タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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<   2009年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

1991年に、日本のバブル崩壊が始まったと言われていますが、当時、それに気付いた人は、ほとんどおらず、まだまだ、世の中は浮かれていました。
ジュリアナ東京、お立ち台、ワンレン、ボディコン、ドンペリ、ロマネ・コンティ、オヤジギャル、アッシー、メッシー、ミツグ君、DCブランド、トレンディー・ドラマ、三高、新人類、24時間戦うリゲイン・・・あの頃は、みんなチャラチャラしていて、女の子がやたら輝いて見えたものですが、私は、大儲けで笑いが止まらない不動産業者を回っては、社長さんや担当者の「自慢話」を聞くのが仕事でした。

「へー、そうなんですか・・・」「はー、それは凄いですね」「ふー、そんな大金見たことありませんよ」「ほー・・・なるほど」「ひえー、ホントですかー?」
相槌をハ行で打ちさえすれば、相手は上機嫌で、聞いてもいないことを、どんどん喋ってくれましたから、てっきり、こちらの願いも聞き入れてくれるのかと思っていたら、
「短期貸し?あんた、バカなこと言いなさんな」
と手の平を返したように説教が始まってしまいます。そんなショボい仕事に手をつけなくても、どんどん金が回ってくるんですから、当然のリアクションかもしれません。
しかし、どんなに景気がよくて、売買も賃貸も、右から左に次々と捌けてしまう御時世でも、取り残されてしまう「落ちこぼれ物件」はあるものです。説教をじっと我慢して粘っていると、
「うーん、しかたねえなあ・・・じゃあ」
数千万、数億と投資した物件が焦げ付く寸前で、向こうも困っていたのは間違いありませんから、もっと感謝されてもよかったはずですが、相手業者は、いかにも恩着せがましい口調で、貸し残った賃貸物件を回してくれました。そして、それをさらに買い叩いて、4ヶ月だけ借りてくるのが私の任務だったのです。


プーケットで暮らし始めた1993年当時、セカンド・ロード(200ピーロード)では、まだ商売になりそうもありませんでしたから、私は、ビーチ・ロード周辺に絞って物件探しをしていましたが、最南端のシービューホテル周辺(当時の値で、700万バーツ/ユニット)を除けば、既に入り込む余地はありませんでした。
いや、ごく稀に、売り物件が出たとしても、アッという間に、かっさらわれてしまいます。売り看板を見かけたのも、16年住んでいて、2回しかありませんでした。

「ママ!なんか、『売り』って書いてあったみたいだから、明日、行ってみる?」
そんな会話を、ラントムと交わした翌日には、もう看板が外されています。まったくのお手上げでした。きっと、話が表に出る前に、ほとんどの物件が、ブローカーたちの手によって捌かれてしまうのでしょう。
それは、あたかも、
虎や、ライオンなどの猛獣が、大きな獲物を求めて、ウジャウジャと群がっている状況に思えました。
割って入るには、いかにも資金が不足していましたから、私は次善の策として、少し奥まったソイの中で探すようになります。
それなら相手も、ハイエナや、コヨーテといった小型獣ですから、なんとか蹴散らして獲物に有りつけるかもしれません。
もし、ここもダメなら、さらに後方に下がって、禿げタカや、イボイノシシの群れに紛れ込んで、棲家を確保しようと思っていましたが、今の店舗(サウス・ロード)が見つかって、安住の地に落ち着くことができました。

そして、5年後の2000年6月、ブレイクポイントのオーナー(当時)、スーマリーさんが、うちに来て、
「トム(ラントムのこと)、私のお店を、買ってちょうだい」
と言ってきたときは、
“ついに、来るべきときが、来た!”
そう思いました。
スーマリーさんと、夫のビルさんには、商売を、うまく回して借金を返済していく資質が大いに欠けているように感じましたし、遅かれ、早かれ、行き詰まって、お店を人手に渡さねばならい状況が来るような気がしていました。
その際には、自分が名乗りを上げようと、ずいぶん前から心に決めていましたので、この日は、特に驚くこともありませんでした。
「ここは、いずれ、自分のものになるんじゃないかなあ・・・」
なんとなく、そう思っていたのです。

