タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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男は黙ってサントリー

「最近、仕事のことで、いろいろ考えちゃって・・・。いっそのこと独立して、自分で、ビジネスを始めようと思ってるんです」
お店で、お客さんと話していたら、そんな話題になりました。
「それで、どんなことをやろうと考えているんですか?」
私が尋ねると、
「インターネットを利用した広告業です」
と男性は答えます。
パソコンのことがまるでわからず、ホームページの更新以外は、メールと新聞を読むくらいしかできない私ですが、話を聞いているうちに、なんだか心配になってきました。本当に、彼の言うようなやり方で、うまくいくのでしょうか。
「ところで、岡本さん(仮名 29歳男性)、仕事は何やってるんですか」
こう聞かれると、彼は業種で答えることなく、すぐさま、
「サントリーです」
と、社名を返してきました。きっと、彼にとっても、この名は、誇るべきものなのでしょう。

1960年代以降、世界を席巻した日本商品ですが、それは、あくまでも、工業製品に限られていたようです。
音楽界では、いまだに坂本九さんの「スキヤキ」以外は、ヒットチャートにかすりもせず、映画界も、アニメやホラー以外は見るべきものがなく、ときに秀逸な作品はあるものの、興行的には、まるで問題になりません。
食品類は、飽食の時代などどと言われてはいますが、私に言わせれば、安っぽくて、まずい物が、溢れているような気がします。

たとえば、チョコレートです。
子供の頃、大嫌いだったチョコレートですが、今や大好物の一つです。要するに、私が昔食べていた物は、入れてはならない混ぜ物が沢山入った、まがい物だったのでしょう。チョコレートに限らず、日本国内にいると気づきませんが、外国暮らしの長い人が、たまに日系食品を食べる機会があったとき、
「あれ?この商品、こんなに、まずかったかなあ?」
と感じることがあります。戦前から受け継いできた、少ない原料で、より多くの商品を、という貧乏臭いやり方は、工業製品の分野では、大きく花を咲かせましたが、食品に関して言えば、やっぱり邪道なのでしょう。

そんな中で、サントリーウイスキーは、どこに出しも恥ずかしくない、本物の味だと思います。以前、JALで帰国したときにも、機内サービスで出されたサントリーの美味しさに、感心したことがありました。
私は通常、機内では、ほとんど酒類を飲みません。気圧のせいなのか、アルコールが入ると、すぐに頭が痛くなってくるからです。
しかし、その日は、きれいなCAのお姉さんに、
「おひとつ、いかがですか?」
と、ウイスキーの水割りを勧められ、ついつい手に取ってしまいました(こういうとき、日本人に日本語でやられると、ダメですね)。

「あーあ・・・、とっちゃったよ、こんなもん」
ところが、一口飲んだとたん、予想もしなかった爽やかな刺激が、口の中に広がっていきました。
JALのようなフラッグキャリアでは、機内のお酒も、一級品を置くのは当然ですが、これは、スコッチでも、バーボンでもありません。
「このウイスキー、おいしいですね。どこのですか?」
先ほどのCAが戻ってきたので、私は、尋ねてみました。
「サントリーです」

単に美味しいというだけでなく、なんとも言いようのない、切なく、懐かしい香りが、口内から鼻孔を通り抜けて、脳内深くに眠っていた私の記憶を、じんわりと解きほぐしていきました。これは、私と同年代以上の方なら、解っていただける感覚だと思います。
少なくとも、70年代までは、焼酎ベースの甘ったるいカクテルなどという、言語道断な飲み物は、我が国には、存在していませんでした。チューハイ(単に炭酸で割るだけ)なんて、うらぶれた場末の焼き鳥屋くらいにしか置かれていなかったのです。
80年代に入って居酒屋がファッションに走り、女性でも飲みやすい口当たりの良い飲み物が幅を利かすようになってしまいましたが、あんなもんは、酒じゃあ、ありません。

チュパ、チュパ、言いながら、パッチン、パッチン、指を鳴らし、カラン、コロンと氷を落としたグラスの中に、トクトクトクッ・・・と琥珀色の液体を無造作に注ぎ込む・・・・。
それを、一気にグビッ、グビッ、グビッと喉に流し込んで、ニヤっと笑い、そこで一言、
「ウーン、ダイナマイッ!(フフフフ・・・、若いもんは、知らんじゃろうて、このCM)」
スコッチや、バーボンと同じ土俵で、
「これが、日本のサントリーです」
と、胸を張れる味だと思います。これだけの酒が造れるのなら、日本も、まだまだ捨てたもんじゃありません。


