タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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モタモタしてたら・・・

「10時か・・・、まだ、先は長いなあ」
車の中で、昼寝でもしようと思っていた私のところに、女房のラントムが近づいてきました。
「終わったよ」
「えっ!?だってまだ1時間ちょっとしか、経ってないじゃない」
「うん、でも終わった」

1996年3月、プーケットタウンの土地登記局に、初めて土地所有権の移転登記に出かけた私は、手続きの速さに驚かされました。1時間強で終了ということは、タイの田舎の登記所と比べ、4~5倍の速さになります。
タイの田舎で土地の登記をしようと思っている人は、1日がかりの大仕事になりますから、
「午前中に登記を済ませ、午後から・・・・・」
そんな予定は絶対にたててはいけません。以前トランで、ゴムのプランテーションを売却したときも、急病人が出るほどの大騒ぎになってしまいました。


トラン県パリアンは、何もない田舎街で、登記所を訪れる人の数も少なく、1人として来訪者が来ない日も多いようです。ですから、外国人、特に金持ちのイメージがある日本人が入っていこうものなら、
「待ってました!」
とばかりに、カモにされ、作業は一向にはかどりません。
金が欲しくてやっているのは明らかですから、いくら欲しいのか、言ってくれれば話は早いのですが、それでは、働く人たちのプライドが傷ついてしまうようです。田舎の人は、デリケートなんですね。
「さんざん頑張ったんだけど、やっぱりダメだから、仕方なく、お金で決着をつけました」
そんなポーズだけは、とっておきたいようです。グジグジやっているのも、そのための手順なんでしょう。またそうすることによって、ワイロの額も増額させることができるわけです。

所長さんは、次々に難題を持ちかけ、「これじゃあ、ダメだ」を連発します。
「うーん、これじゃあ、ダメだなあ。困った、これじゃあ、ダメだ」
「ダメですか・・・、じゃあ、お金で・・・・」
とっとと、ケリをつけたかった私は、早々に、お金の話を持ち出そうと思っていたのですが、なかなか、そのタイミングがつかめません。
「うーん、これも、いかんなあ・・・・。これじゃあ、ダメだよ」
「やっぱり、ダメですか?じゃあ、お金で・・・・・・」
「うーん、ここも、おかしいなあ・・・・ダメだ」
「ですから、お金を・・・・」
「あれっ!? もうこんな時間か。よし、みんなで昼飯行こう」
ガクッ・・・・。

朝一番にやってきて、午前中いっぱい時間をかけたというのに、手続きが終了する目処は、まるっきり立ちません。1時間の昼休みをはさんで、午後から再開されたのですが、午前中と同じようなやり取りが繰り返されるであろうことは、容易に想像がつきました。
しかし、再開後30分程経った頃、所長さんはおもむろに、本題を切り出してきました。これは、当初のスケジュールどおりなのか、それとも、お昼休みでの作戦会議の結果出てきた戦法なのでしょうか。

「ちょっと、これを見てちょうだい」
所長さんは、朝から、「おかしい」、「ダメだ」を連発していたわけですが、どこが、どう「おかしい」のか、なにが、どう「ダメ」なのか、まったく説明してくれませんでした。ところが、午後のやり取りでは、解説書のような紙まで出してきて、自分の方から一生懸命、私に説明しようとします。
<トゥラキット・チャポ>
投機目的の土地取引を牽制するために、新たに立法された短期土地売買の売却税に関するバンコクからの公文書には、こう書かれていたようです。
「土地購入後、3年を経たずして売却する場合、取引額に対し、1.5パーセントを課税するものとする」
最初は、単なる言い掛かりだと思っていましたが、実際に、そういう税が存在するわけですから、仕方ありません。

しかし、ラントムは、それでも憤慨しているようです。ラントムに限らず、タイの田舎の人は、税制というものが、まるっきり分かっていません。いや、分かっていないという以前に、一度も払ったことがないわけですから、それも、当然でしょうか。結婚当初、私がラントムに、
「道路造ったり、学校建てたりは、みんな税金でやっているんだからね」と教えても、ラントムは、
「えっ?道路なんて、タイの王様が造ってくれるんじゃないの?」と真顔で言っていました。タイの王様が、道路でも、学校でも、どんどん自腹で造ってくれる・・・、田舎の人たちは、本気で、そう信じているようです。

