タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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がんばれ父ちゃん!

3月31日夜、チェンマイで家族と休暇を楽しんでいた私のもとに、プーケットから長距離電話が掛かってきました。
「お父さん(女房ラントムの父)が、お客さんから、変なお酒をもらって飲んだら、ひっくり返って、わけがわからなくなり、入院しちゃった・・・」
第一報の内容は、こんな感じでした。
ラントムと2人、このニュースに心配しながらも呆れていたら、しばらくして第2報が入ってきます。
「いや、お父さんは、お酒を飲んでたわけじゃないみたいだ。どうも脳溢血のようで、耳も聞こえず、喋ることもできない」
いろんな情報が錯綜し、混乱していたわけです。しかし、本来なら最初から心配されるべきところだったのに、そうならなかったのは、普段の品行や過去の行状が悪いと、とんだ誤解を受けてしまう、ということなのでしょう。みなさんも、くれぐれも注意してください。

1996年の春、トラン県で、ゴムのプランテーションを営んでいた私は、ゴム園を売却し、プーケットに戻る決意を固めました。
ここでは、私たちの家族が5人(末娘のきよみは、まだ生まれていませんでした)、ラントムのお父さん、お母さん、おじいさん(前年10月に亡くなりました)、妹ティップの家族が5人、兄トゥアンの娘ギンとプンの合計15人、つまりムショで服役中のトゥアンを除いて、ラントムの家族が全員一緒に暮らしていたのです。
「みんな、短い間だったけど(約1年半)、ありがとう。これからは、また別々にやっていこうじゃないか」
私がファミリーユニットの解散を宣言し、みんな、それぞれ新天地で生きていくことになりました。

私たち家族は、ギンとプンを引き取ってプーケットへ戻り、ティップの家族はトランに留まり、お父さんとお母さんは、実家のあるラノットの田舎に帰ることになりました。農業以外、産業が何もない田舎の村で、お父さんたちがどうやって生計を立てていくのか心配しましたが、結局、飼っていた5匹の牛を売り払い、そのお金で魚獲りの機械を買って、リースに出し、収入を得ることにしたようです。ラノットにいた頃から合わせると、足かけ3年、雄と雌のつがいだった2匹の牛は、どんどん大きくなり、子供を生んで、その子牛も、かなり大きくなってきた頃でした。

タイの農家で一般的に行われている畜産業というのは、毎朝、牛たちを近くの田んぼや林まで連れていき、そこで草を食べさせ、夕方牛たちを連れて帰ってくるだけの単純労働で、その間は、付きっきりで見張っている必要はありません。しかし、1日2回ほど場所の移動が必要で、綱が外れて牛が行方不明になったときには、そこらじゅうを探しまわらねばなりません。さらに、雨が降りそうなときは、すぐに飛んでいって牛たちを家まで連れて帰り、雨が止んだといっては、また外に連れていってと、24時間、牛たちのことを考えていなければならないのです。しかも、休みはありません。
こうして育てた牛の値段が2万3千バーツ。これは1頭の値段ではありません。子牛たちも含めて、5頭全部の値段がこれなのです。長い間、苦労して得た収入がこの額ですから、タイの農民所得がどの程度のものか、お判りいただけるのではないでしょうか。
「2年以上かけて、ようやく手にした大切なお金だから、お父さん、くれぐれも気をつけてね」
お母さんは、そう何度も、何度も繰り返し、お父さんを実家のあるラノットに送りだしました。まず、機械を買ってから、引越ししようと思っていたのです。

「お父さん、明日あたり、帰ってくるんじゃないかしら」
ラントムと、そんな話をしていた2日後の夕方、お母さんは、私たちに、こう言ってきました。
「なんだか心配だから、私、明日、ラノットに行ってみるわ、いいでしょ」
虫の知らせというべきか、長年の、お父さんとの生活から、ピンときたと書くべきか、この日のお母さんの悪い予感は、ドンピシャで当っていたのです。翌朝、まだ暗いうちからお母さんは、足早にラノットに出かけていきました。前の晩も、心配で眠れなかったようです。

しかし、その翌日の夕方、お母さんは、1人でトランに戻ってきました。もの凄く悲しいことがあったのか、瞼がかなり浮腫んでいます。
「どうしたの?母さん」、ラントムが尋ねると、
「今度という今度は、本当に、もう我慢できないわ。私、絶対に、お父さんと別れるからね」
お母さんは泣きながら、そう言います。「今度という今度は・・・」というお母さんのセリフは、それまでも、それ以降も、何十回と聞き続けてきましたが、このときは最も緊迫していたのではないでしょうか。

