タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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1997年。
私は、あきおと、なおこの2人を連れて、初めて日本に里帰りしました。
このとき、2人は4歳で、日本語は、ほとんど話せませんでしたが、初めて訪れた日本で、あの子たちの言葉に、劇的な変化が見られました。
「おばあちゃん、ちがう。犬、これ、大きい。あきお、見た、これ・・・」
「おじいちゃん、とんぼ。はやく、とんぼ、そと。はやく、なおこ・・・」
覚えたばかりの単語を、タイ語の語順で繋ぎ合わせ、あきおと、なおこは、おじいちゃん、おばあちゃんとの会話を成立させようと、一生懸命でした。
「これなら、なんとかなるかもしれないぞ」
私は、プーケットに戻るや、
「今日から、家の中では、日本語だ。ママも、協力してくれ」
そう宣言します。カタコトながら、生まれて初めて日本語を使い始めたこの子たちに、言葉を覚えさせるには、今をおいて、他にありません。
私は、子どもたちに、せっせと日本語を教えるようになりました。レッスンは、毎日1~2時間、現在までの十数年間でトータルすれば、膨大な時間とエネルギーを費やしてきたと、我ながら感心します。
しかし、そんな努力の甲斐もなく、あの子達の日本語は、なかなか自然なものには、なっていきませんでした。

2005年。
子どもたちは、小学校を終わろうとしていました。私も、かなり焦っていたと思います。
「ここらで、二人を日本に送って、この子らの日本語をちゃんとしておかないことには、手遅れになってしまうぞ」
津波で、ゴタゴタしていましたが、同情も買うことができたようで、それまで、何度も受け入れを断られてきた私の両親からも、今回は、しぶしぶながら、了解をもらうことができました。
ただし、許可を受けたのは、1人だけです。
「あきお、なおこ、どうだ。日本に行って、勉強しないか?」
私がこう尋ねると、あきおが、
「じゃあ、ボクが行くよ」
と、名乗りを上げたので、あの子が行くことになりました。

あきおが日本に行って、半年ほどの間は、特に問題はなかったと思います。授業の予習、復習、宿題も、ちゃんとやっていましたし、おじいちゃん、おばあちゃんの言うことも、よく聞いていました。
日本語も、みるみる自然になっていきました。すべてが順調だったと思います。
「お正月は、どうするんだ?プーケットに戻るか?」
11月頃、私が、こう聞いても、あの子は、
「別にいいよ。こっちにいるよ」
異国での生活苦など微塵も見せず、明るく答えていたあきおに対して、
「でも、ママも心配してるから、帰ったほうがいいんじゃないか」
と、私のほうから勧めていしまいました。
これは、明らかに失敗だったと思います。わずか、二週間のプーケット滞在でしたが、あの子の心には、里心がついてしまったようで、プーケットから日本に戻る日、空港で、薄っすらと、目に涙を浮かべているあきおを見ながら、
「この子は、この後、また日本で、やっていけるんだろうか?」
私は、心配になってきました。

その翌週です。さっそく、あきおから、電話が入ってきました。
「パパ・・・・。プーケットに、戻りたいんだけど・・・」
予想したとおりです。せっかく、うまくいっていると思っていたのに、わずか2週間の里帰りで、ひっくり返ってしまうなんて・・・。
「あきお、よく考えた方がいいぞ。戻るのは簡単だけど、戻ったあと、どうするんだ?よく考えるんだ。一度戻ったら、もう二度と、来れないんだぞ」
私は、必死になって説得の言葉を探しましたが、あきおの反応はありませんでした。
散々苦労して、ようやく実現した日本留学ですから、こんなことで終わりを迎えるわけにはいきません。私は、頭の中が空白になっていましたが、電話を切ると、すぐに手紙を書き始めました。あんなに真剣に手紙を書いたのは、後にも、先にも、あのときだけだったと思います。

10日ほど経ったある日、あの子から、また電話がかかってきました。
「どうだ、あきお。4月から、どうするんだ?」
「うーん・・・。まあ、どっちでも、いいんだけど・・・」
はっきりとしない、曖昧な返事でしたが、私は、たたみ掛けるように、
「そうか、それなら、このまま、日本にいろ」
そう言うと、あの子の日本残留を決めてしまいました。学校で友人たちと遊んでいるうちに、ホームシックも徐々に薄れてきたようで、また、東京で頑張る気持ちになったようですが、以前と違って、あきおの言葉には、「やる気」というものが感じられませんでした。

