タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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<   2009年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

ヤマハ恐るべし

9月から始めたピアノのお稽古ですが、その後も、私は飽きることなく、毎日弾いています。
最近は、左手が出す音と、右手が出す音を、演奏しながら聴き分けることができるようになってきました。両手が正確な音を出しているかどうか、確認しながら弾くように努めています。
また、年齢の割には、指は動いているんじゃないかと自己評価していますが、これは男として、長年、指を使って、いろいろなことをしてきた甲斐があったのかもしれません。

何といっても、ピアノの魅力は、美しい音色を、誰でも簡単に出せることでしょう。
例えば、娘の、なおこは中学生時代、バイオリンを習っていましたが、ドレミファソラシドを正確に弾くことができていたんでしょうか。同じことが、サックスや、トランペットなどの管楽器にも言えます。
ピアノの場合、プロが弾こうが、素人の私が弾こうが、ドレミファソラシドだけでは、それほどの大差はないような気がしますし、1音だけなら、互角に勝負できるかもしれません。音の繫がりや、強弱、微妙なタイミングなどに目をつぶれば、誰が弾いても、「エリーゼのために」は、「エリーゼのために」に聴こえるはずです(ただし、弾ければの話ですが)。


10月の中旬、帰国の準備をしていた私には、大きな心配事がありました。
「1週間のオフの間に、ピアノの弾き方を、忘れてしまったらどうしよう」
ということです。
「突然弾けるようになったんだから、突然弾けなくなるかも・・・」
そんな恐れがあったんでしょう。実際、練習中に、急に怖気づいて指が固まり、動かなくなってしまうことが、何度かありました。
「出発ギリギリまで、ピアノを弾き続け、帰ってきたら、すぐに、また練習しよう」
ピアノに触れない空白時間を、できるだけ少なくしたかった私は、呼び寄せたタクシーを裏で待たせ、ピアノを弾き続けていました。

翌日、東京の実家に着いて寛いでいたら、部屋の片隅に置かれた、古めかしいピアノが目に入りました。岐阜に住んでいた頃(3歳~9歳)、当時、県内にあった唯一のデパート、「マルブツ(既に倒産)」で買った、ヤマハ製のピアノです。これを使っていたのは、ほとんど、姉1人ですが、私にも、様々な思い出が詰まったピアノでした。
東京に引っ越してからの姉は、レッスンを受けることはなくなりましたが、高校に上がるまでは、よく弾いていたのを思い出します。
あれから、30年以上、姉が練習する姿も見かけなくなり、ましてや、自分で弾くことなど、あるはずもなく、このピアノは、ずっと眠り続けていました。

「そうか、これで練習できるじゃないか!」
と、一瞬思いましたが、母から、
「捨てるのは、もったいないから、置いてあるけど、あんたこれ、何十年使ってないと思ってるの。もう、音は出ないわよ」
因みに、プーケットで買ったピアノは、メーカーこそ、ヨーロッパですが、製造は中国だといいます。高音多湿のタイの気候が災いしているのか、私が練習を始めてから、わずか2~3週間の間で、2度も調律してもらわねばなりませんでした。

とは言うものの、日本滞在中に練習しようと思えば、これを使うしかありません。
応接間の隅っこで、ソファーの背に囲まれるように、30年以上も眠り続けていた我が家のピアノ。
今や棚のような使われ方をされていて、鍵盤蓋の上には、洋服の束や、縫いぐるみ類が所狭しと置かれています。これらを全部どけて、蓋を開け、私は、恐る恐る鍵盤に触れてみました。
♪ド・・・レ・・・ミ・・・ファ・・・
「おっ!」
ちゃんと音が出ます。しかし、全音鳴るんでしょうか?
いや、全音なんて無理でも、中央部の、3オクターブだけ、それっぽい音が出てくれれば十分です。多少の音ズレくらい、我慢しましょう。
私は、再び鍵盤に指を乗せると、ドから、順番に1音ずつ下がっていきました。
♪ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・シ・ラ・ソ・・・・
最低音のラまで、正確に音が続きます。
「こっちは、どうだ・・・」
今度は、1音ずつ上がっていきました。
♪ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・・・・
最高音のドまで、4オクターブ、まったく乱れません。
「凄い、ぜんぜん、(音が)狂ってないぞ!」

