タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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さあ、スタートした。
ボルト出た。
ボルト早い。
ボルト抜けた。
ボルト優勝、9.69!
世界新記録だー!!!

凄い記録です。
しかも、まだ、21歳。
目がいつも、“あっちの方向”に飛んでいて、
“大麻の吸い過ぎで頭をやられた、かなり危ない兄ちゃん”
と、いったふうにも見えますが、大勝利の前では、すべてが帳消しにされてしまいます。
もっと、競った展開で、追い風が吹いていたら、9.5秒台も、可能かもしれません。
スポーツの祭典と呼ばれるオリンピックですが、その主役は、誰がなんと言おうと、陸上男子100mの金メダリストであると、私は思います。
“誰よりも、早く走りたい”
この単純な欲求を、見事に具現化した究極のパフォーマーといえるでしょう。

今でこそ、9秒台が当たり前になっていますが、私の少年時代には、アメリカのジム・ハインズ選手が作った、9.9秒(1968年、手動計時)が、
“永遠に破られることのない大記録”
として、世界のスプリンターたちの前に、ドーンと立ちはだかっていました。
ハインズの9.9は、15年間も破られることはありませんでしたが、80年代に入るや、彼の記録が、どんどん塗り替えられていきました。
その中心にいたのが、カール・ルイス(米国)、そして、彼の独走に待ったをかけたのが、ベン・ジョンソン(ジャマイカからカナダに移住)です。

“ロケット・スタート”と異名をとった驚異的な加速力で、一気に相手を引き離す、ジョンソンの世界新記録は、結局、ドーピング違反ということで抹消されてしまいましたが、80年代に入って、9秒台で走れるランナーが、突如、続出してきた背景には、70年代に、旧ソ連や東ドイツに遅れをとっていたアメリカや、西側諸国の陸上関係者が、本格的に薬物使用(合法的なものも含めて)に踏み切ったからだと、私は見ています。
そして今、ベン・ジョンソンの幻の大記録が、簡単に破られ続けているということは、つまり・・・・。

女子では、“疑惑の人”、グリフィー・ジョイナーが、
「やっぱり」
というイメージを残したまま、急逝してしまい、その後の薬物使用に歯止めがかかったのか、今回の五輪でも、平凡なタイムに終わりました。
確固たる決意(場合によっては、死をも覚悟して)の基で、禁止薬物を使いながら、ハードなウエイトトレーニングを行わない限り、ジョイナーの、“グレーな記録”を破ることは、今後も、難しいのではないでしょうか。

私も、生涯で一度だけ、100mのタイムを測定したことがあります。高校2年の秋、体育の時間に走ったのが、唯一の経験でした。
100mという距離は、走ったことのある人なら、わかると思いますが、スタートラインに立っただけで、
「・・・・あんなに、遠くまで、走るの?」
テレビの画面から受ける印象とは、まるで違った圧倒的な威圧感があります。特に、ラスト30mは過酷で、素人のチャレンジを寄せ付けないものを感じます。
因みに、私なりに感じた、走破タイムごとの評価を記しておけば、以下のとおりです。

9秒台・・・・・・・・・・・・・・・・・地球外生物
10秒台・・・・・・・・・・・・・・・・突然変異
(この辺までは、日本の普通の高校生では、無理でしょう)
11秒台・・・・・・・・・・・・・・・・死ぬほど早い
12秒台・・・・・・・・・・・・・・・・かなり早い
13秒台・・・・・・・・・・・・・・・・早い
14秒台・・・・・・・・・・・・・・・・やや早い
15秒台・・・・・・・・・・・・・・・・普通
16秒台・・・・・・・・・・・・・・・・やや遅い
17秒台・・・・・・・・・・・・・・・・遅い
18秒台・・・・・・・・・・・・・・・・かなり遅い
19秒台・・・・・・・・・・・・・・・・死ぬほど遅い
20秒台以下・・・・・・・・・・・・ダメな人

身体機能に異常がないにも関わらず、20秒以内で走れない男性というのは、早い遅い以前の問題として、
“生きる能力に乏しい”
と、いえるかもしれません。
たとえば、100m後方から、殺人鬼のマイケル・ジョンソン(失礼!200mの前世界記録保持者)が、刃物をぶんぶん振り回しながら、追いかけてくるとします。
そして、あなたの前方、100mには、安全地帯。
「さあ、逃げ切れるか」
と、いった状況で、あっさりと諦めて、殺られてしまうような人でしょう。
私のタイムは、17秒台でした。