「で、この人は、どうしたいわけ?」
私がラントムの通訳を交えて、所長さんに問いただすと、
「本当は、17000バーツ払わなければならないトゥラキット・チャポだけど、所長さんに5000バーツ払えば、5000バーツにしてくれるんだって・・・」
5000+5000で、1万バーツですから、差し引き、7千バーツのお得ですね。
「よし、その金払って、とっとと、終わりにしよう」
8時前から来て、ずーっと待っていましたから、もうウンザリです。そういう話なら、もっと早く言ってくれれば、今頃は、家で昼寝でもしていたでしょう。

「さあ、帰りましょう」
と、帰り支度をしていたら、この所長さんは、売主から金を取れたんだから、買主からも、と思ったようで、今度は、買主相手にグジグジ始めてしまいました。
「あららら・・・・、また、始まっちゃった・・・・」
私とラントムは、呆れて聞いていましたが、しばらくすると、所長さんにとって計算外の事態が起こります。
<バタっ・・・>
今回が生まれて始めての土地取引になる買主のプーンさんは、朝から緊張して、何も食べていなかったようで、とうとう我慢できなくなり、倒れてしまいました。

「こりゃ、大変だー。大丈夫ですか?えっ?もうダメ?早く医者呼んで。救急車呼んで!」
私とラントムは、溜まっていたウップンを、一気に吐き出すように、
「これは、みんな、アンタの責任だからね」
といった表情で、大袈裟に騒ぎたてました。さすがに、こうなると所長さんも、「本当に、責任追及されたら、大変だ」、と思ったのか、
「救急車はいらん!早く、家に連れて帰れ!何をモタモタしているんだー」
と、自分がモタモタしていたから、こうなってしまったことを棚に上げて、他のスタッフに責任転嫁し、みんなを急き立てます。

結局、この登記所には、合計4回(買って売って、買って売って)、ラントムの実家のあるラノットの登記所には2回(買って売って)、登記に行きましたが、そのいずれもが、この日と似たりよったりの状況でした。
1時間ちょっとで手続きが終わる、プーケットの登記局は、驚異的なスピード(しかもワイロなしだ!)だと言えるでしょう。
田舎での手痛い経験から、私は今でも、登記に行くときは、ひたすら身を隠し、職員さんの目に写らないように、決して中には入りません。そして、手続き終了後に、ラントムに頼んで、窓口のスタッフに、驚異のスピードに敬意を払う、という意味を込めて、100バーツのチップを渡してもらいます。
「コップ・クン・カップ」

トラン県パリアン、誰も来ない登記所。
考えてみれば、迅速に手続きを終えてしまったら、その日も、1日、ボヤーと、午後5時の終了時刻をスタッフ3人で、あくびでもしながら、待っていなければなりません。そんな毎日を過ごす、所長さん以下3名のスタッフには、きっと同情すべきなんでしょう。

時間はかかっちゃったけど、無事手続きは終わって、楽しい思い出もできました。
所長さん、スタッフのみなさん、ありがとうございました。
こちらにも同じく、コップ・クン・カップ!
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by phuketbreakpoint | 2006-07-21 10:55

世界最弱?タイ国防軍

1983年8月、
動物園駅から地下鉄に乗り、フリードリッヒストリート駅で下車、薄暗い駅の構内には検問所とパスポートコントロール、そして両替所が併設されています。ここで西ドイツマルクから、使い残せば、ただの紙切れになってしまう東ドイツマルクに、1対1という、経済の実情を無視した公定レートで、強制両替させられます。
地上に上がり、道路に沿って歩いていくと、有名な、ウンター・デン・リンデンにぶつかりました。
そして、ここで右折。その進行方向には、ブランデンブルグ門が、目抜き通りを遮断する巨大なバリケードのように、そびえ立っています。
さらに、このバリケードを取り囲むように、あの有名な壁が、この街を東西に分断すために延びていました。