あの日の、あの味を思い出した私は、このお客さんに、
「サントリーで、何をやっているんですか?」
と続けました。
「営業で外回りしていますね、ほとんど」
「だったら、それを続けた方が、いいんじゃないですか?あんなに美味しいお酒はないですよ(酒の味だけで、人の人生決めちゃってますが)。
サントリーは、日本の誇りです。
広告ビジネス?止めた方がいいんじゃないですか。あんなもんは、インド人か、中国人にでも、やらしとけばいいんですから・・」
小手先、口先で、要領よく金儲け。
こういうフィールドで勝負すれば、日本人は、彼らには絶対に勝てません。
いいものを、じっくり造り上げる。あるいは、誰よりも早く、簡単に作ってしまう。
そういうことをやらせれば、まだまだ、日本人に勝る人種は少ないと思います。

ハイシーズンの閉店後、くたくたの状態で、カラカラの喉にビールを流し込む瞬間は最高ですが、ローシーズンの夜、突然、降り始めた雨の音を聞きながら、一人静かに、じっくりと飲むウイスキーも、私は大好きです。
喉から内臓を突き抜けて、全身に幸福感とエネルギーが漲ります
“明日も頑張ろう”
私に、大いなる活力を与えてくれるのです。

サントリー・・・・、男の酒だ。
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by phuketbreakpoint | 2007-02-20 03:06
妻は、自慢の長い髪を切って売り、夫に時計バンドをプレゼントしようとしました。
夫は、妻のために、髪を束ねる髪飾りを買うため、時計を売ってしまいました。
プレゼントを交換しあった二人は、それが無駄になってしまったことを知りましたが、以前にも増して、深く愛し合うようになったのです・・・・。
こんな心温まるエピソードがある一方で、我が家のバレンタイン・デーは、いつも修羅場になり、心が冷え冷えするのが恒例となっていました。

タイでも、バレンタイン・デーは、ここ数年メジャーになってきましたが、この国では、女性が男性にチョコレートを贈ったりはせず、男性が好きな女性に、バラの花を贈るのが習慣になりつつあるようです。おかげで、バラの値段は、この日にあわせて高騰し、通常の2倍以上になってしまいます。

私は、バレンタイン・デーには無縁の人生を送ってきましたから、毎年、この日は、何もせずにいましたが、やはり、女房は面白くなかったようです。当日の夜あたりから機嫌が悪くなり、翌日には、グチが始まって、周りに当たりだし、その原因がまったく解っていなかった私と激突するのが、お決まりになっていました。

なんだかよく解らない理由で衝突し、そのたびに憤慨していた私でしたが、数年前、彼女の口から理由を聞いて、ようやく納得しました。
「あなたって、人は・・・、いままで一度も、バレンタイン・デーの花束を、贈ってくれたことがないでしょう・・・」
「花束・・・?」
最初は、冗談かと思いましたが、彼女の目には、涙が光っています。
「わかった、わかった。じゃあ、来年は、ちゃんと贈るから・・・」
そう約束するだけで、1年経ったら、すっかり、忘れてしまうわけです。

私の場合、バラの花束を贈るのを忘れるのではなく、その日がバレンタイン・デーであることすら気づかないうちに、日付が15日に変わってしまい、大惨事になってしまうわけです。
「あなたって、人は・・・・」
毎年、同じことを言われている私を見ながら、きっと、子供たちも、呆れていたのでしょう。
「この夫婦はダメだよ。このままだと、きっと死ぬまで同じだから、来年からは、何が何でも、パパにバレンタイン・デーを思い出してもらおう」
子供たちも、いつの頃からか、ずいぶんと気を使うようになってしまい、2、3日前から予告編を入れてくるようになりました。

「パパ、今日は、2月11日だよねえ・・・・」
なおこが朝から、そんなことを言ってきます。
「そうだな・・・。それがどうしたんだ?」
鈍い私は、そんな回りくどい表現では、ぜんぜんピンときません。
「もうすぐ、バレンタイン・デーだよ」
「だからどうした?」
「ママに、プレゼント買わないの?」
「プレゼント? あんなものは、日本じゃあ、お菓子屋がチョコレート売りたくて、勝手にやってるだけだから、パパには関係ないよ。最近は調子にのって、ホワイト・デーなんてのも、あるそうじゃないか。くだらない」
子供の心配をよそに、私は相変わらず、強気な言葉を繰り返してしまいました。

