タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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2005年1月、パトン戦線ブレイクポイント陣地。
「みんな、引くなー!ここで引いたら、総崩れだー!持ち場を守るんだー!」
ハイシーズンのレストランは、戦場を思わせる雰囲気もありますが、傷だらけになりながらも、最後の力を振り絞って戦っているときに、ふと周りを見たら、部下たちは全員、とっくの昔に退却した後で、気がつくと部隊は、エムくん(当時のガードマン)と、私の2人っきり・・・・、
あの年は、いつも、そんな感じでした。
頼りにならない人たちを、頼りにせねばならないことほど、ジレンマに陥ることはありませんが、一年分の稼ぎどきであるハイシーズンで、その名のとおり、ハイな気分になれるか、それとも、地獄のような思いをするかは、ズバリ、ともに戦う戦友たち(スタッフ)の陣容次第です。


私の父は、青春時代、広島県江田島にある海軍兵学校の寄宿舎で過ごしていました。
最終学年(18歳)の8月に、日本はポツダム宣言を受諾し、翌9月に兵学校は解散しましたが、戦争に負けなければ、そのまま軍人になっていたはずです。そして、その場合は、結婚後に生まれてきた子(つまり、私)も、同じ道を歩んでいたでしょう。
父は昔から、自分の子供時代、青春時代の話をほとんどしませんでした。そして軍人崩れだけあって、家でも、外でも、まったく弱音を吐かない人でした。
「疲れた」「痛い」「辛い」
そんな父の言葉は、未だかつて、一度も聞いたことがありません。
何かあるたびに、すぐ、
「ママ、ふらふらだー。もうダメ、オレ死ぬよ・・・」
女房のラントム相手に、すぐ泣きが入る私とは、大違いの人間でした。
兵学校に在籍中、上官から制裁を受け、中耳炎が悪化し、左耳は、ほとんど聞こえないようですが、そのことも、頑なに口をつぐんでいたようで、結婚してから何年も経った後、耳元で話しかけても無反応の父を不審に思った母が、恐る恐る聞き出したそうです。
そんな父が生きている間に、できるだけ昔の話を聞きいておこうと思った私は、何年か前、東京の実家でウイスキーを飲みながら、こう尋ねたことがありました。

「ところで、どうして、海軍(兵学校)に入ったんです?」
くだけた話が、まるでできない父ですから、当然のように、返ってくる答えは、非常に固くて、しかも、高尚なものなんだろうと思っていましたが、これが予想に反して、実に人間的で、「素敵な理由」だったので驚きました。
「そりゃあ、海軍は、カッコ良かったからなあ・・・」
身も蓋もない、単純な理由でしたが、生まれて、この方、父から聞いた話の中で、これほど心に響いた言葉は、他にありませんでした。
「この人も、やっぱり、オレと、おんなじ血が流れてるんだなあ・・・」
そう思うと、妙に父を身近に感じたものです。
「滝川中(旧制中学)にいたころ、何期か上のOBが、朝礼のときに、真っ白な、海軍の制服着て、颯爽と近況報告に現れるんだ。こりゃあ、もう、誰がどこから見たって、カッコいいわけだよ。憧れない奴は、いないな」
有名中学には、「人買い」のような軍のスカウトがやってきて、成績上位者を青田買いしていくそうですが、父親が陸軍の軍人である等、特殊な事情がない限りは、最上位の3名が海軍(兵学校)へ、次の3名が陸軍(士官学校)へ、進学していったそうです。
きっと、父も、白の上下で、周りの女の子たちを、
“ブイブイ、いわそう”
と思っていたんでしょうか。ちょっと、タイ警察と似ているような気もしますが、あれに、もっと箔を付けて、デカくすれば、帝国海軍なんでしょう(ホントか?)。

こんな、父の子ですから、私にも、軍人に憧れる体質があるのかもしれません。ただ、私の場合は、陸軍を選ぶような気がします。
海軍なら、「沈んだら、どうするんだ!」
航空隊なら、「落ちたら、どうするんだ!」
“女にモテそう”
という点では、明らかに、海軍や航空隊なんですが、いつも、乗っている飛行機が揺れるたびに、女房のラントムにしがみ付いて、笑われている臆病な私ですから、陸軍以外では、まるで話になりません。
女は、別のところで、「調達」すればいいでしょう。