不動産業にいた頃の私は、店舗契約で狙った場所があれば、繰り返し同じ地域を巡回してチャンスを待ちましたが、そのときは、いつも、こう念じていました。
「落ちてこい・・・、落ちてこい・・・、オレの手の中に、落ちてこい・・・」
まるで悪魔の囁きですが、こうやって好機を窺っていると、本当に、そうなってくるから不思議です。
別に、オカルト現象とかではなく、こうすることで常に心構えを作っておけば、いざというときにも、早く行動に移れますから、獲り逃がすことはありません。
ですから、私が時間調整と称して、仲良くなった同業の井上くんと、頻繁にサボっていたのも、それなりの理由はあったのです。
業界では、時期が熟していないときは、何をやっても無駄・・・、下手に足掻いて、余計な体力を消耗すれば、肝心なときの瞬発力を失いますから、じっと辛抱して機会を待つ・・・、そんな感覚がありました。
まるで、雪山で遭難した登山者みたいですが、実際、ノルマに追われて、仕方なしに契約してきた物件では、その後の営業部の成績も振るわなかった記憶があります。

プーケットで不動産探しをする場合、何箇所か試しに値段を聞いてみるだけで、あまりの高さに、買う気が、どんどん失せていくのは、昔も、今も、変わりませんが、地主が言う値段、つまり、売りたい値段と、実際に、買い手がつく値段とは、ずいぶん開きがありますから、焦って決めないで、辛抱強く時期を待つべきだと私は思います。
そして、待っていた好機が、遂に、やって来たとき、いかに逃さず、確実に掴んでいくかが勝負といえます。

今のように、みんなが、「買い」に走っている状況では、ちょっと難しいかもしれませんが、要するに、売る側の人が、
「すぐに金が欲しいから、できるだけ早く売りたい」
そういう状況が生まれれば、チャンスなわけです。
あのときのスーマリーさんは、ピタリと、この公式に当てはまっていましたし、私が会社員時代に東京で探していた短期貸し可能な店舗や事務所の交渉も同様でした。
「半年前にお願いした、あの物件・・・、まだ空いているようなら、同じ条件で、なんとかなりませんか?」
立地条件や使い勝手の悪さなど、何かしらの欠点がある建物がターゲットにされ、金利支払いや、借金の返済という貸主側の事情や弱点を突いて、契約に漕ぎ着けていたのです。

スーマリーさんは係争中で、原告であるドイツ人との和解金や、ビルさんが拘置所から出るための保釈金、弁護士費用、賄賂、そして、生活費と、かなりのお金が必要でしたが、長年、ローン返済に追われ、火の車だった彼女には、もうどうすることもできませんでした。
タイには、後先のことを深く考えず、突っ走ってしまう人もいますから、好条件の物件は意外と多いような気がします。

「いくらなら、買うの?」
と迫る彼女に、
「XX・・・バーツ」
と私が答え、交渉は簡単に纏まりました。
ユニット単位の価格では、その5年前に、隣の自宅兼用店舗を買ったときより、さらに安かったですから、ずいぶん買い叩いた形になりましたが、自分が用意できそうな額と、相手が、
「安すぎるから、他を当たろう」
とは思わない、ぎりぎりの接点が、この値段だったと思います。
究極の2次方程式でしたが、彼女には、時間も、お金も、ほとんど無かったですから、他のオプションはありませんでした。