昨年から再開したウエイトトレーニングは、順調に記録が伸び、筋肉の増量も見られるのですが、実生活の中で、その効果を実感することは、ほとんどありません。
ローテーションの合間に組んでいたビーチジョギングでも、スクワットや、デッドリフトの後遺症なのか、すぐに腰にきてしまい、歩くようなスピードでしか走れませんでした。
ところが、ここ2ヶ月、ショートスプリントを間に数本挟んでも、最後まで(ビーチ半分往復)、走りきれるようになりました。その理由は、はっきりしています。
“BCAA”
たんぱく質を構成する必須アミノ酸9種類の中でも、特に重要とされる、バリン、ロイシン、イソロイシン、この3種のアミノ酸を、バランスよく配合しているのがBCAAですが、何が凄いといっても、スクワットとレッグプレスを行った数時間後に、“無謀にも”、SEXを敢行して、まだ、余力が残っています。

「キング・オブ・トレーニング」と呼ばれるスクワットは、数あるトレーニング種目の中でも、最もハードで(マジで効きますね。終わった後、しばらくすると蕁麻疹が噴出してきますから・・・)、全身のエネルギーを、絞り尽してしまうほどの強度がありますが、ジムワークが終わり、帰宅して栄養補給すると、どういう理由か、SEXに対する欲望が、ムクムクと膨らんできます。
そして、見飽きたはずの女房の体(大失礼!)でも、ムラムラとした感情が、どんどん大きくなって、ついつい、“そういうこと”に、なってしまうのです。普段は、絶対に使わないパワーや、筋肉が刺激されて、死にかけている肉体が覚醒してしまうのかもしれません。
しかし、トレーニングだけでも、相当な疲労感がある上に、駄目押しのようなSEXで、止めを刺してしまいますから、体力的には、これは非常に辛い!
いや、そんな生易しいものではなく、命が削られていくような感覚すらあります。丸一日、ぐったりして、活力が回復しないだけでなく、3日くらい、ダメージを引き摺ることも、よくありました。

ところが、BCAAを飲用するだけで、これが普通に、こなせるようになるのです。まさに、
“悪魔のサプリメント”
と、いえるでしょう。
そして、BCAAは、快楽以上のものも、私に与えてくれました。
女性というのは、いくつになっても、男性からの熱い視線を感じていたいようで、女房のラントムも、結婚して16年、夫が今でも、自分の肉体に興味を示してくれることが、とても嬉しいのでしょう。なんだか、もの凄く、機嫌がいいように感じるのは、私の錯覚でしょうか。新婚当時以来ともいえる、奇跡的な優しさです。
もっと前からジムに通って、BCAAを飲んでいれば、みすみす女房を、キリスト教なんかに取られることはなかったのにと、今更ながら、悔いが残りました。
“ムラっ”、ときたら、下半身のロケットスタートで、一気に加速して、女房を置き去りにしたまま、“超高速”で、ゴールを突き抜けます(こういうSEXをする人は、女性には、決してモテませんね、はい)。
しかし、これが、夫婦円満の秘訣なのです。

スプリント・トレーニングは、9日から、10日に一度のローテーションで行いますが、BCAAを使うようになって、体の中心線に、芯のようなものが通ったように感じられ、走っていても、脚がスムーズに流れていくのが、自分でも、はっきりとわかります。

きよみを学校に送り届けた後、ビーチに出て、まずは、ストレッチングです。
続いて、ダグから、キャンターに移り、気合が乗ってきたところで、ギャロップに入ります。
5歩ダッシュ、10歩ダッシュ、15歩ダッシュ、20歩ダッシュ、30歩ダッシュと伸ばしていき、メインの、50歩ダッシュへ・・・、まだ、余裕があります。
「よーし・・・・。いっちょう、試してみるか・・・・」
目視で、100mのポイントを定めて、息を整え、私は、思いっきり、ダッシュしました。
30m、40m、50m・・・・・、
(おお、脚が動く!)
60m、70m・・・・、
(息も切れない!)
80m、90m・・・・、
「ゴおおおお・・・・・・・・・・・ル!」
やりました!完走です。
これなら、いけるかもしれません。

ババババーあああああん。
架空実況中継
“ビーチスプリント・イン・パトンビーチ2009”