母に聞くと、
「確か、東京に引っ越したとき(1971年の春)、調律師さんに来てもらい、一度だけ、見てもらったことはあったけど・・・」
後は記憶にないそうで、80年代に、家を新築したとき、引越しで動かしていますが、そのときにも、何もせず、このピアノは、38年間、まったく手付かずの状態でした。
ソファーをずらし、窮屈でない位置まで椅子を下げ、高さを調節して、私は、ピアノに向かいました。
「じゃあ、ボクの腕前を、見せてあげましょう」
私は、もったいぶって、母に、こう言うと、18番の、「メヌエット」(3曲しか弾けないんですが)を演奏しました。

うちにあるピアノと比べ、サイズが、わずかに小さく、音質も、高音がかって(ちょっと、金属的?)、微妙に音色が違いますが、独特の弾きやすさがあります。
1音1音、正確に弾かねばならない初心者の練習(特に子ども)には、こちらの方が向いているかもしれません。

母も、30数年ぶりに音を出したピアノを、じっと聴いていました。
虎の子の3曲を弾き終えてしまうと、私には、もうレパートリーが残っていませんでしたから、また、最初の曲に戻りましたが、母は、何も言わずに聴いてくれました。今年1月に死んだ姉のことを、思い出しているのかもしれません。
ここで、ピアノを弾いているのも、姉の魂が、私に乗り移って(?)、母に聴かせているのかもしれません。

今回の帰国目的の1つだった、姉の遺作展(10月9日から14日)は、盛況のまま、無事終わりました。驚くほど、多くの方に見に来ていただき、姉も、きっと、草葉の陰で喜んでいることでしょう。
恐らく今後、姉の作品が一般の目に触れることは、もうないと思います。このピアノと同じように、家の片隅で、じっと眠り続けることになるのでしょう。

姉や、絵のことを忘れてしまわないように、私は、これからも、ピアノを弾き続けます。
そして、母が生きている限りは、私の手で、ピアノを聴かせてやろうと思っています。
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by phuketbreakpoint | 2009-10-28 10:04

痛恨3

2005年4月、神明中学の入学式が終わり、いよいよ、日本での中学生・生活がスタートした、あきおを、東京の実家に残し、プーケットに戻ろうとしていた私は、出発前、別室で眠っている、あきおの顔を見にいきました。
時刻は、午前4時半ごろ、外は、まだ真っ暗で、あきおは熟睡していましたが、私は、あの子の頭を何回か撫ぜながら、
「がんばれよ、あきお」
と呟いていました。ラントムの反対を押し切って、日本まで、あの子を連れてきたのは私ですから、寂しさを口に出すことはできませんが、様々なことを犠牲にして、あきおの日本行きは、実現したと思います。数日前、プーケットの空港まで、あきおを見送りに来た、ラントムの涙は、今でも忘れられません。


「なおこ、何か欲しいものや、やりたいこと、食べたいものは、もうないか?」
なおこと合流した翌日、私たち親子は、高知市内の大型ショッピング・モールで、時間を過ごしていました。
菱和に一人で残る、なおこを少しでも元気付けてやろうと、私は考えていたのですが、あの子は、むしろ、あきおのことを心配しているようで、
「うん、大丈夫。早く、あきおの次の学校が、見つかるといいね」
入学式直後には、寂しさから、泣いてプーケットまで電話をかけてきた、なおこも、すっかり、こちらの生活に慣れたようで、ずいぶん逞しくなったものだと感心しました。
「じゃあ、そろそろ戻ろうか」
なおこを菱和の女子寮まで送り届けた後、高知駅に戻って、レンタカーを返し、私と、あきおは東京行きの夜行バスに乗りこみました。
いよいよ、明日から、本格的な学校探しの始まりです。

