タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

<   2007年 11月 ( 4 )   > この月の画像一覧

小さな大運動会

2000年10月、開校したばかりのプーケット補習校で、第一回の運動会が行なわれました。
初代校長の野末さん(仮名)は、何事も思いついたら、がむしゃらに突っ走り、実行に移していくタイプの人で、この性格が災いしたのか、ビジネス面では、あまりうまくいくことはなかったのですが、補習校の立ち上げでは、ごく短期間で、プーケット島内の子どもたちをまとめ上げ、休止状態だった補習準備校を、プーケット日本人補習授業校として再スタートさせることに成功しました。開校の翌月、いきなり運動会を開催することになったのも、やはり野末さんら、当時の運営担当者が、いかに補習校に打ち込んでいたかを物語るものがあります。

補習校に参加するまでの私は、付き合いのある日本人といえば、後に校長となる野末さん以外には1人もおらず、現地に土着して生活していたのですが、補習校開校がきっかけとなって、少しずつ日本人の知り合いが増えていきました。どう強がりを言ったところで、やはり、私も日本人です。同じ日本人同士、日本語で会話を楽しめる場所というのは、実に有難いものでした。
「今週も、みんな(他の保護者)に会えるなあ。早く土曜日にならないかなあ」
それほど喜んでいるようには見えない子どもたちを尻目に、私一人、毎週、浮き浮きして土曜日を待っていたのです。
こんな中で迎えた第一回の運動会を、私は、今でも忘れることはできません。
「恐らく、一生涯経験することなく、終わるだろう」
と思っていた日本式の運動会を、大勢の仲間たちと一緒に、私は、心から楽しみました。私の補習校活動の原点が、あのときの運動会にあったと思います。


10月31日水曜日。
「今年は、親子混合種目を、もっと増やしませんか」
ここ何年か、運動会の盛り上がりが、イマイチ、と感じていた私は、回を重ねるごとに、少しずつ減り続けた保護者参加競技を、今年は、思い切って増やそうと、教務会議で提案しました。
親たちが車やバイクを運転し、自分で子どもたちを連れてくる補習校では、以前の私がそうだったように、保護者自身が楽しくなければ、子どもは、絶対に通ってきません。
「みんなで工夫して、親たちにも、大いに楽しんでもらいましょう」
今年は全種目中の半分を、大人参加OKの競技にしました。
「運動会も、教育の一環だ」
等という、クソ真面目な考え方を、かなぐり捨てて、ひたすら親子で盛り上がろうとという、原点回帰です。

11月17日土曜日、運動会当日。
「それでは、そろそろ始めたいと思います」
タイ国歌の斉唱に続いて、プーケットの子どもたちにとっては、あまり馴染みのない、「君が代」をCDで流します。
日本では、「主義、信条の自由」とか理屈を捏ねて、「君が代」を害悪の対象と決め付けるような人もいるようですが、外国暮らしが長くなると、自分が日本人であるという有り難味を、ひしひしと感じてくるものです。君が代は、日本で聞く以上の存在理由があるといえるでしょう。

開会挨拶に続いて、ラジオ体操をみんなでやりました。親も含めて、全員で体を動かします。
「腕を、前から上にあげて、背伸びのうんどー」
何年経っても、日本人なら、この体操は絶対に忘れません。お手伝いで参加してくれたサットリープーケット高校の女子高生たちは勿論のこと、当校の生徒たちの中にも、生まれて初めての経験だった子は多かったようで、親たちが嬉しそうに興じる不思議な運動を、みんな、笑いながら真似してついてきます。

さあ、いよいよ競技開始です。
最初は、徒競走で、生徒たち全員の参加です。
「位置について、よーい、ピー」
光行先生の吹く笛を合図に、子どもたちが、一斉に駆け出します。
「あー、ダメダメ、フライングしちゃあ。ちゃんと、笛が鳴ってから、走らなきゃあ」
みんな、慣れないせいか、最初は、なかなか、うまくいきません。
先頭で、ゴール寸前の子が、テープを切らずに止まってしまい、2着になってしまうパターンが続出です。

幼児部から順番に走っていき、徐々に高学年に上がっていきました。
男子最後のレースで、トリを勤めるのは、チェリー(仮店名)のオーナー石井さん(仮名)の長男、昌平くん(仮名)です。
小さな体を、前傾姿勢で大きく屈め、頭から突っ込んでいくような、その走りは、獲物を求めてサバンナを駆け抜けるチータのようでした。
「すっ、凄い!マジで速い!」
石井さんも、少年時代、こんなんだったのでしょうか?

