タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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<   2006年 05月 ( 7 )   > この月の画像一覧

子供の頃、「一番好きな動物は?」という質問は、大人からも、子供からも、よく聞かれたのではないでしょうか。
私は、象が一番好きでした。正確には、アフリカ象です。
理由は、実に子供っぽいもので、大きくて、強いからでした。ライオンがいかに百獣の王と呼ばれようとも、1対1で闘うには、象は、余りにも巨大すぎるといえるでしょう。大きければ、当然強いはずだ、という理屈は、子供にとって実に説得力のある話だったのです。
象だけではありません。好きな魚は、ジンベイサメ、好きなクジラは、シロナガスクジラ、好きな恐竜は、プロントザウルス、好きな虫は、カブトムシ、好きな戦艦は、もちろん大和、好きな建物は、東京タワー。恐らく、ジャイアント馬場と和田アキコを除く、すべてのデカイものが好きだったと思います。私は、とにかく大きいものが大好きでした。

タイは象の国です。特にプーケットは、観光用に象乗りできる場所が多く、街中にも、ときどき現れたりしますが、逆に余りにも、人前に出てくる機会が多いためか、日本と比べ、値打ちが低いような気がしてなりません。
先月、チェンマイに遊びに行ったときもそうでした。
チェンマイで、人気ナンバー1の名所ドイ・ステープに向かう山の麓に動物園がありますが、メインは、パンダのようですね。ここだけ別ワクになっていて、エクストラ料金を取られてしまいます。パンダ以外でも、キリンやカバなどは、比較的いいポジションを与えられているようで、見物人もたくさんいました。しかし、やたらとダダッ広い園内で、象の檻がある場所は、「まあ、こいつも置いといてやるか」といった感じで、見物人は誰もいません。ドリフでいえば、高木ブー並の扱いなのです。小さいとき、動物園に行くたびに、真っ先に象を見に行っていた私としては、この象さんへの低い評価は、いくらタイ王国のやっていることとはいえ、納得のいかないものがありました。
象を過小評価してはいけません。象さんって、本当に凄い動物なんですよ。


みなさんは、トリタランというビーチがプーケットにあるのをご存知でしょうか。
地元のタイ人がナイカンと呼ぶこの浜は、パトンビーチの南端から坂道を登り、ひと山越えたところにある、とても静かなビーチです。昨年出演した「ポカポカ地球家族」のエンディングに使われたのも、この場所でした。私とラントムは、結婚する前から、ここには、よく遊びに行きましたし、結婚後も、子供たちと一緒にピクニックに行ったり、カニ獲りをしたり、言わば、私たち夫婦、家族の思い出の場所だと言えるでしょう。

今から7-8年前、生まれたばかりのきよみを連れて、バーベキューをやりにいったときの話です。当時は、まだ道中の路面は舗装されておらず、石ころだらけの山道を登っていくのは、バイクでも、車でも、実にスリリングで、時として恐怖を感じるほどでした。ですから、ナイカンは、訪れる人のほとんどいない、秘密のビーチ、といった趣きがあったのです。
この日は、トリタランの反対側、今メルリン・ビーチ・リゾートがある側の浜辺でゴザをひいて、みんなでバーベキューを楽しみました。食事が終わって後片付けをしていたら、空模様が怪しくなってきます。しばらくするとポツリ、ポツリと雨が降ってきました。

「あっ、降ってきた。みんな急いで、急いで!」
慌てて車に乗り込み、あぜ道をかき分けるように、ビーチの奥にある山の手前まで戻って来ましたが、既に坂道の路面は、かなり濡れていました。乾いた状態でも恐ろしい、デコボコ道です。このコンディションでは、とても上がれそうもありません。しかし、パトンビーチに戻るには、この坂を登っていくしか、他に方法はないのです。
「まずいなあ・・・」
私の表情が、ただならぬものであることに気付いたラントムが、「パパ、どうしたの。大丈夫?」と聞いてきます。
「うん、やっぱり、ちょっと、危なそうだねえ・・・」
私は極力、彼女を恐がらせないように、さりげなく言いました。そして、ギヤをローに入れて、ゆっくり、ゆっくり登っていきました。しかし、10メートルほど進むと、タイヤが空回りしてしまい、どうしても、そこから前には進めません。ラントムも、子供たちも、ほとんど無言になっていました。私はアクセルから足を離し、ブレーキペダルに置きなおすと、それを踏んだり緩めたりしながら、また元の場所まで下がっていきました。

「今度は、助走をつけてやってみよう」
この道は、ほぼ直線なので、勢いをつけていけば、100mほどの坂ですから登りきれるかもしれません。坂の手前から、大きく後ろに下がって再チャレンジです。
「パパ、頑張って・・・!」
ラントムが泣きそうな声で私を応援してくれます。私は、思いっきりアクセルを吹かして突っ込んでいきました。しかし、車は1/3も登らないうちに、スピードが落ちてしまい、また空回りです。しかも、今度はそれだけでは終わりませんでした。
なんと、私がブレーキを踏んだ瞬間、タイヤがスリップして、ズルズルと後退していくではありませか。
「キャー!」
車内には、ラントムと子供たちの悲鳴が響きます。ブレーキを強く踏めば踏むほど、車は、ますますスピードを上げて、逆行していきます。この道が直線だったことが本当に幸運でした。勢いよく登った坂道を、そっくりそのまま、勢いよく後退し、私は、また元の地点に戻っていました。私も、ラントムも、子供たちも、あまりの恐怖で言葉も出ません。自力では上がれないことが、はっきりした瞬間でした。今夜は一家全員、この車内で野宿でしょうか。

私たちが困り果て、呆然としていたそのときです。
ズチャリ、ズチャリ、ズチャリ、ズチャリ・・・。鎖が擦れ合う奇妙な音と共に、巨大な物体が近づいてきました。私は振り返り、後ろを見ます。
象さんでした。どうも辺りにエレファント・トレッキング場があったようで、背中に汚い格好をしたお兄ちゃんを乗せて、私たちの横を通り過ぎていきます。象が車の前に出ると、上からお兄ちゃんが降りてきました。
「助けてあげるよ」
助けてくれる? それって、象が車を引っぱり上げてくれるってことでしょうか。象が大きくて強いことは、頭の中では理解していましたが、この急坂で、6人も乗ったピックアップを引っぱり挙げるほどのパワーが果たしてあるのでしょうか。それでも、お兄ちゃんは自信たっぷりに、こう言います。
「500バーツでいいよ」
当時1日160バーツしか使えなかった私から、500バーツも取ろうなってとんでもない、と思いましたが、持たざる者は、本当に強いものです。このとき、自分の財布の中身がいくらだったのかは、私自身わからなかったのですが、500バーツも入っていないことは明らかでした。
「お兄ちゃん、オレ今、100バーツくらいしか持ってないんだけど、それでもいいかい?」
金があるのに値切っている人とは、言葉の重みが違います。私の話が駆け引きではないことは、お兄ちゃんにもわかったのでしょう。ちょっとだけ困った顔をしていましたが、すぐに、「マイペンライ(気にしない)」とOKしてくれました。この辺がタイ人のいいかげんで、素晴らしいところです。