「あきおは、これから、どうしたいんだ?日本で勉強するのか、それとも、タイに帰りたいのか・・・」
三年半前は、私が、あの子の道を決めましたから、今度は、あきおに好きな道を選ばしてやろうと思いました。
「日本に、残りたいんだけど・・・」
あきおは応えます。
日本の生活に、すっかり溶け込んだ、あきおにとって、プーケットに戻るという選択は、あまり魅力がないのでしょうか。
「わかった。じゃあ、パパは、日本の高校を探してみるけど、贅沢は言えないぞ。今の、あきおを入れてくれる学校は、そうはないからな。あきおも、友達に電話でもして探してくれ」

日曜日だったので、バスは予定よりも早く新宿に到着し、七時過ぎには、西荻窪の実家に戻ることができました。
せっかく入った高校生活を、こんな形で終わりにしてしまい、ずっと、あきおを援助してくれた父や母には、会わせる顔がありませんでしたが、これも親である私の責任です。
「本当に、すいませんでした」
あきおと二人で頭を下げ、今後のことを説明したのですが、以前なら、間違いなく、激怒したであろう父も、孫のことだと遠慮があるのか、それとも、年をとったのか、妙に物分りが良くて、ちょっと心配になりました。

朝食後、私は、さっそく駅前のネットカフェに行って、インターネットで調べてみることにしました。
「高校編入」で検索すると、以外に多くの情報が載せられています。

北海道、北斗高校(仮名)。
あのヤンキー先生で有名な私立高校で、寮があります。
不登校の生徒も、積極的に受け入れている学校だそうですから、あきおも入れてくれるかもしれません。
しかし、先生からして、ヤンキーなんですから、もしかしたら、生徒はヤク○?
もちろん、真面目な生徒も多いでしょうが、この中に、あきおが入れば、当然、そうじゃない仲間と吊るむことになるでしょう。

有志舎高校(仮名)。
ここは、すぐにでも入れてくれそうなことが書いてありますが、寮がありません。
私の両親に、再び迷惑をかけるわけにもいかず、かといって、一人で下宿させるのも無理があります。
ウェブサイトが、やたら明るい雰囲気なのも、逆に心配です。

秀俊学園(仮名)。
全寮制ですが、レベルが高そうです。
問題のある子を寮に集めて・・・・という学校ではなく、通学時間も惜しんで、24時間、びっしり勉強漬けにしようという趣旨のようです。
クラブ活動も、1年生のみで、受験勉強一筋という高校です。
これじゃあ、あきおは付いていけませんし、間違っても、入れてくれないでしょう。

もっと、偏差値の低いところは・・・・。
あっ、ありました。
仲恭高校(仮名)。
しかし、ここは通信教育がベースのようです。校舎は一応あるようですが、出席は取らず、欠席しても問題はないそうです。生徒の自主性に任せる方針だと思いますが、こういうところの方が、自己管理を求められ、むしろ卒業は難しいのではないでしょうか。

ネットでの検索以外でも、思い当たる人に電話したり、以前、お世話になった学習塾の先生に相談したりしましたが、これといった情報を手に入れることはできませんでした。
どの学校も、思春期の子どもの教育という重荷から開放されたい親にとっては、都合のいい所のようにも思えますが、今のまま、あきおを、こういった場所に押し込んだところで、きっと、同じような結果になってしまうことでしょう。
探せば、探すほど、どんどん視界が狭まっていくような状態でした。

「どうすればいいんだ・・・・・」
完全に行き詰っていたとき、プーケットのラントムから、電話がかかってきました。
「パパ、プーケットの学校は、なんか、入れてくれそうな雰囲気よ。今、知り合いの先生に聞いてもらってるところなんだけど・・・」
タイの教育制度の中では、小学校卒で日本に行った、あきおは、中1から、やり直さねばならないと思っていましたが、どうも、中4(タイは中学6年制)からでも大丈夫なようです。
「プーケットには、戻れない」
そんな先入観もあって、日本残留一本に絞って進路を探していましたが、もしも、高一から入れてくれるのであれば、選択肢は一気に広がります。

