況が生まれれば、チャンスなわけです。
あのときのスーマリーさんは、ピタリと、この公式に当てはまっていましたし、私が会社員時代に東京で探していた短期貸し可能な店舗や事務所の交渉も同様でした。
「半年前にお願いした、あの物件・・・、まだ空いているようなら、同じ条件で、なんとかなりませんか?」
立地条件や使い勝手の悪さなど、何かしらの欠点がある建物がターゲットにされ、金利支払いや、借金の返済という貸主側の事情や弱点を突いて、契約に漕ぎ着けていたのです。

スーマリーさんは係争中で、原告であるドイツ人との和解金や、ビルさんが拘置所から出るための保釈金、弁護士費用、賄賂、そして、生活費と、かなりのお金が必要でしたが、長年、ローン返済に追われ、火の車だった彼女には、もうどうすることもできませんでした。
タイには、後先のことを深く考えず、突っ走ってしまう人もいますから、好条件の物件は意外と多いような気がします。

「いくらなら、買うの?」
と迫る彼女に、
「XX・・・バーツ」
と私が答え、交渉は簡単に纏まりました。
ユニット単位の価格では、その5年前に、隣の自宅兼用店舗を買ったときより、さらに安かったですから、ずいぶん買い叩いた形になりましたが、自分が用意できそうな額と、相手が、
「安すぎるから、他を当たろう」
とは思わない、ぎりぎりの接点が、この値段だったと思います。
究極の2次方程式でしたが、彼女には、時間も、お金も、ほとんど無かったですから、他のオプションはありませんでした。

映画「昭和残侠伝」には、
「旅人(たびにん)っていうのはなあ、サイコロの目と同じよ。どこの組に草鞋を脱ぐかで、勝負が決まるんだ」
という一節がありますが、「どこの組に・・・」を、「どこの国に・・・」と置き換えれば、私の半生にも、この台詞を重ねることができます。
バブルが崩壊し、デフレ不況が始まりつつあった日本を離れ、たまたま草鞋を脱いだタイ王国で手に入れた不動産は、同国経済の高度成長に乗っかる形で、どんどん価格が上昇していきました。
サイコロの目は、あらゆる意味でドンピシャでしたが、振りかえってみれば、今までプーケットやトランで行ってきた取り引きでも、ずいぶん運に恵まれてきたのは間違いありません。金額もさることながら、物件として、自分の能力で手に入れることができそうな上限のものだったように感じます。
私一人では、こうは、うまくいかなかったでしょう。
あるときは助言し、あるときは反対し、あるときは取り次ぎ、そして、あるときは単に、ついてきただけでしたが、そこに、いつもラントムがいてくれたからこそ、うまい具合に話が転がっていったんだと思います。

犬も歩けば、棒に当たる、
ラントムと一緒に歩けば、必ず幸運に当たる・・・、
数々の場面で、迷いなく、自信を持って決断できたのは、私が、いつの頃からか、常に、そう信じていたからなのかもしれません。
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by phuketbreakpoint | 2009-08-20 22:36