こうして、人間同志は合意したわけですが、実際に働かされるのは象さんです。そんな不条理に不満があったのか、それとも、自身の身に降りかかる重労働を察知したのか、象さんは、林の中に逃げ込もうとしました。しかし、先回りしたお兄ちゃんは、もっていた細い木の枝を鞭にして、象さんの足といわず、お尻といわず、ひっ叩きます。
パーオ、パオー、パーオ、パオー・・・、象さんの大きな鳴き声が辺りに響きました。
「あんなに叩いて、象さんが可哀そう」
本来なら、そう思うべきだったのかもしれませんが、この時は、そんな優しい気持ちにはなれませんでした。今日中に帰れるかどうかは、象さんの頑張りにかかっているのです。象さんは、イヤイヤしながらも観念したのか、車の前に近づいてきました。

戻ってきた象さんを、お兄ちゃんが鎖を使って、しっかりと車に繋ぎます。お兄ちゃんの鞭の合図で、象さんはパオパオ鳴きながら、グイッと足に力を入れて歩き始めました。私は、お兄ちゃんの指示どおり、ギヤをセカンドに入れて車を動かしていきます。さあ、坂に入りました。
「果たして登れるのか・・・?」
お兄ちゃんは、一段と激しく、そして何回も象さんのお尻や腹を鞭で叩き続けています。
「ガンバレ、象さん!」
ズチャリ、ズチャリ、ズチャリ。鎖と鎖が激しくぶつかり合う音が耳に入ってきます。
「おおっ、登っている、登っている! そうだ、象さん、ガンバレ・・・・!」
ズチャリ、ズチャリ・・・・。私は、少しでも象さんの負担を軽くしようと、アクセルを吹かしていきましたが、お兄ちゃんがすかさず、「チャーチャー(ゆっくり、ゆっくり)」と注意します。象のスピードより車が速いと、鎖が緩んで外れる恐れがあるのでしょう。そして先ほどスリップした地点を楽々と通過しても、まだ余裕がある。さらに登っていく、登っていく・・・、30m、50m、70m、どんどん登る、登る。そして、とうとう坂の一番上まで辿り着きました。
なんという凄い力、なんというエネルギー。子供の頃、ずっと、ずっと大好きだった象さんが、私と家族の大ピンチを、いとも簡単に救ってくれたのです。象さんって、やっぱり大きくて、強い動物だったんですね。それを実際に今、自分の目で確認できた私は、大いに興奮し、感動しました。

「お兄ちゃん、本当にありがとう」
そうです。象さんのパワーのおかげで上まで来れたのは確かですが、やはり、このお兄ちゃんのことも忘れてはいけません。彼がいなければ、象さんは、そのまま素通りしていったわけですから。
「これ少ないけど・・・・」
私がお礼の100バーツ札を渡そうと、財布を見ると、
「あれ?」
なんと中には、20バーツ札がたったの1枚しか入っていません。これでは問題外です。お兄ちゃんに何と言えばいいんでしょうか。
「あのー、大変申し訳ないんだけどー、実は、20バーツしかなかったよ」
ついさっき、500バーツを100バーツに負けてもらったばかりなのに、それすらなくて、この重労働の報酬が、たったの20バーツです。ここは怒ってもいい場面だと思います。私なら、そうします。少なくとも、グチの1つくらい出るところです。
ところが、このお兄ちゃんは、「まあ、仕方ないか」といった顔しながら、20バーツ札をスッと受け取って、ニコッと笑い、「マイペンライ」と一言言うや、象の背に跨って、森の中に消えていきました。汚い格好をしていた、お兄ちゃんでしたが、去り際のニヒルな姿は、私を完全に痺れさせ、アラン・ラッドの「シェーン」と、そのラストシーンを思い出させてしまうほどの、カッコ良さだったと言えるでしょう。
もし、私が女なら、きっと彼に惚れてますね。

象さんの偉大なパワーと、お兄ちゃんの笑顔。
私は象さんを見るたびに、トリタランビーチを訪れるたびに、あの日のことを思い出してしまいます。
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by phuketbreakpoint | 2006-05-29 10:52

恐怖大国

「パパ、この行列じゃあ、馬券買えないかもねえ・・・」
一緒に来ていた長男あきおが心配そうに話しかけてきました。
昨年11月、帰国中の私は、久々に府中の東京競馬場を長男あきおと共に訪れていました。この日、第25回ジャパンカップが開催されていたからです。世界中から有力馬を招待して行なわれるこの国際G1レース、いつの間に、25回も、回を重ねていたのでしょう。
ついこの間、第1回が開かれ(私は高校生でした)、日本馬が惨敗し、第4回でカツラギエースが日本馬として初優勝しましたから、私の感覚では、今年は第12回くらいかと思っていたのですが、南の島で暮らしているうちに、東京では凄まじいスピードで時間が流れていたようです。

ジャパンカップの予想は簡単で(よく言った!)、てっとり早く言えば外国馬が勝つのか、それとも日本馬なのか、ということだと思います。今年は日本馬が断然有利という下馬評でしたので(こういう年は、その逆目に出ることが多い)、私は迷わず外国馬から調子のよさそうな2-3頭を選んで、軸にすることにしました。
こうして予想は決まったのですが、いざ馬券を買うだんになって、困ったことになりました。馬券の買い方がわからないのです。私が日本にいた頃、既にマークシート方式が導入されていましたが、今は馬単やら、ボックスやら、馬券の種類が多くて、どうマーキングしていいのか、さっぱりわかりません。売り場のわきにあるインフォで説明を受け、どうにかマーキングすることはできたのですが、果たしてこれでいいのでしょうか。

不安な気持ちで馬券売り場に行くと、そこには、もの凄い行列ができていました。数十ヶ所の窓口に、人が群がって・・・と思いきや、よく見ると整然と列ができています。さすが日本国です。こんなところにまで秩序が機能していました。しかし、締め切りまで、あと10分少々しかありません。これでは、とても先頭まで辿り着けるとは思えませんでした。タイの感覚では、まぎれもなく、そうなのです。残り10分では、この距離は絶対に届きません。
それでも一応、最後尾について、あきおと話しながら順番を待っていたら、あっという間に列は進んでいたようで、私の前には、もう4-5人しか残っていませんでした。

「もう、オレの順番なの!?」
なんという凄まじいスピードなんでしょう。この間、3-4分しか経っていなかったと思います。そして、あと少しだと思うと、またマークシートが心配になってきました。
「本当に、この書き方で大丈夫なのかなあ・・・」
心配していたら、私の番がきました。今や馬券販売は、すべて自販機で行われており、初めて見る機械の前に、引っぱり出された私は、ほとんど浦島太郎のようでしたが、モタモタするわけにはいきませんでした。私の後ろでは、20人以上の日本の方たちが、時間切れを心配しながら、ジリジリと順番待ちしているのですから。