ドイツの首都・ベルリン。
ここは、今から61年前の1945年4月、遂にナチスドイツの首都に突入したソ連軍と、それを迎え撃つドイツ軍との間で、大殺戮戦が展開された場所なのです。
ウンター・デン・リンデンには、このとき犠牲になった人々の霊を鎮魂するために、第2次世界大戦犠牲者記念堂が建てられていますが、その入り口では、東ドイツ軍の兵隊が1人で警備にあたっていました。
私はこの兵士のことが、今でも忘れられません。司令部から送られてくる冷酷無比な命令を、拒むべき、温かい血の一滴も流れていない、冷血の戦闘ロボット。
黙って立っているだけなのに、この兵士は、そんな雰囲気を醸し出していたのです。

“観光客が彼を取り囲む”
“写真を撮る”
“子供が冷やかす”
“灼熱の太陽が彼を照りつける”
“フランクフルトソーセージの食欲をそそる臭いが漂ってくる・・・・・”
しかし、彼は微動だにしません。
命令以外のいかなるものにも反応しないように、彼の頭脳はプログラミングされているのでしょうか。
“近づいて、じっと彼を凝視する。じっと、じっと観察する”
すると、彼の瞼が、ほんの少し動きました。普通の人間なら、これを瞬きと呼ぶのですが・・・・。
強い軍隊かどうかは、衛兵を見れば分かる、と言われていますが、もし、それが本当なら、あの頃の東ドイツ軍は、ガチガチの強さだったと推測されます。
流血の歴史を、たった1人で完璧に具現化している、この兵士に、私は恐怖を憶えました。


ところ変わって、2003年5月カンチャナブリー。
この街最大の名所は、もちろん、映画「戦場に架ける橋」で有名な、クウェー河鉄橋ですが、この日、私が向かっていたのは、市内から約65キロ北西にあるエラワン滝でした。私は、今まで合計3度、ここを訪れていますが、3年前、私を大いに驚かせたのは、滝の美しさではありませんでした。

家族と共に、1本道を快調に車で流していると、進行方向左手に、「この先3キロ ミリタリーベース」と標識が出ています。ここは、かつて、ビルマ軍がタイに侵攻するとき、必ず通った対ビルマの軍事上、交通上の要所ですから当然かもしれません。観光地にある軍事基地が、一体、どんな姿をしているのか、気になった私は、興味津々に車を進めていきました。

しばらくすると、右手前方に、それらしき敷地が見えてきます。
「あっ、あれだ!みんな、タハーンタイ(タイ国防軍)の基地があるよ」
子供たちは、基地って何?という顔をして、右側の窓に視線を向けましたが、次の瞬間、想像もできない光景が、わたしたちの目に飛び込んできました。

基地の入り口にはゲートがあり、衛兵が仁王立ちして、通行証を持っている者だけを入場させる・・・・、これは世界共通かと思われましたが、カンチャナブリーの基地は、かなり様子が違っていました。
基地の入り口にゲートがあり、衛兵が立っているのは同じでしたが、兵が立っている場所は、ゲートを塞ぐ遮断機の前ではなく、その内側で、彼は、これに上半身を折り曲げ、うつぶせるように、もたれかかっていたのです。

「これは、もしや・・・・、寝ているのか?」
いや、まさか・・・、いくらなんでも、軍隊で、それはあり得ません。
「パパ、あの人、寝てたよ・・・」
長男のあきおがそう言うと、次女のなおこは、
「何か書いてたんじゃないかなあ・・・」と車内でも意見が分かれます。
「よし、それでは・・・」と、私は、わざわざUターンして、状況を確認してみました。
行って、帰って、また行って、合計3度見た彼は、ついに、ピクリとも動かず、その姿勢を変えることはありませんでした。やっぱり、この衛兵は、本当に寝ているようです。