過去の運動会でも、昌平くんは活躍していましたが、今年の彼は、以前とは、比べ物にならないほど加速力を増し、スピードを最後まで持続させる身体能力を身につけていました。
通常の授業では、静かに座っているだけで、地味な印象がある、この少年の隠されたパワーが一気に爆発したようで、見ているギャラリーからは、「オオオウウウ・・・・!」という、大きなどよめきの声が上がっていました。
昌平くんに限らず、普段補習校で、それほど楽しそうにしているとは思えない児童たちが、ここぞとばかり、大騒ぎしている姿は、毎週、苦しみながら授業を担当している者にとって、大きな励ましを与えてくれます。

玉入れに、二人三脚、ピンポン玉運びに借り物競争。
日本の運動会の定番競技を、次々と親子一緒に楽しみます。
「ちょっと、このバナナ大きすぎるー」
障害物競走では、用意したバナナ(全部食べてからゴールするルール)を口いっぱいに頬張り、みんな大騒ぎしていました。
午前の部が終了し、お昼休みは一時間あります。
各自で作ってきたお弁当は、カレーライスや、ちらし寿司、卵焼き、おにぎりといった、これまた、ニッポンテイスト全開メニューで、運動会気分は最高潮になりました。

午後に入ると、いよいよ競技は白熱してきますが、メインは、いつも綱引きです。
年齢と共に、筋肉痛は翌日ではなく、一日遅れで、翌々日にやってくるようになりますが、その原因が、綱引きにあるのは疑いの余地がありません。
まず、子どもだけで、3本勝負をやり、その後、大人も参加しますが、毎回、大接戦になってしまい、全身に力を入れた状態が、30秒以上も続いて、くたくたです。
ここで消耗した体に、止めを刺すように、フィナーレの親子混合リレーが続きますから、全競技を終了する頃には、余力は、あまり残っていないはずですが、みんな笑顔でいっぱいです。このときの疲労感の、なんという、心地良さでしょう!
全種目参加できる運動会なんて、めったにありません。小さな補習校でも、小さいなりのメリットが、ちゃんとあったんですね。

閉会式では、各賞を発表します。
応援賞、努力賞、優秀賞に続いて、いよいよ、今年度のMVP,最優秀選手賞の発表です。
「プーケット補習校、2007年度、大運動会のMVPは・・・・・」
選ばれた子は、いつもニコニコ笑っている、スプリンターには、とても見えない吉中くん(仮名)でした。外見のイメージと大いに異なる、彼の力強い走りは、やはり見ている者みんなを、大いに驚かせていました。

子どもも、大人も、みんなで楽しんで、プレゼントも、大うけだったし、
「今年の運動会は、大成功だったなー!」
ホッと、肩の荷を降ろした私は、帰り際、ふと気がつくと、大喜びをしているはずの生徒が涙ぐんでいます。
「どうしたんですか、これは?」
慌てて、近くにいた運営副委員長の蜂谷さん(仮名)に聞いてみると、
「参加賞のドラゴンボールですよ。みんな、あのフィギアが欲しかったのに、小さい子に、先に取られちゃって、大きい子まで回らなかったんです」

みんなを、幸せにしてやろうと思って、買ってきたのに、最後の最後で、不幸せな気分にさせてしまったようですね。
「いやあ、先生が悪かった!ハイシーズンが終わったら、すぐ、バンコクに行って、必ずドラゴンボールを仕入れてくるから、ちょっとの間、我慢して待っててちょうだい」
2007年度大運動会は、こうして無事、終わりました。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2007-11-23 10:32
プーケット補習校では、前期終了時に2人の先生が辞められ、また、欠員ができてしまいました。
定期的に人が辞めていくのはブレイクポイントと同じで、その度に、人探しに奔走するのが、お店でも、補習校でも、一番の仕事になっています。
恐らく、世界各地に200近くあると言われる日本人補習校の共通する悩みが、先生の確保であることは間違いありません。特に、プーケットのように、日本人長期滞在者の出入りが激しい地域では、この問題は、最も深刻な課題だと言えるでしょう。

