タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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ある日、突然

「いいところに、連れてってあげる」
子どもの頃、母親に、こう言われ、連れていかれた場所は、「いいところ」だった例がなく、英語教室や、お絵かき教室等、やりたくもない、お稽古ごとを無理やりやらされることになるわけですが、そんな一つに、ピアノ教室がありました。
「あー、いやだ、いやだ。なんで、オレがピアノなんか・・・。早く終わらないかなあー。野球やりてえ・・、虫獲り行きてえ・・・、あー、いやだ、いやだー!」
当時、岐阜県に住んでいた私は、近くの野原や、山で走り回ることが大好きな少年でしたから、薄暗い室内に閉じ込められての楽器練習など、苦痛以外の何物でもなく、
「こんなもんは、男のやることじゃねえ」
と、レッスンがある度に、いつも飲んだくれのオヤジみたいな心境になっていたのです。
ですから、練習用テキストの一冊目である、「子どものバイエル(赤)」が終わって、「黄」に入り、ちょっと、難しくなってきたら、
「もう、やめだー!」
と、すぐに投げ出して、仲間の待つ校庭に走っていってしまいました。
後悔なんて、まったくなく、
「あー、清々したー!」
という気分でした。

その後、小学校6年のときに、ビートルズに熱中し、中学生になって、ハードロックに目覚め、高校時代には、同級生がバンドのメンバーとして、レコードデビューしたりしましたが、自分で楽器をやろうなんて思ったことは、一度もなかったと思います。
「楽器ができたら、さぞや、女にもてるんだろうなあ・・・」
という憧れはありましたが、そういった不純な動機では、後々、襲ってくるであろう練習漬けの日々に耐えられるとも思えず、
「まあ、止めといた方が、無難だろう」
と、諦めてしまうのが常でした。
「できる」「できない」という以前に、練習するのが面倒くさかったのです。
ピアノも、あれ以来、触ったことも、ほとんどなく、楽器とは無縁の生活を、何十年も続けていましたが・・・。


ハイシーズンも終わろうとしていた、今年3月、末娘のきよみに、ピアノを買ってやることにしました。
「夢見たい!パパ、ママ、ありがとう!」
本当に、嬉しそうな表情で、毎日、せっせと、ピアノを磨いている、きよみの姿を見ていると、2年前、ピアノ教室での初レッスンを終えて、
「きよちゃん、おもしろかったあー!すっごーく、面白かったあ!!」
車に駆け込んでくるや、目を輝かせて、興奮気味に、そう言った姿が思い出されます。親にとって、我が子が純粋に喜んでいる姿ほど、心が和み、幸福感を味わえるものはありません。

しかし、1ヶ月を過ぎる頃になると、あの子も、だんだんと飽きてきたのでしょう。ホコリを被ることも多くなり、練習量も、ホコリに反比例して、どんどん、少なくなっていきました。
「せっかく、買ってやったのに、やっぱり、3日坊主、いや、一ヶ月坊主だったか・・・」
椅子に、ぼんやりと腰掛け、ピアノを眺めていた私でしたが、この日は、何か思うところがあったようです。
「もしも、ピアノが弾けたなら」
1980年代に、こんな歌が流行りましたが、40年前、自分が半年でピアノを投げ出したことなど、すっかり忘れて、50歳に手が届くような年齢になった今、私は無意識のうちに、指を鍵盤の上に乗せていました。

きよみの練習曲、「メヌエット」は、どんな人でも一度は聴いたことがあると思いますが、ピアノ教室で、先生のお手本を耳にしたときは、ジーンと心に響くものを感じました。
「ああ、なんて、美しいメロディーなんだろう・・・。きよみも、とうとう、こんな曲を練習するようになったのか」
例えば、朝、きよみに、この曲を弾いてもらえば、その日、1日分の活力を貰えそうな気がしますし、夜、寝る前に聴けば、1日の疲れも、たちどころに消え去るように思えます。
そんな優雅な日々を、夢見ていたのですが、
「きよみ、練習は終わったのか?」
こう私が聞かない限り、自分からは、決して練習しようとしない、きよみは、数週間経っても、一向に、この曲を終わらせることができませんでした。