映画「昭和残侠伝」には、
「旅人(たびにん)っていうのはなあ、サイコロの目と同じよ。どこの組に草鞋を脱ぐかで、勝負が決まるんだ」
という一節がありますが、「どこの組に・・・」を、「どこの国に・・・」と置き換えれば、私の半生にも、この台詞を重ねることができます。
バブルが崩壊し、デフレ不況が始まりつつあった日本を離れ、たまたま草鞋を脱いだタイ王国で手に入れた不動産は、同国経済の高度成長に乗っかる形で、どんどん価格が上昇していきました。
サイコロの目は、あらゆる意味でドンピシャでしたが、振りかえってみれば、今までプーケットやトランで行ってきた取り引きでも、ずいぶん運に恵まれてきたのは間違いありません。金額もさることながら、物件として、自分の能力で手に入れることができそうな上限のものだったように感じます。
私一人では、こうは、うまくいかなかったでしょう。
あるときは助言し、あるときは反対し、あるときは取り次ぎ、そして、あるときは単に、ついてきただけでしたが、そこに、いつもラントムがいてくれたからこそ、うまい具合に話が転がっていったんだと思います。

犬も歩けば、棒に当たる、
ラントムと一緒に歩けば、必ず幸運に当たる・・・、
数々の場面で、迷いなく、自信を持って決断できたのは、私が、いつの頃からか、常に、そう信じていたからなのかもしれません。
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by phuketbreakpoint | 2009-08-20 22:36

探し屋4 熟れた果実

1995年、私はプーケットを離れ、トラン県に新天地を求めました。
求めていた理想の不動産が手に入らず、
「もはや、プーケットで好条件の物件を探すのは、無理なのか」
今から、14年も前だったというのに、私は早くも、そんな判断を下していたのです。行き詰まっていたとき、また、トランに遊びに行って、そこで見せられたゴム園の大きさに心動かされた私は、トランで暮らすことを決意しました。

トランに移り住んだ私たちは、市内から、約30分ほどの距離にあるヤンタカウの街で、一軒家を借りて暮らし始めました。
家賃は、月に3000バーツで、私とラントム、マヨムと、あきお、なおこの五人暮らしです。
毎朝、マヨムを、林の中にある小さな小学校に送り届け(ラントムの親戚の子が、大勢通っていました)、そこから車で5分ほどの距離にある、ラントムの妹夫婦の家に行くのが日課でした。
朝食を一緒にとった後、シェス(ラントムの妹の亭主)が、あちこちで聞きつけてきた売り物件を見に行きます。最初の取引で失敗しましたから、今度は、私も慎重でした。

自分が気に入った物件以外は、絶対に買うまいと思っていましたが、条件としては、
“自分が売りたいときに、売りやすい物件”
だと思いました。
そして、逆説的なんですが、売りやすい物件とは、どんなものかといえば、
“自分が、欲しくなるような物件”
でなければならないと思いました。

あの頃のメモが残っているので、見にいった中で、代表的なものを紹介しておきましょう。
・物件A  
県道から、ちょっと中に入るものの、比較的立地はよく、広さは、52ライ。価格は、60000バーツ/ライ。
綺麗な林でしたが、ちょっと高いように思えました。

物件B
・赤土の道路(幅約4m)に面し、広さは68ライ。
価格は55000バーツ/ライ。
これも、ちょっと高く感じました。

物件C
・道路に面しておらず、登記証もなし(タイの田舎には、こういう土地が結構あります)。「もうすぐ、認証がもらえるんだ」と地主は言っていましたが、信用できません。
32ライ。価格は安く、28000バーツ/ライでした。

物件D
・やはり、道路に面しておらず、35ライ。
36000バーツ/ライでしたが、木齢が高そうなのが気になります。

“買うと決めるまでは、納得いくまで探す”
これも、日本では常識だと思っていたのですが、田舎で暮らすタイ人の目には、非常に優柔不断な姿に見えたんでしょう。
「いつも、見に行くだけで、ちっとも買わないじゃないか。オレは、もう降りたからね」
何日か経つと、シェスが不満たらたら、そんなことをボヤキ始めました。
しかし、前回は、彼の言うままに買ったら、あのザマです。
「今回は、絶対に、他人の意見には、左右されないぞ」
と、私は思っていました。