話を聞くと、お母さんがラノットの実家に着いたとき、お父さんは昔の仲間や親戚たちと酒盛りの最中だったそうです。しかも、座の中には一目見て、明らかに飲み屋の女性らしき人も混じっていました。
「あんた、機械買ったんだろうね」
「明日、買いに行くよ」
「明日?今まで何やってたんだい。あんた、まさか、使っちゃったんじゃないだろうね」
「大事なお金なんだから、オレが使うわけないだろう、オレが・・・」
こうシラをきっていたお父さんの話どおり、最初は確かに自分では使うつもりはなかったようです。
ところが、お父さんとの再会を喜ぶ昔の仲間たちが、
「パン(お父さんの本名プラパンの略)が久しぶりで、遠慮しちゃあ可哀想だ」と気をまわし、お金もないのに、お酒をどんどん飲み始め、あれよ、あれよという間に、大そうな宴会の輪ができてしまったそうです。熱い友情(?)に囲まれてお酒をのんでいるうちに、気がつくと、お金は1/3くらい減ってしまいました。これでは、もう機械を買うにはお金が足りません。
「ええい、こうなったら、1/3使うのも、全部使うのも、同じこと」
そう拡大解釈したお父さんは、酒の勢いもあって、翌日も、翌々日も、開き直って宴会を続けました。日本にも昔は、「宵越しの銭は持たねえ」などと、家族に迷惑をかける豪快なダメお父さんがいっぱいいたようですが、足掛3年の苦労の結晶を、たったの3日で、パーっと使ってしまえるお父さんの豪快さには、呆れながらも、ちょっと憧れる私でした。

トランに戻ってきたお母さんは、腫れた目から悔し涙を流しながら、「別れる」を連発していましたが、意外と同情の意見は少なかったようです。あのお父さんに大金を持たせて、1人で行かせるなんて、そりゃあ、行かせる方も悪いわけで、
「30年以上も一緒にいて、お母さん、そんなことも気が付かなかったんですか」
と周りからツッコミを入れられ、
「そうよ、どうせ、私が悪いのよ」
腫れた瞼で泣きじゃくるお母さんの姿を見て、みんなクスクスと笑っていました。

お母さんが帰った後も、引っ込みのつかなくなったお父さんは、連日仲間に奢られたりしながら、ずーっと、お酒を飲み続けていたようです。10日程たったある日、ラノットから親戚の女の子がトランまで使者としてやって来ました。トランの林の中には、ようやく電気が来たばかりで電話回線なんてありませんし、携帯の電波も届きません。何か用事があるときは、電報を打つか、使者を送るしかないのです。話を聞くと、
「パンおじさんが、お酒の飲みすぎで、ひっくりかえって死にそう」
だそうで、みんな呆れかえりながらも、お母さんとラントムは、
「ほっとくわけにもいかない」
と、私の運転する車で、またラノットまで行くことになりました。この辺がタイ人の偉いところです。どんなに無茶苦茶な人でも、見捨ててしまうと、なんとなく、自分が悪者になったような気分になってしまうその性質、それがなければ、お父さんは、とっくの昔に野垂れ死にしていたことでしょう。

このとき以外でも、酒でぶっ倒れて、死にそうになることが何回かありましたから、今回も、第一報のときは、「またか」という思いしかありませんでした。
チェンマイから戻った日、すぐにタウンの病院に見舞いに行きました。ベッドで横たわるお父さんは、口が、への字を傾けたように曲がっていて、言葉もはっきりしません。左半身は、完全に麻痺しているようです。見るからに痛々しい感じでしたが、周りのベッドで寝ている人たち(お年寄りが多かった)は、輪をかけてヨレヨレで、今にも死んでしまいそうな状態でしたから、それと比べれば、お父さんは、軽症のようにも見えました。

3日後に退院し、今は毎日パトンの病院でリハビリを行なっています。
人間の体って、本当に強いもんですね。連日の訓練によって、お父さんの体は、日に日に、蘇えってくるような気がします。
頑張れ!お父さん!
早く元気になって、また以前のように、とんでもない事件を、いっぱい巻き起こしてください。
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by phuketbreakpoint | 2006-04-14 01:19
タイの国産石鹸ノックケーウ。
安いものは、何でも大好きな私は、ロータスの特売で、これを買って帰ってきたところ、まさか、このことで、家族のみんなから、袋だだきにあおうとは思ってもみませんでした。
「いやだ、こんなの使いたくない」
「肌がかさかさになるって、みんな言ってるよ」
さんざんな言われ方で、国連安保理に於ける北朝鮮みたいになってしまいました。しかし、このとき一番ショックだったのは、私の同志だとばかり思っていた田舎生活50年の女房ラントムのお父さん、お母さんまで裏切って、この石鹸を弾圧する側にまわっていたことです。中国にも見捨てられた北朝鮮、といったところでしょうか。