迎えた4月、あきおは、2年生に進級し、しばらくすると、また電話がかかってきました。
「パパ、試合に出たよ。ヒット打てたよ。二塁打」
いつもと同じように、ボソボソとした口調で、あの子は、「快挙」を報告してきました。本人も、嬉しかったと思いますが、私も、このニュースには興奮しました。
「本当か、あきお!よくやったぞ!たいしたもんだ。パパだって、初めての試合では、緊張して、ガクガク膝が震えたからなあ」
初出場で、二塁打です。これで少しでも、あの子が自信を持てるようになってくれれば、勉強の方も、上向いてくるのではないでしょうか。私は、大いに期待していたと思います。
しかし、今振り返ってみると、あきおの、日本での生活は、このあたりから、少しずつ歯車が狂い始めていたのかもしれません。

この話、続きます。
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by phuketbreakpoint | 2007-10-27 12:40

ここが正念場

「はっきり申しまして、あきお君の実力では、都立校は難しいと思います。あとは、私立ということになりますが・・・・」
10月2日、月曜日、長男あきおが通う中学で、私は、担任の先生と個人面談を行なっていました。あきおは、今年、中学三年生になり、いよいよ高校受験が目前に迫っていました。

当日、行なわれた実力テストの結果も、最悪だったようで、
「このままでは、専願受験による推薦しか考えられませんが、寮のある学校となると、その数も限られておりますし・・・・」
要するに、あの子の実力では、行く学校はないということなんでしょう。

あきおの成績は一学期、換算内申で、20そこそこでした。この数字は、私がかつて、同じ神明中学で挙げていたものと、それ程差はなく、小学校卒業時までプーケットで暮していたハンディを考えれば、なかなか健闘した数字、と言えるかもしれません。
ここにきて、数学と理科が3に上がって、得意科目とまではいかないまでも、自信科目と呼べる教科ができたことも、明るい材料だと思っていました。

ところが、あきおにとって、試験範囲が限定できない実力試験は、始めての経験でしたから、見たことはあるんだけれど、もうすっかり解き方を忘れてしまった問題の山に翻弄され、手も足も出なかったようです。偏差値は、最悪の30台でした。
私の場合、内申点は低かったのですが、英国数の主要三教科集中方式・・・、といえば聞こえがいいんですが、三教科以外の勉強を、まったくやらない手抜き戦術のおかげで、偏差値は、そこそこの数字だったと思います。

30台というのは、本当に、ケツっぺたの数字で、これ以下がありません。
私の中学時代なら、それでも、まだ行く学校はあったと思いますが、あれから30年以上が経過し、すっかり世の中は変わってしまったようです。
近所の本屋で買ってきた、最新の高校受験案内書に載っていた各校の生徒募集公告を見て、私は、ビックリして、腰を抜かしそうになってしまいました。

かつて、東京中の高校生を暴力で支配し、震え上がらせていた国士舘高校(俗称シカン)の生徒募集広告では、当時、同校のトレードマークでもあった、ボンタン、リーゼント、剃り込み、洋ラン等がすっかり姿を消して、なんと、7:3の髪型で、メガネをかけた真面目そうな男の子がブレザーを着て、タータンチェックのスカートを穿いた女の子と、一緒に明るくお勉強、そういった雰囲気なのです。しかも、偏差値は、54なんて書いてあります。当時は確か、39くらいだったはずなんですが・・・。
「あの国士舘が男女共学・・・・、まっ、まさかあ!?何かの、間違いじゃないのか?」
そう思って、公告をマジマジと見つめ、もう一度確認してみましたが、やはり、国士舘大学付属高校のものに間違いありません。あの頃は、朝鮮高校との内戦が、毎日のように新聞紙上を賑わせていたのですが・・・。
思わず絶句している私は、さらに、驚くべき事実を発見します。