あきおが赤ちゃんの頃から、私が、この子に望んでいたことは、
“自然な日本語が話せるようになってほしい”
というものでした。あの子を日本に送り出したときも、それが最大の目的だったはずです。
今回は、こんなことになってしまいましたが、そのおかげで、高知でも、東京に戻ってきてからも、あきおとは、じっくりと話をすることができました。会話は、全部日本語でした。
あの子は、私の話を聞いて、理解し、そして尋ねてきます。そんな、ごく当たり前に思えるようなことでも、四年前、プーケットで、あきおと、なおこの日本語教育に限界を感じていた私にとっては、夢のような話でした。
自分の子と、自分の言葉で、自然に話し合えるというのは、なんと素晴らしいことなのでしょうか
当初の目的は、ほぼ達成されたのかもしれません。
ならば、無理をして、あきおを日本に留めておくよりも、いったん引いて、体制を立て直し、もしも、あの子が望むのなら、もう一度、日本に送り出してやった方が、遥かに賢明かもしれません。

「あきお・・・、いろいろ探してみたんだけど、なかなか、いい学校が見つからなくてなあ・・・」
あきおの希望を叶えてやれず、申し訳ないような気持ちもありましたが、ここは今一度、私自身の責任に於いて、決断すべきだと思いました。
「もしかしたら、プーケットの学校に入れるかもしれないんだ。日本で、よく内容がわからない学校に行くよりも、あっちで勉強した方がいいように、パパは思うけど、あきおは、どう考える?」
と、私が聞くと、
「うん、それでもいいよ」
あの子が、そう言ってくれたので、プーケットに帰ることにしました。
高知から、親子二人、傷心で東京の実家に戻ってきたときには、帰れる場所がある有り難味を実感したものですが、私と、あきおには、もう一つ、迎えてくれる場所があったのです。

「ところで、あきお・・・」
進路は決まりましたが、今回の旅の間、ずっと気になっていたことを、私は、恐る恐る(?)、あの子に聞いてみました。
「日本に行って、良かったと思うか?」
すると、あきおは、深く考えることもなしに、
「うん。良かったと思う」
すぐに、返事を返してきました。
ホッとしました。
親元から離れ、辛いことも、あったでしょう。人には言えない、悩みもあったかもしれません。今回も、出発前には、ぶん殴ってやるか、と思っていた私でしたが、それを考えると、あの子が可哀想になってきました。
親兄弟と一緒に過ごせたはずの、失われた時間を、遅まきながら、あの子に返してやれるかもしれません。ラントムにも、三年半前に、私が奪った息子を返してやりましょう。

10月31日夕方、
私と、あきおは、プーケットに戻ってきました。
学校をクビになったというのに、ラントムは、実に嬉しそうな笑顔で、あきおを出迎えていました。
正直な話、日本に残るにしても、プーケットに帰るにしても、それが、あきおにとって、ベストの選択であるという保証は何もないわけですから、ギャンブルといえるかもしれません。
しかし、日本語の習得という、当初の目的が達せられた今、表か裏か、どちらか一方に貼らねばならない博打なら、私は、プーケットを選びたいわけです。
あとは、サイコロの目が、こちらの希望通り、転がってくれることを願いましょう。

“もしも、逆目に出てしまったら・・・・”
そのときは、辛抱しながら、気長にサイコロを振っていれば、いつかは、ツキも変わりますよ。
それに必要な時間は、有り余るほど、この島が与えてくれるんですから。
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by phuketbreakpoint | 2009-10-21 12:26

