タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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田舎の王様

緊張の一夜が明け、日付が変わると、バンコクの街並みは、普段と変わらない活気を取り戻していました。
路線バスの運行も再開され、私たちは、ソイ・アソックの入り口にあった日本大使館(当時)に向かいました。
「ビザ申請は、この先にある、領事部で行ってください」
ガードマンに言われるまま、道なりに数百メール歩くと、領事部の入っていたビル(アソック・タワー)が見えてきます。

ところが、どこが先頭で、どこが最後尾なのか、さっぱり分らないほどの、大変な行列が、ビルに巻きつく大蛇のように、続いていました。その長さ、約200メートル!
「まさか、これは・・・・」
心配しながらも、確認すると、やっぱり思ったとおりです。
日本への入国ビザを求める人たちが、整然と列を作らされて、順番を待っていました。
タイ王国の首都で、実に日本的な光景でしたが、閑散としていた前日とは、うって変わって、呆れるほどの賑わいでした。

しかも、列に並ぶ、90パーセント以上は、若いタイ人女性でした。それ以外は、付き添いで来ている日本人男性が、少し見られる程度で、見るからに、ヤクザ者風の男も数人混じっており、この頃の領事部は、一種異様な雰囲気があったと思います。
当時、ビザの取得に必要とされた書類は、1000米ドル相当のトラベラーズチェックと、パスポートのみでしたから、
“申請すれば、誰でももらえる”
そんな雰囲気で、私たちも、簡単に、ビザを手に入れることができました。

“ラントムとは、このまま、ずっと一緒に暮らすんだろうなあ・・・”
自然な流れに逆らわず、成り行き任せの展開に身を委ねていた私は、特に意識することもなく、いつの間にやら、そう感じるようになっていました。
彼女との結婚を、特に意識していたわけでもありませんが、国籍の違う男女が、長く一緒に暮らそうと思えば、もっとも簡単で、手っ取り早い方法が、入籍することだったのです。
結婚は、私とラントムにとって、改めて確認する必要もない、既定の路線だったといえるでしょう。ですから、プロポーズの言葉も、特にありませんでした。

3ヶ月前、私は、プーケットから日本大使館に電話を入れて、婚姻手続きに必要な書類を尋ねました。
「まず、タイで入籍する場合ですが、ご主人の勤めている会社の在職証明を取ってください。続いて、過去三年間の所得証明も必要です。それから・・・」
親切な説明でしたが、出された条件が、余りにも複雑すぎて、聞いているだけで、なんだか、とても憂鬱な気分になってきます。
「続いて、日本での入籍ですが、まず、タイの役場で奥様の独身証明を取ってください。それと、奥様のタビアンバーン(住民表)が必要です。その英訳と和訳を日本の役所に持っていって、婚姻届を出してください」
「それだけなんですか?」
「はい、それだけです」
私は迷うことなく、こちらを選びました。

ところが、より簡単そうだという理由で選んだ、日本での婚姻手続きですが、ラントムの実家がある、ラノットの役場では、ひと悶着ありました。
タイでは、田舎に行けば行くほど、役場の責任者は、
“ナイ・ルアン(国王の別称。直訳すれば「国士」でしょうか)”
等と、周りの人間から呼ばれ、煽てられることに慣れていますから、何でも、自分の思い通りにできると勘違いしてる人がとても多いのです。
ラノット役場のチャルーン所長(トラン県に住むラントムの親戚とは別人です。この名前は、タイ南部には非常に多いですね。「繁栄」の意)も、普段、滅多に出くわすことがない要望を、明らかに場違いな雰囲気の外国人に求められたわけですから、
「これは、お金が取れるぞ」
そう判断したと思います。何だかんだと難癖をつけて、一向に証明書を出してくれません。