「あー、やっぱり、夢は夢のまま、終わるのか・・・」
そんなことを思いながら、私は指を動かしていました。一つ一つ、音を確認しながら、右手で、なぞるように鍵盤を敲いていると、次第に、メロディーラインが、はっきりしてきます。
「まあ、曲にはなってるな」
とは思いましたが、片手で弾くだけなら、子どもの遊びと大差ありませんから、
「ここに、左手を合わせられないものか・・・」
ふと、そう思いました。

左手を鍵盤に乗せると、私は、恐る恐る、手探りするように右手の流れに、左手の指を合わせていきました。
音楽の成績は、中学の3年間を通して、ずっと、1でしたから、楽譜なんか全然読めませんが、人間やる気になったら、できるものです。
「えーっと・・・、ここが、レだから、2音下がって、シか・・・」
のろのろと、歩くようなスピードでしたが、ところどころ、音が微妙に重なって、なんだか、本当にピアノを弾いているような気分になってきます。弾き進んでいくうちに、どうにか、キリのいいところまで、たどり着くことができましたが、それを何度か繰り返していると、だんだん、それっぽくなってくるのが自分でも分りました。こうなると、もう、止まりません。
「もっと、早く」
「もっと、自然に」
どんどん、のめり込んでいく自分に驚きながらも、私は、音合わせの作業に没頭しました。

ポロン、ポロン、ポロン、ポロロン・・・・、
「弾ける!ピアノが弾ける!指が動いてる。オレの指が動いて、この音を出してる・・・」
そう思うと、もの凄い快感を覚えました。
SEXとは違う、酒や薬物とも異なる、何とも、いいようのない気持ちよさ!
1つ1つの音が、心の奥底に、ジンジンと響いてきます。そして、その響きが、私の大脳を心地よく刺激して、今までに感じたことのない陶酔を味わうことができました。完全に、はまってしまったようです。

気がつくと、ずいぶん時間は経っていましたが、ちょうど、ラントムが3階から降りてきたので、
「どう、ママ?なかなか、上手じゃない?」
自惚れながら、こう尋ねると、
「ええ、上手、上手。けっこう、弾けるじゃないの」
と彼女も言ってくれます。初心者には、こういった煽てが、大切なんでしょう。それに乗せられるように、さらに、私は練習を続けました。

2時間以上弾いていたでしょうか。さすがに集中力がなくなって、ぐったりしてきましたから、そこで止めましたが、2、3時間休んでいるうちに、ムクムクと、またピアノに手が伸びてしまいます。
不思議だったのは、ボロボロ状態で、ニッチも、サッチも、いかないような難しい箇所でも、休憩を挟んだり、一晩寝て、翌朝、また、やってみたりすると、すんなりと、クリアできてしまうことです。休んでいる間に、混乱した脳と神経が整理整頓され、指が動いているのかもしれません。

結局、4日間ほど、こんな調子で、ピアノと格闘していたら、「メヌエット」が、どうにか最後まで弾けるようになり、さらに、4日ほど弾き込んでいると、かなり、自然な感じで、メロディーが流れるようになりましたが、やはり、注ぎ込んだ集中力とエネルギーは甚大だったようで、2日間ほど、強烈な脱力感に襲われて、寝込んでしまいました。
猿に自慰行為を教えると、死ぬまで、やっているという話は聞いたことがありますが、フラフラになるまで、ピアノを弾いている私は、差し詰め、そんなところかもしれません。
この年で、ピアノを始めて、一週間で、ここまでできるなんて、自分でも驚きましたが、ある日、突然、やる気になり、ある日、突然、私はピアノが弾けるようになっていました。