うち1名、幼児部の先生は、すぐに見つかりましたが、もう1名、二年生クラスの担任は、後期授業の開始直前になっても、決めることができませんでした。同僚の先生方からも、圧力をかけられ、私は、何人かの候補者に電話をかけることなりました。

まずは、保護者の酒井さんです。
「あー、もしもし、補習校の西岡ですが・・・・」
酒井さんは、補習校のイベントに、いつも参加していただき、話すと、どことなく、教養を感じさせられます。先生には、ピッタリの人材でしょう。
「手っとり早く、これで決めちゃおう」
と、考えていた私でしたが、電話をかけると、
「あのー、すいません。うちはまだ、補習校に入ったばかりで、状況も、よくわかりませんし、人に教えた経験もありませんから・・・」
すんなりと、断られてしまいます。
「経験なんて、補習校の先生方は、どなたも持ち合わせちゃいませんよ」
そう切り返すべきだったのかもしれませんが、何事も、無理強いしないのがタイのスタイルですから、諦めることにしましょう。まずは、一人脱落です。

次の人に電話をかけようと思っていたら、同僚の小森(仮名)先生から、電話がかかってきました。
「山上さん(仮名)なら、受けてくれると思いますよ。とっても、教育熱心な方ですから・・・」
山上さん?確かにそう言われると、大丈夫のような気もします。この話、いただいちゃいましょう。
今年、日本から来たばかりの山上さんなら、まだ、タイ人化していないでしょうから、しっかりとした授業をやってくれるはずです。こういうことは、やはり、現役の日本人の方が向いているでしょう。

「補習校の西岡ですけど・・・・・」
私は、ざっと状況説明をした後に、
「ぜひ、先生をやってほしいんですが」
と切り出しましたが、なかなか色よい返事は返ってきません。3日ほど前に、運営副委員長の蜂谷さんに、人探しをお願いしていたのですが、どうやら、蜂谷さんの方からも、話がいっていたようです。私が何を喋ろうとしているのか、分かっているようでした。
結局、ここでも、私は押し返すことができず、あっさりと逃げ切られて、二人目も、ダメになってしまいました。我ながら、本当に粘りがありません。

三人目は、日本人会の監査役でもある河野さん(仮名)です。
リタイアされ、プーケットで長期滞在を続けている河野さんなら、時間もたっぷりあることだし、受けてくれるかもしれません。ところが、
「いやー、私はもう、リタイアした身ですから、のんびりと、やっていきたいんですよ」
ここでも、断られてしまいます。

こうなったら、北野さん(仮名)しかいないでしょう。
いつも、何かをお願いする度に、時間を作って、手伝ってくれる彼女なら、きっと、この窮地を救ってくれるはずです。
「あのー、補習校の件なんですけど・・・」
「保護者会の議事録のことですね。それなら、明日、そちらにファックスで送りますから」
「いや、それも大切な問題なんですが、実は・・・・」
私は、現状を説明しました。
「そうですか・・・。お手伝いしたいのは、やまやまなんですけど・・・・、私も、仕事の都合とかありますし・・・・・」
誰か先生方が休まれたときに、臨時で穴を埋めるくらいなら、やってもいいという話です。
それは、それで有難い話でしたが、今、早急に必要なのは、欠員の穴を埋めてくれる人材です。

困っていたら、小森先生から、また電話が入ってきました。
「えー、全滅!?本当ですか?西岡さんは、押しが弱すぎるんですよ。どうするんですか、いったい?」
「いや、じつは、とっておきの隠し玉が、まだ残っているんです。先月、日本から来たばかりの須藤さん(仮名)なら、きっと引き受けてくれるはずですよ。先日も、軽く当たりを付けておいたんですけど、感触は悪くなかったですから」

いよいよ最後の候補者になってしまいましたが、後期授業をフルキャストでスタートできるかどうかは、この電話次第なのです。ここで断られたら、もう後がありません。私は、予想されるやり取りをシュミレーションして、イメージトレーニングしておくことにしました。

「私が、こう誘うと、須藤さんは、こう断ってくるから、私は、こう切り返して、最後は、相手が迷っているところを、こう畳み込んで・・・・」
完璧です。今度ばかりは、間違いないでしょう。これだけ、入念な準備をして挑めば、押しの弱さも、充分にカバーできるはずです。
気合を入れ直し、怒涛のがぶり寄りで、相手に反撃の隙を与えず、一気に押し切らねばなりません。
さあ、いよいよ勝負です。大きく深呼吸して、私は、受話器に手をかけました。