「駄目だ。そんな証明書は出せない」
「どうしてですか?彼女は、独身でしょう」
「独身のようだが、子どもがいるじゃないか」
「子どもがいたって、独身でしょう。ちゃんと、離婚してるんですから」
「いや、駄目だ。本当に離婚してるかどうかもわからんじゃないか」
「でも、この役場でもらった離婚証明もあるんですよ。ほら、あなたのサインも、入ってるでしょう」
「覚えとらんな。離婚の手続きをしても、実際は、腐れ縁で続いている夫婦も多いんだ」
無茶苦茶な論理を展開した挙句、ラントムに、
「なんで、キミは外国人なんかと結婚するんだ。タイ人と結婚すれば、いいじゃないか」
タイ王国憲法に抵触するようなことも、平気で言ってしまえるのは、やはり、ナイ・ルアンだからなのでしょうか。

余りにも理不尽な言い様に、まだ、タイのことが、よく解っていなかった私は、はらわたが煮えくり返る思いがしましたが(青臭かったですねえ、あの頃は・・・)、今になって冷静に振り返ってみると、反省すべき点も、多かったように思えます。
要するに、この人は、お金目的で難癖をつけていたのですから、それを察してあげないといけませんでしたね。立場上、自分から、先に言いだすことは、口が裂けてもできないわけですから・・・・。しかも、チャルーンさんは、あの頃、若い愛人を囲い始めた矢先(田舎では、こういった噂は、すぐに広まってしまいます)でしたから、お金が、たくさん必要だったのでしょう。
きっと、心の中では、ヤキモキしていたに違いありません。

(頭が悪いのか、こいつは・・・)
(ワシがこうやって、ぐだぐだやっている、その腹も読めんのか)
(早く、そっちから、さり気なく、言いださんか!)
(ええい、なにをグズグズしておるんじゃ、じれったい!)
所長さんの言葉を額面どおりに受け取ってしまい、ずいぶん、迷惑をかけてしまいました。
結局、一旦パンニャン(ラントムの実家のある村)に戻って、ラントムの親戚だという村長さんに来てもらい、私たちは、ようやく独身証明を手にすることができました。

このときの学習が身にしみたのか、以降、何か用事があってタイの公的な機関に顔を出さねばならないことがあっても、私は、ラントムに丸投げして、極力中に入らないようにしています。
プーケットの役所や登記所で働いている公務員は、ラノットなんかとは、比べものにならないほど清廉で、ほとんど問題は起こりませんが、それでも、私には、
“一皮剥けば・・・”
そんな猜疑心が、どうしても拭えないのです。

1992年6月8日未明。
私とラントムを乗せた飛行機は、バンコクのドンムアン空港を飛び立ちました。
これまでは、二人とも、結婚に向かって突っ走っていれば、それでよかったのですが、今日からは、地に足を付けて、地道な生活に戻らねばなりません。
生まれて初めて飛行機に乗り、生まれて始めて海外に出る、ラントムを見ながら、私は、彼女が日本の暮らしに馴染んでいけるのか、考えていました。

“イスズ(当時、タイの田舎ではイスズが日本の自動車メーカーで、最も格上でした)、トヨタ、ホンダ、ヤマハ、ソニー・・・・、とにかく、お金持ち”
“ユミコ・オオタ(国民的ヒーローだった、ボクシングの世界チャンピオンと結婚した、日本女性。後に離婚。なおこの、タイ名、「ゆみこ」は、彼女から、パクった名前です)、日本女性、白い、いい女!”
“ドラえもん、ニンジャ・ハットリ、ウルトラマン、アジノモト・・・”
当時の一般的なタイ人が、思い浮かべるであろう日本像は、こんなところだったでしょう。

自分に対しては勿論のこと、日本という国に対しても、自信が持てなかった私は、彼女が現実を知って、ガッカリしないかを心配していました。
「日本の生活は、ラントムが考えているより、ずっと地味なものだと思うよ」
「僕のアパートも、パトンのアパートよりは、大きいけど、それほど綺麗じゃないんだ」
私は機内でも、しきりと、予告編を打っていました。

しかし、異国の地で、彼女が何を感じ、考えが、どう変化するかという問題以上に心配だったのは、私自身のことでした。
何しろ、ここは、日本国です。
「もしも、タイ人のラントムと、一緒に暮らすことが、重荷になってしまったら・・・」
それを考えると、ますます不安になってしまう、私でした。
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by phuketbreakpoint | 2008-09-15 10:47