軍人には、実戦をほとんど経験したこともないのに、どういうわけか順調に出世して、陸軍省や参謀本部に席を起き、机上の論理を振り回しながら、参謀肩章を腕に巻いて、ピカピカの軍靴で、最前線でドロドロになって戦ってる部隊の前に、のこのこと現れ、
「この作戦は、(天皇)陛下も、大層ご執心で・・・」
と、ありもしない話をちらつかせながら、現地司令官に無謀な作戦を強行させて、案の定、大敗し、戦力に大穴を空けて、その後の戦争遂行を困難にしてしまうタイプがいる一方(今の日本社会にも、大勢いますね、こういう人は)、
同期の仲間たちの、出世競争から、完全に取り残されて、
「あいつ、まだ、中尉なのか。で、今どこにいるんだ?
ニューギニア戦線!?ご愁傷様・・・」
神楽坂の高級料亭なんかで開かれる同窓会で、みんなから陰口を叩かれながらも、言われている本人は、やる気満々で、師団が総崩れ寸前だというのに、
「♪ニューギニア、よいとーこ、いちどーは、おいでー、とくりゃあ!
でも、いつも、ココナツ酒と、現地の女じゃあ、つまらんのう。
よし、明朝、奇襲攻撃かけて、アメ公(米軍)の酒と女、分捕ってくるかー
おーっし、みんな、ええかー。
明日の夜は、バーボンと金髪のオナゴで、やりまくりじゃーい(不穏当な表現をお詫びします)!」
「オー!」
と、部下と一緒に、気勢を上げているようなタイプがいますが(このタイプ、今の日本には、ほとんどいませんね)、私なら当然、後者を目指していたでしょう。

部屋に篭って、作戦計画を立案するのも、もちろん、それなりの魅力は感じますが、自分の性格から言って、やっていて、より充実感を味わえそうなのは、やはり、小規模の実戦部隊を任されて、最前線に立つことだと思います。
しかし、実際の戦闘は、レストランの営業なんかとは違って、部下や自分の命が懸かっているわけですから、そんなに甘いものではないのかもしれませんが、それでも、大丈夫でしょう。
どの部隊にも、歴戦の勇士的な下士官がいますから、この人を頼ればいいわけですね(ブレイクポイントなら、ウーティットくんでしょうか)。
「おーい、軍曹、大変だー!完全に囲まれちゃってるぞー、どうする?」
「中尉殿、大丈夫ですよ。地雷原がありますから、そう簡単には近づいてこれません。しばらく、じっとしてれば、砲撃も止みますから、そのとき攻勢に出ましょう」
「なるほど、いい案だ。よし、そうしよう」
これじゃあ、誰が隊長だか分かりませんが、帝国陸軍では、そういう人の方が、むしろ出世したようです(ますます、私向きです)。
そして、激しい戦闘が終わった後に、
「どうやら、今日も、生き延びたか・・・」
仲間たちと一緒に、キャップ一杯のウイスキーを喉に流し込む・・・・、
そんな日々に、すごく憧れるわけです(もちろん、「金髪とバーボンで、酒池肉林」には、もっと、憧れます)。

飲食店をやっている以上、お客さんの入りが悪いのは、もちろん困りますが、あまりにも、たくさん入りすぎるのも嫌なものでした。厨房も、ホールも、オペレーションが崩れて、
血だるま(コンプレインの山)”
になってしまうからです。以前は、お客さんの群れを見ると、かなり怯んだものでした。
でも、今年の西岡小隊は、一味違います。かつてないほど、強力な布陣で挑めるんじゃないでしょうか。

リーダー格のミヤンマー人、ウーティットを中心に、テンちゃん、トゥック、サンティ、それに今年入ってきた新人たちも、どういうわけか定着率がよく、一つ、一つ、教え込んでいくうちに、だんだんと、私が望むような動きをするようになってきました。
敵が何人来ようが、今年の陣容なら、なんとか持ち堪えられるような気がします。少なくとも、独りぼっちで、取り残されることはないでしょう。