危険人物の入場を厳しく監視し、警備にあたっているはずの彼が、寝てしまっていたら、何のために、ここにいるのかわかりません。
「ここで、ずっと立っていろ」
その理由を考えることなく、衛兵は、命令だけを守り続けるつもりなのでしょうか。確かに、前かがみの体勢になりながらも一応、「命令どおり、立っていました」と、言えないこもありません。
恐らく、世界の軍隊の中でも、基地の前で衛兵が寝てしまっている、そして、軍法会議にかけられることもなく(たぶん)、大目に見られてしまう、そんな国は、あまりないのではないでしょうか。

午後4時頃、帰り道で、再び同じポイントに差し掛かった私は、ちょっと不安な気持ちになってきました。そんなことは、あり得ないと思いつつ、もし朝の彼が、あれから、ずーと熟睡したままだったらどうしようと、心配していたのです。
不安と共に、車は基地前を通過します。
「さあ、どうだ!?」
ホッとしました。彼はいません。いませんが、代わりの人も、誰もそこにいませんでした。
衛兵ゼロ?これで基地は大丈夫なのでしょうか。もし今、ミヤンマー軍や、テロリストの奇襲を受けたら、全滅するしかないでしょう。
「もし、そうなったら、そのとき考えればいいさ」
監獄を除けば、人間社会で最も自由を束縛され、時として人間性の否定さえ強制される軍隊の中にあっても、タイ人の、のんびりとした自由な精神は、存在が許されているようです。

「どこの国の、どんな軍団にも負けない、強い戦力を持ちたい」
遥か太古の昔から、すべての国家に共通した、この思想が、タイでは、まるっきり当てはまらないようです。それでいながら、この国は、広いアジアの中にあって、日本以外で、欧米列強の植民地にならなかった唯一の国だと言われています。
あれだけ強そうな衛兵を擁するドイツ軍が・・・、明治維新以来、富国強兵政策のもと、数限りない血の代償を払ってきた日本軍が・・・、それでも、他国軍の侵攻を阻止できなかった一方で、衛兵が寝ているタイ王国は、欧米列強に占領されることもなく、独立を守り通してしまいました。

戦争のみならず、この王国では、流行り病や飢饉で、人が大量に死んだ歴史がほとんどないそうです。
「タイっていう国は、何か不思議な力で守られているんだろうなあ」
近所で日本料理を営むご主人が、そんなことを言っていましたが、
「結局、何とかなっちゃうんだよねー」
タイの人たちは、経験上、そう信じているのでしょう。
タイ人の大らかな性格のルーツは、こんな歴史にも、由来しているのかもしれません。
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by phuketbreakpoint | 2006-07-16 00:26

筋書きのあるドラマ

6月18日、日曜日、
プーケット国際マラソンが、華々しく開催されました。
国際マラソンといっても、有名ランナーが参加したわけでもなく、
「大津波があったプーケットで、マラソン大会」
ただ、それだけの内容でしたが、どういうわけか、フジテレビが取材に来ていました。一応、番組の顔として、女子マラソンの増田明美さんが呼ばれていたようで、エキジビションのショートマラソンに参加して、このクソ暑いプーケットで10キロも、走ったというのに、息も切らさず、汗もかかず、ケロッとしていたそうです。凄いですねえ。

まあ、こんな調子の大会ですから、製作側の人たちは、筋書きを作るのが大変だったようです。結局のところ、マラソン大会だけでは、内容が乏しかったのか、
「津波を絡ますしか、ないんじゃないか」
という単純な結論に落ち着いたようで、津波の直接被害を受けた日本人として、また、私と、その家族を紹介していただくことになってしまいました。しかし、津波といっても、あれから1年半も経っていますから、
「たいへんだったですねえ」
と言われても、いまひとつピンときません。しかも、それに対する答えも、やはり、マラソンが絡んでいなければならないのです。これは、なかなか無理があって、難しいものでした。