第1コース おかまビーチバレー1号
第2コース おかまビーチバレー2号
(今や、パトンビーチの裏名物になりつつある、おかま・ビーチバレー。中に、二人、とても上手な人がいます。あまり、ジロジロ見ていると、“その筋の人間”と勘違いされ、声をかけられてしまいますから、どちらが1号で、どちらが2号なのか、いまいち、識別できません)
第3コース 組長
(彼も、パトンの有名人。「組長」の刺青が掘ってあります)
第4コース 船長
(観光客相手のポンポン船の船長。外国人に、気さくに声をかけてきます)
第5コース ビルダー
(数年前まで、彼の肉体は、本当に凄かった。恐らく、タイでも、トップクラスのボディー・ビルダーだったでしょう)
第6コース 腹筋オヤジ
(元スイマー?毎年ハイシーズンの終わりごろになると現れる、腹筋ボコボコのファラン。推定年齢50歳代。ビーチタオルの上に、一人で寝そべっていますが、ときどき、ムクっと起き上がって、かなり本格的に泳ぎだします)
第7コース 地引網
(こちらは、パトンの表名物?最近、大物が上がらず、不機嫌気味。雑魚は、タダでくれます。昔は、ラントムと一緒に、ビニール袋を持って、よくもらいに行きました)
第8コース ロケット西岡
(売れない芸人のような名前ですが、一応参加)

“パシーン”
スタートしました。
おっと、地引網、早くも戦意喪失。
続いて、組長も、脱落だ。
ビーチバレー1号出た!いや、これは、2号の方か?
ロケットも、後に続く。
ロケット来た!
ロケット並んだ!
ロケット抜いた!
ロケット、ゴおおおおおおおおおおおおおール!!!
9.59(-5秒してますが・・・)、ビーチレコードだー!!!!

ロンドン目指して(目指すのは自由)、私は、今日も走り続けます。
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by phuketbreakpoint | 2008-08-24 22:38
浅草にいた頃(1987-8年頃)、周りには、ヒモ暮らしをしている中年男性が大勢いました。
彼らの多くが、今の私と同じような年齢(47歳)だったと思いますが、どこで拾ってくるのか、見るからに、田舎娘丸出しの女の子(20歳前後、みんな、今、どうしているのかなあ・・・)を連れてきては、劇場に売りつけ、契約金と称して、手付け金をもらい、衣装代、レッスン料、マンションの敷金・礼金等は全部女の借金にして、自分はブラブラしながら、また別の女を探しにいくという、まるで、パトンビーチで観光客の男を食い物にしながら生きている女の子たちを、そっくり、そのまま逆さにしたような生活をしていました。
劇場の女会長さんは、オッサンたちを事務所に呼びつけては、
「お前ねえ、いつまで、こんな暮らしをしてるんだい。ちゃんとしないと、ダメだよ、本当に・・・」
そんな説教をしておきながら、しばらくすると、金庫から札束を出してきて、
「はい、これ。また、頼むわよ」
さっきと、全然逆のことを言っていたりするのです。

彼らは、女に関しては、極めて現実的な感覚を持っていたと思います。
女性に対して、夢を見るようなことは決してなく、高望みしないで、自分で落とせそうな相手を冷静に見極めて、狙いを定めると、最初は、羽振りの良いところを豪快に見せて、気を引いて、一度寝てしまえば、もう絶対に逃がしません。
「どうして、あんなオヤジと、一緒にいるんだよ?」
何人かの女の子に、そう聞いたことがありますが、
「だったら、西岡さん、一緒に逃げてくれます?」
いきなり、そう突っ込まれると、
「うん・・・、まあ・・・、そのうち・・・」
生返事で、ごまかすしかありませんでした。

そして、彼女たちが、いよいよ我慢できず、オッサンたちから離れていくのが、だいたい2年くらいです。
「もう、逃げよう・・・」
その決意が固まれば、身の回りにいる、適当な男を見繕って声をかけ、相手が、その気になりさえすれば、すぐに行動に移ります。惚れた、はれたは、一切関係ありません。
ここで使われる男は、あくまでも、緊急脱出用のパラシュートといった存在で、地上に、降りれば、用済みとなって、ポイ捨てされる運命が待っています。
私も、あの時、誘いに乗ったが最後、さんざん利用された挙句に捨てられていたことでしょう。
そして、やっとのことで逃げ出して、「自由」を手にしたはずの彼女たちも、次の場所(関西や地方都市の盛り場)で、また、ろくでもない男に捕まってしまい、同じことの繰り返しです。1年くらい経つと、また、ふらふらと、浅草に戻ってきてしまいます。