痛恨2

プーケットから、クアラルンプール経由で東京に戻った私は、一旦、実家に戻って時間調整し、夕方のJRバスに乗り継いで、夜行で高知に入りました。
「みなさま、お疲れ様でした。まもなく、終点の高知駅でございます。お忘れ物のないように・・・・」
小雨の降る中、バスは駅の敷地内に入っていきます。私の気分を、そのまま映したような、実に冴えない天候でした。

駅でレンタカーを借りて、すぐに菱和高校に向います。
市内を離れ、山間部を抜けると、海が見えてきました。晴天なら、プーケットに負けないほどの青さを誇る海岸線の景観も、この日は、ドロンとした雨雲の下、土佐の海は、大きく波立っていました。二年前、山村留学の視察で、初めて四国を訪れて以来、この道は何度も通りましたが、これほど憂鬱な気分だったことは、一度もありませんでした。
「300m先、左折です」
進路変更を知らせるアナウンスが、カーナビから流れ、画面には、目的地までの時間が表示されています。
「このまま、ずっと着かなければいいのに・・・・」
そんな思いも空しく、車は、どんどん進行し、表示時間も次第に少なくなっていきました。

市内から、約一時間、菱和に着いてしまった私は、車内で、もう一度髪を整え、服装を直し、事務局のある建物に入っていきました。
「あのー、日本語クラス1年、西岡の父ですが・・・」
会議室で待たされること、約5分、初視察の時以来、ずっと、お世話になっている湯口先生(仮名)が入ってきました。
「ご無沙汰しております。あきおの件、本当に申し訳ございませんでした」
私の言葉を受けて、湯口先生は、
「今回は、残念なことになりました」
いつも笑顔の湯口先生ですが、このときは厳しい表情で、一言そう言うと、次の言葉が出てきません。私は、この時点で、微かに残っていた希望を捨てざるを得ませんでした。
湯口先生の様子から見て、並々ならぬ処分が、既に下されていることは明らかでしょう。
「なりました」
という過去形が、ずっしりと私に覆い被さってきました。
(やられたな・・・・。もう、駄目だろう)
私は覚悟を決めていました。

湯口先生の車で職員室のある別館に向い、応接室に通されました。
教頭先生、生活指導の先生、所属クラブの顧問の先生から状況説明を受けていたら、あきおが部屋に入ってきます。私が来ることは知らされていなかったようで、明らかに動揺している様子でした。
あきおが、自分で書いた調書も見せてもらいました。
「先生の話に、間違いはないんだな」
私が尋ねると、あきおは、
「うん」
と返事をします。

教頭先生は、そろそろ潮時だと思ったのか、改まって姿勢を正すと、厳しい表情で目を伏せながら、
「今回は、真に残念なことではありますが・・・・」
これから自分が何を言おうとしているのか、私に悟らせるためなのか、まるで素振りを繰り返すかのように、何度も同じ意味合いの前置きを並べた後、
「退学処分とさせていただきました」
はっきりと、そう言い切りました。


完全にアウトです。
もともと、「危ないのでは・・・」と感じていました。あきおには、受験前にも、入学前にも、そして入学後にも、何か問題が起こった場合、
「クビになるからな。そうすれば、パパの苦労も、ママや、おじいちゃん、おばあちゃんたちの期待も、何もかも、全部パーになっちゃうからな。もちろん、お金もだ」
何度も警告していました。
教頭先生の判決を聴いたとき、何か言葉を返すべきだったのかもしれません。異議を唱えるなら、ここでするしかないのです。

しかし、一言も出てきませんでした。
湯口先生、教頭先生、その他の先生方の表情や様子からも、減刑を求めても、それが無駄であろうことが、はっきりと読み取れました。
「・・・・・・・・・・・・(数十秒間を置いて)分りました。ご迷惑をおかけしました」
私は、この言葉を搾り出すと、担任の先生に、
「なおこのことは、くれぐれも、よろしくお願いします」
と言葉を続けました。私は、これで菱和との縁が切れるわけではなく、一人残される、なおこのことも、心配しなければなりません。