バンコクの黒煙

1992年5月。
いよいよ、ラントムの実家を離れ、バンコク経由で日本に向かおうとしていた私たちは、出発の日、家族のみんなに別れの挨拶をしていました。
「お父さん、お母さん、ポータウ(おじいちゃん)、元気でね。マヨムも、いい子にしてるのよ」
ラントムのお母さんの後ろで、マヨムが、また隠れています。
久しぶりに戻ってきた母親が、今度は、見知らぬ外国人と一緒に、外国に行ってしまう”
当時四歳だったマヨムには、その本当の意味は、まだ、よくわかっていなかったと思いますが、寂しい思いをしていたのは間違いないでしょう。
「パパは、また来るからなー。元気でいろよー」
ラントムの兄・トゥアンの娘ギン(当時9歳、ここに預けられていました)は、既に、私に懐いていましたから、覚えたばかりの日本語で、
「パパ、サヨナラ」
と、挨拶してくれました。そして、つられるようにマヨムも、
「パパ、サヨナラ」
初めて、喋ってくれました。

エアコンの効きすぎた車内で、凍えるような思いをしながら、12時間、ラノットから乗った長距離夜行バスは、バンコクのサイタイマイ(南バスターミナル)に到着しました。
「まだ、時間はたっぷりあるから、朝食をとってから、動き出そう」
日本大使館で、ラントムのビザ申請を行う予定だった私は、そんなことを考えながら、バスを降りていったのですが、あの日のバンコクは、いつもと、明らかに様子が違っていました。
タイ南部から、やって来る長距離バスが、バンコクに到着するのは、だいたい、午前5時から、6時といった時間帯が多く、まだ、辺りは真っ暗ですが、客を拾うために集まってくるトゥクトゥクや、タクシー、お菓子や果物、新聞などを売り歩く人たちで、賑わっているのが普通です。
しかし、この日は、長距離バスが数台止まっていただけで、気味が悪いほど、静まり返っていました。
「変だなあ・・・・」
バスターミナルからは、市バスに乗って、バンコクの中心部に向かおうと思っていましたが、表通りに出ても、ガランとした様子は変わりません。いつも、大渋滞で身動きのとれない、プラ・ピンクラオ通りも、車一台通りかかりませんでした。

「どうしたんだろうねえ・・・」
数日間の田舎暮らしで、まったく、ニュースに接する機会がなかった私は、戒厳令が布かれているのも知らず、ラントムと二人で、のん気に路線バスを待っていたのですが、30分以上経っても、バスは、一台もやって来ませんでした。
「しかたない。歩くか・・・」
タイ人のラントムを歩かせるのは、可哀想だと思いましたが、ここで、ボサっと待っていて埒があきません。
私たちは、大きなバッグを抱えて、歩き始めました。

15分ほど歩くと、大きな交差点にぶつかりましたが、そこを横切ろうとしたとき、ラントムが叫びます。
「フミオ!あれ見て」
トゥクトゥクが一台、こちらに向かって、ヨロヨロと走ってきました。
黄色と青の、お馴染みの色合いですが、タイ生活15年間で、あのとき程、この小さな軽三輪が、頼もしく思えたことはありませんでした。
「サタントゥードゥ・ニッポン(日本大使館)に、行きたいんだけど」
「日本大使館?ソイ・アソックだろ?今日は、チャオプラヤー川を超えるのは、無理だよ。昨日のニュースを、見てないのかい」
ドライバーは、冗談は、よしてくれ、といった雰囲気でしたが、
「今朝、ソンクラーから来たの。今日、どうしても、日本大使館に行かないと、ダメなの。なんとかならないかしら・・・」
ラントムが身の上話を交えながら、食い下がっています。こういうとき、彼女が一緒だと、本当に助かります。日本人の私だけだと、あっさり断られるか、思いっきり、ボラれるか、どちらかだったでしょう。