「来るなら、来いや。全員、皆殺しじゃ(再び不穏当な表現をお詫びします)。ほんでもって、ハイシーズンが終わったら、バングラーのロシアンパブで、パーっと、祝杯あげて・・・」
と思っていたら、結局、収益は全部、上官である女房のラントムに、「上納金」として吸い上げられ、そのまま、彼女名義の銀行口座に入れられてしまうわけです。
強いものが、弱いものから略奪し、潤う。
これも、戦争の宿命なんでしょうか(ワシの金返せー!)。
結局、当分の間(恐らく死ぬまで)、ココナツ酒と、現地の女(ラントム)で、我慢しなければならないでしょう。
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by phuketbreakpoint | 2009-12-26 12:13

63歳限界説

今年も、いよいよ、残すところ、あとわずかになってきましたが、記憶に残る出来事といえば、個人的には、「チェリー(仮名)」の閉店が挙げられます。
チェリーと、ブレイクポイントは、スタート時期が、ほぼ同じで(あちらの方が数ヶ月早かった)、数少ない日本人経営のお店として、また、飲食店とゲストハウスを兼ねている点も同じでしたから、ご主人である石井さん(仮名55歳)ご夫婦には、何かと、お世話になることも多かったのですが、その飾らない人柄と個性には、大いに惹かれるものを感じました。
夜遊びに行って帰ってくるたびに、いつも奥さんにボコられ、何度も、病院送りにされていたのは有名でしたが、なぜ、そうなることが分かっているにも関わらず、再び同じ道を歩んでしまうのかは、プーケット七不思議の1つ、とも言われていました。
ところが、2年ほど前に、本人の口から、実に、ごもっともな、その理由を聞かせてもらうことができたのです。

「様々な人から、いろんな意見を聞いて、自分なりに分析した結果、とうとう、わかったんですよ」
石井さんが、勿体付けて語った、究極の結論とは、
男の限界は、ズバリ、63歳である
というものでした。当時石井さんは、53歳で、この説が正しいとすれば、
「残り時間は、あと10年しかない」
という計算です。
「この、制限時間内で、あと何回、そういうことができるのか?それを思うと、いても経っても、いられなくなって・・・」
たとえ、その後に、どんなに恐ろしい仕打ちが待ち受けていようとも、ついつい、「戦場」に足が向かってしまった、ということです。

私の経験上から言っても、老眼など、肉体的な衰えを、何となく感じてくるのは40歳前後くらいからですが、それと時期を合わせるように、生殖器能も衰えを見せ始めます。
「あれ?こんなはずじゃあ・・・・」
最初は、身に起こっている現実を、
「認めたくない」
という意識も手伝って、事態を、うまく把握できないものですが、
「あれ?まただ・・・」
2度、3度と続くと、さすがに否定できなくなってきます。
「オレも、とうとう、年貢の納め時か・・・」
人生の黄昏時が近づきつつあることを、覚悟せねばなりません。

年に、2度ほど、プーケットにやってくる常連客に、片平さん(仮名41歳)という方いますが、彼も似たようなことを言っていながら、
「でも、栄養とって、休養を十分にとれば、また、盛り返してきますよ」
と楽観していました。私は、断言しますが、
「その努力は、決して、報われることはない」
と言っておきしょう。これからは、坂道を転げ落ちるように、どんどん状況が悪くなって、その先には、「再起不能」と、「現役引退」が待っているのです(ああ、恐ろしや)。
それでも、ごまかし、ごまかし、なんとか使い物になる、そのバーティカルリミットが、63歳である、というのが、「石井説」でした。

また、中年男性の場合、長年連れ添った奥さん相手ならともかく、その辺の飲み屋で知り合った女なんかを相手にしても、気持ちがいいとか、悪いとか、という以前の話として、消耗する体力の、あまりの大きさに愕然として、生命の危険すら感じてしまうことがあるわけです。これは、社交ダンスや、アイススケートのペアなんかにも共通していると思われますが、手の合ったパートナーから離れ、突然、新しい相方が現れても、なかなか、息が合わず、自然体で挑むことができませんから、無駄な力が入ってしまい、本来使ってはならないはずの、体内で、緊急時用に備蓄された、なけなしのエネルギーまで、使い切ってしまうからでしょう。
はっきり言えば、荒行みたいなものですから、石井さんが、いかに、決死的な覚悟で、こういった行為に及んでいたかを考えると、その潔い決意の程には、涙が流れます。
「男は、ときとして、死を覚悟してまでも、闘わねばならないときがあるんですよ」
そう語っていた石井さんの横顔には、ハードボイルドな、「男の香り」と、「凄み」が漂っていました。
すべては、自分の信念に基づいた行動だったんですねえ・・・(ホントか?)。

