タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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<   2007年 09月 ( 2 )   > この月の画像一覧

皆さんは、レーシックって、御存知でしょうか。
レーザー光線を使った近視治療のことですが、私は先日、勇気を出して、とうとう、この手術を受けてしまいました。

プーケットで、レーシックが受けられる場所は、二か所しかないそうで、私は、その中から、地元パトンのプーケット・レーザー・センターに行くことにしました。
受付で説明を聞くと、コンタクトレンズ使用者は、手術の前に最低一週間、ハードコンタクトの場合には、三週間から一ヶ月、使用を控えねばならないそうです。私は家に戻り、この日から、さっそくコンタクトレンズを眼鏡に代えて、時間が経過するのを待ちました。

いよいよ、明日手術という12日の夜、品川さん(旅行会社社長50歳)がお店にやってきて、嬉しそうに、こんな話をします。
「やっぱり、目ん玉に麻酔針、突き刺すんと、ちゃいまっかー」
「目ん玉に、ハリ?」
「レーシック言うたかて、手術でっしゃろ。麻酔注射くらいするのは、当然やと、思いまっせー!でも、大丈夫、白目のところやったら、目は潰れへんやろー、ククククっ・・・」
この人、どういう性格をしてるんでしょうか。

気楽に考えていた私でしたが、品川さんの話を聞いているうちに、だんだん心配になってきました。
私は、タイの医者を、あまり信用していませんが、日本で治療する時間も、お金も、保険もありませんから、具合が悪いときは仕方なく、地元の医者にかかってきました。
ところが、今回は、品川さんに指摘されるまで、私は、レーシックが医療行為であるという認識が著しく欠けていたようです。目の働きは、脳と共に、体の中で最も重要視すべきものの一つですが、ここにきて、センターの女医さんが言っていた、
「99パーセント、成功します」
という話も、急に心配になってきました。
じゃあ、残りの1パーセントは、どうなっちゃうんでしょうか?

翌日、私は、女房のラントムと二人でセンターに向かいました。
「私の仲間にも、レーシックの手術を受けたい日本人は、いっぱいいるんですよー。今日は、彼らを代表して、私がトライするわけですねー。ホント、いっぱい、いるんですよー」
手術が成功すれば、新しい顧客を大量獲得できると匂わせておけば、普段以上に慎重にやってくれるんじゃないかと思い、私は聞かれてもいないのに、しきりと、そんな話をしていました。

診察室に通され、目の状態を最終確認します。様々な機械を使った検査の後、手術後の視力が、どの程度のものなのか、実際にレンズを使って見せてくれました。
「老眼が始まる年齢ですから、遠くが見えるようになると、近くのもの、例えば本や新聞が読みにくくなります。どちらを優先されますか?」
私は、迷うことなく、遠距離が見える方を選びました。
検査も無事終了し、英語の同意書にサインをして、いよいよ手術室に入りました。
執刀医のサシビモン先生、サポートのハーゼル先生、アシスタントのグンさんの三人が、私を待ち構えています。なかなか、物々しい雰囲気でした。

歯医者さんが使うような、リクライニングの診療台に載せられて、まず、頭部をベルトでしっかりと固定します。そして、瞼が閉じてしまわないように、目の周囲をガッチリとテーピングした後、機械を使って、さらに補強しました。
「それでは、麻酔入れまーす」
ドキっ!
「まさか、本当に注射を・・・・」
と思っていたら、ハーゼル先生が麻酔液を目に落とし、しばらくすると、目の感覚が鈍ってきました。そして、消毒液を使って、何度も入念に眼球を殺菌し(気持ち悪いぞー、これ・・・)、準備完了です。

シートがレーザーマシーンに向かって、ゆっくりと近づいていきました。
人間は、他の、どの部分をいじられるよりも、目に対して恐怖感を持っています。
手術する側も、患者の心理が分かっているようで、オペの前に、段取りを詳しく説明してくれましたが、もしそれがなければ、恐怖は、更に大きなものになっていたことでしょう。

視界には、レーザー機の白い輪のような照明だけが映っていました。そして、事前説明どおり、何かが私の眼球に覆い被さるように圧迫を加えると、すぐに、その輪は姿を消して、真っ暗な闇の世界に変わっていきました。
しだいに、闇の中に、オレンジ色の明かりが、ぼんやりと浮かんできます。
別室から、拡大モニターで、様子を見ていたラントムの話では、機械を使って、ベロンと角膜を剥がしていたそうですが、自分の目で、それを見ずに済んで、本当に良かったと思いました。
私にできることは、できるだけ瞳が動かないように、一点に眼球を固定させることだけです。