「須藤さんですか?あのー、実は、補習校の先生の件なんですけど・・・・」
「あー、あれ?ごめんなさい、私、やっぱり、無理ですねえ」
そうくると思ってました。でも、そんなことは想定内ですから、私は、こう切り返して・・・と思っていたら、
「あっ、西岡さん、ごめんなさい。他に電話入っちゃったみたいだから、この件は、そういうことで・・」
ガチャン、ツー、ツー、ツー、ツー・・・。

最後の勝負をかけたつもりでしたが、いとも簡単に、かわされてしまったようです。これから、どうすればいいんでしょうか。
とりあえず、小森さんや、蜂谷さんの追求をかわすためにも、しばらくは居留守を使って、携帯の電源も切っておいたほうがいいかもしれません。それとも、どこかに高飛びして、身を潜めるべきでしょうか。

店番しながら、コソコソと逃げる準備をしていたら、パトンビーチで英語を勉強しているという日本人男性のお客さんが話しかけてきました。
「実は、同じ学校で勉強している女性なんですが・・・・」
聞いてみると、なんと、補習校で先生をやってもいいという話です。
翌日、さっそく連絡をとり、お店まで、その女性に来てもらいました。

どうな経歴であろうとも、今現在、進行形で犯罪に関わっている人以外なら(過去の罪には、目をつぶります)、
「絶対に、この人で決めてしまおう」
と、私は考えていたのですが、面接の流れもありますから、一応、履歴を聞いてみました。
「千葉県の中高一貫校で、先生をやっていました」
「先生・・・ですか!?・・・・つうことは、プロなんですよねえ!」
「ええ、まあ・・・。でも、私、タイ語が、まだ話せないんですけど、勤まるでしょうか・・・」
勤まるもなにも、こんな経歴の方は、補習校7年の歴史の中でも、ほとんどいませんでしたから、諸手を挙げて大歓迎です。
「捨てる神がいれば、拾う神も、たまには、いるもんなんだなあ・・・」
このときは、つくづく、そう思いました。
ぎりぎり、土壇場、崖っぷち、もう後がない状態でしたが、なんとか踏みとどまったようです。

「押しですよ、押し。私の押しにかかれば、先生の一人や、二人、わけないですよ、ガハハハハハ・・・・・」
実際は、単なる棚ボタだったんですが、私は、翌日の教務会議で、大手柄を報告したのでした。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2007-11-15 10:24

あー、忙しい、忙しい

バンコクの大学に進学したマヨムが、中休みを利用して、プーケットに戻ってきました。相変わらず、髪の毛は、「ゴーゴースタイル」のままです。

マヨムに、韓国人のボーイフレンドができたのが、昨年の末頃だったでしょうか。
しかし、何事も真剣味に欠けるのがタイ人の特徴です。二人の仲は、それ以上親密になることはなかったようで、中途半端な状態のまま、時間が過ぎていきました。
そこに現れたのが、校内でも人気がある、これまた韓国人のハンサムボーイ。彼の甘いフェースに、「秒殺」されてしまったマヨムは、方向転換し、この男に入れ込むようになっていったようです。しかし、最初の彼氏も、親がお金持ちだったためか、捨て難く、とりあえず、こちらもキープしたまま、同時進行することになりました。
ハンサムボーイを落とすためには、自らのルックスをパワーアップさせねばならない、と考えたマヨムは、最初の彼氏に貢がせて、フェイスケアのお店に通っていましたが、やはり、本命の彼には、群がってくる女がウジャウジャいたようで、ほとんど相手にされず、それでは、と再びキープしておいた男と、よりを戻そうとしていたところ、全部バレていたようで、こちらからも、袖にされてしまい、結局、はぐれ犬になってしまいました。


人間には、持って生まれた性格や、業があります。
女房ラントムの苗字は、コンジャンですが、彼女の田舎では、昔から、
「娘を幸せにしたかったら、決して、コンジャン家には、嫁に出すな」
と、言われるほど、悪名が高かったようです。
コンジャン家の男は、代々、「大酒のみ」の「女好き」で、有名だったようで、ラントムのお母さんが、お父さんと、あんなことになってしまったとき、お母さんの両親は、怒りで何も手につかず、三日三晩、嘆き悲しんでいたそうです。