「西岡さん、津波から1年半が過ぎました。今回、プーケットマラソンが、ここで開かれる意義は何なんでしょうか?」
最初、番組の意図がよく分からなかった私は、リポーターに、そう聞かれても、正直に、こう答えてしまいました。
「意義ですか・・・、意義も、なにも、実は、昨日まで、マラソン大会があるということすら、知らなかったんですよ」
コホン・・・と、咳払いしながら、唖然とするリポーター。慌てて、次の質問です。
「西岡さん、今回プーケットマラソンが開かれることによって、世界中から、ランナーや関係者、観光客が集まってきたわけですが、それが、西岡さんのお店の売り上げ等に、プラスになった、ということはあるんですか?」
ここでは当然、たとえ、ウソであっても、言うべき答えはあると思うのですが、そんなことに、まったく気付かなかった私は、あっさりと、こう言ってしまいました。
「売り上げですか?全然変わりませんよ。今は、1年で一番底の、ロー・シーズンですから、何をやっても無駄ですよ。アハハハハ・・・・」
アハハハハじゃないだろ・・・・と、このリポーターは、思っていたはずです。しかし、さすがプロですね。気をとり直すように、さらに聞いてきます。
「まあ、しかし、世界のランナーが、美しいリゾート地・プーケットを走る。南国ムードいっぱいのコースで、レースが行なわれる。そのことに対しては、どうですか?」
私は、大ボケのダメを押すように、また、やってしまいます。
「でも、最近、ずーっと、雨ですからねえ。この調子じゃあ、明日も、雨ですよ、たぶん」
ダメだ、こりゃあ・・・。このオッサン、使いモンにならん、とリポーターは、とうとう、私に見切りをつけて、ラントムにカメラを向けてしまいました。
「えー、それでは奥さんに質問です。今回のマラソンを、どう思われますか?」
そう聞かれたラントムですが、ダメ亭主のフォローをするどころか、あろうことか、こう答えてしまったのです。
「あの・・・・、マラソンって、何ですか?」
これじゃあ番組にならんと、とうとうディレクターは、NGを出し、やり直しです。

ディレクターが、幼稚園児に説明するような分かりやすい言葉を使って、今回のマラソン大会と、それに対する番組の大まかな内容、筋書き、番組として何を伝えたいのかを、私に説明します。そして、私は、「マラソンって、何?」というラントムに、これをザーッと説明し、もう一度カメラを回しました。
「それでは西岡さん、一昨年12月、プーケットを襲ったインド洋沖大津波では、プーケットで生活されている方たちは、もちろんのこと、ニュース等でこれを知った多くの日本人の中にも、心配されている方は、多いと思うのですが、今回のマラソンが映像となって世界に、そして、日本に流れる意義は、大きいと思うのです。プーケットは、ここまで復興しました。もう大丈夫なんだ。だから、観光客のみなさん、どんどん遊びに来てください。そういった思いも、やはり、強いんじゃあないですか?」
リポーターは、このオッサンが、ちゃんと答えられるようにと、自分で全部模範解答を喋った上で、私に聞いてきました。ここが法廷なら、弁護士からすかさず、「裁判長!これは誘導尋問です」という声が飛んできそうな、見え見えの質問でしたが、私は、これに対して、極めてアッサリ、
「そうですね」
と、一言で答えてしまいました。これでは、リポーターが何のために、長々と説明しながら質問したのか分かりません。再びNGです。
ディレクターは、「このオッサン、本当に話にならん」といった顔で、今度は単刀直入に、私に言ってきました。
「すいません。今、私が言ったような内容を、西岡さんが自分でしゃべってください」
まさに、手取り足取り指導されて、私は、ようやく、自分のお店でのインタビューシーンを録り終えることができました。

明け18日。 
いつもなら、朝寝坊するはずの日曜日の早朝6時、目覚まし時計のけたたましい音で目を覚ました私は、マラソンのスタート/ゴール地点であるドゥシット・ラグナに、家族と共に向かいました。前日、インタビュー後にディレクターから、
「西岡さん、明日はマラソンの応援には、行かないんですか?」
と遠まわしに言われていましたから、ここは、取材協力する必要があったわけです。

国際マラソンというくらいですから、近辺の道路封鎖や通行止めを心配しましたが、すんなりと会場まで辿り着くことができました。現場についたのは、午前8時をちょっと回った頃でしたが、取材班や日本人会の人たちは、もう、ほとんど集まっていました。
「おはようございます。今日も、よろしくお願いします」
マスコミの方たちは、本当にみなさん礼儀正しく、こちらも恐縮してしまいますが、この日も、ちょっと遅れてやってきた私に対しても、きっちりと挨拶してくれます。