しばらくして、なおこが応接室に呼ばれて入ってきました。ちょうど、この日は中間テストだったようで、
「どうだった、試験は?」
私が声をかけると、
「うーん・・・・。難しかった」
なおこは、答えます。

入学式直後の4月上旬、なおこから国際電話がかかってきました。
「パパ、寂しい・・・・」
それだけ言うと、あの子は黙ってしまいました。
中学の3年間、日本で暮らしていた、あきおと違い、なおこには、人里離れた山奥での寮生活は、ずいぶん寂しいものに感じたことでしょう。受話器の向こうで、はっきりと泣いているのがわかりました。私も、ラントムも、ラントムのお父さんも、お母さんも、みんなで代わる代わる電話口で、あの子を励ましました。
その三ヵ月後の7月、期末テストの結果が出た日に、また、なおこから電話がかかってきました。
「テスト、駄目だった。頑張ったんだけど、駄目だった・・・」
再び涙声で、言葉を詰まらせていました。

そんな、なおこの言葉の、一つ一つが思い出されてきたのか、突然、胸に、こみ上げてくるものを感じた私は、
「そうか、難しかったか・・・。でも、そうやって・・・、少しずつ頑張っていけば・・・・・・・・・・・・」
何とか言葉をつないで、体裁を保ちたかったのですが、なおこの顔を見ていたら、迂闊にも、涙が溢れてきて、言葉になりません。私の様子に驚いた、なおこの目からも、涙が流れていました。
問題を起こした、あきおではなく、なおこの顔を見て、どうして、そうなってしまったのか、自分でも不思議でしたが、荷物を、纏めるために寮に戻っていた、あきおには、これを見られずに済みました。

私たち父娘に気を使って、席を外してくれた先生方が、しばらくすると部屋に入ってきました。
「それでは、こちらの書類に・・・」
最も言いにくいことを、言い終わって、教頭先生も気が楽になったのか、後は極めて事務的な対応でした。
少し経つと、あきおが荷物と共に戻ってきます。持ち運べない物や、棚、スタンドなどは、友達に譲ってきたようで、大小会わせて、4つほどのカバンが、あきおの脇に置いてありました。
入学時に苦労して、数日がかりで買い揃えた、学用品、必需品も、去り行くときには、わずか数分で、すべて処分できてしまうのです。
受けた処分の過酷さを、改めて、思い知らされました。
湯口先生、担任の先生に見送られ、私と、あきおは車に乗り込み、菱和を後にしました。

「パパ、ごめんなさい」
帰る途中、無言だった私に、あきおが謝ってきました。いつになく、神妙な顔つきです。この子も、この子なりに、事の重大さに気付いたのかもしれません。
友達と一緒に、軽い気持ちで手を出してしまった遊びが、まさか、こんな大事に至るとは、思ってもみなかったでしょう。仲間と3人で、やったことですが、発覚したのは、あきお一人で、結局、最後まで口を噤んで、友達を庇っていたようです。
プーケットの自宅を出て以来、あきおと、どんな態度で接するべきなのか、ずっと考えていましたが、このときの私は、まだ心の整理がついておらず、しかも、涙を見せてしまった後でもあったので、あの子を責める言葉は出てきませんでした。
「・・・・・・・・終わったことは、仕方ない。・・・・ただなあ、あきお・・・・・、もっと、強い男になってくれよ・・・、身も、心も」
私は、自分自身の少年時代の話も交えながら、あきおに、どんな人間になってほしいか、あきおが今、何をすべき(だと私が考えているの)か、それに対する答えを、自分自身の頭で、よく考えてほしいことなどを、車内で話し続けました。
あきおは、それを、じっと聞いていました。