「ブタも煽てりゃ、木に登る」
というのは、無理なことに、チェレンジしようとする人を、バカにするための言葉だと思っていましたが、頑張りようによっては、ブタでも、木に登れるということが、よく分りました。
せっかく、登りかかった木です。
このまま、ずっと練習を続け、いつか、きっと、ショパンの「夜想曲」を弾いてやろうと、私は思っています。

(なんでもいいけど、きよみ。パパが練習して、どうするんだ!もっと、真剣にやれ!)
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by phuketbreakpoint | 2009-09-25 10:56
2006年7月、
補習校の保護者数名と、「山村留学研究会(?)」を結成した私は、せっせと情報を集めるようになりました。
長男のあきおは、すでに前年から日本留学を果たし、会話だけなら、他の子らと、ほとんど遜色のないレベルまで達してきましたから、後は、なおこをどうするかです。
「もう1人だけ、面倒みてちょうだい・・・」
母には、何度も、お願いしましたが、
「なおこ?そんなことより、あきおを何とかしなさい。わたしゃ、もう疲れたよ」
返ってくる返事は散々なもので、とても、これ以上の負担を親にかけるわけにもいきません。姉や親戚たちにも、お願いしてみましたが、結局、話は実現しませんでした。

山村留学には、
“都会から離れ、大自然の中で、のびのび子どもを育てる”
といった、「いかにも」な表看板がある一方で、過疎化に悩む地方の学校が、何とか生き残りを図ろうと、苦し紛れに考え付いた、「生徒集め」の奥の手という本音も見え隠れしています。しかも、
「毎学期、保護者会や運動会等のイベントには、必ず出席してください」
「中学3年生は、お断りします(受験指導が大変ですし、実際、勉強が遅れることも多いようで、その責任を回避したいようです)」
いろいろと条件をつけられ、なかなか、都合の良い場所は見つかりません。北は北海道、最果ての稚内から、南は南西諸島の島々まで、ネット検索で引っかかってくるところは、手分けして全部調べてみましたが、そんな中から、どうにかリストアップできたのが、次の3ヶ所でした。
・四国、愛媛県伊予郡、砥部町山村留学センター
そこから、更に山奥に入った、
・四国、高知県吾川郡、池川自然学園
そして、
・長野県下伊那郡、浪合通年合宿センター

9月、
「じゃあ、行ってきます。東京の実家には、1日しかいませんから、後の連絡はメールでお願いします。吉報を待っていてください」
メンバーのお母さんたちに送り出され、私は日本へ視察に向かいました。
東京から新幹線に乗って、まず大阪に。約20年ぶりの新幹線は、改めて、そのスピードには驚かされましたが(線路のすぐ目の前に家が建っている!外人が見たら、鼻血出すでしょう)、窓から見える景色は、ほとんど東京と変わりません。
そこそこ人口のある街なら、ひと昔前の立川駅前に、よく似ていますし、畑が多いところは、西武多摩川線沿線といったとこでしょうか。昔は、
「浜松かー、いいところだなー。名古屋かー、ちょっと、バタ臭いなあー」
その街独特の匂いがあったように思いますが、今や日本全国、すべて、小東京になってしまったようです。

驚いたのは、あの京都ですら、お洒落な駅ビルによって、完全に視界が遮られており、まったくの腑抜け都市に落ちぶれていたことです。
私の記憶に残っている京都駅とは、目の前に広がる瓦屋根の古い家々やお寺、古都然とした伝統を感じさせる街並み、他の如何なる都市とも異なる高貴な薫りを、僅か、1~2分の停車時間中にも感じさせてくれるような場所でしたが、そんなものは、完全に昔話になっていました。
地元選出の国会議員や府長、いや、府民の一人一人に至るまで、
“オレたちは、京都だ!”
というプライドを無くしてしまったようです。