何事も飽きやすく、恋愛に関しては、特に貪欲なタイ人たちにとって、結婚生活が、ずっと守っていかねばならないものだと感じている人は、少ないのかもしれません。
これは、そっくりそのまま、タイ人の仕事感にも、共通しているように思います。
うちのお店で働いてくれる若者たちが、どれくらい、ブレイクポイントに勤続しているのか、改めて思い返してみると、まず、十代の男の子、女の子の場合、だいたい、長くて、3、4ヶ月くらいです。面接時に年齢を聞いて、そうと分った時点で、不採用は、ほぼ確定です。ハイシーズンの人手不足時以外には、まず採用しません。

使いものになるのが、22~23歳くらいからで、この年齢の人たちは、ある程度、経験もあり、一応の辛抱も、身に着けていますから、採用します。
それでも、長い子で、約2年でしょうか。オープンして、何年かの間は、この2年の壁が、なかなか破れず、
「これ以上は、無理なのかなあ・・・(日本のバイトも、だいたい、同じくらいの長さでしょうか)」
と、感じていたのですが、津波以降、それを超えるスタッフが、何人か現れました。
テンちゃん(32歳)は6年、チュワン(28歳)は4年、ウーティット(26歳)、ティック(29歳)も、2年以上で、この4人は、私にとって、片腕のような、ありがたい存在だといえるでしょう。
しかし、直近の3年間だけを見ても、30~40人は、出入りしましたから、確率的には、10分の1くらいだと思います。

4人に対しては、待遇も、他の者とは意識的に差別して、多少の不始末も大目に見ます。
当然ですね。実績があるんですから。
「差別じゃないか!」
そう文句を言ってくる人が、もしいれば、こう返してやります。
「そうだ、差別だ。キミも、もし二年以上働いてくれたら、じゃんじゃん、贔屓するぞー!」
結婚相手に選ぶなら、こういう持久力、耐久力のある人間を選んでいけば、少なくとも、3、4年の間だけでも、うまくやれるのではないでしょうか。

タイ人との結婚(注、その辺にいるような、普通のタイ人という意味です)では、成功の法則は、はっきり言って、よくわからない部分が多いのですが、失敗する人の多くが、こういったパーセンテージや条件を、端から無視して、相手を選んでいるように思います。
“多少の不便や、辛抱は覚悟して、2人で一歩一歩、未来を築いていく・・・”
そんな地道な人生を、歩むつもりなんか全然ない女性を捕まえてきては、自分の考えを、無理やり押し付けて(相手側は、きっと、そう思っているはず)、地味な生活を強要していけば、すぐに嫌気がさしてしまうのも当然でしょう。

恋愛関係は、極論すれば、「惚れる」のか、「惚れられる」のか、どちらかということになりますが、主導権が取れるのは、当然、「惚れられた側」ということになります。
男性でも、女性でも、タイ人の惚れやすさを考えれば、自分が20代の場合には、確実に、こちら側で主導権が取れると思います(少なくとも、最初は)。
20代の日本人男性なんかが、
「好きなタイ人の女の子もいるけど、あの子と、ずっと一緒に暮らそうとは、思わないなあ・・・」
そういった感覚で付き合っているうちは、火傷を負うことはありません(殺されることはありますが)。
いや、むしろ、女の子の方が積極的で、
「彼のことが、本当に好きなのに・・・・。どうして、あの人は、真剣じゃないのかしら・・・。日本に、恋人がいるのかなあ・・・」
と、悩んでいたりします。

ところが、こちらが年齢を重ねていくに従って、相手側に主導権を奪われることが多くなり、
「なんか、騙されそうな気もするんだけど、どうしても、彼女が忘れられないんだ・・・・」
女遊びも、あまりやらず、仕事一筋・数十年、人生を真剣に考えている・・・・、過去の様々な例を思い返してみると、こんな中高年男性ほど、危ないように思えます。
浅草にいたヒモ男たちは、そういう意味で、現状分析が、とても的確でした。
確実に、主導権が取れそうな相手を、冷静に選んでいたと思います。
プーケットでは、ついつい、タイの男性が得意とする、無差別絨毯爆撃(落とせようが、落とせまいが、まったく気にせず、手当たり次第、唾をつけるやり方)の影響を受けてしまい、本来なら、手を付けるべきではない相手に接近して、自ら墓穴を掘ってしまうパターンが多いと思います。