田舎にいたころは、魚を獲ってきては、これを殺し、葬式があるといっては、牛を殺し、料理が足りないといっては、ブタを殺し、手に死臭がついてしまったといっては、この石鹸を塗りたくっていたお父さんが、
「ノックケーウは、クリンマイディー(臭いがよくない)」
なんて言っています。都会は、人の心を変えてしまうんですね。安ければ、臭いなんて、どうでもいいじゃないですか。私なんか、シャンプーがもったいないから、石鹸を頭にこすり付けて洗髪までしてるんですよ。余った泡は、そのまま、体に付けて洗えば経済的です。
時が流れ、経済状態がよくなって、みんな昔の生活を忘れてしまったようですね。貧しいながらも、楽しかったあのころの生活を・・・・。


パトンビーチの奥、サイナムジェン通りの中ほどに、プラシット・カンチャン(プラシットさんのバイク修理屋)というお店があります。今から13年前、私は、ここの並びの長屋を借りて、プーケットでの生活をスタートさせました。
幅5m、長さ12-13mの細長いスペースの真ん中に寝室があり、家具は、タンスとソファーが1つずつ置かれただけの、とてもシンプルな内装です。もちろんエアコンなし、ホットシャワーなしで、天井に扇風機が付いていました。
家賃は、1ヶ月3000バーツ、プラス電気代が使い放題で200バーツ、水道は井戸水だったのでタダです。ここで私とラントム、マヨム、そして赤ちゃんだったあきおとなおこの5人で暮らしていました。当時、私に職はなく、収入はゼロでしたから、日本からもってきたお金を生活費として使っていく以外ありません。何かビジネスを始めて、お金が稼げるようになるまでは、できるだけ節約し、タネ銭が目減りするのを避けねばなりませんでした。

そこで、私が考えたのが、「1日160バーツ計画」です。
1日の出費を160バーツ以内に抑えれば、1ヶ月合計で約5000バーツになります。予備として2000バーツ確保して、それに家賃を加えれば1万バーツ。当時は1バーツ5円でしたから、1ヶ月5万円以内で生活することができます。かなり倹約していましたから、毎月2000-3000バーツ、ここから更に浮かせることができました。毎日、160バーツを上回ったか、下回ったか、何を買ったか、何に使ったか、ちゃんと家計簿をつけていました。これは、ブレイクポイントをオープンするまで8年以上続けていましたから、我ながら大したもんです。

あの頃は、毎日160バーツが勝負でしたから、できるだけ食費を浮かそうと一生懸命でした。エンゲル係数は、恐らく9割近くあったのではないでしょうか。毎日のように、ラワイや、その他のビーチに、カニ獲りに行ったのも、単に遊んでいたわけではないのです。その日の夕食のおかずを確保しようという思いもあったわけですね。
カニ獲りの都合のいいところは、行き帰りの山道で、おかずになりそうな野菜や果物を、タダで確保できることです。サトー(巨大なえんどう?)、ルックニヤム(豆類)、カシューナッツ、マープリン(果実)、パパイヤ、チョンプー(果実)、野生バナナの木の幹、などなど。
田舎娘ラントムの陣頭指揮のもと、赤ちゃんのなおこと、あきおを背負ったまま、道路を外れて、藪の中に入っていっては、いろんな物を収穫していました。今考えると、いずれの林にも、ちゃんと地主がいたでしょうから、厳密には野菜ドロだったわけですが、当時の私は、自然モノが、タダで、好きなだけ手にはいるなんて、プーケットは最高だ! と思っていたのです。
そして、どこで道を流していても、椰子の実が転がっていたら、必ずバイクを止めて、拾い、腐っていないか確認してから家に持ち帰っていました。椰子の実を上下に振って、バシャバシャという水分の音が聞こえてきたら、この実は、まだ使えるという証拠です。タイ料理のベースになる、ココナツミルクを作れますから、10バーツ浮かせることができました。余ったココナツで、おかしも作れて無駄がありません。