「えーと、まずシートはここに入れてー、お金はここに・・・・」
失敗してはいけないと思い、1つ1つ、確認するように作業を進めていきましたが、「やれやれ、これで終わりか」と思った瞬間、機械の下の口から、入れたはずのシートが戻ってきてしまいます。
「あれ?なんで?」
プーケットなら、1度や2度のミスなど当たり前、と開き直れる私も、ここは世界一のスピード大国、日本の首都・東京ですから、大変な焦りを感じます。
「入れ方が悪いのか?」
再びシートを機械の中に突っ込みましたが、無情にもシートは、また下の口から戻ってきてしまいました。まるで機械にアカンベーされているような気分になってきます。
「いかん、落ち着け、落ち着くんだ」
私だって、つい十数年前までは、れっきとした日本人だったんですから。

でも、こっれだけ人がいっぱいいれば、私以外にも、モタモタしている人は、いるんじゃないかしら、そう思い、チラッと横目で隣の列を見てみると、案の定、70代くらいのおばあさんが券売機の前に立っていました。
「しめしめ、これで私のモタツキも、カモフラージュされるだろう。おばあさん、ご愁傷様です」
そう心の中で思ったのも束の間、このおばあさんは、持っていたシートとお金を手際よく機械の中に差し込んで、あっという間に馬券を手にしてしまいました。その間、5-6秒だったでしょうか。
「えっ?・・・・・・ええええっ!?」
こんなおばあさんですら、まったく列の前進スピードを止めることはありませんでした。その隣では、急流をせき止めるダムのように、ピタッと1分以上も、私が窓口を塞いでいるのです。

13万人も人がいるのに、人に迷惑かけてる田舎モンは、もしかして、たったの1人、私だけなんでしょうか? そう思うと、ますますプレッシャーが掛かってきて、もう諦めて後ろの人に譲ろうと思ったときでした。機械の脇にある扉が、カパッと開いて、中から係のおばさんが、「どうしましたか」と聞いてきます。まさに地獄に仏。
「何度入れても シートが出てきちゃうんですよ」と私が言うと、
「馬券の種類がマーキングされていませんねえ」とおばさんが答えます。
「連勝単式で買いたいんですけど・・・」
「ああ、それなら、ここにマークしないとダメですね」
私は、おばさんに教えられた部分をペンで塗りつぶし、再びシートを機械の中に入れました。
今度は成功です、やりました!しかし、これだけ迷惑をかけてしまった以上、もう後ろで並んでいる人たちの顔を見るわけにはいきません。ここは競馬場で、日本で最もヤクザの人口密度が高い場所なのです。列の脇をかき分け逆進し、私たち親子は逃げるように、この場を離れました。

普段、プーケットでタイの人が何かモタモタしていると、
「なにをトロこいこと、やってるの」とブツクサ文句を言っている私ですが、この日は完全に立場が逆になって、日本の方たちから、同じような目で見られてしまいました。
それにしても、日本国のスピード&精密さは、壮絶なものがあります。人間業とは思えません。恐らく、この競馬場馬券売り場は、世界で最も順番の回るスピードが速い場所ではないでしょうか。しかも、みなさん娯楽のために来ているだけで、誰に強制されたわけでもないんですから。
超スピードに、すっかり翻弄されてしまった私は、改めてこう思ったものです。
「この先、どんなことが起ころうとも、決して日本に帰ろうなんて思っちゃダメだ」

みなさんも街中で、タイ人や他の外国人がモタモタしているのを見かけても、怒ってはいけません。この人たちは、普通なんですよ。あなたのスピードが、そもそも常識外れなんです。
あの日のわたしの正直な感想です。
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by phuketbreakpoint | 2006-05-26 10:52

じいちゃんコード

映画「ダビンチコード」がプーケットでも公開され、話題を呼んでいます。
劇中に出てくる不思議な暗号文13-3-2-21-1-1-8-5。原作を、まだ全部読んでいない私は、その意味はわかりませんが、自分の身の回りで、こういった意味ありげな数字を見つけた場合、タイの人なら絶対に、あることをやろうとします。絶対です。
<3桁の数字当て>
一般的には、単純に「ブー(番号)」と呼ばれる、このミニ宝くじは、国民に広く認知されていて、タイ人なら誰でも一度くらいは購入したことがあると思いますが、買い方は簡単で、仲買人に自分の好きな数字と掛け金を紙に書いてもらい、お金と引き換えに、その紙をもらうだけです。配当は、約50倍で、月に2回、当選発表があります。
「新しく買ったバイク・ナンバーの下3桁が当った」
「子供が生まれた5月21日に、521を買ったら当った」
みんな、自分の身の回りで起こった話に、まことしやかに枝葉を付けて、面白おかしく必勝理論を展開しています。

以前、トランでゴムのプランテーションをやっていた頃の話です。
向かいに住むクローさんが、軒先に座って、こんな話をしはじめました。
「ムーじいさんの話、知ってるかい。死ぬ前に、デッカイ置き土産を置いていったらしいぞ」
「あのじいさん、金持ちには見えないけどねえ」
最初は我が家の人たちも、ほとんど関心を示しませんでしたが、クローさんの次の一言で目の色が変わってしまいます。
「ブーだよ。なんでも死ぬ直前に、言い残していった3桁の数字を、娘のウィーがメモって買ったら、大当たりだそうだ」
「へえー、それで、いくら当ったの?」
「ソング・セーン(60万円弱)だよ、ソング・セーン!」
「そりゃすごいねえー」
タイの人たちは、この種の話が大好きで、それが真実であろうが、なかろうが、なんとなく、あってもおかしくないような景気のいい話であれば、みんな、すぐに喰いついてきます。うちの家の人たちも、話を聞きながら、だんだん、その気になってきました。

そして、いつの間にか、みんなの視線は、90歳になり、足が弱って歩けなくなったラントムのおじいさんの方へ、知らず知らずのうちに流れていってしまいます。日本では、こういった場合、本音で考えていることがあっても、口に出すわけにはいきませんから、阿吽の呼吸であるとか、「オレの腹を読んでくれ」といった、ソフトな手順を踏みますが、タイの人たちは、そんな、まどろっこしいやり方はしません。ラントムの妹ティップは、無遠慮に、ズバリと言ってしまいます。
「ポータウ(おじいちゃん)、もうダメだと思ったら、ちゃんと数字を3つ言い残してから死んでちょうだいね」
こんなことを、平気な顔で言ってしまえる神経は凄い、と感心している私の横で、ラントムのお母さんも、ダメを押すように、「絶対に忘れちゃあダメよ」と念押ししていました。
そう言われてしまったおじいさんですが、気分を害するどころか、久々に人から期待された自分が嬉しかったようで、
「よし、まかせておけ!ワシが最後に、ちゃんと土産を置いていってやるから」と胸を張っていたのです。