そんな中、大阪駅で、コテコテの関西弁を話す、JRバス職員がいたので感心しました。
「このお姉ちゃん、なんちゅう言葉遣いをしてるんだ」
と最初は呆れましたが、考えてみると、大阪ー愛媛ー砥部町ー高知ー長野と回った中で、地元の言葉を堂々と喋っていたのは、このお姉ちゃんだけでした。個性ある街並みだけでなく、方言も消えていく運命にあるようです。
今や東京でも、「江戸っ子言葉」を話す人なんかいませんから(「ど根性ガエル」の梅さんが最後の人?)、大阪は、最後の砦ともいえるでしょう。

翌日、夜行バスで松山に入りました。
坊っちゃんです。夏目漱石です。城下町です。実に素晴らしい!
街に個性が溢れており、明らかに、東京とは違う風景です。昭和40年代の地方都市といった感じかもしれません。
2時間ほどしかいませんでしたが、なんだか、恋に落ちそうな気分になって、いろいろと空想してしまいました。

“うらぶれた裏通りを歩けば、そこには鄙びた居酒屋が一軒、寂しそうに佇んでいます。
立て付けの悪い引き戸を開けて、中に入ると、年の頃なら、三十ちょっと、和服が似合って、項の綺麗な女性が、ちょっと疲れた表情で料理の仕込みをしています。
すると奥から、3歳ほどと思われる、幼い女の子が現れて、
「お母ちゃん、このおじちゃん、なんか、お父ちゃんの写真に似てるね」
彼女は慌てて、
「何言ってるの、この子は・・・。すいませんねえ、うちの子、父親の顔は、写真でしか見たことないものですから・・・。
お客さん、東京の方ですか?準備中で、お飲み物しか出せませんけど、よろしかったら、どうぞ」
ビールを一本注文して、お酌してもらい、チビリチビリと飲みながら、身の上話を聞いているうちに、いつの間にやら、いいムードになって・・・”

おーっと、失礼しました。山村留学の話でしたね。
話を戻します(私、女房に追い出されたら、松山に行きますね、きっと)。

留学センターのスタッフに、市内まで迎えに来ていただき、車に乗ること、約1時間。どんな山奥かと思っていましたが、道路はすべて、きれいに整備されており、それ程の僻地には感じません。
ビックリしたのは、2年前に建てられたばかりだという高市小の校舎です。すべて木造で、しかも、なんという美しさでしょうか!
東京で校舎といえば、コンクリの外観に、プラスティックのタイルが貼られた殺風景な廊下など、味も素っ気もない、安っぽい建物ばかりですが、まさか、山奥の、廃校寸前の学校が、これほど豪華だとは、思いもよりませんでした。造った人のセンスが窺われます。子ども達が、ほんとうに羨ましいですね。
中に入ると、木の臭いがプンプンしており、廊下も磨き抜かれて、ツルンツルンです。もしも、誰も見ていなければ、思いっきり助走して、頭からヘッドスライディングを敢行していたでしょう(やりたかったー!)。

センター長の大山先生は、親切に、そして正直に、山村留学の問題点も含めて、覆い隠さず話してくれました。
そもそも発端は、地元の高市小学校の生徒が5人になってしまったので、危機感を持った行政によって始められたそうで、四国では2番目、全国でも10番目の施設だそうです。毎年平均20名の子どもを受け入れ、過去に、330人ほど卒業しています。
「今後、日本で中学、高校、大学と進学していくつもりであれば、ここは、お薦めしません。我々も、できる限りのことはやりますが、確実に勉強は遅れます。それでも、美しい自然に囲まれた生活を、長い人生の1ページとして、子どもに経験させたいというのであれば、大いに歓迎しますが・・・」

また、砥部町でも、その後に訪れた長野の浪合でも、両センター長が特に強調していたのは、
“山村留学は、養護施設ではない”
ということです。
都市部の学校で、手に負えない問題児や、不登校児の姥捨て山にされてはかなわないという意味でしょう。保護者によっては、転入後、一度も様子を見に来なかった親もいるそうで、そういった危険性のある親子は、極力排除したいようでした。

毎学期、必ず様子を見に来るように、という条件も、プーケット在住者にとっては、かなり重荷で、もともと、山村留学に目をつけた最大の理由が、正規留学(寮に入って、食事が付いて、年間費用150万円以上)に比べ、安く上がる(正規の約半額と見積もっていました)というものでしたから、これでは、そのメリットが無くなってしまます。