「大丈夫ですよー。いいですよー」
すかさず、フィリピン出身の女医・ハーゼル先生の声が聞こえてきます。暗闇の中、一人ぼっちで、付き添いのラントムとも離されていますから、彼女の声だけが頼りです。
チチチチチチ・・・・・・・・・。
(レーザーを、撃っているんだな・・・)
痛みも、何も、感じませんが、早く作業が終了してほしいと、私は、それだけを願っていました。

「大丈夫ですよ。ディーマーク(すごく、いいですよ)、ディーマーク」
先生は、患者が緊張で動いてしまうことを恐れているのか、しきりと、リラックスさせようとしています。
チチチチチチチチ・・・・・・・。
全身を硬直させて、私は、ひたすら時間が過ぎていくのを待ちました。時間にすれば、ほんの1分ほどだったと思いますが、異次元空間にいるような私には、ずいぶん長く感じられました。
「はい、OK。右側終了です」
機械が私の眼球から離され、また、白い輪の明かりが視界にもどってきました。

「ふーッ・・・」
大きく息を吐いて、全身の緊張を解く私。足がコチコチになっているのが、自分でも、よく分かります。
「それでは、今度は左側です」
何でもそうですが、人間は一度経験してしまうと、恐怖感が薄れます。
先程と同じ工程で作業は進みましたが、今度は、それほど緊張することはありませんでした。
「はい、すべて完了です」
サシビモン先生の声が聞こえると、頭部の拘束が解かれ、私は解放されました。
手術が終わって、ぐるぐると目の周囲を包帯巻きにされるのかと思っていましたが、傷ついた眼球を保護するために、アイシェルという透明の大きなプラスティック・カバーを付けられただけで、術後の処置は終了です。

翌日、
「B、H、T、A、C」
「オー、パーフェクト!では、中段を、右端から・・・」
「K、V、G・・・・・」
診察室に通された私は、アイシェルを外して視力検査を受けていました。
「見える!はっきりと見える!!」
手術から、22時間、視力は劇的に回復していました。
加齢と共に肉体が衰えていくのは、人間の定めだと諦めていましたが、まさか、この年になって、長年失われていた視力が蘇るなど思ってもみませんでした。高一のときに、コンタクトレンズを使い始めて以来、三十年ぶりの感動といえるでしょう。

自宅に戻り、パソコンでメール確認していた私は、ふと思い立って、「レーシック」で検索してみました。
すると、予想もしなかった文章が、一行目から、ズラリと並んでいます。
「レーシック、今なら、13万円!」
「カスタム・ビューでしたら、17万8千円!」
そして、ダメを押すように、
「世界レベルの品川近視クリニック!両目で、10万8千円!」

今回の治療費、23万6千円(1バーツ=3.5円計算)なり。
それにしても、品川クリニックとは・・・・・。
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by phuketbreakpoint | 2007-09-27 17:37

絶対に逃げん!

「西岡さん、聞きました?また、地震があったみたいですよ」
補習校で運営副委員長をやっている関根さんから、そんな電話が入ってきたのが、9月12日水曜日の午後6時50分ごろだったでしょうか。
すぐに、テレビのスイッチを入れ、チャンネルをNHKワールドに合わせると、地震情報が流れていました。
「午後6時10分頃、インドネシア、スマトラ島沖で大規模な地震が発生した模様。マグネチュードは7.9・・・・」
時刻は7時5分前、地震発生から既に45分経過しています。
もしも、津波が発生し、それが大規模なものであるのなら、震源地の近くでは、もう被害が広がっているでしょうし、今は、世界中のマスコミが津波には敏感になっていますから、大きな被害があったのなら、必ず外電に乗って、テレビでも速報が流れてくるはずです。
「西岡さん、逃げなくて大丈夫ですか?」
心配する関根さんに対して、私は自信満々に、こう答えました。
「逃げる?地震発生から、もう1時間近くも経っているというのに、警報も鳴らないし、被害報道も皆無です。大丈夫ですよ。津波は来ません」
この夜は、終始強気だった私ですが、二年半前のあの夜は、こういうわけにはいきませんでした。


インド洋沖大津波から約3ヵ月の2005年3月28日、スマトラ沖で、マグネチュード8.5規模の大地震が再び起こりました。
「みんなっ、早く逃げなきゃ、大変よ!」
車で走り去る、オリジナル・ワン(近所のマッサージ屋)の女主人ピーシー(シーさん)の言葉に怯えたのか、女房のラントムが、
「パパ、あんなこと言ってるけど、大丈夫かしら」
と、心配顔で私に尋ねます。