そして迎えた、おじいさん最後の日。
この日は、偶然にも皆既日食で、まだお昼過ぎだというのに、どんどん薄暗くなってきます。
「始まった、始まったー。ほーっ、こらスゴイわ」
少し興奮しましたが、「これが日食かー」とわかった以外は、あまり感動のない、ただの暗がりだったと思います。
その2日前から、ほとんど食欲もなく、全身の感覚が無くなっていたおじいさんは、
「ワシの足は、もう死んどる。手も、ほとんど死んどる。そして、わしも、今日で死ぬんじゃろう」
こうポツリと口にしました。それを聞いた周りの人たちは、慌てて、
「今日採れたキノコよ。凄いでしょ。このスープ、美味しいのよ」
その日の朝、うちのゴム園で大量に見つかったキノコを、おじいさんに見せて話を変えようとします。
「・・・・・・ 」
無言のおじいさんは、もう自分の死を悟っているようでした。
「パン(ラントムのお父さんのこと)を呼べ」
お父さんがおじいさんの枕元に近づくと、おじいさんは、ほとんど動かなくなってしまった手で、お父さんの右手を掴もうとします。それを自分の手で、固く握り返したお父さんに向かって、おじいさんは、こう言いました。
「お前のことを許してやる・・・・・、すべて許す・・・・・・」
その何日か前まで、
「パンには、絶対にワシの棺桶は触らせんな」と、みんなに釘を刺していたおじいさんでしたが、向かいのティーさんから、「憎しみを、あの世に持っていってはいけない」と諭され、この日の発言になったようです。

お父さんは、おじいさんの許しを聞いて涙を流していました。この人の涙は、後にも先にも、このとき1回だけしか、私は見ていません。誰の目にも、おじいさんの命が風前の灯火だということは明らかだったと思います・・・、思いますが、最後にアレだけは、言っておいてくれないと
みんな、同じことを考えていたのでしょう。さすがに、この場で、ブーの話を言い出す人はいませんでしたが、それにピンときたのか、おじいさんは最後の力を振り絞って、こう言いました。
「紙と鉛筆を用意しろ」
待ってました! 多分、みんな心の中で、同時に、このセリフを言っていたのではないでしょうか。
「4・・・・、9・・・・・、5・・・・・」
1つ1つ、ゆっくりと、おじいさんは口に出し、もう一度繰り返しました。その後は、言いたいことは、すべて言い尽くした、といった表情で、おじいさんは静かに目を閉じ、何も喋らなくなってしまいました。
ラントムのお父さんが泣き、お母さんが泣き、ラントムも、子供たちも、みんな泣いていました。


翌日から早速、おじいさんのお葬式が始まりました。
いつも思うのですが、タイの葬式は、本当にウンザリするほど長く、おじいさんの葬式も3週間以上、たっぷりと時間をかけて、のんびり、のんびり流れていきました。
この間、近所の人たちが用事もないのに集まってきて、「忙しい」を連発しながら、飲んだり、食べたり、楽しそうに、この期間を過ごします。おじいさんが死んで、まだ2日しか経ってないというのに、うちの人たちも全員、笑顔で嬉しそうに喋っていました。
しかし、やはり1週間、10日と続いていくうちに、話すことも、だんだん無くなってきたのでしょう。みんなが退屈し始めたある日、タイムリーにブーの当選番号の発表がありました。

さて、その結果なんですが・・・・。
まあ、結果なんて、どうでもいいじゃないですか。おじいさんが死ぬ間際、みんなのために残していってくれた数字のおかげで、この2週間、うちの家族だけでなく、親戚の人たちや、近所の人たちまでもが楽しい夢を見ることができたんですから。おじいさんは、おじいさんが残していった夢と一緒に、天国に昇っていきました。
おじいさん、安らかに眠ってください。そして、私たち家族を、いつまでも見守っていてください。
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by phuketbreakpoint | 2006-05-25 10:45

私を検査に連れてって

2002年12月、
Sさんのお見舞いに出かけた翌々日、ラントムは、嫌がるお父さんと兄・トゥアンの2人を、パトン・ホスピタルに連れていきました。
「Sさんも、あんなことになっちゃったんだから、油断できないわ」
元気だったSさんがエイズ発病後、急激に衰弱してしまったことに衝撃を受けたラントムは、普段から行状の良くないこの2人に、かなり強い疑惑を感じていたようです。

この時期は我が家だけでなく、プーケット在住の日本人たちの間で、、その噂は、持ちきりでした。特に、身に覚えがある男性たちは、大きなショックを受けていたようで、
「おい、聞いたかSさんの話」
「うん、恐いねえ、ホントに」
「お前は大丈夫なのか?」
「オレは大丈夫だよ・・・、多分」
みんな根拠もないのに、自分だけは大丈夫だ、と信じたかったようですが、じゃあ、本当に大丈夫なのか、と突っ込まれると、言葉に詰まってしまいます。慌てて検査に行く者、もう諦めてしまったのか開き直る者など様々で、あの頃は、まな板の上のコイの心境だった人は、多かったのではないでしょうか。

私ですか?
私は大丈夫です。私はずっと、清く、正しい生活を送ってきましたからね・・・結婚後は。
それじゃあ、結婚前は、どうだったのかと問われれば、叩けばホコリが出る、というよりも、数年間、掃除したことがないエアコンのフィルター、といった状態で、根詰まりして、こびり付いて、ホコリも出ないというか・・・。
新婚当時のラントムも、私の過去に疑惑を抱いていたようで、やはり、強制的にカトゥーホスピタルに連れていかれ、検査を受けたことがありました。
受付で通された場所は、正門から入ってすぐ右脇にある、できたばかりのバラック建のような小さな建物でした。聞けば、その日スタートしたばかりのエイズ検査専用コーナーだそうで、中に入ると、「あなたが記念すべき第一号の来訪者」だと歓迎してくました。

診察室に通されると、まず専門医のカウンセリングがありました。
私が思い当たる節を説明していくと、女医さんは、各々の危険度を、1つ1つ解説してくれます。
「そうですか、それは、ちょっと危ないですね」
「ええ、これも危険行為にあたります」
「はい、やはり安全とは言えないですね」
「それもダメです・・・・ちょっと、あなた、いつくあるんですか」
こんなやり取りの後、ようやく別室に回されて、いよいよ検査が始まりました。

ブチっと左腕に刺された針から、注射器に吸引されていく、濃い朱色の血液を見ていると、自分のものでも、なんだかとっても、バッチイものに思えてきてしまいます。
「神様、どうかシロでありますように」
そう考えるのは、検査を受けた人なら、誰しも同じだと思いますが、当時は結果がわかるまで、なんと1週間も待たねばなりませんでした。そして、この1週間が、あんなにも長く、辛いものになろうとは、検査前には想像もできませんでした。すぐに結果がわかる、今のシステムは本当に羨ましい。

何度も、何度も検査結果を予測し、「大丈夫だろう」と自分に言い聞かせ、そのすぐ後に、「でも、もしかして・・・・」と弱気になったり。そんなことを1日中、しかも7日間、ずっと繰り返していたのです。
この恐怖の数日間がようやく終わり、恐る恐るまた病院に行って、「シロ」の判定を聞いたときは、本当に嬉しかったですねえ。
大学の合格発表でバンザイした帰りに、好きだった女の子に告白し、OKの返事をもらった・・・、そんな気持ちだったでしょうか。