夜になって、あきおも日本から、わざわざ国際電話を入れてきました。
「おお、あきおか。どうだ、元気でやってるか」
「パパ、今年は、ちゃんと思い出さないとダメだよ。毎年、ママとケンカするでしょ」
「そんなことが言いたくて、わざわざ、かけてきたのか?だいたい、何が悲しくて、男の方から花束送らにゃあ、ならんのよ。男が女にプレゼントじゃあ、いつもと、ぜんぜん変わらんじゃないか。こんな日くらい、男がもらったって、いいんじゃないか」

3日後、バンコクのマヨムからも、電話がかかってきました。
「パパ、今年は大丈夫?」
「大丈夫って、何が・・・?」
わずか3日で、忘れています。
「だって、今日は、バレンタイン・デーでしょ。まだ、買ってないの?今年は、絶対に、買わなきゃダメだからね。2人のケンカは、見飽きたから・・・」
マヨムも、心配そうです。

午後4時、末娘のきよみを学校まで迎えにいくと、帰り道、この子も、やっぱり、プレッシャーを掛けてきました。
「パパ、もう買ったの?」
「買ったって、なにを?」
「プレゼント・・・」
「そんなこと、気にしなくても、いいんだよ」
「買わないと、またケンカになるよ。きれいな花束、買ってあげて」

きよみを家まで送ったあと、タラート(市場)まで、シーフードを買いに行きましたが、やはり、子供たちの言葉が引っかかっていました。
そういえば、3年前も、子供たちに忠告されていたのに、意地を張って買わなかったら、2日後に、やっぱり喧嘩になりました。
「どうして、買ってあげなかったの?」
と迫る子供たちに言い訳していたら、それをラントムに聞かれて、
「買いたくないもんは、買わなくていいの!」
とキツイ口調で言われ、険悪な雰囲気に・・・。
挙句の果てには、親子三つ巴の大乱闘に発展してしまい、手裏剣は飛ぶ、ガラスは割れるの大騒動です。従業員や隣近所の人たちにも聞かれてしまい、大恥をかいてしまいました。

一昨年は、津波の直後で一時休戦したものの、昨年は例年通りのパターンが復活し、またまた、意地を張って買わなかったら、3日以上、口を利いてもらえず、キレた私が逆上して、台所のお皿を全部割る、という「事件」を起こしてしまいました。
物にあたって、怒りを静めようと、幼児のようなことをしてしまいましたが、お陰でこの後、プラスティック製の食器しか、買ってもらえなくなってしまいました。
今年も、このままだと、いつもと同じでしょう。大揉めは、間違いありません。

シーフードを買い終え、果物コーナーでバナナを選んでいると、となりの花屋が目に入ります。いつも明るい花売りのおばさんが、普段どおり、ニコッと笑って、声を掛けてくれました。
「ピー、どうですか、おひとつ。今日は、バレンタイン・デーですよ。ピーの綺麗な奥さんに、ピッタリの花束、作って差し上げますよ」
立ち止まった私に、追い討ちをかけるように、おばさんは続けます。
「ピーは、いつも商売熱心だけど、花束を買って贈れば、奥さんは、ますます優しくなって、夫婦円満間違いないですよー。チョーグ・ディー・ディー・カー(幸運を)!」

商売上手な人です。適当に、お世辞を言いながら、気分を和らげ、その気にさせようとします。
「きれいな花束・・・・・か」
なおこや、あきお、マヨムや、きよみ、そして、ラントムの顔も、浮かんできました。
まあ、今日のところは、みんなのために、おばさんの言葉に乗せられておきましょう。
「じゃあ、1つ、作ってもらおうかな。なるべく、きれいなバラを選んでね。いろんな色を混ぜて、女の人がもらったら、心にジーンとくるようなヤツを作ってちょだい。ただし、特別サービスで、安くするのを忘れちゃダメよ」

プーケットに来て14年目、私は、とうとうバラの花束を買いました。
今のところ、彼女の機嫌は上々です。
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by phuketbreakpoint | 2007-02-15 01:55

一服盛られて・・・

酒が入ると気が大きくなり、ついつい失敗してしまう人は多いのではないでしょうか。
昔、鳩山首相(民主党鳩山幹事長のおじいちゃんです)がマニラを訪れ、日本とフィリピンの国交回復交渉を首脳会談で話し合っているとき、休憩時間に酒を勧められ、おだてられて、すっかり機嫌が良くなって、その勢いで交渉でも大盤振舞いし、他国との間で結んだ補償額より、かなり突出した額で決着してしまった、という外交史上、あってはならない大失敗を犯したことがありました。
外務省も、みっともないので、この事実は長い間、公表されることはありませんでしたが、一国の行政責任者でも、こんな失態を演じてしまうほど、酒には、ある種の魔力が潜んでいるといえるでしょう。