ドライバーは、ちょっと考えてから、
「じゃあ、200バーツで、いいかい」
当時は、100バーツくらいが相場だったと思いますが、その倍出してくれたら、考えようという話です。
カオザンの安宿に、いつも、一泊50バーツで泊まっていた当時の私にとって、200バーツという額は、軽いものではありませんでしたが、背に腹は代えられません。彼の条件を飲まなければ、歩いていくしかないのです。
「OKだ。じゃあ、行ってくれ」
通勤ラッシュの時間帯だというのに、他の車と、すれ違うこともなく、誰もいない、ゴーストタウンのような中心街を、ビュンビュン飛ばして、トゥクトゥクは走ります。
到着したのは、午前8時少し前で、もう明るくなっていましたが、大使館の周りには、人っ子一人いません。門に近づいていくと、小さな張り紙が出ていました。
“本日は、閉館させていただきます”
200バーツも払って、無理して、やって来たというのに、結局、無駄足になってしまいました。

仕方がないので、私たちは、安宿街のカオザンロードに移動して、宿を取ることにしました。
ラントムに気兼ねして、一人では、絶対に利用しないであろう、一泊350バーツもした、エアコン付きのホテルに泊まることになりましたが、この日、カオザンを選んだのは、完全に誤りでした。
夕方、わずか200mほどしかない、このソイに軍隊がやってきたのです。道路の両端を鉄条網で封鎖して、バリケードの中央には、機関銃まで設置していました。
カオザンの一本隣りにある、ラチャダムヌーン・クラン通り(直線距離で50mほど)は官庁街で、反政府デモの格好の標的になりそうでしたから、暴徒がカオザンにも流れ込んで、外国人観光客に危害を加えないよう、政府が予め、手を打っていたようです。
暴動の中心地である、民主記念塔も、ここから、目と鼻の先にありました。

「そんなに、危ないの?今日のバンコクは・・・」
日本大使館周辺で見かけた、真っ黒こげの交番にも驚かされましたが、迷彩服を着た兵隊さんたちを目の当たりにして、私は遅まきながら、バンコクが、このとき置かれていた状況を、少しだけ理解しました。
ちょうど同じ頃、別の場所では、追い詰められて、ホテルに逃げ込んだ反政府勢力を、軍が情け容赦なく、機銃掃射する事件も起こっていました。
デモ隊と軍(当時の政権)が、真っ向からぶつかり合う様相で、普段は、市民から恐れられているタイ警察も、「勝ち目なし」と判断したのか、警察署にバリケードを築いて立て篭もり、出てこようとはしませんでした。

タイ王国のクーデターは、昔から、茶番だと、よくいわれていますが、それでも、
「今日は、いざとなったら、やっちゃいますよ。いいですね」
そんな雰囲気で、ぞろぞろと軍隊が目の前にやって来ると、さすがに恐怖感を覚えます。
最近、バンコクで行われている反政府デモが、見ていても全然緊迫感がないのは、それが財界やマスコミ、もっと言えば、軍の、ヒモつきで行われているもので(まあ、昔ながらの、タイのスタイルともいえますが)、
「何をやっても、殺られることは、あるまい」といった様子が、見て取れるからでしょう。

しかし、こんな状況でも、しっかりと、お腹は空いてきます。
朝から、ろくなものを食べていませんから、次第に、我慢できなくなってきました。
「お腹が空いたなー。何か、食べ物はないかなあ・・・」
缶詰状態のカオザンで、開いているお店は、ホテル以外では、雑貨屋さん一軒だけです。そこで売られていたスナック菓子で、何とか、しのいでいましたが、いくらなんでも、それだけでは耐えられません。
そんなとき、一台の屋台が、軍のバリケードを突破して(?)、奇跡的に現れました(本当に、どこから入ってきたのでしょうか?)。

「あれを見ろー!食い物だー!」
突然の救世主の登場に、同じ思いをしていたであろう、ファランの旅行者たちも、目の色を変えて集まってきます。
「1本10バーツ。ガイヤーン(焼き鳥)、アオマイ(いりませんか)?」
当時一本5バーツだった焼き鳥ですが、こういった非常時に、相場の2倍程度で売ってくれるなら、極めて、良心的と言えるでしょう。このお兄ちゃんも、大きな危険を犯して、売りにきた・・・、いや、売りに来てくれたんですから・・・。実際、群がっていたファランの誰一人として、値段にクレームをつけている人は、いませんでした。
阪神大震災のとき、足元を見て、稼ごうとした路上の物売りたちを、山口組の怖いお兄さんたちが、一人一人、教育的指導をして、無理やり、止めさせたという話を聞きましたが、日本国というのは、ヤクザの人たちですら、真正直に生きているんですねえ・・・。