プーケットでも、最近、リタイアされた方たちが、こちらでタイの女性と知り合って、第二の人生を楽しんでいるケースも多くなってきましたが、うまくいっている方たちの例を見てみると、この条件を外していないように思えます。
長期滞在者の上原さん(仮名66歳)は、家も、車も、全部タイ人の彼女名義にしておいて(ノーガード両手ぶらり戦法)、
「オレも、そんなに長くはないから、死ぬまでは面倒見てくれよ。死んだら、とっとと再婚してくれ。生きてる間に裏切ったら、化けて出るからね」
そう言って脅しながらも、結構仲良くやっているように見えます。
年齢的には、確かに説得力のある話なので、相手も、つべこべ言わずに、ついて来てくれていますが、上原さんは、ほぼ毎日、ゴルフ三昧の生活で、どう見ても、ピンピンし過ぎています。終いには奥さんから、
「ちょっと、アンタ。いつまで、元気でいるつもりなのよ」
そう文句を言われてしまうかもしれません。

タイ人は、敬老精神に溢れていますから、適当に枯れたフリをしておくのも、時として、必要なのではないでしょうか。
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by phuketbreakpoint | 2008-08-17 10:09
“タイ人と結婚して、うまくやっていけるんだろうか”
タイ人を好きになってしまった人なら、誰しも悩む問題です。
日本人からすれば、
“何事も、安く上がるタイ”
という感覚があって、結婚生活も含めて、何もかもが日本に比べ、「かなり割安に上がるはずだ」という思い込みがあります。
これは事実でもありますが、タイ人の側からすれば、日本人との結婚生活は、そんな安上がりなものではなく、
“夢のように、素敵なものだろう”
といった期待感を持っていますから、現実の生活が、あまりにも、それとかけ離れた地味なものであった場合、とっとと見切りを付けられて、次の恋に、行かれてしまう可能性が高くなります。
タイ人と結婚した外国人が、
“お金の問題でアウト”
そんな例が、なんと多いことでしょう。


ラントムと同棲していた頃(1992年春頃)、彼女の部屋の向かいには、ピアという名のタイ女性が住んでいました。
彼女は、当時33歳、トラン県出身(ラントムも昔、この県に住んでいました)ということもあり、ピアと私たちは、よく一緒に遊びにいったり、ご飯を食べたり、まるで、兄弟姉妹のような関係だったと思います。
彼女には、スイス人の恋人(後に結婚し、その後、離婚)がいました。
「ねえ、ダーリン。わたし、お金無くなっちゃったの。すぐに送ってちょうだい。先週送ったお金?そんなもの、とっくに使っちゃったわよ。ねえ、早く送ってちょうだい」

ビーチ沿いにあった電話屋(インターネットが普及するまでは、いたる所にありました)から、彼の住む、チューリッヒまで国際電話を入れては、甘い声で、おねだりしていた彼女でしたが、相手の男性も、彼女の金遣いの荒さは充分わかっていたようです。
その翌週、封筒に入れて、送ってきたスイスフランは、日本円にして、1万円程度でした。
郵便局まで書留を取りに行ったピアは、封筒を開けて、中身を見た途端、みるみる表情を変えて、怒りに震えたような口調で、
「アイム、ベリー、アングリー・・・・、こんな、はした金で、どうしろっていうの?」
当時、タイ語が話せなかった私に、英語で、そう捲くし立ててきましたが、私は単に、バイクで、ここまで送ってきただけなのに、迷惑な話です。

当時、パトンビーチで働く、普通のタイ人のお給料が、月額・邦貨で、約1万5千円(当時のレートで3000バーツ程度)くらいでしたから、1万円(同約2000バーツ)という額は、大金というわけではないにしても、タイ人にとっては、少なすぎる額でもありません。普通の暮らしをしているのなら、そうなのです。
このとき、彼女は結婚目前で、もう仕事は辞めていましたが、相手の男性にしたら、
「たくさん送っても、すぐに使っちゃうしなあ・・・。2000バーツも、送っとけば充分だろう。どうせ、来週になったら、また電話をかけてくるから、そのとき、もう一度、2000バーツ送ればいいか」
こう思っていたみたいですね(その翌月、本人から聞きました)。
スイス人の感覚で下した、ごくごく常識的な判断が、まさかプーケットで、これほど彼女を怒らせていたとは、彼も想像できなかったことでしょう。