恐ろしいエイズウイルスといっても、感染ルートは、血液、母乳、(男性の)精液、(女性の)膣分泌液の4つしかありません。このうち母乳は、成人には関係ありませんから、残りの3つに、いかに関わりあったかが、勝負の別れ道ということになります。専門家の話によると、このうち精液と膣分泌液の2つは、コンドームの使用によって、ほぼ100%ウイルスをシャットアウトできるということです。
しかし、タイの田舎の遊び人は、コンドームなんか絶対に使いません。ラントムのお父さんや、トゥアンも例外ではなかったでしょう。そして、お父さんが、あちこちで、つまみ食いしてきた女性たちは、見るからに汚らしい感じの人が多く、HIVウイルス以前に、もっと悪い病原菌をいっぱい持っているんじゃないか、そんな気さえしてきます。

それじゃあ、トゥアンの方は、どうかと言えば、お父さん以上にグレー、というより、ほとんどクロに思えて検査するだけ無駄のようにも感じられました。まず、長年のムショ暮らしの間、ずっと言われてきたのがホモ疑惑です。
「同じ牢に入ってるサックは、とってもいいヤツなんだよ。今度、出たら紹介するから」
面会に行ったら、聞いてもいないのに、そんな話ばかりしているトゥアンを見て、
「2人は、多分デキてるんじゃないかしら」とラントムは、よく噂していたものです。出所後も、とっかえひっかえ、どこで探してきたのか、身持ちの悪そうな女とばかり付き合ってきましたから、これだけでも、かなり可能性は高いと思われました。
これに加え、薬物も大好きですから、もう感染ルートのトリプルクラウンです。私とラントムは、「検査の結果がどうか」というより、クロの判定を受けた後、「どうすればいいか」に関心が移っていました。

ところが、採血して15分後に出てきた結果は、意外にも、2人とも陰性反応だったのです。
お父さんは、1人の女に深入りすることなく、ヒット・エンド・ランに徹していたのが幸いしたようです。たとえ、相手の女性がHIVに感染していたとしても、膣分泌液に含まれるウイルスの量は少なく、1回や2回の性行為では、まず感染しないそうです(諸説ありますが、その可能性は1%から0.1%だと言われています)。お父さんは、レッドゾーンの上を綱渡りするように、ウイルスから逃れ続けてきたのでしょうか。
そして、トゥアンの場合は、単なる好運だったと思います。彼の場合は、お父さんと違って、手を付けた女には、必ず深入りしていましたから、もし相手がウイルスを持っていれば、確実にアウトだったでしょう。薬物も、注射系のものは、高くて手が出ませんから、安物のガンジャ(マリファナ)を吸い続けたことが幸運につながったようです。

「危険だから、気をつけたほうがいいですよ」
Sさんの発病を知った後は、お店に来られたお客さんと、そういった話になったとき、私はいつも、こうアドバイスしていましたが、グレーな2人が、無事シロと判定された後は、
「大丈夫ですよ。やっぱり、あの病気は、簡単には感染しないみたいですよ」
と、自信を持って答えることができました。あの2人がシロなら、クロの人は、そうはいませんね。

エイズ治療の進歩は目覚しく、体内に入り込んでしまったHIVウイルスを、完全に撃退することはできないものの、発病させないで封印することは可能と言われています。発病前に感染がわかっていれば、死ぬ人はほとんどいないそうです。
ですから、身に覚えがある人は、早いうちに検査に行かれたほうがいいのではないでしょうか。
プーケット在住者でも、身に覚えのある人、いっぱいいますね。
みなさん、大丈夫ですかー。
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by phuketbreakpoint | 2006-05-23 11:03
戦争がやりたい人は、そうはいないはずです。それでも世の中から戦争がなくならないのは、一旦流れができてしまうと、お互いに引っ込みがつかなくなって、流れを止めることができないからではないでしょうか。もし、あのとき、私が我慢すれば戦争にならなかったのか、どうか?
今、冷静に考えてみても、多少の時間稼ぎはできたかもしれませんが、いずれ、ぶつかり合うのは必然だったと思います。それでも、表面上の平穏だけは、なんとか保っておきたかったのですが、このホットな南の島では、どだい無理な話だったのかもしれません。

あの日、子供たちが学校から帰ってきて、おばあさんのお店の前を歩いていたら、中から、もの凄い声が聞こえてきました。
「このガキども、この辺ブラブラしてたら ぶっ殺すぞー」
ビックリした子供たちが慌てて家に戻ってきて、ラントムに報告すると、彼女は逆上して、殴り込みに行こうとします。
「ちょっと、やめなさいって。放っておけばいいから」
まだ明るいのに、こんなところで大ゲンカなんてとんでもない、と思って止めようとしましたが、それをラントムは無視して、スタスタと、おばあさんのお店の方に歩いていってしまいました。しかも、生まれたばかりのきよみを抱っこしたままです。

「あららら・・・・・、どうしよう」
タイの女性は、頭に血が上ると何をしでかすかわかりません。実際、この界隈でも、マッサージ屋の女ボス2人が、両者おっぱい丸出し状態で大乱闘し、見物していた白人観光客を大いに沸かせる、という事件が過去にありました。
ところが、しばらくするとラントムは、ムッとした表情で戻ってきました。
「ダメだわ、あれは。きよみと一緒じゃ、危ないから戻ってきたわ」
彼女も、おばあさんの興奮状態があまりにも凄まじかったので、スゴスゴと帰ってきてしまったようです。とりあえず、取っ組み合いの大乱闘だけは回避できましたから、私もホッとして、そのまま店番を続けました。ところが・・・。

「これはシルクで、値段も手ごろなんですよ」
私が店内で接客していたら、何者かが、外からこちらに向かって大声で怒鳴っています。あのおばあさんでした。もしも、私がタイ人で意味が全部理解できたら、たとえ相手が年寄りの女性だったとしても、我慢できたかどうか・・・。こういうとき、言葉の分からない外国人は便利です。
相手にするつもりはなかったのですが、周りのお店や通行人も見ていて、みっともなかったので、私は外に出ていき、おばあさんとその娘(助っ人として呼ばれたようです)と対峙しました。
「うるさいから、お店の前で、ギャンギャン言うのは、止めてくれないか」
一応言葉は選びましたが、私は、ハードフェースで語気も、かなり強かったと思います。おばあさんと娘は、待ってました、とばかりに腹に溜まっていたものを、一気に爆発させてきました。