お父さんは結婚後も、次々と、いろんな女に手を出して遊んでいましたが、どういうわけか、家族を養うことだけは、忘れませんでした。収穫が終わり、暇になると、出稼ぎに出て、金を稼いできますが、仕事の合間、合間に、しっかりと、「女」もこなして、方々に、ミヤノーイ(愛人)を作っていました。

「今日は、お父さんが帰ってくるから、一緒に、港まで迎えに行きましょう」
お父さんが一ヶ月間の沿岸漁業から帰ってくる日、お母さんは、ご馳走の準備をしながら、子供たちに話しかけました。このとき、ラントムは4歳、兄・トゥアンは6歳、妹・ティップは、生まれたばかりでした。トゥアンも、この頃は、母の言うことをよく聞く、いい子だったそうです(ラントム談)。

予定より早く、港に着いてしまったラントム親子は、船着場の手前にあるサラー(屋根つきバス停、あるいは休憩所)に腰掛け、船が到着するのを待っていました。
サラーには、もう一人、若い女性が座っていて、ラントムのお母さんと会話が始まります。
「あなたも、誰か待ってるの?」
「ええ、今日、彼が帰ってくるんです」
「私も、そうよ。でも、ちょっと船は遅れているようね。まだ、だいぶ時間があるみたいだから、お弁当でも食べていましょうよ。よかったら、あなたもどう?」

見ず知らずの人たちでも、簡単に打ち解けあえるのは、タイ人の大きな美点です。ラントムたちは、この女性と一緒に、ご飯を食べながら、お父さんの帰りを待ちました。
「遅いわねえ・・・。ところで、あなたの彼は、どんな人なの?」
「私の彼は、お金持ちの家に育った人だから、本当は、船の仕事なんてしなくてもいいんですけど、彼は、ブラブラしてるのがイヤだって、こうして働いているんです」
「それは立派ねえ。羨ましいわ」
「でも、ちょっと問題もあって・・・・・。どうも、奥さんがいるみたいなんです。はっきりとは、言わないけど、間違いないみたいで・・・」
こんな会話をしているうちに、お父さんの乗る船は、ようやく港に入ってきました。

お父さんは、真っ黒に日焼けした顔を、白いシャツから覗かせて、荷物を担いで船から下りてきました。
「あなた、お帰りなさい。サバイ・ディー・マイ(元気にしてた)?」
お母さんが、そう声をかけると、
「ピー(年長者に対する呼び方。恋人関係の女性が男性を呼ぶときにも、よく使われる)、お帰りなさい!元気だった?」
一緒に、時間待ちしていた女性の口からも、同じ言葉が、お父さんに向かって発せられました。

最初は、「この人、誰と話してるんでしょう?」と思ったお母さんでしたが、女性の視線は、明らかに、お父さんの方向に向いています。
黒い顔を笑顔でいっぱいにして、タラップを下りてきたお父さんでしたが、本妻と愛人が、隣り合わせに待ち構えている状況には、さすがに、うろたえたようです。
「あー、忙しい、忙しい、大変だー。ホントに、忙しい、急がなきゃあ。あー、忙しい、忙しい」
「ちょっと、あなた、どうしたのよ?何が忙しいのよ?ちょっと・・・・」
「あー、忙しい、大変だー。あー、忙しい、忙しい」
わけの分からないことを喋りながら、お父さんは船着場を、どんどん一人で歩いていってしまいます。

「ピー、どうしたの?どこ行くの?ねー、ピーったら・・・・」
愛人の女性も、状況がまったく分からないまま、追いかけていきますが、お父さんは、
「あー、忙しい、忙しい、大変だー、急がなきゃあ、あー忙しい」
お母さんとラントムたちが、唖然として見守る中、お父さんは、追いすがるこの女性を振り切るように、何処かに消えていきました。「あー、忙しい」の、セリフだけを残して・・・・・。

思わぬ、出迎えのダブルブッキングを受けて、その場を取繕うことを諦めたお父さんは、
「現場から、逃走するのが一番安全だ」
と、とっさに判断したようです。この辺の踏ん切りの良さ、開き直りの大胆さは、お父さんの持って生まれた才能でしょう。

それから、2日ほどたって、
「そろそろ、ほとぼりも、冷めた頃だろう」
と考えたのか、ようやく、お父さんは家に戻ってきました。
シラーとした雰囲気でしたが、お父さんは、怯むこともなく、
「いやあ、本当に忙しかったなあ・・・」
まだ、呆けていたそうです。