カニ獲りから戻ると、ラントムが夕食の仕度にかかります。
私は、子供たちを連れて夕焼け空の下、裏の空き地で、虫取りや花摘みをしながら、仕度ができるのを待つのが日課でした。ここも、今では、すっかり宅地に変わってしまいましたが、あの頃は、小さな川が流れていて、魚もいたのです。
マヨムとは、よく、「お店ごっこ」をやりました。
「パパ、お店の準備できたから、食べに来て」
私は、長女のマヨムが小さかったときには、あの子が砂で作った料理を食べさせられ、次女のなおこが幼児の頃は、買ってやったママ事・セットの料理を笑顔で頬張り、最近は、末娘のきよみ相手に、同じ遊びを付き合わねばなりません。お店ごっこ一筋、13年といったところでしょうか。

しばらくすると、ラントムが私たちを呼びにやってきます。
「みんなー、ご飯できたよー」
「もう、お腹ぺこぺこだー」
獲ってきたシーフード(といいても小さなカニやシャコ、貝など)を、カミン(カレー粉のようなもの)で炒めただけの料理は、家族の人間以外には、とても出せないものでしたが、タダでお腹いっぱいになりましたから、満足感がありました。白いごはんにプリック・ナンプラーをかけて食べると、もの凄く、おいしく感じたものです。

食事を終えると、シャワーを浴びます。このとき使っていたのが、前述のノック・ケーウでした。これで全身くまなく洗った後、体が濡れたままの状態で、タイの国産ベビーパウダー「サングゥー」を、全身に振り掛けるようにまぶします。ヒリヒリして、とっても気持ちがいい。
「あー、タイ人に生まれて、よかったなー」と、タイの人たちが感じる瞬間だと思います。このとき体だけでなく、顔にもつけて、中国妖怪のようにするのがタイスタイルです。

そして、テレビを見て、眠くなってきたら、キャップに1杯だけメコン(タイのウイスキー)を飲むのが唯一の贅沢でした。1本あれば、2ヶ月近く引っ張ることができました。こう書いていると、涙ぐましい日々で、なんだか南こうせつの歌が流れてきそうな生活ですが、プーケットでタイ人に囲まれて暮らしていたら、ちっとも暗くならなかったから、さすがです。

しかし、家族のみんなには、可哀想なことをしました。ラントムも、まさか日本人と結婚したのに、以前より侘びしい生活になろうとは、思いもよらなかったでしょう。実際、これは、タイで暮らす日本人男性にとって、大きな離婚理由になっています。みんな、観光で来ているときは、羽振りよく、お金を使うことができますが、結婚(あるいは同棲)したとたん、現実的にならねばなりません。タイの女性にしてみれば、「話が違う」ということになるのでしょう。ラントムは、よく耐えてくれたと思います。

あきおも、なおこも、物心つく前から、こんな生活を見続けていましたから、「あれ買って、これ買って」と親に催促することは、ほとんどありませんでした。言ったところで、私が買わないことは分かっていますから、無駄なことはやりませんね、子供も。年に何回か、誕生日などの特別な日にだけ、おもちゃを買い与えていました。そのときの癖がまだ抜けないのか、2人とも、中学生になった今でも、自分の欲しい物を、はっきりと口に出して、親におねだりすることが苦手なようです。特に、なおこは、物を欲しがることがほとんどありません。
「今日は誕生日だから、何か買ってやるぞ」と私が言っても、
「別に・・・」
「何かあるだろう」と聞き直しても、
「わからない」
これだけ物を欲しがらない子も、珍しいのではないでしょうか。戦争中なら、表彰されたかもしれません。見るものすべてが欲しくなり、遠慮なしに次々と物をねだり、ダメなら泣き崩れる末娘のきよみ(大げさなヤツです)と比べると、本当に姉妹なのかと思ってしまうほどです。


あれから十数年、私もどうにか、この島で食べていけるようになりました。160バーツの家計簿をつける必要もなくなりました。しかし、観光業だけが頼りのプーケットでは、いつ何が起こっても不思議ではありません。もう、あんな倹約生活には戻りたくありませんが、それでも、もし、そうなってしまったら、私は、当時のことを思い出そうと思っています。
みんなでカニ獲りに行って、その日のおかずを捕まえる。お腹いっぱいご飯を食べて、みんなでテレビを見て、寝てしまう。
あの頃は、それだけでも十分楽しかったんですから・・・。
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by phuketbreakpoint | 2006-04-08 00:46