一方の奥様ですが、この人は、単に喧嘩が、めっぽう強い、というだけでなく、仕事の面でも、スーパーな人でした。石井さんは、日本でも事業をされていましたから、帰国して長期間、お店を空けることも多かったのですが、そんなときは、奥さん1人で、店番しなければなりません。
お客さんが入ってくると、まず自分でオーダーを取って、2階の厨房へ上がり、パパッと、素早く料理を作って、お客さんが帰るときには、チェックビン(お勘定)まで、やっていました。1人3役です。
その一連の作業の、実に、手際のいいこと。これだけ働ける人は、日本にも、めったにいないと思いますが、チェリーが10年近く、持ちこたえられたのは、奥様の働きがあったからこそでしょう。出される料理の味も、しっかりしており、「(料理の)経験があるんだろうなあ」と思っていたら、
「雇うコック、雇うコック、みんな使いもんにならないんで、面倒くさいから、自分で覚えちゃったの」
なんて、言ってましたが、きっと頭のいい人なんでしょう。

こんな奥様ですが、やはり、観光客の多い、ハイシーズンには、さすがに1人では(食器片付け役のベトナム人が2人ほどいました)、お店が回らなくなってしまうこともありました。調理中に、新しいお客さんが入ってきたり、お勘定せねばならないときなどは、そのつど、2階の厨房から、降りてこなければなりません。
たまたま、ビールを飲みに来ていた私が見かねて、
「いらっしゃいませ」「ご注文は?」
と、代わりに呼び込みしたり、オーダー取ったり、
「すいませんねえ。すぐに下りてきますから、少々お待ちください」
と、時間稼ぎしたりしたのも、楽しい思い出のひとつです。
きっと、他のお客さんたちは、私のことを、スタッフか、女将さんの亭主、あるいは、サミー・ノーイ(愛人)と思っていたかもしれません(本当は、こんなところで、油売ってないで、自分のお店で働かないといけないんですが)。

「チェリー」は、石井さんファミリーと共に、チェンラーイに移り、ここで、ゲストハウスとして、再出発するようです。
石井さん、奥様、長い間、本当に、ご苦労様でした。
プーケットに、お越しの際は、ぜひ、お立ち寄りください。
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by phuketbreakpoint | 2009-12-20 10:11
浮上してきました。
11月に入り、徐々に上向いてきた、ブレイクポイント(レストラン)の営業成績は、中旬に入るや、一気に上昇し、12月に入っても、勢いが衰えることなく、好調をキープしています。
観光客の多いシーズンなら、それも珍しいことではありませんが、今年は、4月ごろから、ずっと、低空飛行が続いていた上に、10月は、「復活スウィートレストラン」にボロ負けし、壊滅的な状態でしたから、このV字回復は、なかなかのものではないでしょうか。
それにも増して驚異的なのは、スウィートレストランに連勝している状況でしょう。まるで、10月の悲惨な状況が、「裏返し」になったようで、今度は、こちらが向こうの顧客を吸い取っているように感じます。
わずか、一ヶ月で戦況が一転してしまいますから、やはり、パトンの飲食業は気が抜けません。

ガラーん。
10月5日、午後7時30分ごろ。
食事時だというのに、ブレイクポイントのお客はゼロ。
対する、スウィートレストランは、ほぼ満席です。
どんな業種でも、すぐ目の前のお店に、大きく水を開けられる状況というのは、やっている者にとっては、実に辛く、これほど惨めな気分になることはありませんが、とくに飲食業は、誰の目にも、はっきりと、それが判りますから、なお更、気分は落ち込みます。
8年前の開業当時こそ、それが通例化していた当店も、亀の歩みのごとく、ちょっとずつ、ちょっとずつ、この差を縮め、昨年あたりは、ほぼ互角の勝負ができまでになっていましたから、今回の事態は、尚更、骨身に沁みました。