家では、こうやって、のらりくらりと追求をかわしたお父さんですが、愛人の方は、どうやって、丸め込んだのでしょうか。
「お金持ちの息子」などと、大ボラ吹いていたようですが、全部バレてしまったでしょう。

マヨムも、お父さんみたいな人生を歩めば、はぐれ犬状態から一生抜け出せませんから、この辺で路線変更する必要があるんじゃないでしょうか。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2007-11-08 13:20
みなさんは、母語という言葉を御存知でしょうか。
学術的には、いろいろな解釈があるようですが、私は、
“自分の気持ちを、もっとも、自然に表現できる言語”
という意味でとらえています。

日本に住んでいる日本人なら、母語も、母国語も、日本語ということになりますが、外国暮らしを長く続けていると、必ずしも、一致するとは限りません。子どもが通う学校や、身の回りの環境によっては、母語が、イコール母国語とはならないケースが出てきます。
例えば、タイ王国のどこかで、子どもをインターナショナルスクール(以下インター校)に通わせる場合、そこで行なわれる授業は、ほとんど英語が基本となります。休み時間に、友だちと話すときも英語、帰宅して友人と遊ぶときも英語、その結果、日本語を話すのは、家庭内で両親と会話するときだけ、ということになってしまいます。親子のコミュニケーションが、しっかり取れていればよいのですが、そうでない場合は、自分の気持ちを正確に伝えられる言語は、英語しかなくなるわけです。

バンコクでは、両親とも、タイ人の家庭で育っているのに、母語がタイ語ではない、という子が大勢いるそうです。
バンコクのボーベーマーケットで、私が、パレオを仕入れているお店の母子が、このケースで、
「マミー、アイ・ゴー・ホーム・ナウ」
なんて、タイ人同士でやっていますが、聞いていて、かなり、違和感があります。
生まれたときからタイで暮している子が、せっかく、タイ人やタイ語というアイデンティティーがしっかりしているのに、どうして、わざわざ両親の母国語でもないファラン(白人)の言語や文化に、無理矢理、馴染まなければならないのか、ちょっと疑問に感じてしまいました。

両親とも、日本人の家庭に生まれた子も、また然りです。あるバンコク駐在員の子どもが、インター校に入れられたのですが、結局、二年後に挫折して日本人学校に入り直し、大きなハンデを背負うことになってしまったであるとか、インター校からカナダに留学し、母語が英語になってしまったであるとか・・・。
また、小学校(バンコク日本人学校)で不登校になってしまい、タイの学校にも行こうとせず、日本語は喋れる、タイ語も喋れる、しかし、どちらも、ほとんど書けない、読めない、そして、難しい表現は、会話でも使えない、最終学歴は幼卒(注、小学校中退)、そんな子も、バンコクにはいるそうです。

各家庭によって、言語に対する考え方が違うのは当然ですが、子どもたちの母語が、自分の、あるいは配偶者のものと異なる場合、親子間の、真の意思疎通は、永久に失われる可能性もあることは、認識しておくべきでしょう。
高校受験を目前に控えた長男あきおの場合にも、母語を、いったいどうするのかは、常に考えておかねばならない問題です。もしも、日本での勉学が中途半端なものに終わり、タイの学校にも馴染めないなら、あきおの母語は、いったい、どうなってしまうのでしょうか?

神明中学での個人面談を終え、私は、暗い気持ちで家路に就きました。
「おばあちゃん、そう言ったじゃん。自分で、そう言ったじゃん」
あきおが、また母に絡んでいます。
誰しも、ちょっとした、いい間違いはあると思いますが、いつの頃からか、この子は、それをいちいちあげつらって、憎まれ口を叩くようになっていました。
「あきお、お前いいかげんしろ。そんな小さなことで、どうして、いちいち、引っかかるんだ」
私が怒ってそう言うと、あの子は、プイっと、二階の自室に上がってしまいます。
それでも、私の母に対しては、まだ会話があるからいいようなものの、父とは会話どころか、日々の挨拶すら交わされていないようで、家庭内の雰囲気は最悪でした。