恐らく、あきおは今後、二度と菱和を訪れることはないでしょう。
しかし、私は、そうはいきません。ここには、まだ、なおこが残っているのです。この夜は、市内のホテルに泊まって、翌日、中間試験が終わる、なおこと合流することにしました。
「あきお、お前も飲むか?冷蔵庫に、ビールとチューハイが入ってるから、好きなの飲めよ」
退学処分を食らった直後だというのに、息子に酒を飲ませて、よいわけはありませんが、このときは何故か、あの子に飲ませてやりたいという気持ちになりました。大人になって、何か大きな困難に直面したときに、私と一緒に飲んだ、苦い酒の味を、思い出してほしいと思いました。
「今夜は、酒でも飲まなきゃ、やってられないよ。やけ酒だ。パーっといくぞ。
明日からのことは、明日、また考えよう。
いや、明日は、なおこと合流するんだから、やっぱり、明日も、パーっといくぞ、パーっと・・・」
今後のことを考えると、ますます憂鬱になってきますから、タイ人を見習って、とりあえず、今夜は問題を先送りすることにしました。

初めての親子酒で、缶ビール片手に、ベッドの上で、テレビを見ながら、くつろいでいたら、三日分の疲れが、どっと襲ってきます。
「ママには、明日電話しよう。何を喋るか、考えとけよ」
私は、あきおに、そう言うと、ベッドの脇にある小机にビールを置いて、瞼を閉じました。
(でも、本当に、これから、どうするんだ・・・・。とりあえず、何をすればいいんだ・・・・・・)
大きな疲労感の中で、再び頭に憂鬱が舞い戻ってきました。

この話、また続きます。
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by phuketbreakpoint | 2009-10-14 12:07

痛恨

高知県・菱和高校(仮名)に、県外専願受験で、どうにか、もぐり込んだ、あきおと、なおこの2人は、桜の花が咲き乱れる、2008年4月、誂えたばかりの制服に身を包み、入学式を迎えていました。
「なおこ、よく似合ってるわよ」
「あきおも、しっかり、頑張ってね」
立派に成長した子ども達の晴れ姿に、母であるラントムも、とても満足そうです。
「2人とも、かっこいい!」
妹の、きよみも、そんなことを言って、兄や姉を冷やかしていましたが、2人が自然に恵まれた高知の地で、勉強に、スポーツに、大いに励んでくれると、私も信じていました。なおこと、あきおの学生生活は、前途洋々だったといえるでしょう。


「あのー、わたくし、菱和高校で、あきお君の担任をしている・・・」
半年後の10月21日、高知から国際電話がかかってきました。
「実は・・・、あきお君に、問題が起こりまして・・・」
4月の入学以来、厳しい校則を守らねばならない、菱和での生活に
「果たして、あの子が、耐えていくことができるのか?」
ずっと、私は心配していましたが、それが現実となってしまったようです。
(あきおは、一体、何をやらかしたんだ・・・)
スーッと、全身から血の気が引いていくのを感じつつ、私の脳裏には、考え得る、様々な違反行為が浮かんできました。

“酒、タバコ”
これは、一番考えられるケースです。男の子なら、一度は、通る道なのかもしれません。
大人の真似をしたくて、やってみたくなる、その気持ちは、わからないでもありませんが、せっかく入った高校生活を、そんなことで棒に振るとしたら、なんと愚かなことでしょうか。

“寮生活が嫌で脱走”
これも、想定内の話です。
菱和では、寮生活に耐えられず、脱走を試みる者が、毎年必ずいるそうですが、未だかつて、学校関係者の追跡、検問の網を破って、逃げきった者は、いないと聞きます。山道で、ギブアップするか、駅や、空港で張っていた先生に捕まって、連れ戻されるそうですから、
「逃げも逃げたり、数千キロ。高知の山奥から、プーケットまで、見事逃走してきた!」
というのなら、学校史上初の快挙ですから、
「お前、よく、戻ってこれたねえ・・・」
怒るよりも、私は、大いに感心したことでしょう。どうせ処分を喰らうなら、聞いた人を、唸らせる(?)ようなことをやってほしいものです。