あの頃の私は、自分のビジネスだけでなく、リゾート地としてのプーケットの将来にも、少なからず不安を感じていましたし、津波でショックを受けて、
「もう、プーケットにはいたくない」
という、ラントムの言葉にも、敏感になっていました。ですから、この夜も、条件反射のように、
「大丈夫だ。年中地震がある日本だって、人が死ぬような津波なんて、めったに、あるわけじゃないんだから」
自分に言い聞かせるように、強い口調で、そう言い切っていました。

ところが、インターネットで読売新聞のホームページを開くと、
<スマトラ沖で、また大地震。マグネチュード8.5>
いきなり、大きな見出しが目に飛び込んできます。
「スマトラ・・・・?、マグネチュード8.5?」
前回と同じ場所で、地震の規模も、ほとんど変わりません。これでは、安全とは、言い切れないでしょう。
「・・・ごめん。やっぱり、ちょっと危ないわ。すぐに、逃げよう」
私は、手の平を返すように、そう言うと、混乱気味の頭で、どう行動すべきかを考え始めました。

地震発生が、午後11時10分頃、そして、現在時刻が、0時ほぼジャスト。前回の大津波が、地震発生後、約2時間かかって、プーケットまで到達したわけですから、今回も、同程度の規模と想定すれば、まだ充分時間があるはずです。
「ママ、慌てなくてもいいよ。もし、津波が来るとしても、1時間後だから、よく考えて、大事なものだけ車に載せて運びだそう」
現金に会社謄本、貯金通帳に土地登記簿、そして、野宿になった場合に備えて、家族全員分の着替えをバッグに詰め込み、私は、一階に下りていきました。

「ガガガーッ、インドネシアで・・・・・・によって、・・・・・・発生する恐れが・・・・、ビーチ近辺から、速やかに・・・・・、ガガガーガッ」
前年の大津波以降、電柱に取り付けられていたスピーカーからも、津波警報のサイレンと警告が大音響で流れ始めます。雑音だらけで、何を喋っているのか、よく分かりませんでしたが、異常事態が発生しているのは、誰の耳にも明らかでした。

しかし、逃げるといっても、どこに向かえばいいのでしょうか?
最初は、パトンビーチの奥の山に避難しようと思いましたが、計算上は、まだ、もうちょっと時間が残っているようにも思えます。
「よし、カロンに逃げよう」
前回の津波でも、カロンビーチは、ほとんど被害がありませんでしたし、ここなら、家もあるので、野宿する必要もありません。いざというときには、裏山に駆け上がればいいわけですから、安全地帯と言えます。

私は、子どもたちとラントムを車に乗せ、ガードマンに、この後の行動予定を説明しました。
「悪いけど、エム(元名物ガードマン。働き者でした)も、俺のバイクで、一緒に来てくれ。カロンに家族を送った後、オレは、そのバイクでパトンに戻るから」
車を使ってパトンまで戻れば、もし、本当に津波が押し寄せてきた場合、買ったばかりの新車が流されてしまいます。エムにバイクで同行させるのも、それを避けるための手段でした。

さあ、出発です。
ソイを抜け、ビーチロードに入ると、暗闇の中で、静かな波打ち際が微かに見えています。まだ、1時間近く余裕があるとはいえ、このときは、やはり緊張しました。
バングラーの角で右折すると、海から遠ざかっていきます。50m、100m、車がビーチから離れるにしたがって、少しづつ、不安が小さくなっていきましたが、まだ、安全とは言えません。
バングラーでは、バーも、お店も、すべてシャッターを降ろしていました。観光客が、ガランとした繁華街を、皆足早に山に向かって歩いていきます。殺伐とした雰囲気は、3ヶ月前の光景と、ほとんど同じでした。

山の麓にあるカロンの家に着くと、私は、脇の私道に車を入れて、200mほど上にある分譲住宅の工事現場まで、急勾配を登っていきました。
「ママ、ここなら、絶対に大丈夫だ。オレは、これからパトンに戻るから、ママは、子供たちと一緒に、ここにいてくれ」
私がそう言うと、ラントムは、心配して止めようとします。
「パパ、やめた方がいいんじゃないの。津波が来たらどうするのよ」
確かに、その可能性があるから、ここまで逃げてきたわけですが、私一人なら、なんとかなるような気がしました。

前回の津波のときに、お手上げだったのは、家族全員、店舗の屋上で取り残されてしまったことです。もし、それ以上の高さで波が襲ってきたのなら、一人残らず流されていたのは間違いありません。四人もいる子供たち全員の命を助けることは、不可能だったでしょう(子供の作り過ぎに注意しましょう!)。