外国人旅行者が、屋台の焼き鳥で一息ついていたとき、官庁街の方角から、真っ黒な煙がモクモクと立ち昇っていくのが見えました。辺りが急に騒がしくなり、路上にいたファランたちも、不安な表情で、焼き鳥片手に見上げています。
カオザンロードに、この日、最大の緊張が走った瞬間でした。兵隊さんたちが、しきりに無線連絡を取り始め、強張った表情で、鉄条網の隙間に設置された機関銃に、片ひざついて、手をかけています。
完全に、戦闘態勢に入っていました。
「近づいてくる暴徒は、全員射殺せよ」
そんな命令が、入っていたのかもしれません。
もしも、デモ隊が怯まず、突っ込んできたら・・・・。今では、タイ人が、そんな決死的な覚悟をしてまで、自ら、危険な状態に身を入れることは、絶対に、あり得ない、と断言できるのですが、あのときは、そう思いませんでした。

「フミオ、ホテルに戻りましょ・・・」
ラントムが心配そうに、私の袖を掴みながら、路地の奥にあったホテルに引っ張っていこうとします。
私は、事の顛末を、最後まで見届けたいという思いから、ここに留まろうとしていましたが、女性の感覚は、やはり、男とは違うようで、結局、彼女に押し切られ、ホテルに戻ることになりました。
「いったい、外はどうなっているんだろう」
部屋にいる間も、ずっと聞き耳を立てていましたが、銃声は、一発も聞こえず、2時間ほど経って、もう一度、外に出てみると、既に緊張状態は解けていました。

タイ王国政府の公式発表では、50人以上の市民が犠牲となり、1000人近い負傷者を出したと記録されていますが、実際は、その数倍だったという噂もあり、正確な犠牲者数は、未だに判ってはいません。
日本へ出発する直前、タイ王国が、“微笑みの国”以外の表情も持っていることを、私は、この日、カオザンロードで知ったのです。

この話続きます。
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by phuketbreakpoint | 2008-09-07 10:26
日本国の素晴らしさの中でも、特に、誇るべきものの一つに、治安の良さが挙げられます。
最近は、物騒な事件も多くなり、検挙率も、どんどん下がっているようですが、田舎の方では、まだまだ、神話は崩れておらず、
“鍵をかけなくても、泥棒は入らない“
そんな村も、あると聞きます。

これは、タイでは、絶対に、当てはまらないことでしょう。
どんな田舎に行っても、しっかりと、犯罪は起こり、
“落とし物を懐に入れても、罪には、ならない”
といった認識もあるようで、物を、その辺に置きっぱなしにしていると、すぐに誰かに持っていかれてします。
「これ、お宅の息子さんのじゃないの?」
親切な隣のおばさんが、持ってきてくれるようなことはありません。

むしろ、都会に住む中産階級以上の人間の方が、遥かに道徳心があり、数年前、バンコクの仕入先で忘れた手下げバック(中に10万バーツ以上入っていました)を、お店の、ご主人に届けてもらったこともありました。
“貧しいけれど、清らかな人々”
昔よく、映画やドラマに使われた設定ですが、私の経験で言わせてもらえば、現実は、逆の場合が多いように思います。


1992年4月。
トランでのゴム園購入を終えて、私とラントムは、彼女の実家がある、ソンクラー県・ラノットに向かいました。トランのバスターミナルから、ハジャイまで公営バスに乗り、市の中心部・プラザ前から、乗り合いのピックアップに揺られること、約2時間、シャイクアンという停留所で降ろしてもらい、そこからさらに、バイクタクシーに乗って、3分ほど走ったところに、彼女の実家はありました。