しかも、10月という時期は、プーケットについて書かれた、ガイドブック等では、ほとんどノーマークですが、パトンビーチのレストラン経営者、特に、ブレイクポイントにとっては、非常に重要で、10月の営業成績を見れば、12月からのハイシーズンの売り上げ予測を、だいたい、つけることができるのです。
過去のデータから推察すれば、10月末の成績の、1.3倍~1.6倍が、1月、2月の営業成績とみて、まず間違いありません。
ボロパンツの魔力で、なんとか赤字は免れたものの、この時期に損益分岐点を僅かに超える程度の成績では、とても、商売は維持できません。1年分を、まとめて稼がねばならない大切なシーズン・インを目前にして、お店の将来には、深く暗雲がたち込めていました。

「今日も、スウィート・レストランは満席か・・・。うちは・・・、ひい、ふう、みい・・・、なんとか、手を打たないと・・・・」
10月下旬のある日、ぼんやりと店内を眺めていたら、なんとはなしに、天井に描かれた地図絵が気になってきました。これは、先々代のオーナーから引き継がれているものですが、私がブレイクポイントを買って、内装工事を始める前に、この絵をどうすべきか、非常に悩んだことがありました。
「なんか、火事現場の痕みたいで、暗いなあ・・・。天井を入れ直して、全部消してしまおう」
最初は、そう思っていたのですが、よくよく見ているうちに、気が変わり、
「いや、待てよ。でも、見ようによっては、面白いアクセントになるかもしれない。ここに、こうやって明かりを当てれば・・・」
ライトアップして、部分的に強調すれば、幻想的な空間が演出できるかもしれないと、絵を残すことに決めてしまいました(素人が慣れないことをやっては、いけませんね)。

あれから8年、ラントムと2人で、さまざまな試みにトライし、お店をよくするために、考えうる手段は、すべて打ってきたつもりです。この期に及んで、やるべきことが、まだ残っていないか、ガラガラの店内で、腕を組んで考えていたら、ふと、このときのことを思い出しました。
「この絵を・・・、思い切って、消してしまうか・・・!」
ちょうど季節は、シーズンの変わり目です。毎年、11月の初旬は、ホテル代が急に高くなる上に、ビーチで海開きの催しが開かれ、営業的には散々ですから、
「よし、1日から、3日まで、お店を閉めて、衣替えだ」
スタッフも、突然、臨時休暇がもらえ、大喜びしていましたが、ハイシーズン前の景気付けには、ちょうどいいかもしれません。

「それと、ママ、ちょっと、いいかな」
ジャンクセイロンの奥にはレストラン街があり、ここには、洗練された雰囲気のお店が並んでいますが、ハイシーズン突入を前に、私は、ラントムに見せたいものがありました。
「どう?このお店、なかなか、きれいでしょう。これを真似しようと思ってるんだ」
店外の柱に沿って、備え付けられたランの植木鉢が、とても目を引くお店でした。照明の明かりと重なって、実に、いい感じに仕上がっています。
「うん、きれい。すごく、きれい。これやりましょう」
確信のないことを始める前には、いつも、ラントムに意見を聞くようにしていますが、このときも、彼女に、お墨付きをもらい、私は自信をもって、決断することができました。

「次は、こっち・・・、いいかな」
ジャンクセイロンから離れ、バングラーに入ると、露天のお店で、流行の電飾看板が売られています。
「これどうかなあ・・・」
小電球で、「オープン」や、「ウエルカム」と書かれた小さな看板は、とても色鮮やかで、店頭につければ、お客さんの目を引けるかもしれません。
「いいかもね。うん、いいかも」
ここでも、ラントムの決済をもらい(社長ですからね)、GOサインです。

そして店頭には、伸縮可能な屋根を付けることにしました。ブレイクポイントは、西日を、もろに受ける立地にあり、ハイシーズン(12月~2月)の午後は、暑くて店頭テーブルが使えなくなってしまいますから、これで、その問題も解決できるでしょう。