「アンタ、外国人のくせに、何生意気なこと言ってるの。私が先に、ここで商売してたんじゃないか。アンタなんか、潰そうと思えば簡単なんだよ。なんなら、全商品を仕入れ値で売ってやろうかい。やってられないだろう。私は大丈夫、お金があるから。私は本気だよ。それでもいいのかい」
延々10分以上、おばあさんと娘は捲し立てていましたが、結局、両者の言い分は平行線のまま、この日は別れました。しかし、この日のおばあさんの怒り方は、尋常ではありませんでしたから、私も、ちょっと心配になってきました。
「いくらなんでも、そんなこと(全品仕入れ値販売)はやらないだろう。やったら共倒れだ」
「いや、あのバアさんの剣幕からして、もしかしたら本気かも」
売り上げが急に伸びて、私もちょっと、いい気になっていましたから、この日のイザコザと、おばあさんの恫喝は、かなり堪えました。何日か考えて、私はラントムに、こう言ったと思います。
「やっぱり、もしも、ということがあるから、そのときのために、今から手を打っておかないとダメだな」
「何か、いい方法でもあるの?」
「バンコクに仕入れに行くよ。バンコクで買えば、例え仕入れ値で売っても、まだ、ちょっとだけど、儲けがあるから」
プーケットの小さな小売店は、地元の卸商で商品を買って商いをしています。プーケットの卸商は、バンコクの卸問屋から仕入れていますから、バンコクで商品を買ってくれば、たとえプーケットの卸値で売ったとしても、いくらか利益が残ることになります。おばあさんが、共倒れ覚悟で自爆テロを仕掛けてきた場合、生き残る手段はこれしかありませんでした。

このとき決まったことが もう一つありました。やはり、名無しのお店が2軒、どちらも同じような商品を売っていたのでは、お客さんに見分けがつきません。
「この際だから、名前をつけて、看板も出そう」
1986年、ロンドンにいた私は、友人と2人で、フルハム・ロードに写真を撮りにいきました。当時、話題騒然だった疑惑事件の容疑者が、同じ名前のブティックを経営していたからです。
「おれは将来、サウスロード(当時通っていた学校の所在地)という名のブティックをやるよ」
あのとき、冗談で交わした会話を突然思い出しました。
「よし、あの名前でいこう。今日から、このお店は、サウスロードだ!」

さっそく看板屋に発注して、私は、次の週末、夜行バスに乗ってバンコクに仕入れルートを開拓するために出かけていきました。これといって、何の当てもありませんでしたが、とにかくやらねばなりません。やっとのことで軌道に乗ったサウスロードです。ようやくネズミを捕るようになったネコを、もしも奪おうとする者がいるのなら、こちらが先手を打って、先に相手を潰しておかねばなりません。そう本気で思っていました。相手側も、あの調子なら、私と、まったく同じ考えだったでしょう。

さあ、バンコクで仕入先探しが始まりました。
歩く、歩く、歩く、また歩く。
見る、見る、見る、そして見まくる。
聞く、聞く、聞く、手当たりしだい聞きまくる。
目に付いた商品を見つけると、試しに、2-3ダースずつ買って、大きな黒いバックに詰め込み、プーケットに持ち帰ってきました。日曜日の夕方夜行バスに乗って、月曜日の朝バンコクに、一日動き回って、また夕方夜行バスに乗って、火曜日の朝プーケットに戻ってきます。翌週も、その翌週も、そのまた翌週も・・・・。終いには、バスターミナルの切符売り場のお姉さんにも顔を覚えられてしまい、何も言わなくても、バンコク行きのチケットを出してくれるようになっていました。

お店では相変わらず激しい戦いが続いていましたが、私がバンコクで仕入れるようになった後は、ガラは全然違いますし、商品も、両者の間に微妙に違いが出てきました。お互い、憎しみあい、相手を潰す気でいたのは同じでしたが、同じガラ、同じデザイン、同じ値段で、ガチンコにぶつかり合う状況はなくなっていきました。
おばあさんは、意地になって、うちより営業時間を延ばそうと、朝も早くから夜遅くまで、亭主と2人で頑張っていましたが、まるで最前線から撤退を開始したかのように、ある時期からお店を休むようになり、開けても午後からだったりと、次第にパワーダウンしていきました。これは、私の推測ですが、余りにも気合を入れすぎて、ちょっと体を悪くしてしまったのではないでしょうか。

私の方も、引き取って育てていたラントムの兄トゥアンの娘ギンがグレて家出したり、ブレイクポイントの内外装工事に手間取ったりしているうちに、だんだんと心は戦いから離れていき、おばあさんを憎む心も、小さくなっていきました。特に、ブレイクポイントの経営をスタートさせた後は、それが思うようにいかなかったこともあって、もう、おばあさんとの戦争どころではなくなっていたのです。戦いは、何時しか膠着し、休戦条約を結ぶこともなしに、完全にフリーズしていました。

そして、戦いが始まってから6年後の2004年12月、津波がプーケットを襲います。このとき、サウスロードも、おばあさんのお店も、大変なダメージを受けてしまいました。大自然のパワーの前では、人間の憎しみ会う心なんか、あまりにも、ちっぽけで空しいものです。お互い、それが痛いほどよくわかったのか、津波の後、3-4日して、おばあさんがお店の様子を見に来たとき、どちらともなく歩み寄って、戦争勃発以来、初めて言葉を交わしました。
「どうだい、お店は」
「もう、グシャグシャです」
「うちも同じ、全滅よ」
「本当に、これから、どうなっちゃうんでしょうねえ」
2人の、「トホホホ・・・・」という溜息がハモッてしまいそうな状況でしたから、お互いに、これ以上、イザコザを続けていく気力なんか完全に消え失せていました。
「まあ、いろいろあったけど、こんなことになっちゃったからには、みんなで力を合わせて、また頑張ろう」
「そうですね。頑張りましょう」
津波は様々なものを破壊し、人々から奪い去っていきましたが、与えてくれたものもありました。6年近く、激しく憎しみあい、潰しあい、戦いに明け暮れた両者の遺恨を、きれいさっぱり一瞬にして、その大波と共に、流して去っていってくれました。

やはり戦争のない、平和な世の中が一番です。
しかし、サウスロードで食えるようになったのは、明らかに、あのおばあさんとの戦争のおかげだったと言えるでしょう。
戦争と平和、それを繰り返して、人間は進歩していくのでしょうか・・・・・。
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by phuketbreakpoint | 2006-05-15 13:13

一触即発だ!

「どうして西岡さんは、この商売をやられたんですか?」
お客さんと話していると、そう聞かれるときがありますが、
「多分、この商売で食っていけると思ったし、実際、それができたから」
私には、こう答える以外ありません。仕事を始めた動機というのは、日本では、いろいろあると思いますが、この南の島で暮らしていこうと思った以上、それほど多くの選択肢があるわけではないのです。
重要なことは、極論すれば、たった1つ、その仕事で、食っていけるのか、いけないのか、それだけです。この商売が好きとか、嫌いとか、やり甲斐があるとか、ないとか、楽しいとか、楽しくないとか、そんなことはどうでもいいのです。
「白ネコだろうと、黒ネコだろうと、ネズミを捕る(金になる)ネコは、いいネコだ」
自分の努力が、ダイレクトに、お金になって返ってくれば楽しいし、やり甲斐がある。そういう商売なら、私は何でも大好きなわけです。単純ですね。日本にいる頃は、職業のことで、いろいろ思い悩んだ時期も、もちろんありましたが、この点に関して言えば、今の私には、考えのブレは、まったくないと言えるでしょう。