「おにぎりが、届いたぞー」
しばらくすると、日本人会の婦人部の方たちが、朝7時から集まって作ったおにぎりが届きました。私は、日本人会の人たちと一緒に、レースを終えて、戻ってきたランナーや関係者に、おにぎりを配ります。ここで、すかさず、リポーターがカメラとマイクを引きつれ、近づいてきました。まさに、筋書き通り、おあつらえ向きの展開といえるでしょう。

「西岡さん、ここに用意されたおにぎり、今朝5時から(いつの間に5時になってしまったのでしょうか)婦人部のみなさんが、心を込めて作られたと聞いております。やはり、これからプーケットの観光が再び勢いを取り戻せるように・・・、また、以前の華やかなプーケットが帰ってきますように・・・、そんな、みなさん1人1人の気持ちが、込められているんじゃないですか?」
リポーターも、相変わらず上手にまとめます。
アジア系観光客の数は、まだ、ちょっと少ないものの、華やかなプーケットなんて、とっくの昔に帰って来ているのですが、それを言ったら、身もフタもありません。さすがに2日目ですから、私も要領が分かってきました。
リポーターの、「じゃないですか?」で終わる質問から、「じゃないですか?」を取り払い、後は、そっくり、そのまま同じような話を、繰り返していればいいわけですから、楽なものです。途中、
「かなり費用も、かかったんではないですか?」
という質問に対して、ついうっかり、
「いや、米はタイ米ですし、ノリや梅干は、近くの食材屋で安く買えますから・・・」
という失言はあったものの、あとは無難に、まとめることができたのではないでしょうか。

思えば一昨年の12月以降、様々な報道番組やバラエティー番組の取材を受けてきましたが、それは、すべて、津波がメインの内容でした。今回も、やはり津波は絡んでいましたが、一応、メインは、マラソン大会でしたから、プーケットにとっては、快挙だったと言えるのではないでしょうか。
家族全員で、おにぎり片手に、のんびりとマラソン見物(ぜんぜん見れませんでしたが)。
まあ、こんなことができるようになったのも、プーケットに、そして私たち家族に、また、のんびりした平和な日々が帰ってきた、何よりの証なのかもしれません。
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by phuketbreakpoint | 2006-07-08 00:20

任侠道爆発!彼らは来た

私は、昔からヤクザに憧れていました。
中学生の頃、映画少年だった私は、同好のみんなが洋画の話題作を競って見に行っているその影で、コソコソと東映の封切り館や、新宿にあった昭和館というヤクザ映画専門の映画館に足を運んでいました。高倉健さんや菅原文太さんといったトップスターに憧れることは決してなく、その敵役の金子信夫さん演じる悪徳親分やら、千葉真一さん演じる下品な田舎ヤクザの一言、一言に、ジーンと感動したりしていたのです。

「ワシら、うまい酒飲んで、いい女抱くために生きとるんじゃないの」
というセリフに、我が意を得たり(なんちゅう我が意じゃ!)、とヒザを打ち、
「あんた綺麗じゃのう。ワシの女に、ならんかい」
には、いつの日にか、こんなセリフを自分でかましてやろうと、固く心に誓っていたのでした。
その後、大人になった私は、ヤクザ界には就職しませんでしたが、浅草に住んでいた頃、半沢くん(本名)という元ヤクザのお兄ちゃんと知り合いになりました。会話の中で出てくる、彼の言葉のいくつかは、私が少年の頃、映画館で聞いた数々のセリフを、彷彿させるものがありました。

「オレ、女は、顔しか見ないから。他に見るとこ、ある?」
「オレの運転が上手だって?昔、ヤクザやっとったからね(なぜヤクザやると、運転が上手になるかは不明)」
「暑いけど、長袖着なきゃならんから(注、イレズミ隠すため)、辛いのよ」
20年も前の、こんなつまらない会話が、私の頭の中に、いまだに残っているのは、どうしてなんでしょう。半沢くんは、その後、些細な暴力沙汰が元で、指名手配され逃亡し、浅草を去っていきましたが、今どうしているのでしょうか。