とは言うものの、基準になる情報がなければ、判断できないのも確かです。この村で唯1人の友人である、プリーチャー(当時20代前半)という名の青年から、私は、土地取引に関する話を聞くことにしました。
弁護士志望の彼は、村一番の実力者でラントムの親戚でもあるチャルーンさんの長男ですが、’ポリオ(小児麻痺)を患っており、ずっと車椅子の生活でした。
お父さんが、お金持ちでしたから、高等教育を受けていましたが、1人では、どこにも出かけることができず、私のような、外国から来ている人間と話ができることを、とても喜んでいる様子でした。
“欲や、私心のない彼の話なら、信用できる”
プリーチャーからの情報で、私は、買うべき林の姿が、だんだんと見えてきたように思います。

具体的には、
“舗装された、2車線の道路に面していなければならい”
と結論付けました。
この条件の林は、あの当時、70000~75000バーツ/1ライというのが相場だったと思います。タウンハウスのブームが地方都市の郊外の、そのまた外れの地域にも及んでいましたから、大きな道路に接していさえすれば、売るときにも、問題なく買い手が見つかるだろうと考えました。
しかし、こういった物件は、めったに売りには出ませんから、私の土地探しも、小休止してしまいます。

そんな、ある日のことでした。
「そういえば、前に見にいった、あの土地、どうなったか、もう一度行ってみるか」
トランで暮らし始め、まだ日も浅かった頃、プーヤイ・バーン(村長さん)に連れられて、見に行った物件がありました。
広さは、67ライで、前面の道路は舗装されていませんでしたが、T字路の角にあり、木の状態も悪くありません。価格は、XX000バーツ/ライで、立地を考えれば、安かったように思います。
「ここは、もうすぐ道路を拡張して舗装するから、今が、お買い得だよ」
そんな説明を地主から受けましたが、それを、そのまま信用する気にもなれず、県庁まで、裏取りに行って確認したところ、拡張工事は決定しているものの、時期は未定でしたので、この話は、お流れになりました。

ラントムと一緒に車で現場に近づいていくと、途中から道路が荒れてきます。
ところどころ、土や砂利が盛り上げられて、前に来たときと何か様子が違っているように見えました。
「これは・・・」
さらに車を走らせると、ブルドーザーが路面を整地しており、道路の両側にあるゴム園の木も、2列ほど切り倒されて、道幅が大きく広がっていました。
・・・工事だ、・・・拡張工事が、始まってる!
興奮しました。血流が激しくなっていくのが、はっきりわかりました。
プーケットで、店舗を見つけたときもそうでしたが、繰り返し、同じ場所を巡回していると、ある日、ポトリと、“熟れた果実が、手の中に落っこちてくる”ことがあります。この日は、当に、そうでした。
路面の状態から見て、工事が始まって、まだ、日は浅いようでしたが、モタモタしていると他の者に出し抜かれてしまいますから、私は帰宅するや、すぐにオーナーと連絡を取るようシェスに命じ、3日程で、一気に取引を纏めました。

トランでの生活は、プライベートでは嫌な思い出も多く、わずか1年で、土地を売ることになってしまいましたが、拡張された道路のおかげで、買ったときの倍の値で売り抜くことができました。このときの売却益がなければ、プーケットで、今の店舗は買えなかったでしょう。

会社員時代、私の属していた店舗開発部は、社内でも吹き溜まりのような存在で、あまり恵まれたポジションとはいえませんでしたが、仕事自体は気に入っていました。上司とは、いつも一緒にサボって(?)いましたし、会社の雰囲気も、どことなく、ギャンブラーといった感じでしたから、私にとっては、居心地の良い場所だったと思います。ここで、宅建主任の免許を取り、様々な取引に関わって場数を踏んだことが、今の生活を支えているのでしょう。