彼女に限らず、
“外国人と結婚すれば、贅沢し放題”
そんな誤解が、プーケットで暮らす、タイ女性たちの間にあるのは事実だと思います。そして、彼女は、
“ファランと結婚することになって、いかに、自分が羽振りの良い生活をしているのか”
それを、仲間のみんなに、見せたくてしかたがない、といった感じで、行く先々で、パーっと、お金を気持ち良さそうに使っていました。
「今夜、食事に行きましょ。お金が無い?大丈夫よ、私が奢ってあげるわ。きのう、彼が送金してくたの」
「レン・パイ(カード賭博)するの?9時に、サーオのアパートね。わかった」
20日分のお給料なんて、これじゃあ、アッという間に、無くなってしまいます。
そして、こういう仲間が近くにいると、周りにいる者は、みんな、
“わたしも、負けてはいられない”
そんな雰囲気になってしまい、“外人狩り”が蔓延していくわけです。

以前、うちのお店で働いていたダーオには、今、アメリカ人の彼氏がいるそうで、彼女は最近、嬉しそうな表情で、うちにやってきては、
「来月、彼の家に遊びに行くんです。先週、バンコクに行って、パスポートを作ってきました」
「彼に、ヤーリス(トヨタ「ヴィッツ」のタイネーム)を買ってもらったの。でも、駐車場がないから、ちょっと、困ってるの」
そんなことを、いちいち報告していきます。
彼女が辞めたときは、ハイシーズンのピーク時で、しかも、業務命令を無視しての解雇処分ですから、本来なら、「お前は、出入り禁止」と言いたいところでしたが、そんな経緯を全部忘れてしまったかのような、本人のあっけらカーンとした、ノー天気ぶりに、私は、何も言うことはありませんでした。

そもそも、彼女が、うちのお店を辞めるきっかけとなったのは、同僚のエーが、オーストラリア人の恋人の自慢話ばかりしていることに腹を立てて、切れてしまったのが原因なのです。
三年経って、彼女も同じことをやっているわけですが、きっと、知っている人、全員のところに行って、こんな話をしているのでしょう。
そして、こういった話を耳にすれば、当時の同僚であったテンちゃん(当店名物スタッフ)なんかは、きっと、心中穏やかならざるものがあるんだと思います。

私も、ラントムと結婚した当初は、今日はこっち、明日はあっちと、いろんな場所に連れ回されては、彼女の友人・知人・親類たちに紹介されていました。
「わたしねえ・・・、今度、日本人と結婚することになったんですよ・・・」
行く先々で、彼女は、自分のフィアンセを見せびらかしたかったようです(そんな、大それたもんじゃあ、ないんですが・・・)。ドサ回りの旅役者みたいな状態でしたね、あの頃は・・・。

しかし、こういった華やかな顔見世興行は、じきに終わりを迎え、普通の生活に戻っていかねばならないのは、みな同じですが、相手のタイ人にとっては、これは、非常に辛いことのようです。
甘く、優しい太陽の季節は過ぎ去り、生暖かい南風と共に、辛く、厳しい雨季が、プーケットにやってくるのです。

この話続きます。
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by phuketbreakpoint | 2008-08-10 10:34
何年か前の補習校の運動会で、お昼休みの時間に、お弁当を食べながら、保護者の男性と、こんな会話を交わしたのを覚えています。
「西岡さん、こっちの女って、どうして、すぐ、あれ買ってくれ、これ買ってくれって、言うんでしょうねえ。今、付き合ってる女が、シティー(ホンダ)買ってくれって、うるさいんですよ」
すると、これを隣で聴いていた、タイ人のお母さん(推定年齢、当時30歳、半年間だけ、プーケットに滞在していました)が、
「ソリャア、ソウヨ。ダッテ、最初ニ買ッテオカナイト、後デ買ッテモラエナカッタラ、大変デショ」
と、話に割り込んできました。
「えー!そうなんですか?」
私が、ちょっと意外、といった表情で反応すると、、
「当タリ前ヨ。マズ、クルマ買ッテ、家買ッテ・・・。ネ、コレナラ、別レテモ、ダイジョウブデショ」
顔色ひとつ変えず、すらすらと、そんなことを喋っている彼女ですが、ふだん話していても、特に、エゲツない感じのする女性ではありません。