もう夜だったので、雨戸は閉まっていましたが、ラントムが声をかけると、中から、お父さんの声が聞こえてきます。
「誰だー」
「わたしよー。自分の娘のこと、忘れちゃったのー」
「おー、ディアオ、ディアオ(ちょっと、待って)」
ウンアーン(タイの田んぼ等にいるカエル)のようなダミ声と共に、雨戸が外されると、お父さんが出てきました。身長は、あまり高くありませんでしたが、予想以上に若々しく(当時50歳)、まだまだ、元気が溢れている様子でした。
その後、様々な事件を目の当たりにして、お父さんの人間性は、すぐに分った私でしたが、初対面のときには、その声質に反して、爽やかな印象を受けたものです。
“真面目な、一家の長”
そんな人物に、見えていました。

やはり、若々しかったラントムのお母さんの後ろで、こそこそと、小さな子どもが隠れています。ラントムの娘・マヨムでした。
「サワッディー・カップ」
私が挨拶すると、ちょっとだけ覗かせていた頭を引っ込めて、顔を伏せてしまいます。
「あれー、どこいっちゃったのかなー」
いずれは、一緒に住むことになるであろう、この子の気を引こうと、一生懸命、頑張ったのですが、結局、今回の滞在期間中には、うまくいきませんでした。
「この人は?」
若い男性が一人、家の中にいたのを不思議に思ったのか、ラントムが、お母さんに尋ねていました。
「彼は、パーンていうの。トゥアン(ラントムの兄)の友達よ。今、収穫の時期だから、手伝ってもらってるの」
「トゥアンの友だち・・・・・。ふーん・・・・・・」

翌日は、タイのお正月、ソンクラーンでした。
私は、目が覚めると、財布に入っていたお金を、1万バーツ(当時約5万円)取り出して、
「これ少ないけど、どうぞ」
と、お母さんに握らせました。挨拶代わりのつもりだったのですが、このときから、お母さんの、私への対応が、明らかに変わったような気がしました。
“得体の知れないエイリアン”
と、いったものから、今日から、彼も身内の一人、そんな、親しげなものになったのです。当時、タイ語の話せなかった私に、
「ご飯たべたの?」
「アップナーム(水浴び)は?」
「着替えあるの?」
お母さんの方から、どんどん話かけてくれるようになりました。
時期は、ちょうど収穫期で、一年分の労働の代価である米を、仲買人に卸した直後だったようですが、お父さんと、お母さんが、このとき手にしたお金は、9500バーツでした。
これと、ほぼ同額のお金を、ポンとくれた日本人は、
“かなり、いい奴に違いない”
そう評価されたのかもしれません。

朝食を済ませ、ちょっと一服した後、私とラントムは、あまり素性のわからない、同居人であるパーンを連れ立って、ハジャイの街に遊びに出かけました。
初めて経験するソンクラーン(水掛祭り)では、どこを歩いても、容赦なく水をかけられ、私も、ラントムも、すぐに、びしょ濡れになってしまいましたが、四方八方から、集中砲火を浴びているのは、私とラントムだけで、真っ黒けで、見るからに田舎の貧乏人風だったパーンは、ほとんど、“無傷”のままでした。
このとき、私は、ソンクラーンの裏ルールを理解しました。
これは、小学生時代にやった、「スカートめくり」と大差ありません。
“自分の好きな女の子を困らせて、「キャー、キャー」と言わせたい”
まさに、そういうことだと思います。
プラザで、私はサンダルを、ラントムは革靴を買い、パーンにも、スニーカーを買い与え、私たちは、家に戻りました。

「今日は、いくらくらい、お金を使ったのかなあ・・・」
私が財布を取り出して、残金を確認していたら、前方から視線を感じました。
顔を上げると、パーンが、すぐ近くに立っています。少し、嫌な予感はしましたが、
「今日一日、一緒にいたわけだし、まさか、泥棒はしまい」
そう思って、私は作業を続けましたが、ジトっとした、覗き込むような彼の視線が、ずっと、こちらを向いていました。