「多分、この商売で食っていけるはずだ」
そう思ってスタートさせたTシャツ屋ですが、2年間もの間、このネコは、決してネズミを獲ろうとはしませんでした。トップシーズンの1月と2月に、ほんのちょっと起き上がるだけで、それが終わると、また眠り続けてしまいます。浮上する気配すら見せないこのお店に、見切りをつけようと思った私は、全商品大幅値下げすることを決断しました。
「明日から、バーヤイサン(ショートワンピース)は、150バーツでいくから。他の商品も様子を見ながら値下げして、ばあさんのお店と同じ値段でいこう」
私は、ラントムに、今後の方針について説明しました。
「パパが、そう考えたのならいいけど、そんな値段で、やっていけるのかしら?」
彼女は、値段を変えることに不安を感じていたようです。ところで、ここで出てきた、「ばあさん」というのは、3軒隣りのライバル店の女主人のことで、このおばあさんは、ソイ・プライサニー(郵便局通り)にも、同じようなお店を持っていました。肥満体質で、京塚昌子さんを、強面にしたような顔をしています。そして、ソイ・プライサニーのお店でも、周りのお店の人気アイテムの値段を、情け容赦なく、ぶった切って値崩れさせ、同業の人たちから恐れられ、嫌われていました。売り方は典型的な中国人スタイルで、愛想がありませんから、買う側からも、それほど好かれていたわけではなかったようです。

いよいよ値下げ決行です。
別に大々的に広告打ったりしませんでしたから、当然反響はありません。それでも10日ほど我慢していると、徐々にではありますが、売り上げが上向いてきました。
「なんとなく、上昇してるかも・・・」
そう思い始めた、ある朝のことです。この日の私は、特に理由はありませんが、店頭に置く商品の配置を、従来の、横にして平行に並べるやり方は採らず、お店の正面に垂直になるよう縦列で置いてみることにしました。今までの置き方と比べ、こちらの方が店内の様子が、外からよく見えます。これが原因かどうかはわかりませんが、その日の朝から突然、お客さんが入るようになり、売り上げが爆発したように一気に上昇しました。自分でも恐くなるくらい、次々にお客さんが現れ、商品を買っていきます。以前にも、たまたま、入ってきたお客さんが、たまたま、まとめ買いしてくれたことはありましたが、この日の様子は、それとは違っていました。

無名のTシャツ屋、遂に浮上!
まさにブレイクです。いったん売れるようになると、今まで、どうして、あんなに売れなかったんだろう、と不思議に思えるほど、いとも簡単に商品が売れ、消えていきます。
「ママ、やったね。大成功だ!」
売り上げ記録を次々と更新していく度に、私はラントムや子供たちに大入り袋を出して、みんなと喜びを分かち合いました。プーケットで暮らし始めて以来、ずっと続けてきた超ケチケチ生活とサヨナラできたのも、この頃です。
しかし、世の中というのは、笑う人の影では、必ず、それを快く思っていない人がいるものです。この突然の繁盛は、3軒隣りのおばあさんの目にも、はっきりと、そう映ったようで、向こうは、すぐに次の手を打ってきました。
<バーヤイサン、130バーツ>
これでもか、というくらい大きな値札を、バーンと貼り付け、店頭の一番前に置いて、攻勢に出てきました。私は値下げを決めたときから、全商品を向こうの価格に合わせていこうと、ラントムとも確認していましたから、その日のうちに値段を130バーツに書き換え、さり気なく、値札をつけ直しておきました。

私は、さり気なくやったつもりでしたが、おばあさんは、目ざとくこれを見つけたようで、
「自分に対する挑戦だ」
と受け取ったようです。次の日、さらに値を下げてきました。
<バーヤイサン、100バーツ>
これじゃあ、ほとんど仕入れ値と同じです。私も、
「なんか、ヤバイ感じに、なってきちゃったなあ・・・」
と恩いつつも、
「ええい、こうなったら、もうヤケクソだー」
と徹底的に相手の値段に合わせていきました。向こうにしてみれば、そろそろ私がギブアップして、諦める頃だろうと思っていたのかもしれませんが、おばあさんが値段を下げれば下げるほど、それに合わせて一緒に売値を下げてしまう私のお店は、ますます、お客さんが増え、売り上げが上昇していきました。あのとき、もし、おばあさんが意地になって値段を下げてこなかったら、今のサウスロードはなかったでしょう。あれほど苦しんだのが嘘のように、呆れるほどアッサリと、お店は軌道に乗っていました。

しかし、こんな値段の追いかけっこを何回か繰り返した後、とうとう激突する日がやってきました。
前日は、どういうわけかロング・パンツがよく売れましたが、私が店頭でお客さんの相手をしながら、たまたま3軒隣りのお店に目をやると、あのおばあさんが、かなり鋭い目つきで、こちらを見ていました。私は慌てて、ニコッと笑って挨拶し、向こうも、それに対して、愛想笑いを返してくれましたが、おばあさんは、このとき、何か思うところがあったようです。
次の日の朝、お店を開けて、おばあさんのお店の方を見ると、店頭の一番目立つ柱の上部に高々とディスプレイされたロングパンツに、90バーツという値札が、この前の100バーツのときより、さらに巨大になって付けられていました。おばあさんのやり方は、いつもそうでしたが、、値段が下がれば下がるほど、値札はそれに反比例して巨大化していきます。ロングパンツは、うちでは、「イチ押し」というわけではありませんでしたが、大事な主力商品の1つであることに変わりありません。この値段では、もう、この商品から利益を上げることは不可能になります。大売れの翌日に、狙い撃ちしたかのような、おばあさんのエゲツないやり方でした。

今までも、もちろん、ムカッときたことは何回かありましたが、私は、いつも爆発しそうなラントムを制止しながら、自分自身も抑えてきました。しかし、そんな私も、このときは、とうとう切れてしまい、すぐに反撃に出てしまいました。
「これ以上、我慢してたら、ますます、調子にのってくるぞ」
そんな気持ちだったでしょう。
「そっちが、そうくるのなら、こっちは、こういくぞ!」
ババぁーん、
<ナイトガウン、350バーツ>
おばあさんが550バーツで売る、このアイテムの仕入れ値は350バーツです。これが、あのお店の主力商品であることは分かっていましたから、イザというときには、ここを叩いて逆襲しようと、前々から作戦を考えていました。こっちも一番目立つ場所に、負けてなるかと、大きな値札をドーンと付けて出していきます。
「これで、どうだ。まいったかー!」
しかし、自分でやっておきながら、この後、どういう展開になるか、想像もできませんでしたから、異様な興奮と共に、得体の知れない緊迫感が私を包んでいきました。

グツ、グツ、グツ、グツ、グツ、グツ、グツ、グツ、グツ・・・・・・・・・・・・・・・。
おばあさんの怒り狂う脳みその煮えたぎる音が聞こえてきそうな、そんな不気味な静寂が辺りをつつみ、一触即発なのは、私にも、はっきりと分かりました。
戦争の足音が、すぐそこまで聞こえてきました。