車を買ったら、次は家、家を買ってやったら、今度はお店、お店を持たせてやったら、今度は、誰かが病気と、次から次へと出される要求に、うんざりして、
「もう、何も買わん!」
と、言った途端に、“ドロン”といなくなってしまうのは、パトンビーチでは、よくある話です。
しかし、女性の身になってみれば、この先、どう転ぶかわからない国際結婚では、自分の身と権利は、自分で、守らねばなりません。
実際の話、この女性の夫(日本人)には、日本で愛人ができてしまい、当時小学2年生だった一人息子を連れて、彼女は、プーケットに流れてきました。
彼女が、どんな条件で離婚を承諾したのかはわかりませんが、起こり得る事態に備えて、安全保障の手は、打っておかねばならないと、実体験から学んだのでしょうか。


ラントムと知り合った一年半後、勤めていた会社を辞めた私は、パトン・ビーチのアパートで、彼女と一緒に暮らしていました。
初めてのプーケット長期滞在で、身も、心も、何もかも、安心して委ねられる相手は、彼女以外には、あり得ません。それまで、特定の女性と暮らした経験がなかった私は、もっと、居心地の悪さを感じるかと思いましたが、不思議なくらい、私の心は、落ち着いていました。
有り金は、まだ、たっぷりと残っており、それほど、ケチケチする必要のなかった私たちは、やりたいことをやって、食べたい物を食べていました。

しかし、付き合っているだけの頃には、気づかなかったことが、いろいろと見えてきた時期でもあります。
スッピンの彼女を見たのも、このときが最初でした。
「ねえ、ラントム、今朝の朝食は・・・・ん?なんか、いつもと、ちょっと・・・・・、
あーっ!眉毛がないっ!!」
「マイ・ペンライ(気にしない)。すぐに描くから、ちょっと、あっち向いてて」
女の人の神秘的な部分が、少しずつ、剥がれ落ちていくような日々でした。

「ところで、ラントム。気になっていたんだけど、アルバムに入っている、あの写真・・・、あれは、キミの子どもなんだろ?」
一年半のプーケット暮らしで、彼女は、英語が話せるようになっていましたが、私が遠慮もなく、こう切り出すと、言葉に詰まってしまいました。
「えっ・・・、うん・・・・、それは・・・・」
タイでは、子どもを実家に預け、働きに出ている女性が大勢いますから、私も、だいたいの察しはついていましたが、
「今、どこにいるのよ。今度、会いに行こうか」
私が、そう誘うと、彼女は、ちょっと間を置いて、神妙な顔つきで、
「子どものこと・・・・、気にならない?私のことが、嫌いになった?」
ためらいがちに、聞いてきました。
気にならないといえば嘘になりますが、彼女と別れようなんて、これっぽっちも、考えませんでした。
“このまま、ずっと、ラントムと一緒にいたい”
それまでの優柔不断な人生からは想像もできないほど、あのときの私には、迷いがなかったと思います。

それに、私たち夫婦が、これまで16年もやってこれたのは、もしかしたら、彼女が再婚だったからかもしれません。
「あんな日本人でも、別れた亭主よりは、マシか。もうちょっと、置いといてやろう」
まあ、そんなところでしょうか。
“タイでは、再婚女性を狙え!”
これは、もしかしたら、当たっているのかもしれません。

2日後、私たちは、パトンビーチからミニバスに乗って、ソンクラー県にある彼女の実家に向かっていました。
今でこそ、きれいに舗装された国道4号線ですが、あの当時は、まだ拡張工事が終わっておらず、時速30キロ程度の、のろのろ運転で、何時間も、ボコボコの道を揺られることになりました。
「もう、フラフラだー。我慢できない」
ハジャイまでの道のりを、半分ほど過ぎたところで、私は、とうとう辛抱できなくなってしまいます。
「困ったわねー。だったら、この先を、もうちょっと行ったところにあるトラン県に、私の妹夫婦が住んでいるから、そこで休んでいきましょう」
田舎育ちで、タフなラントム(本当に、そう感じます)は、過酷なバスの長距離移動にも動ぜず、いつもと同じ優しさで、私の肩を、一生懸命マッサージしてくれました。彼女は既に、二人も赤ちゃんを育ててきましたから、こういうときの対応は、実に手馴れたものです。