なんと、あの悪の名門、都立烏山工業(俗称カラコー)は、消滅してしまったようで、世田谷泉高校なんていう、オシャレな名前に変わっていました。
なんでも数年前、近辺の定時制高校との話し合いで、発展的に統合し、世田谷地区のチャレンジスクールとして生まれ変わったそうです。
同じ、「発展的」なら、いっそのこと、落ち目のロックバンドのように、発展的解散で華々しく散ってほしかったと思うのは、当時を知る、ヤ系高校ウォッチャーのせめてもの願いというものでしょう。
70年代の初頭、私の親戚の友人が入学願書を出しに同校を訪れた際、
「三階教室の窓から、椅子が降ってきた」
そうで、以前は、そういう手荒い出迎えを、何とも思わないような生徒だけが集まる高校だったのですが・・・。
余りといえば、余りの変わりように、OBたちも、きっと、嘆き悲しんでいることでしょう。

「遊んでばかりいると、堀越にしか入れないぞ」
と、先生たちから言われていた堀越学園も、いつの間にやら、レベルを上げていたようで、あきおの偏差値では、とても入れてくれそうもありません。
どこの学校も、無理矢理時代に迎合し、社会に媚びるような雰囲気になってしまったようです。

思えば、嫌がる私の両親を、ようやく説得し、泣いて反対する女房のラントムを、なんとか、なだめ賺して、あきおを日本に送り出したのが、津波直後の2005年4月でした。
本人も、私も、大いなる希望に燃えて、あきおの東京生活はスタートしたはずでしたが、あれから二年半、この子を取り巻く状況は、大きく変化しようとしています。

担任の先生が説明してくれましたが、クラス内での、生徒たちの学力分布を示すグラフには、はっきりと、二つの山ができていました。
成績上位グループと下位グループに分かれ、上位に入れないグループが、落ちこぼれ集団を形成し、夏休み以降は、クラブ活動も引退ですから、何に打ち込むわけでもなしに、ダラダラと日々を過ごしているように、傍からは見えてしまうようです。

これは明らかに、私の在学中には、なかった現象と言えるでしょう。
神明中学といえば、その昔は公立ながら、
「成績の良い、真面目な生徒が集まる、進学に強い学校」
と評判で、遠くから、わざわざ越境通学してくる生徒もいたのですが、それも時代の流れと共に変わり果て、今では、少子化もあって生徒が集まらず、近年中には、お取り潰し処分になってしまうのではと、もっぱらの噂になっています。

そういえば、あきおも、二年生の終わり頃から野球部の練習をサボるようになっていました。そして、ほぼ同時期から、私の両親、つまり、おじいちゃん、おばあちゃんとの関係も、刺々しいものに変わっていったようで、それが私の目にも、はっきりと感じられるようになっていきました。
三年生になって、勉強の方は、僅かに上向いてきたのですが、家庭内での人間関係は、もはや絶望的にすら思えてきます。
プーケットから遊びに来る度に、
「おじいちゃーん、来たよー」
と、嬉しそうに実家の玄関に飛び込んでいったのは、ほんの3、4年前のことだったのですが・・・。

純朴な少年だったはずのあきおですが、最近、ときおり暗く、拗ねたような仕草を見せるときがありますから、学力の問題以上に、生活面が心配になってきます。
それに、自分の努力が、なかなか結果となって現れてこないところにも、あの子の苦しみは、あるのかもしれません。
プーケットで、のんびりしたタイ人に囲まれて、ずっと暮してきた、あきおにとって、次から次へと、結果が求められる東京での学校生活というものは、大変なプレッシャーを感じる世界だと思います。

小さい頃から、私があの子に望んできたことは、ただの一点、
「普通の日本人並みの日本語を身につけてほしい」
それだけでしたから、中学生の今になって、異国の地で、学校の成績をなんとかしろと言われても、
「そりゃあ、パパ、話が違うよ」
というこになってしまいます。
果して、あきおを日本にやったのは、失敗だったのでしょうか?
実家に預けたのが、間違いだったのでしょうか?
親として、自分の責任に於いて行なった決断に対する報いを、私は今や、受けねばならないのかもしれません。
すべては、私が決めたことなのです。

ここが、親としての正念場・・・、担任の先生の話を聞きながら、私は、強く、そう感じました。
あの子の将来が今、重大な局面を迎えようとしています。

この話、続きます。
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by phuketbreakpoint | 2007-10-21 12:05