この話続きます。

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by phuketbreakpoint | 2006-05-13 19:10
南国の楽園、ドリームアイランド、憧れのビーチ・リゾート・・・。
魅惑的な言葉に誘われて、プーケットを訪れた人の多くが、その魅力に取り付かれ、あるいは恋に落ち、また戻ってきたいと何度も足を運んでいるうちに、いつの間にやら、ここで暮らし始めてしまいますが、そんな人たちの前に立ちはだかる巨大な壁、それは、この南の島で、「いかにして、お金を稼いでいくのか」という問題だと思います。それさえクリアできれば、この島は、いつまでも楽園であり続けてくれますが、もし、できないのであれば、次第に、ここは、厳しい異国の地という、まったく別の姿を現し始め、いずれその人は、プーケットを去らねばならなくなるのでしょう。


お土産屋の「サウスロード」をオープンして、今年で9週年になります。
スタート当時は、Tシャツだけ扱っていましたが、次第に品数を増やして、今では衣類を中心に、小物類やバッグ、アクセサリー、ゲーム、お面など、売れそうなものなら何でも売るぞ、という方針で営業しています。いつも、「ガバッと大儲け」の話ばかりしているタイの小金持ちたちは、こんな小さな小売業には全然興味がないようですが、結構、効率のいい商売なんです。体力、気力さえあれば、数日間なら、たった1人で持ちこたえることもできますし、開店時の掃除と、商品のチェックさえ済ませれば、お客の来るのを、テレビでも見ながら、じっと待っていればいいわけです。
やれ、従業員が、またサボった、またズルした、なんにもやらない・・・、そんな心配は、何一つする必要はありません。これといった特別な能力も、語学力も必要ありませんから、年寄りには、ぴったりのビジネスで、老後はブレイクポイントの方は子供たちに任せ、わたしは女房のラントムと2人で、のんびりここをやろうと思っています。

そもそも最初は、衣類のお店なんか、やるつもりは全然ありませんでした。トランでゴム園をやっていた頃、スタッフの問題で散々苦労した私は、プーケットで新しく始める商売には、人を雇わず、夫婦2人でやっていけるビジネス、という条件を、常に頭の中に置いていました。そして、手っ取り早く、簡単に始められるものは何か、と考えたとき、私には、この商売しか思いつくことができなかったのです。

Tシャツでも売りながら、小遣い銭くらい稼げればいいか、そんな軽い気持ちでスタートしましたが、勝算が全くなかったわけではありませんでした。パトンビーチで観光客相手に物を売っているお店は、どこも、ほとんど値札を出していません。何を買うにも、いちいち売り子さんに値段を聞かなければならないのです。買う側にとっては、これほど面倒な話はありません。
こちらが「ハウマッチ?」と聞くと、相手側からは、「ハウマッチ、ユーウォント(アンタ、いくらで買いたいんだい)?」と聞き返され、
「アンタ、こっちがハウマッチって聞いてるのに、なんで、そっちもハウマッチなのよ」
そう言いたくなりますが、これも、どっちが先に値段を言うかで勝負が決まる、厳しい駆け引きの1つといえるでしょう。しかし、これでは、日本やヨーロッパの旅行者には絶対に馴染めませんから、私は、ちゃんと値段を表示し、それが適正なものであれば、絶対にお客はつくはずだと確信していました。
商品台と試着ブースを自分で作り、商品に全部値段を貼り付け、ラントムがどこかで聞きつけてきた大安吉日の1997年5月8日、自分にとって、初めての店舗経営が始まりましたが、最初は、お店の名前も付いていませんでした。

こうしてスタートした名無しのTシャツ屋ですが、開店して2年ほどは、ほとんど商売になりませんでした。私は開店前、1日平均1000バーツ(3千円弱)の売り上げを目標にしていましたが、この数字に、まったく届かなかったのです。
「最悪でも、これくらいは売れるんじゃないか」
そう思って遠慮がちに掲げた数字に、かすりもしなかったことで、私は、お店の今後に、かなり不安を覚えました。品数を増やしたり、ディスプレーを変えたり、いろいろ考えましたが、状況を変えることはできません。特に3軒隣りで、うちと似たような商品を売るお店が、こちらが表示する値段より、更に安い値段をデカデカと貼り付けて売り始めてからは、お客を取られるばかりで、こちらは落ち込む一方でした。

毎日、毎日、低空飛行で、お客さんの少ない6月や9月などは、8日間1枚も売れないことが何回かありました。売り上げゼロの日は、もちろんガックリきますが、それが2日、3日、4日と続き、5日目も、6日目も、まだ止まりません。7日、8日、どこまで続くのか、と心配になってきたら、9日目になると、どういうわけか、1-2枚売れて新記録を更新することはありませんでした。さすが9は、タイのラッキーナンバーです
この間、私なりに努力をしたつもりでしたが、心のどこかに、いつも、「この商売ではダメだ」という諦めのような気持ちがあったと思います。女房のラントムとは、商売替えの相談ばかりしていました。
やりもしないうちから、「ダメだ」と諦めるのは、ダメな人のパターンのようです。私も日本では、いつもそうでした。できる人というのは、何をやらせても、それなりに、こなしてしまうわけで、そういう人は、どんなビジネスでも、「いい商売」にしてしまうのでしょう。

こんな状態で3年目を迎え、さすがに、「何とかしなければ」と遅まきながら考えた私は、思い切って全商品を大幅に値下げして、ダメモトで勝負に出ようと決断しました。この2年間、3軒隣りのお店(こちらも名無し)には、やられっぱなしでしたが、その原因は、はっきりしていました。2店とも値段表示していますから、お客には、どちらが安いか一目瞭然です。同じ商品なら、わざわざ高い方のお店で買う人はいません。それが分かっていながら、私は値下げに踏み切れずにいました。

理由の1つは、やはり3軒隣りのお店の値段に合わせて値下げすれば、いずれは喧嘩になり、ご近所との間で、対立関係を作ってしまうのでは、と恐れたからです。多少こちらが譲っても、表面上は良好な関係を保っておきたいと思っていました。
そしてもう1つは、私が自分のお店で付けた値段は安いし、絶対に間違いじゃない、と頑なに信じ込んでいたことです。プーケットを何度も訪れているヘビーなリピーターは、ショッピングの値段交渉でも、だいたいの「落としどころ」が分かっているようで、この人たちを、「安い」と思わせるには、それよりも、更に安い値でなければなりません。私が付けた値段は、彼らにとって、それほど安いものではなかったようです。ヘビーなリピーターは、時として、ローカルなタイ人よりも、安く物を買おうとする、恐ろしい人たちでもありますが、どんな商売であれ、プーケットでビジネスを軌道に乗せるためには、この人たちを取り込んでいかなければならないと、私は考えました。

できることなら回避したかった値下げですが、他にいい方法を考え出すことができなかった私は、仕方なく踏み切ることになりました。そして、これが、この後、何年も続く、長い戦いの発端となってしまうのです。

この話、つづきます。
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by phuketbreakpoint | 2006-05-09 02:22