女房ラントムのお父さんも、いったい、今まで何回、お酒でしくじったことでしょう。以前、飲みすぎて死にそうになった話を書きましたが、そうなった原因は、ちゃんとあったのです。
お父さんの場合、お酒が入ると歯止めが利かず、見境がなくなってしまいますから、お母さんの苦労も、並大抵ではありませんでした。
ラノットや、トランの田舎にいた頃も、あっちこっちで酒代、飲み代のツケを溜め、しかも、酔いが醒めたら、それっきり音沙汰無しですから、みんな、お手上げでした。
仕舞いには村でも悪評が立って、現金でしか、お酒を飲んだり、買ったりできなくなっていました。

いつも、飲み代に困っていたお父さんですが、ある日、お母さんが隠し持っていたヘソクリを運良く発見し、全部くすねて飲んでしまいます。お父さんに見つけられるような場所に、大事なヘソクリを置いておくほうが悪いという気もしますが、何日か経って、お金がそっくり消えていることに気がついたお母さんは、遂に堪忍袋の緒が切れてしまいました(この事件以降、お母さんは銀行貯金という都会的な方法で、自分のお金を守るようになりました)。

「イーサオ(娘のラントムのこと)、私、頭にきたから、やっちゃうわよ・・・」
お母さんの決意を聞かされたラントムですが、止めもしないで、
「そうね。じゃあ、私が明日、町に行って、買ってくるわ・・・」
と話は、すぐにまとまりました。ラントムの家族は、彼女が家長のような存在で、何事も、彼女の了解がなければ決められません。

翌日、私の運転で、ヤンタカウの街まで出たラントムは、市場の隣にある薬局に入っていきました。
「ねえ、アレ、あるかしら?」
「ありますけど、誰が使うんですか?」
「父に飲ませようと思ってるんです。もう、何度言っても、聞く耳持たなくって・・・」
「そうですか・・・、仕方ないですねえ。でも、分量だけは、守ってくださいよ」

薬剤師から渡された薬を持って帰り、その日の夕方から、さっそく、2人は使い始めました。
「はい、お父さん、ご飯できたわよ。お腹いっぱい食べてちょうだいね」
ラントムが、ご飯とおかずを丁寧に揃えて出すと、お母さんも、
「今日は、あなたの大好きな豚足の煮込みよ。いっぱい、食べてね」
と、笑顔で調子を合わせます。死刑囚も、処刑前には御馳走を食べられるそうですが、急に優しくなった2人の態度を変とも思わず、お父さんは、出された御馳走を頬張っていました。
そして、御馳走三昧の日々がしばらく続いた10数日後です。

「ゲボっ・・・、ウエっ・・・、ゲーッ・・・」
最近は、毎日飲んでいたラオカウという安酒を控え、「体にいい」と評判の、ラオカウより10バーツ高い長春(チンチュン)というドス黒く、ちょっと苦味のある薬用酒(こんなもん、体にいいわけないんですが・・・)に変えていたお父さんですが、コップに一杯半ほど飲んだところで、ひっくり返ってしまいます。
「どうしたの、お父さん?大丈夫?」
原因が解っているラントムとお母さんが、すっ呆けて、そう聞いても、
「・・・・・・・・・」
お父さんは、言葉が出ません。

たった1杯ちょっとのお酒で、お父さんが倒れてしまうわけがありません。
「また、変な女に手を出して、何か悪い病気でも、貰ってきちゃったんじゃないか。病院に連れて行った方がいいよ」
心配した私は、ラントムに、そう言いましたが、彼女は、
「大丈夫よ。お酒さえ飲まなかったら、なんともないから・・・」
と、合図するように、何度かウインクしてみせました。

“ヤー・ブア・ラオ”
タイの南部は、飲んだくれの男が多いためか、お酒が飲めなくなってしまう薬というのが、堂々と薬局で売られています。
亭主の酒で困り果てた女性たちの、最後の望みの綱のようなこの薬は、ずいぶん昔から、タイで愛用(?)されていたようで、のりタマのように、ご飯にまぶして一緒に食べさせると、本当にお酒が飲めない体になってしまいます。これは一過性のものではなく、ある期間飲み続けると体内に蓄積され、体質が変って、効力が薄れることはありません。
ただ、やはり体、特に内臓にはよくないようで、近所に住むラントムの叔母にあたる女性に聞くと、
「私のお父さんも、この薬を飲まされたんだけど、それでも無理して、吐きながらお酒を飲み続けていたら(そこまでやるか!)、とうとう死んじゃったのよ」
という話でした。