浅草というのは、ヤクザの多い街でした。私が住んでいた浅草寺の隣にあったマンションは、一階がヤクザ専用の葬儀場モドキ(注、やはり普通の葬儀場は、貸してもらえないのでしょうか)になっていて、よく、殉職された(?)ヤクザ業界の方の葬式が行なわれていました。上から下まで、真っ黒な、いでたちの集団が神妙な顔で集まっていること自体、異次元の世界でしたが、最後の出棺のときなど、全員外に出てきて(約200-300人)、道全体が、真っ黒けです。それは、それは、もの凄い迫力がありました。

ヤクザとは、本来は博徒、つまり博打うちのことです。プーケットに長期滞在している日本人の中には、博打で足をすくわれる人が少なくありません。悠々自適の年金暮らしならともかく、ここで、ビジネスをやりながら暮らしている人が、プーケットで博打に手を出してしまうその心境が、私には、まったくわかりません。
そもそも、日本を離れ、南の島で暮らそうと決意したこと自体が大博打で、私なんか、いつも、金の心配、お店の心配、従業員がいつ消えてしまうのか?と、毎日、毎日、ハラハラ、ドキドキの連続です。普段の生活が冷や汗モノなのに、これ以上、どうして博打で、冷や冷やしなければならないのか、どうして、わざわざ、お金を払ってまで、ハラハラ、ドキドキ、しなければならないのか、その心境がさっぱり分かりません。


3年ほど前のある日、とうとう、ヤクザ業界の方たちが、うちのお店に現れてしまいました。
ヤクザというのは、間違いがあってはならない社会のようです。間違いが起こったら、自分の指が飛んでしまいますから、絶対に失敗は許されません。たかだか食事する場所(しかも昼食)でも、責任者(若頭)が事前に、調査しなければならないようです。
その日も、午前中、上半身イレズミ剥き出しのガタイのいいお兄さんたちが、ぞろぞろと、うちの近所を歩いていたので、私は、ちょっと、ビビっていました。南国リゾートと、イレズミ(しかも、モロに、ヤクザ柄)は、余りにも、ミスマッチの風景だったからです。

「あんなのが、うちに来たら、ヤバイなあ・・・」
そんなことを考えていたら、するどい目つきをした、50歳くらいでオールバックの男性が、実に、南国っぽくない服装で、屈強そうな、若いお兄さんを3人従えて、入ってきました。
「ここは、どんな料理食べられるの?」
言葉使いは、特に丁寧でなく、また、ガラが悪いわけでもなく、しかし、ズッシリと重みがあって、その一言、一言が、私の背筋をヒリヒリさせます。
「えー、洋食とタイ料理でやってますけど・・・」
私がそう答えると、この人は、グサリと突き刺すように聞いてきました。
「ふーん・・・、で、料理は大丈夫かな?」
こう聞かれれば、料理屋の主人として、本来なら間を空けずに、Yesと答えねばならないはずですが、この人の迫力が、ただならぬものだったためか、私は、一呼吸置いて、
「大丈夫・・・・・だと思いますが・・・」
と、人事のように答えました。
「よし、じゃあ、明日の午後1時、12人で予約入れられるかな」
この人は、それだけ言うと、用事は済んだとばかり、きびすを返して、店の外に出て行きました。
どこの誰かは明かさず去っていきましたが、チャラチャラと名詞出したりしないところに男気のようなものを感じて、私は改めて、ヤクザ界に対する畏敬の思いを強くしたのです。

さて当日です。
私は、約束の時間である1時の1時間前に、スタッフを集めてミーティングをやりました。
「ええか、お前ら。何があろうと、今日だけは、絶対に間違いがあったら、アカンのや!」
もちろん、全部タイ語ですが、気分的には、こういったとき、関西弁になってしまうのはなぜなんでしょう。
「オレが合図するか、客に呼ばれない限り、このテーブルには近づかんでいいから。オレが全部見るから。オレがテーブルを離れたときだけ、テンちゃん・・・、いや、テンちゃんは、やめたほうがいいな・・・・、そうだ、ウワムさんがサポートに入ってくれ。いいか、もう一度言うが、今日だけは、絶対に間違いがあったら、いかんのや!」