パトンビーチに戻ろうと、バイクに跨ると、ガードマンのエムが近づいてきました。
「キミは、ここで、みんなと待機していればいいから」
本当は、彼にも一緒に戻ってほしかったのですが、臆病なタイの人に、そんなことを言っても、無駄でしょう。
ところが、エムは、
「ボス、私も、一緒に戻ります。一人じゃ、何かあったら、大変ですよ。大丈夫です。私も、行きます」
なんと泣かせることを、言ってくれる男なのでしょう。
4ヶ月前の津波のとき、クモの子を散らすように、離れていった従業員も多かった中で、彼の一言には、ジーンとくるものがありました。

エムと二人乗りでパトンビーチに戻り、とりあえず、乗ってきたバイクを、店舗の外にある二階の共用部分に上げました。津波が来るかどうかは、まだ分かりませんが、じっと、それを待っているのも、芸がないような気がします。
私は、まず、ブレイクポイントの店内に入り、レストランにとっては、命とも言うべきメニューブックを片付け、オーディオ機器や、ファックス、コーヒーメーカーなど、移動可能な機械類を二階に移しました。仮に前回並みの津波が襲って来た場合でも、だいたいの水位は分かっていますから、それより上の位置に避難させておけば、浸水から逃れることができるでしょう。

「エム、悪いけど、サウスロード(おみやげ屋)の商品も、二階に上げておこう」
既に、私の考える津波の到達予定時刻に達しており、いつ津波が襲ってくるかわかりませんでしたが、私とエムは、なるべく値段の高い商品を優先して移していきました。
時間は、午前1時を、とっくに回り、周りには、もう誰もいません。スピーカーからの警報も、いつの間にか止まっていたようで、静まり返っていました。

真っ暗なソイの中、サウスロード一軒だけが、明かりを煌々と照らして、二人は作業を続けました。津波が来るかもしれない真夜中で、これに付き合ってくれるタイ人は、スタッフだろうと、身内だろうと、そうはいないと思います。本当に、彼には、今でも頭の下がる思いがします。

作業が終わり、私は、インターネットで津波関連のニュースを確認しました。
地震発生から3時間以上、被害情報は何もありません。こうなると、私の確信は、より確かなものになっていきます。
「今夜は安全だ。間違いない!」
1時間後、ラントムから電話が入ってきました。
「パパ、テレビで、もう大丈夫だって言ってるから、今から迎えに来て・・・」
私は、再びエムと2人で、バイクにまたがり、カロンで待つ家族を迎えにいきました。
午前4時半、再びパトンビーチに戻ってきた私たち家族は、この夜も、いつもどおり、自分の家で眠ることができたのです。


あれから2年半、警報システムも確立され、今では気象衛星からの情報も、すぐに届くようになりました。防災体制は、万全と言ってもいいでしょう。
ところが、今回も地震発生後、二時間近く経って、また、オリジナル・ワンが騒ぎ始めます。マッサージ中のお客さんを、お金も取らずに追い返し、すぐに店を閉めてしまいました。
こうなると、連鎖反応を起したように、隣接するお店も、どんどんシャッターを降ろしていきます。最初、笑っていたブレイクポイントの従業員も、そわそわし始めました。携帯片手に、持ち場を離れようとしています。

「お前たち、いいかげんにしろ。まだ、営業中だ。テレビでも、津波の情報は何もないんだ。警報機が作動してから逃げたって、充分に間に合うよ。キミたちが、そわそわすれば、食事中のお客さんも動揺するから、みんな、持ち場に戻るんだ。津波先進国の日本(?)から来ている俺が保障する。
津波は来ない。絶対に来ない!」
私は厳しい表情でこう言うと、スタッフを定位置に戻しました。

そうは言っても、このソイで、まだ営業を続けているのは、うち以外には、カールソン、オールドダッチ、ボスの三軒だけしかありません。こういったとき、お店のトップが、うろたえていたのでは総崩れですから、私は笑顔一杯で、各テーブルを回りました。
「御心配なく。前回も、2時間かかって、プーケットに津波が届きました。ですから、今回は・・・・・、(ちょっと、時計を見ながら)あっ、そろそろですね」
こういった冗談を、なぜ安全なのか、というデータの中に入れて説明すると、ほとんどのお客さんは、落ち着いてくれました。

ところで、今回の津波騒動で気がついたことがあります。
地震発生後、三時間以上経って、タイ国政府は、津波の危険性はない、と宣言しましたが、これを受けて日本大使館は、
「危険がないと断定することはできない」
という微妙な言い回しを使っていました。
対外イメージを考えて、「安全」を強調したいタイ王国と、万が一の場合、責任追及されないように、逃げが打てる表現を使おうとする日本大使館の間には、はっきりと、違いがあったのです。
この辺の事情が分かった上で、両者を足して、2で割れば、だいたいの実像が見えてくるのではないでしょうか。
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by phuketbreakpoint | 2007-09-20 03:27