青くなったラントムとお母さんは、その日から、薬をご飯にまぶすのを止めました。
それから何日か経って、体が薬に慣れた(?)お父さんは、また、お酒が飲めるようになったようで、以前と同じように、毎日酒を飲む生活に戻っていきました。
さすがに、お父さんのしぶとさは、普通ではなかったようです。
「今日も元気だ、酒がうまい!」
嬉しそうに仲間とお酒を飲んでいるお父さんを見ながら、
「やっぱり、あのまま、薬を使っていたほうが良かったかしら・・・」
2人は、そうぼやいていましたが、やはり、お父さんの命には代えられません。
こうして復活したお父さんですが、以前と比べると、ずいぶん、お酒の量は少なくなりました。ラノットの田舎で、ぶっ倒れたときも、久しぶりに仲間と再会し、ついつい嬉しくなって度が過ぎてしまったのでしょう。

そういえば、チェリーの石井さん(仮名)も、1年ほど前、この薬を本人合意の上で飲まされていたことがあります。
しかし、石井さんにも、強い副作用が出てしまったようで(昼間から猛烈な眠気に襲われ、店番の途中で熟睡してしまったそうです)、ビックリした奥さんは、慌てて薬の使用を控えました。

タイで暮らしている人で、もし最近、
「なんか急に、お酒が飲めなくなったなあ」
と、感じている人はいないでしょうか?
もし、そうなら、同居する誰かを疑った方がいいかもしれませんよ。
この頃、妙に優しくなったとか、いつも据え膳してくれるとか・・・。
それはきっと・・・・。
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by phuketbreakpoint | 2007-02-13 10:44
1985年4月。
好景気が、いよいよバブル化しつつあった日本から逃げ出すように、私は、ケンブリッジから車で20分ほどの距離にあるサフロンウォルデンという田舎町で、ベルカレッジという名の語学スクールに通っていました。
住宅と草原以外には何もない、イギリスの田舎町の外れに、ポツンと建てられたこの学校は、まるで少年院のような環境で、閉じ込められた学生たちは、みな娯楽に飢えていました。
ですから、見知らぬ土地からやってきた、見知らぬ者同士、次々に校内でカップルができていくのも、自然な成り行きでした。
私も、若さの盛りでしたから、ヨーロピアンのガールフレンドが欲しかったのですが、毎週のように開かれていた校内パーティーでも、快調に、女の子たちを口説いている(ように見えた)アラブ系、南米系の男子学生たちの横で、指を咥えて、それを眺めるだけの、寂しい週末を繰り返していました。

そんな中、最も活躍していたのが、ヤヤという名の青年でした。
モロッコの首都カサブランカからやってきたヤヤは、お母さんがフランス人というだけあって、アラブや北アフリカから来た他の学生たちとは、ちょっと雰囲気が違っていました。身長こそ低かったものの(たぶん168,9センチくらい)、とても端正な顔立ちで、見るからにモテそうなタイプです。校内寮バトラーウイングの3階にあった私の部屋の、斜め前に住んでいました。

彼の部屋には、よく女の子が出入りしていましたが、それが、いつも違う顔ぶれで、
「彼は、いったい、何人の女と付き合っているんだ?」
と気付いたのは、ターム(学期)が始まって一ヶ月ほど経った5月中旬頃だったでしょうか。
アラブの学生たちは、女の子に手を付けるのは早かったものの、少なくとも、そのターム中は、一夫多妻制の国から来たとは思えないほど義理堅く、1人の相手に限定して付き合っていたと思います。
しかし、ヤヤだけは、別でした。
2週間ほどの周期で、次々と女の子が変わっていきます。
キザなところもなく、サッカーも上手で、年は、私より2つほど若かったと思いますが、男の私から見ても、彼は、素敵で、いかしたヤツ、だったと思います。