「あきお、挨拶くらいしろって、この前も、教えただろう。どうして、やらないんだ」
「だって、こっちがしても、向こうは、無視してるから」
「それは聞こえてないんだよ。あきおは、いつも、ボソボソ喋るから・・・。おじいちゃんは海軍にいた頃、上官にぶん殴られて、左耳がおかしいんだ。もっと、はっきり言わないと、分からないんだよ」
こうやって諭すと、あの子は、いつも、
「分かった。じゃあ挨拶するよ」
と口では言うのですが、何ヶ月か経って、次にまた日本に行くと、前回より、さらに関係が険悪になっているという繰り返しでした。こんな状態でしたから、私の両親からは、とうとう、
「頼むから、あの子を、来年から寮のある学校に入れてちょうだい」
きっちりと、こう言い渡されてしまいました。

さて、寮のある学校といっても、私には、思い当たる所は、二つしかありません。
一つは、静岡県にあるオイスカ高校。
ここには、私の教え子でもある、プーケット補習校OBの竜太郎くん(仮名17歳)が通っていて、アジア支局の代表が、プーケットで説明会をやってくれたこともありました。

そして、もう一つが、四国にある菱和高校(仮名)。
ここは、昨年、私が山村留学を視察した際に訪れた学校で、その校風もさることながら、四国という風土が、なんだか、とても気に入ってしまい、「うちの子を行かせるのなら、ここだろう」と、密かに考えていたところでした。
東京での三年間で、ぎすぎすし始めた、あきおの性格も、暖かいこの地の気候と人情が、解きほぐしてくれるのではないでしょうか。

さっそく、視察の時に、お世話になった先生に連絡を入れたところ、
「まず、学校を見学させてください。写真やイメージと、実際の姿が違うこともありますから」
そう言われて、私はあきお、そして、やはり来年度日本で勉強させようと考えていた、なおこの二人を連れて、夜行バスに乗り、四国を訪れました。

「あきお、もし、ここがダメなら、相当厳しいことになっちゃうからね。ほら、ちゃんとシャツは、ズボンに入れて、手は、ポケットに突っ込まない」
私は、あの子が置かれている状況を、もう一度説明し、この日が単なる学校見学とは意味合いが違うことを認識させました。
担当の先生や、校長先生に好印象を持ってもらい、できることなら、「内定」を貰って、進路を確定しておきたい・・・、親としては、その辺のことろまで、先回りして考えるのは当然なんですが、以前の私なら、ギリギリに追い込まれるまでは、行動に移すことはなかったでしょう。
「最悪の事態を考えながら、物事の準備を怠らない」
若い頃には、まるで、できませんでしたが、プーケットで何年も揉まれた結果なのか、知らず知らずのうちに、こんな私にも、それが身についていたようです。

太平洋に面した近代的な校舎、真新しい図書館と教室、裏にある美しい庭園、そして、世界中から集まった留学生、タイから来ている子も何人か見られました。
あの子たちも、すっかり、気に入ったようです。
「パパ、あきおは、この学校に行くよ」
「なおこも、そうする」
その気になってくれたのはいいんですが、こちらで一方的に決めるわけにもいきません。
担当の先生が、
「うちは偏差値教育じゃありませんから、面接重視です」
そう言ってはくれましたが、いくらなんでも、30台じゃあ、低すぎると思いますが・・・。
今からでも、やれることは何があるでしょうか?

学校生活の局面、局面で、あきおに的確で明瞭な指導をしてやることができませんでしたから、あの子にも、ずいぶん苦労させてしまいましたが、まだ、手遅れというわけではありません。
「あきお、よく聞いてくれ。パパは明日、プーケットに帰るけど、これから言うことは、必ず実行するように。
まず、試験勉強とか、そういうのと関係なく、数学と英語だけは、中学の三年間で習ったことは、三学期終了までに全部復習しておくこと。特に、英語は、教科書に出てきた単語は、すべて覚えておかなきゃダメだ。
それと、パパが7月に作っておいた例文集を、毎日一回でいいから、全部読むこと。本当は、暗記した方がいいんだけど、そこまでは言わないから、すらすら読めるようにしておけ。
そして、その他の教科は、宿題や課題を、すべて提出して、絶対に、1だけは貰わないようにすること。
以上だ、分かったな」
こういうときの指示は、簡潔かつ、具体的な方がいいでしょう。


十二月の入試まで、残すところ、後一カ月半。
あきおの未来に、明るい明日が見えてくるのでしょうか?
[PR]
by phuketbreakpoint | 2007-11-01 14:58