そして1時間後、約束の1時のキッカリ5分前に、彼らは、計ったようにやってきました。一流サラリーマン並の団体行動、いや、1人ならともかく、集団でこれができるのは、ヤクザと軍隊だけでしょう。
「いっらしゃいませ、お待ちしておりましたー」
私は、入りたての新兵のようにテキパキと、しかし、どこか、ぎこちない動きでメニューを配ります。もちろん、全員にメニューを渡しましたが、それを見ているのは、前日の若頭らしき人と、この人が「会長」と呼ぶ、親分らしき優しそうな人(これ意外!)、そして、その親分のお客さんらしき人の3人だけです。

「会長、じゃあ、これでよろしいですね」
目上2人のオーダーを自分でとった若頭は、他の若い衆の意向など聞こうともしないで、次々と手際よくオーダーを出していきます。
「サーロインステーキ、ミディアムが3つ、ウエルダンが3つ、ハンバーグステーキを6つ、ピザはサラミが入っているヤツを3枚、シーフードのフライを6つ、スパゲッティーのミートソースを3つ、あと全員にライス付けて。以上」
12人もいるのに、オーダーとるのに1分もかかりません。すべてのお客さんが、こんな調子ならいいのですが・・・。
心配した料理も、出されるスピードに問題はなく、次々とテーブルに運ばれてきます。失敗は許されませんから緊張しましたが、何か分からないことがあっても、若頭がすべてを掌握し、仕切っていますから、給仕する側は、この人だけを徹底マークしていればいいわけです。

料理はすべて、若頭が親分と一緒に座っているテーブルにまず持っていき、それを若頭の指示のもと、若頭補佐らしき人が、手際よく他のテーブルに振り分けていきます。
食事マナーは、可もなく、不可もなく、といったところですが、全3テーブルのうち、ニコやかに談笑しているのは、親分テーブルだけで、他の2テーブルは、黙々と無言で食事していました。無駄口をたたく若い衆は、1人もいません。きっちりと、あるルールに従って、食事が行なわれているようでした。
料理が出されても、親分がそれと同じ料理に手を付けるまでは、下の者は、絶対に手を付けることはありませんでした。しかも、出された料理は、残さず全部食べる、これも決まりになっているようです。

そして親分と、そのお客が食事を終えて、フォークとナイフを皿の上に乗せるやいなや、若い衆は、示し合わせたかのように、それから30秒ほどの間で、各自、自分のテーブル上に残っている料理を瞬く間に平らげ、食べ終わったお皿をテーブルの上に、どんどん積み上げていくのでした。親分より早く食べ終わるわけにはいきませんから、この30秒間で食べきれるように、ペース配分しながら食事していたに違いありません。さすがです!
作業の終了を横目で確認した若頭は、「じゃあ、勘定して」と、私に告げました。そして親分と、そのお客が立ち上がるのを合図に、全員がサッと席を立ち、「ごちそうさん」の声と共に、お店の外に消えていきました。

「フーッ、やれやれ、やっと終わったか・・・」
特に問題なく、この食事会を終えることができた私は、大きくため息をつき、
「じゃあ、みんな、いつもどおりの営業に戻るから・・・」
と標準語に戻って(タイ語なんですが)、第一級警戒態勢を解除しました。
それにしても、なんと整然とした組織なんでしょうか。こんな礼儀正しいお客さんは、見たことありません。大いに感心した私ですが、こうも思いました。
「あんな厳しい規律を強制されるヤクザ業界に就職しなくて、本当によかったなあ・・・」
やっぱり、私には、南の島の、のんびりした勝手気ままなグータラ生活が性に合っています。
どこの誰かは、結局、わからずじまいでしたが、私は、このコワモテ集団のことは、忘れられません。
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by phuketbreakpoint | 2006-07-06 00:49