そして、最終的に浮上してきたのが、高知の菱和(仮名)高校でした。
候補地に上がっていた高知県、池川自然学園の先生に、ご紹介を受けたのがキッカケでしたが、山村留学の学校を訪れた後で見学すると、規模の大きさに圧倒されます。
しかも、タイを始め、世界各国から留学生が来ていますから、外国からの生徒の扱いにも慣れているようでした。
「なおこと、あきおを、高校から、ここに行かすか・・・」
そんな考えが、私に浮かんできていました。
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by phuketbreakpoint | 2009-09-10 10:11

空白の4年

“自分の子どもには、日本語が使えるようになってほしい”
海外に出て、外国人と結婚し、自ら、それを難しくする状況を作っているというのに、現地に同化して暮らす決心がつかず、子どもに日本語学習を強要し、親子で苦しんでいる日本人は多いと思います。
特に、生活の場が、プーケットのような発展途上国であれば、
「はたして、ずっと、ここで暮らしていけるのか?」
といった疑問も、常に付いて回りますから、問題は、さらに複雑でしょう。

一概に、自分の子どもに日本語を教えるといっても、
“日本語を、どのような位置付けで考えるのか”
によって、求めるものが変わってくると思います。
「やっぱり、進学は日本で。そのためには、日本で暮らす子と、同じ学力を付けておかないと。いずれは、タイに戻ってくるとしても、現地採用ではなく、本社の人間として、戻ってきて欲しいですね」
そういう方がいる一方、
「日本語は確かに重要なんですけど、あくまでも、第二言語です。そこそこ話せるようになってくれれば、それでいいです」
という方もいて、プーケット補習校でも、どこに基準を置くかは、最後まで、まとめきれませんでした。

夫婦仲は、うまくいっている、仕事も順調、そういった環境なら、
「このまま、ここで、ずっと暮らしていくぞー!」
という覚悟もできるのですが、どちらか一方、あるいは両方崩れていたりすると、そういうわけにもいきません。途端に弱気になってしまい、
「そろそろ、潮時かなあ・・・」
なんて思ってしまうわけです。

また、日本で、「親が病気」等という事態も起きたりして、いつ何時、帰ることになるかも分りませんから、第二言語だと思っていた日本語が、いきなり主要言語に格上げされてしまうことも、十分に考えられます。
ですから、子ども達への日本語教育は、
「いざというときの保険」
という意味合いもあって、在住日本人にとっては、非常に重要度の大きな課題になっているのでしょう。
プーケットで子育てをする中で、最も大きな問題点は、
“子どもの将来という以前に、親の将来が定まっていない”
ことなのかもしれません。

また、私の場合は、美意識も関係していたと思います。
“カタコトで、怪しげな日本語を話す日系人”
自分の子どもには、そんな存在になってほしくありませんでした。
タイで生まれ、タイで育った子ども達が、タイ語を使って生活し、外国語である日本語がうまく使えないのは、至極当然で、恥ずべきことでもなんでもありませんが、頭では理解できても、私には、どうしても、それを受け入れることはできなかったのです。
年老いたときに、呆けた頭で、子どもたちとタイ語で会話するのも、実に辛いことのように思えました。

「自分の遺伝子を引き継ぐ子孫を残していきたい」
そして、
「その子らに、自分の人生や経験を伝えてから、死んでいきたい」
と願う気持ちは、ずっと持っていましたが、そのためには意思の疎通が可能な共通言語が絶対に必要です。
私がタイ語を、そこまで完璧にマスターできるとは、とても思えませんでしたから、その苦労を全部子ども達に押し付けてしまいました。