いや、会社だけでなく、今まで生きてきた日々の中で、見たり、聞いたり、感じたりした、その一つ一つが、すべて、私の血や肉になっているのだと思います。
“毎日を、大切に生きろ”
子どもの頃から、散々言われてきましたが、最近それが、ようやく、わかってきたような気がします。
私が生きているうちに、子ども達にも、そういったことを教えてやりたいと思っています。
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by phuketbreakpoint | 2009-08-14 01:14

探し屋3 失策

1992年3月、
結婚の直前、私は、ラントムと一緒にトラン県を訪れていました。
ここには、彼女の妹夫婦を始め、親戚たちが大勢暮らしていましたから、帰国前に、ほんのちょっと遊びに行くような感覚だったのですが、思わぬことから、その後、何年にも渡って関わることになってしまいました。

滞在も、一週間が過ぎようとしていた、ある日のことでした。ラントムの妹・ティップの亭主・シェスが、こんなことを言ってきました。
「近所のゴム園が売りに出てるから、買ってみないか」
そう言われ、東京で不動産関係の仕事に就いていた私は、ついつい、血が騒いでしまいます。買う、買わないは、ともかく、タイのゴム園が、どの程度の値段なのか興味を持った私は、とりあえず見に行くことにしました。

「14ライ(1ライは約1600㎡ 約500坪)?うーん、そう言われても、ぜんぜん、広さが分らないなあ。どこから、どこまでが、その土地なのか、教えてくれないか」
土地を買う以上、占有部分の広さを確認するのは、当たり前だと思っていましたが、タイの田舎では、そうでもないようで、
「この人、何を細かいこと気にしてるんだ?ホントに、面倒くせえなあ・・・」
シェスの顔には、はっきりと、そう書いてありました。
地元に住んでる人間にとって、土地の境界線など、大した問題ではない(?)のかもしれませんが、よそ者の私にとっては、重大問題です。嫌がるシェスを後ろから押すように、私は、ゴム園を一周しました。

あまり興味のなかった話でしたが、物件を見て、お金の話をしているうちに、なんとなく、その気になってきてしまうのは、不動産屋の性(サガ)なんでしょうか。
ラントムや、娘のマヨムの収入になるような資産を買ってやりたい・・・、というよりも、買うところを見せて、カッコつけたい、という気持ちもあって、いつの間にやら、話が進んでいました。
土地の広さも影響していたと思います。東京で扱ってきた土地や、建物は、あまりにも、みみっちいものばかりでしたから、ついつい、釣られてしまったのかもしれません。

ゴム園の取引は、1ライの値段が基準になっており、立地や、ゴムの木齢、状態によって、値段が変わってきます。後から考えれば、ここは、それほどいい条件とはいえませんでしたが、ゴムは勿論、タイでの土地取引のことを、何も知らなかった私は、言われるままの条件を飲んで、買うことになりました。

「さあ、手付け(10万バーツ)も打ったし、これで、第一段階は終了だ。後は、日本から、お金を持ってきて、残金を払って登記すれば、取引き完了・・・」
そう思っていた2日後の夜です。
「さあ、寝ましょう」
と、ランプを消して(電気がない!)、寝床に入ろうとしていた、午後8時頃(ゴム園では、深夜に作業があるため、みんな寝るのが早い)、シェスが戻ってきて、ラントムに何か言っています。
「フミオ、今から、ちょっと、いいかしら・・・」
何のことかと、話を聞けば、
「チャオ・コング(土地所有者)が、あなたと話したいみたいよ」
なんて言ってます。
「こんな夜中に(まだ、8時ですが)、冗談じゃない!」
と思いながらも、私とラントムは、シェスの運転するバイクに跨って、真っ暗なゴム林の中を、地主の家に向かいました。