“女子寮に忍び込んで、好きな女の子に夜這いを敢行し、現行犯で捕まった”
これも、学校創立以来の不祥事でしょうが、父の夢(?)を実現した、見上げた息子と言えなくもありません。
「バカ野郎、なんちゅうことをしてくれたんだ・・・・。でも、お前も、なかなか、根性あるんだねえ」
もしかしたら、肯定的な評価をしてしまうかもしれません。

ところが、この日の電話は、そんな感心するような内容ではありませんでした。
“ガスパン”
スプレー式の調理用ガスを、ビニール袋に入れて吸引する遊びが、今、中高生の間で、密かに流行っているそうです。酒や、タバコを未成年者が購入するには、ある程度、監視の目を潜る必要がありますが、調理用ガスには、なんの規制もありません。
子どもにとって、簡単に手に入る、お気軽な刺激物といったところなのでしょうか。

昔は、不良には、不良なりの美学というものがありました。
私の周りにも、“愛すべき、バカな不良”が何人もいました。
“喧嘩に強くなって、女の子に、モテたい”
そんな単純な思いから、極真空手を始めたものの、いつの間にやら、ハマってしまい、練習に障るという理由から、自慢のリーゼントも、バッサリと切って、ますます、女にモテなくなってしまった者。

ナンパに明け暮れ、複数の女の子に手を出してきたくせに、本命相手だと、まるで、だらしがなく、いつも、「さん」付けで呼んでいるうちに、結局、手も握れないまま、自動消滅してしまった者。

憧れだった、オートバイを手に入れ、スペクター(デーブではありません)に入団し、毎週末の暴走行為で、
「オレは、命を賭けて走ってるんだ!」
と、言っているうちはよかったのですが、走行中に転倒し、後ろから追走していた仲間の乗用車に刎ねられ、ひき逃げされ(気が動転して、逃げてしまったようです)、救急車も呼んでもらえず、実際に命を失ってしまった者。

こんな男たちでも、それなりの美意識を感じさせてくれたものです。
ところが今回、あきおの問題を先生から聞いたときの私は、そんな美しさは、微塵も感じることができませんでした。
「なんで、あんな、つまらんことを、やったんだ?」
数日後、あきおの口から動機を聞くと、
「タバコが買えなかったんだ・・・」
現在の日本国では、未成年者がタバコを吸おうにも、なかなか手に入らない時代になってしまったようですが、それにしても、冴えない話だと思いました。

「ご足労ですが、すぐに、高知まで来てください」
依然として状況が、よく理解できなかった私は、
「来週、行く予定なんですが、それでは駄目でしょうか?」
と、聞き返しましたが、先生の返事は、
「いえ、すぐに、来ていただきたいのですが・・・」
有無を言わさぬものでした。一週間が待てず、プーケット在住の私に、「すぐに、来い」というのですから、学校側は、かなり重大な決意があるということでしょう。
電話を切り、私は、すぐにツアーデスクに連絡を入れ、国際線の予約を変更し、国内線の予約も、ホテルの予約も、全部キャンセルして、支度にかかります。バッグに着替えや、貴重品を詰め込みながら、
「バカだなあ・・・、本当に、バカだなあ・・・・」
なんとも情けなくて、そんな言葉が、何度も口をついて出てきてしまいました。

「パパ、チャイ・ジェン・ジェン(冷静に)ね。カッとなって、闇雲に(あきおを)、怒ったりしたら、駄目よ。お願いだから、冷静に・・・」
何度も、何度も、すがり付くように念を押す、女房のラントムに見送られ、私は、夕方、タクシーに乗り込みました。
“ゆったりと、大き目の柵を作っておいて、その中で、放し飼い”
これが、私の教育方針でしたから、子どもたちが柵の中に留まっている限りは、多少のことは、大目に見てきました。
しかし、その柵を越えて、出て行こうというのであれば、力づくでも、押し止めておかねばなりません。
“事と場合によっては、ぶん殴ってやろう”
そんな思いを胸に、私は車に揺られていました。

この話続きます。
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by phuketbreakpoint | 2009-10-05 10:49