トランの中心部でミニバスを降り、そこからトゥクトゥクで、乗り合いタクシー乗り場へ移動して、席が埋まるのを待って、車は出発しました。
30分ほど、またデコボコ道を揺られていると、ヤンタカウの街が見えてきました。
「やれやれ、やっと、着いたか・・・」
そう思ってタクシーを降りると、今度は、バイクタクシーの運ちゃんに、彼女は声をかけます。
「ルング・ルーン(チャルーンおじさんの意)の家、知ってる?あそこの近くなんだけど・・・」
ここから、またバイクに乗って、赤土の道を約30分間、ガタゴト揺られて、さらに、あぜ道に入って、ゴム林を突っ切ると、ようやく、目的地であるチャルーンさんの家が見えてきました。

何の変哲もない、ただの田舎の木造屋でしたが、ここが、地元の実力者である、チャルーンさんの家でした。
軒先には、作られたばかりのゴムのシートが、何枚も、独特の臭いを発しながら干されています。
「おー、トム(ラントムのこと)じゃないか。どうしたい?」
トラン県特有の訛りで、チャルーンさんが話しかけてきました。
ラントムが来月、日本に行くことになったと伝えると、
「なにいー!?日本人と結婚するだってー!?スゲーなー、おい!」
ワザとらしく、大げさに驚くのは、田舎の人の特徴です。
「ハウ・ドゥユ・ドゥ?」、「ハウ・アー・ユウ?」、
かなり、くせの強い英語でしたが、この村で、唯一人の大卒者であるチャルーンさんは、日本人と話すのが始めてなのか、物凄く、嬉しそうな顔で、そう聞いてくれました。

ラントムの妹ティップの家は、ここから、100mほど離れた小さな小屋でした。彼女は、夫のシェスと、二人の息子たちと一緒に暮らしていました。ブロックを積んだ壁に、塗炭の屋根がのっているだけの、実に粗末な家です。
ここに、3日ほど泊まった、ある日のこと、ティップの亭主シェスが、何やら、ラントムと相談していました。
しばらくすると、彼女が私を呼んで、こんな話を始めます。
「ねえ、フミオ。私、日本に行くのはいいんだけど、やっぱり、マヨムのことが、心配だわ。実は、この近くで、ゴムの林が売りに出ているの。後で、ちょっと見に行かない?」
ゴムの林と聞いても、私は、あまりピンときませんでしたが、彼女は興味があるようでした。
「この林を買っておけば、私たちが日本にいる間も、シェスとティップが、ここで作業して、売り上げの半分は、ラノットにいるお父さん、お母さん、そして、マヨムに送金してくれるわ。どうかしら・・・、ここを買わない?」

今なら、こんな話には、絶対に飛びつきませんが、広大な土地のオーナー(14ライ、約7000坪程度)になれるという魅了がありましたから、私も、この話に乗ってしまいました。
それに、彼女も、積極的に欲しがったというわけではなく、
「買う気がないのなら、別に、いいのよ・・・」
そんな感じだったので、私は尚更、
「彼女のために、なんとかしてやりたい」
という気に、なってしまったものです(もしかしたら、高等戦術でしょうか?)。ラントムを、遥か異国の地に連れて行こうというのですから、いってみれば、これは結納金代わりと、言えなくもありません。

すぐに手付けを打って、私は一旦、日本に戻り、金を持って、再びタイに戻ってきました。
私にとって、タイ王国で行った、初めての土地取引でしたが、手続き自体は、特に問題もなく、終わらせることができました。
結局、売り上げの半分をラノットに送金するという約束は、一向に果たされることはなく、5年後に、ここを売るまで、ほとんど収益をあげることはできませんでしたが、それなりの利ザヤは、稼ぐことができました。
まあ、一歩間違えば、ラントムと妹たちに取られてしまったかもしれませんが(そういう実例も、結構あります)、あの頃の私は、ホンワカと舞い上がっていましたから、そんなことも、全然気になりませんでした。

“彼女のことが、好きで、好きで、たまらない”
というわけでもなかたのですが、かつて味わったことのない、くつろぎ感の中に、私は、いたといえます。
「あー、なんだか、ふわふわして、気持ちがいいなー。彼女といると、なんだか、すごーく、落ち着くなー」
まったくの腑抜けでした。
その後、何年かして、『ポカポカ地球家族』という番組に出演することになる、私とラントムですが、私が本当に、ポカポカしていたのは、あの頃の、3ヶ月間だったかもしれません。

この話続きます。
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by phuketbreakpoint | 2008-08-03 11:19