“我が子に、日本語を話させる”
日本で暮らしていれば、わけもなく手に入るこの願いが、プーケットでタイの女性と結婚し、生活していく中で、これほど大変な思いをすることになろうとは、思いもよりませんでした。
“幼児期から、自分が積極的に話しかけていけば、そんなものは、ごく自然に身についてしまうものだ”
そう甘く考えていましたが、母親が日本人であるならともかく、父である私が、単発的に話しかける日本語など、子どもたちを取り囲む、洪水のようなタイ語の中で、簡単に掻き消されてしまいます。
いかんともしがたい状況の中で、時間だけがどんどん過ぎていき、結局、あきおも、なおこも、4歳になるまでは、まったく、日本語を話せませんでした。
そして、今にして思えば、日本語と接することなく暮らした最初の4年間が、かくも、大きなハンデになろうとは、想像もできませんでした。
もし、海外で外国人と結婚し、子どもを作って育てていこうと考えている人がいれば、
“最初の4年間が勝負”
だということを、忘れないでほしいと思います。

例えば、バンコクのように強固な日系社会があり、日系幼稚園や日本人学校が運営されていて、そこで子ども達同士、休み時間や授業中の私語など、100%日本語を使っているような環境に子どもを入れられるのであれば、4年間の出遅れも、十分に取り返しはつくと思いますが、プーケットのように、僅か数百人程度の日本人が、バラバラに点在しているような地域では、そこに補習校があるといっても、話されている言語は、ほぼタイ語オンリーですから、日本とタイ、どちらにより近いかといえば、これは明らかに、タイ人の学校であると言えるでしょう。
ここに何年在籍していても、それだけでは日本語の上達は、あまり期待できません。

「予習も、復習もできませんけど、毎週日本語を聞かせるだけでも、いいと思いまして・・・」
補習校入学希望者には、そういう親もいましたが、ハッキリと言えば、そのメリットは小さいと、私は思います。
入れておくだけで、少なくとも会話力だけは間違いなく付いていく日本人学校と違い、現地校とインター校、日タイ、あるいは、日本人と白人の混血、日本人夫婦の子らが混在する、プーケット補習校とを同列に思わない方が賢明でしょう。

「空白の4年間」がある、あきおと、なおこの日本語を、いかにして立て直すかは、苦しみ抜いた末の結論として、
“一定期間、日本に送り出す以外には、方法はない”
と思いました。勿論、そのためには金が必要ですし、その金を作り出すために、私は、一生懸命働いてきたともいえるでしょう。
華僑の人たちは、一見すれば、ガメツイ銭儲けをやっているように見えますが、彼らは、子どもの教育に対しては、金に糸目はつけません。私も何となく、その気持ちが分るような気がします。

補習校が開校して半年ほど経った頃、ある保護者のお母さんが、こんなことを教えてくれました。
「由紀ちゃん(仮名)ですか?あの子は、タイの学校が休みになるたびに、日本の学校に入れてもらって勉強してますから、ちょっと、他の子とは違ってますね。プーケットで勉強するだけだと、なかなか、あそこまでは、うまくなりませんよ」
このとき初めて、日本への体験入学という手があることを、私は知りました。こういった情報を仕入れることができるのも、補習校の利点だったと思います。

しかし、その後、思い違いもあって、チャンスのないまま、更に時間は流れ、あきおと、なおこを初めて日本に送り出したのが、小学5年生の春でした。
ようやく実現した体験入学ですから、私は、大いに期待していましたが、このときは、末娘のきよみも同行しており、学校から帰ってくると、3人でタイ語の会話が始まってしまいます。帰宅後は、プーケットでの生活と、あまり変らなかったようで、結局、3人とも、一度身に付いてしまった変な日本語の癖から抜けきれず、4週間の留学生活も、あまり成果がなかったように思います。
今にして思えば、1人ずつ、別々の時期に送ればよかったのですが、時間的、経済的な理由から、あるいは、受け入れ先である、親の都合もあって、それは叶いませんでした。

こんな一連の流れの中で、あきおと、なおこの日本への進学は、実現に向かって動き出すことになりました。

(続きます)
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by phuketbreakpoint | 2009-09-03 10:11