また、バンコクで定宿にしている、ホテルのフロントに置いてあった、プラスティック製の照明フレームも導入することにしました。薄いプラスティック版を、球状のジグソーパズルのように重ね合わせていくだけの単純な構造ですが、部分部分で灯りが洩れてくる量に微妙な差が生まれ、とても優しい感じの色合いとなって、ほんのり、暖かい気持ちにさせてくれます。

それから、ユニフォームも変えることにしました。
私と、ラントムの頭には、バンコクで、よく行くパブのユニフォームのイメージがありました。
ジーンズのボトムに、ネーム入りのポロシャツと、エプロンを付け、お揃いのキャップをかぶります。
「あんな感じでいこう」
「そうね。カッコいいわね」

・内外装に、いくら、お金をかけても、料理の味や、トータルなサービスが整っていなければ、お客は来ない。
・安そうに見えれば、見えるほど、お客は来る。
ここ何年かの間、そんな思い込みが、ずっと私の頭にあり、また、それは紛れもない事実ですが、今一度、原点に返って、お店の内外装を見直していきました。それは、あたかも、枯れ木に花を咲かせるような作業でした。

そして最後に、
「やっぱり、レストランは味だ。営業が、パッとしないのは、もしかしたら、料理(の味)が崩れているのかもしれない」
と連日、ラントムと交代で厨房に入り、一品、一品、味を確認していきました。
「うちは、3つ星レストランじゃないから、びっくりするほど美味しい料理を出す必要はないんだけど、平均値を守ってちょうだい。誰が作っても、誰が食べても、70点~80点は取れるような感じで、やってちょうだい」
オーナーが突然やる気になり、連日、頻繁に厨房に入ってこられるというのは、働いているコックさんたちにとっては、非常に煩わしいことのようで、それが何となく、私にも判りましたから、ずいぶん気を使いながら、作業を進めていたと思います。

すべては模倣から始まるといいいますが、私とラントムは、2人で相談して、いろいろなお店の、いろいろな部分を、片っ端から、パクっていきました。
そして、毎日、ちょっとずつ、ちょっとずつ、お店が微妙に変化していくうちに、いつの間にやら、集客力が大きくアップしていました。

スウィートが復活しなければ、10月にボロ負けしなければ、この上昇はなかったでしょう。
サウスロードで利益が出るようになったときもそうでしたが、今回の件は、
ピンチとチャンスは、表裏一体
ということを、改めて、強く感じさせてくれる出来事でした。
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by phuketbreakpoint | 2009-12-14 10:34

天を仰いで・・・

前回は、マヨムの幼少時の話を書きましたが、あの子に関する思い出では、こんなこともありました。

小学校、中学、高校と、マヨムは勉強がよくできました。
家庭では、特別なことを何もやらなかったにも関わらず、常にトップクラスの成績を維持し、
「今回は、ぜんぜん、ダメだった・・・」
なんて言っているときでも、順位を聞けば、
「4番に落ちちゃった・・・」
なんて答えていました。
同じ小学校に通っていた実子の、なおこと、あきおが1年生のとき、34人中、30番と31番(その後、頑張って、中盤くらいの成績まで浮上)だったことを考えると、見事な数字だったと思います。
母親が同じ、育てられた家庭も同じ、リアン・ピーセド(塾や家庭教師)等を受けなかった条件も同じなのに、どういう理由か成績は、天と地ほどの差がありました(・・・父親の血が原因ですって?んなもん、担任の先生の責任に決まってるじゃないですか!)。

「お医者さんに、なりたい」
あの子に、将来の希望を尋ねると、小さい頃から、必ず、こう答えていました。
小学生の頃、初めて訪れたバンコク・プーケット・ホスピタル(変な名前ですね)の近代的な設備を目の当たりにし、大いに感化されたマヨムは、それ以降、何度同じ質問をしても、答えは変わりませんでした。
「医者になって、きれいな病院で、カッコよく働く」のが、ずっと、あの子の夢だったのです。学校の成績も、落ちることなく、順調に上位を維持していましたから、私も、本人も、
「この夢は、きっと、叶う」
そう信じていました。