「フミオ、アップナームしたら?裏に、井戸があるから・・・」
ラントムに、そう言われ、私は、裏庭で水浴びすることになりましたが、ズボンの中には財布が入っています。
つい先ほどの、パーンの視線が気になりましたが、
「身内の人間(私は、パーンを彼女の親戚かと思っていましたが、兄・トゥアンの刑務所仲間だったようです)を疑ったら、可哀想だ」
そう思い、私は、ズボンを丸く包んで、鞄の中に入れ、井戸に向かいました。
ところが、水浴びを終えて、しばらくした後、買い物に出ようとしたラントムに、お金を催促されて、財布を取り出すと、何だか、もの凄く、中身が薄っぺらになっているような気がします。

変だと思った私は、お札を出して数えてみました。
「1枚、2枚・・・・、たったの2枚?」
ついさっき、20枚もあった、最大紙幣の500バーツ札(当時は1000バーツ札はありませんでした)が、たったの2枚しかありません。鞄の中に落ちているのかと思い、くまなく探してみましたが、見つかるわけもありません。
私は、顔色を変えて、ラントムに低い声で囁きました。
「ラントム、泥棒だ・・・」
ビックリした表情のラントムは、
「何かの間違いじゃないの。もっと、よく探したら」
そう言い返してきましたが、私が真剣な表情で、
「絶対に間違いない。泥棒だ。そして、犯人はパーンだ!さっき、俺の財布を、覗き込むように見ていたから」

わずか、30分足らずの隙を、狙い定めたかのような犯行は、外部の者の仕業には思えませんでしたし、お父さんの人間性を、まだ、よく知らなかった私には、疑うべき相手は、一人しか、思い当たりませんでした。
ラントムも、感ずるところがあったのか、すぐに彼を呼んで、詰問し始めます。
「あなたが、盗ったんでしょ。フミオの財布を、見てたそうじゃない」
「俺じゃない・・・・・」
「嘘をいっても、ダメ。他に、誰もいないわ」
「・・・・・俺じゃない・・・・」
「警察に突き出すわよ。正直に、言いなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
私とラントムの二人がかりで、一時間以上に渡って責め立てましたが、彼は、無言のまま、弱々しく首を横に振りながらも、とうとう白状しませんでした。
事件の翌日、逃げるようにラノットを去ったパーンは、すぐに別件で逮捕され、また、刑務所に戻ることになりました。

私は、20歳の頃から海外に出るようになり、様々な土地で、様々な人間と出会い、様々な経験をしてきましたが、今回のような、あからさまな窃盗に遭ったことは、一度もありませんでした。
“他人を見たら、泥棒と思え”
タイ以外では、この鉄則が、ちゃんと守られていたからでしょう。

しかし、プーケットで、ラントムと知り合い、一緒に暮らすようになると、彼女の身内や親戚、知人たちとも、付き合っていかねばなりません。
「他人」と「自分」の間に、ラントムや、彼女の身内が入り込んできて、どこで線を引けばよいのか、境界線が非常に曖昧になってしまいました。
「彼女の親戚だから、仕方ないか」
そんな遠慮も、生まれてしまうのです。そして、この「遠慮」のおかげで、私は今まで、ずいぶん痛い目に遭ってきました。
“親類・縁者は、他人以上に、やっかいだ”
これは、タイ生活15年の実感ですが、
「あんな奴、もう信用しない」
そう思っていても、それがラントムの身内であった場合、どうしても切り捨てることはできないのです。

今回の事件以降、私は、「遠慮」よりも、「警戒」を優先するようになりました。そして、ある程度、災難から、身を守れるようになったと思います。
しかし、それでもなお、災いは降りかかってきました。
「いくらなんでも、そこまではしまい」
「油断」と呼んでいいのかもしれませんが、人間である以上、最低限の節度というものもあると思います。
ついつい、自分の常識を信じて、甘さが生まれてしまったようで、そのときに感じた痛みは、「遠慮」からくるものよりも、遥かに大きな苦痛を私に与えることになりました。
“家族以外は、誰も信用できない”
いつの間にか、私は、そう考えるようになっていったのです。
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by phuketbreakpoint | 2008-09-02 16:56