そんな彼が、校内一いい女、スイスから来たサンドラという女子学生に狙いを定めたのは、春タームも後半に入った6月上旬頃だったでしょうか。
月に一度、キャンパス内にあるバトラーホールで開かれるディスコパーティーは、毎週金曜日、カンティーンで行われるプライベート・パーティーより規模が大きく、どの学生も、様々な下心が充満して、夕食時からそわそわしていましたが、ヤヤは、その夜、ラスト24時の1時間ほど前になって、ようやく現れました。
彼は、ダンスに興味は無いようで、パーティー終了後に校内の別ホールで上映される映画を見てから、女の子の部屋に行って・・・、というのが、いつもの行動パターンだったと思います。

入場後、まず、ラガーを1パイント注文した彼は、それを片手に仲間たちと一言、二言、言葉を交わし、ウォームアップのためなのか、眼中にない女の子や、用済みの女の子たちと、また一言、二言、何か喋り、いよいよ準備が整ったのか、友人と楽しそうに話すサンドラの席に近づいていきました。

その何日か前から、ヤヤは、彼女にアプローチしていたようで、サンドラも、ごく自然に、彼と会話し始めましたが、やはり、プレイボーイと評判の彼がディスコで接近してきたときには、警戒心と期待感が入り交じった、複雑な心境だったのではないでしょうか。
彼らの近くにいた日本人学生の話では、いきなり、鋭い牽制球を投げてきたそうです。

「私は、スイスのホームタウンに、ボーイフレンドがいるの・・・」
この短いセリフの中には、
「だから、アンタなんて問題外なのよ。私をなんとかしようと思ったって、無駄だから・・・」
という意味が込められているのです。私なら、この一言でポシャっていたでしょう。
ところが、ヤヤは、怯んだ様子もなく、
「そんなの当たり前じゃないか」
といった表情で、こう返していきました。
「ここは、イングランドだ」
これは、私の半生の中でも、最も影響を受けた言葉の一つだったと思います。
確かに、彼女ほどの美人なら、恋人の1人や2人、いない方が不思議です。そんな当たり前のことは、最初からかわっていることで、それで終わってしまうなら、最初から、声など掛けないほうがマシだと、彼は考えているのでしょう。

「ここは、サフロンで、スイスじゃない」
と彼は、話をすり替えていき、次々に攻撃の矢を放っていきます。
「でも、私は、彼を愛しているの・・・」
彼女が返すカウンターパンチにも、彼は、すかさず、「素晴らしい!」と絶賛したうえで、
「キミのような真面目な女性は、なかなかいないよ」
もう、ああ言えば、こう言う。こう言えば、ああ言う。結局、どんな話をしても、最後は、そういうオチに持っていってしまいます。こういうことを話し始めたら、この人は、もう止まりません。まさに、立て板に水といったところでしょうか。
サンドラも、ときどき笑みを見せながら、これを楽しんでいる様子です。完全にヤヤのペースに乗せられているようでした。

結局、2人は、残り3週間ほどの春タームの後半、急接近し、収まるところに収まって、終わってみれば、すべて、ヤヤの思惑どおりの展開になっていたのです。
「アラブ、北アフリカ勢、恐るべし!」
私は正直、そう思いました。

6月30日、春タームが終了し、別に、「名残惜しい」といった素振りすら見せず、クールに別れ、何食わぬ顔で、それぞれの母国で待つ恋人のところに帰っていった2人を見て、
「この人たちの感覚は、日本人とは、やっぱり違うんだなあ・・・」
と実感した私は、作戦変更する決意をします。

ヤヤがサフロンを去り、他のアラブ勢も、みんな国に帰ってしまった秋ターム、私は、彼らから学んだ手法を、マイナーチェンジしつつも流用し、大いに役立てることができました。
「ロッテルダムで、彼が待ってる?素晴らしい!あなたは美人だから、彼氏も、いっぱいいるんだろうなあ・・・。
でも、ここはイングランドだ!
日本人相手なら、とても、こんなことは言えませんが、白人の女の子になら、英語を使って言えてしまえるのは何故なんでしょうか。


あれから二十数年が経ちました。
私は結婚し、子どもができ、ビジネスを始めました。
世界中から集まった素敵な仲間たちと共に遊び、学び、酒を飲み、ときには喧嘩もした英国の田舎町での輝ける日々。
彼らとの交わりの中で得た様々な教訓や経験が、現在の私の思考形成に大きな影響を与えています。
教科書には、決して載っていない、私だけの大切な真理です。
私の脳裏には、今でもサフロンウォルデンの街並みと、長閑な田園風景が広がっています。
あのときの仲間たちが、世界のどこかで、幸せに暮らしていることを、私は心から願っています。
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by phuketbreakpoint | 2007-02-06 02:35