そして、何年もの月日が流れ、マヨムは、高校2年の春を迎えようとしていました。
いよいよ、将来に向かって進路を決める時期が訪れたのです。医師になりたいのなら、医学部に進学せねばなりませんが、そのためには、まず理系コースに入ることが最低条件になります。
私は、ラントムとマヨムの3人で、あの子が通うプーケットサットリー校に個人面談に出かけました。
「うちの子は、医学部に行きたいので、理系に進みたいんですが・・・」
私たち夫婦は別段緊張することもなく、当然のことのように、そう切り出したのですが、担任の先生からの返答は予想外のものでした。

「理系ですか・・・・。パヌマー(マヨムの実名)は、理系教科があまり得意ではありませんので、文系コースの方がいいと思います」
一瞬、言われた意味がわからず、しばし沈黙が流れましたが、ようやく話の内容を理解した私は、すぐに思い当たる節が頭に浮かんできました。
しまった、算数か・・・!
確か、あの子が小学校4,5年生の頃でした。
「パパ、算数教えて」
そう言ってきたので教えていたら、基本的な部分が全然分っていません。
「マヨムねえ。3年生の教科書、まだ持ってるか?もう一度、九九から、やり直した方がいいかもしれない」
このときの私の教え方が厳し過ぎたのか、それっきり、「教えて」とは言ってきませんでしたから、私も、すっかり忘れていましたが、あの子は、算数の基礎ができていないまま、中学、高校と進学し、ここまできてしまったようです。

「そうですか・・・、でも・・・、これから・・・」
茫然自失で言葉がうまく繋げず、ショックの色がありありだった私たち親子を気遣ってくれたのか、先生は、
「まあ、どうしてもいうのなら、理系でも構いませんが、相当頑張らないと苦しいですよ」
と言ってくれました。
ここで文系に進んでしまえば、あの子が小さな頃から抱いていた夢が全部台無しですから、
「マヨム、じゃあ、理系にしよう。大丈夫だ。家庭教師も付けてやるし、パパも毎日教えてやる。今から数学の特訓しよう」
往生際の悪い私はネジ込むように、そう言い含めると、強引に理系を選択させてしまいました。

「じゃあ、帰るか」
3人で車まで歩いているときです。ふと、あの子の顔を見たら、頬を涙が流れていました。
「理系でやっていくのは、どう考えても無理だ」
あの子自身が一番分っていたのでしょう。自分の夢が潰えつつある、という無念も混じっていたかもしれません。
「どうした、マヨム。理系はイヤなのか?どうなんだ?やめにするか?」
私も、ラントムも、おろおろするばかりでしたが、あの子は返事をしませんでした。それが、マヨムの答えだったのでしょう。
私は観念し、もう一度先生のところに行って、
「お手数かけて、申し訳ありませんが、やっぱり、文系にしてください」
先生も、
「そうですね。その方がいいかもしれませんね。でも、諦めないでください。文系に入っても、数学の成績が上がってくれば、また、変更できますから」
気休めで、そう言ってくれました。
その後、数週間、私は、マヨムの小学校時代の算数の教科書を引っ張り出してきて、マヨムの家庭教師をするようになりましたが、あの子も、半分以上諦めていたのか、ほとんど熱意が感じられず、いつの間にやら、これも止めてしまいました。

迂闊でした。
あきおが菱和をクビになったときも、強いショックを受けましたが、マヨムの場合は、私がしっかりしていれば、避けられた事態でしたから、なお更、大きな責任を感じました。今回の事態は、親としての、私の怠慢と油断が原因だったとハッキリ言えます
成績の総合順位だけ聞いて、
「1番?ホントか!大したもんだ」
と喜んでいましたが、もっとよく内容を読んでいれば、いくらでも打つ手はあったでしょう。
あの子ほどの知能があれば、私が根気よく教えていれば、あるいは、家庭教師や塾に通っていれば、すぐに算数も追いついて、余裕で医学部に進学できたと思います。


まあ、どこの親もそうだと思いますが、子どもが大きくなるにつれ、
「ああしてやればよかった」「こうしてやればよかった」
と悔いることは多いと思いますが、最近、特に、それを強く感じる私です。

あの子に今、別の夢があるのなら、今度こそ、それを叶えてやるのが、親としての、最後の仕事なのかもしれません。
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by phuketbreakpoint | 2009-12-01 10:38