ところが方角が、一昨日、手付け金を払うために訪れたソンさんの家とは、全然違っています。
「いったい、ここは誰の家なのか?」
と、不思議に思いながらも、私は木造家に入っていきました。
中に入ると、知らない、おばあさんが座っています。何が起こっているのか、終始、「?」の私でしたが、ラントムの通訳で話をしているうちに、驚くべき事実が、徐々に明らかになってきました。
「あんたが、どんな人なのか、話を聞いてから、(売るかどうか)決めようと思って・・・」
「あんた、お金、ちゃんと持ってるのかい?」
「日本に取りに帰る?大丈夫なのかい?」
「あの林は、死んだ爺さんが残してくれた大事な土地だから、本当は、売りたくないのよ」

何ということでしょうか!
昨日、手付けを打ってしまったというのに、売るか、売らないか、そんな次元の話を、今頃しているわけです。まったくもって、腑に落ちないことばかりで、頭の中は怒りで渦巻いていましたが、相手のおばあさんは、私を騙すような人には見えませんでしたから、とりあえず、この場は話を丸く収めて、無事取引を成功させようと考えることにしました。

和やかな雰囲気で話は進み、最後は笑顔で別れましたが、シェスの家に戻ってくるなり、怒りが爆発してしまいます。ラントムと知り合って、約2年、今まで、ただの一度も、怒った表情を見せたとこがなかった私でしたが、このときは別でした。
「ちょっと、2人とも、ここに座ってくれ」
私が厳しい表情で、そう言うと、シェスも、ラントムも、何を、そんなに怒ってるんだと、怪訝な顔をしています。
「いったい、これは、どういうことなんだ?」「あの、おばあさんは、誰なんだ?」「一昨日、手付けを払っちゃったのに、なんで今頃、こんな話を、しなきゃなんないんだ?」
私は怒りに燃えて、捲くし立てました。プーケットに来たばかりの人が、お金に関することで怒っていたりすると、私はいつも、あのときの自分の姿を思い出しますが、日本や、欧米の常識しか知らなかった私は、結婚前から、強烈な洗礼を受けてしまいました。

実態は、こんな感じだったようです。
最初に見に行ったとき、シェスが示した境界線は、2つの土地を合わせた大きさだったようで、所有者は、2人いました。
1人は、ソンさん(手付けを打った相手)で、奥の土地の所有者です。そして、もう1人は、パーダム(おばあさん)で、あぜ道に接した手前の土地の地主でした。
積極的に売りたがっていたのは、奥のソンさんだったので、とりあえず、この話をまとめ、
「残りの半分、もし買えなくても、その分安くなるから、別にいいじゃないか」
と、シェスは軽く考えていたようです。

不動産のセオリーとして、半分だけ買うにしても、その場合は、奥の土地ではなく、小さくても道に接している、前面の土地でなければなりませんが、田舎の人には、そいった感覚は、まるでなかったのでしょう(どうせ人の金ですし・・・)。
結局、手前にある方の林は、買うことができませんでした。

明らかに失敗でしたが、ラッキーだったのは、それ程大きな林ではなかったので、金額的には小さかったことと、なんだかんだ言いながらも、5年後には値上がりし、売り抜いて、利ザヤが稼げたことでしょうか。
失敗の原因を分析すれば、
1.欲しくもなかった物件を、ついつい買う気になってしまった。
2.タイ語が分らず、ラントムも、土地取引に慣れていなかったので、人任せで話を進めてしまった。
この2点だと思います。
しかし、学べたこともありました。全額キャッシュを用意したのですが、これでは数えるだけでも大変です。「キャッシャー・チェック(小切手)」という手が使えることを知りました。

不確実な情報を元に、
「まあ、なんとかなるんじゃないか」
と、手を出した挙句に大火傷というのは、定番中の定番ですから、タイで土地建物の購入を考えている人も、とりあえず小手調べで、最初は小さく出て、コツを掴んでから、大きな勝負に出たほうがいいと思います。
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by phuketbreakpoint | 2009-08-07 10:03