タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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楽園に死す

2003年1月11日午前7時頃、
せっかくの土曜日だというのに、朝っぱらから電話が掛って来ました。
「Sさんが亡くなりました。すぐに病院に来て下さい」
カトゥーホスピタルからでした。遂に来るべき瞬間が来てしまったようです。1週間前の1月3日、わたしが最後にSさんを見舞った時の様子から見ても、彼の寿命は、秒読みの段階である事は誰の目にも明らかでした。
すぐに着替えて女房のラントムと2人で病院に駆けつけると、やっぱり、というべきか、他には誰も来ていません。連絡できる人が、わたし達夫婦以外には、いなかったようです。Sさんは、ベッドの上で薄目を開けたまま放置されていました。タイの病院では、こういう時、顔に布を掛けたりしないのでしょうか。

「今朝、担当の者が見に来た時には、もう亡くなられていました」
わたしとラントムは、緊張しながら聞いていたのですが、この看護婦さんは話の最後で、さり気なく、しかし、とてつもない事を、わたしに言います。
「目が開いたままなので、閉じてあげて下さい」
ホエっ! それって、オレがやるんスかー!? と、思わず声が出そうになってしまったわたしは、隣りのラントムに視線を向けます。しかし、その顔には、ハッキリとこう書いてありました。
「そう。これは、あなたの仕事。ゼッタイに」

4日後、Sさんのお葬式がタウンの郊外にあるワット・ゲットホーでしめやかに行なわれ、忙しい中、在留邦人が大勢集まってくれました。Sさんは、最後までプーケットは気に入っていなかったようです。わたしがお見舞いに行ったときも、「俺は、パタヤの方が良かったなー」と言っていました。彼にとって、奥さんと知り合った思い出の地パタヤの方が、発病してしまったプーケットより思い入れが大きいのは当然だと思います。しかし、わたしも、これだけは断言できます。居酒屋・茂丸の茂さん夫婦、かもめ食堂の岡さん夫婦、中華料理BOSSの中村さん、この5人がいなければ、Sさんは、入院する事もなく、腐乱死体で発見されていたでしょう。

バンコクから日本大使館の偉い人が3人も来てくれました。重要人物が亡くなったわけでもないのに、ご苦労な事です。Sさんの今のガールフレンドのアン(仮名)や、パタヤ時代からのスタッフ、ポーン(仮名)の顔も見えました。
火葬の時、彼が最後まで大事に持っていた奥さんの写真と彼が大好きだったジョンレノンのグッズを一緒に棺桶にいれました。彼は最後の瞬間まで奥さんを愛し続けていたようです。Sさんは、もう病気で苦しむことはありません。多くの人達に見送られ、Sさんは最愛の奥さんの元に旅立って行きました。

こうして葬儀は終了したのですが、残された者の中には、心穏やかでない人たちが何名かいました。この人達は、残酷な現実に直面しなければなりませんでした。
わたしは当初、Sさんが感染したHIVは、プーケットの夜の女の子達から移されたものだと思っていました。しかし、看護婦さんや、いろんな方の話を聞くうちに、事実は、まったく逆だった、という事が明らかになってきます。
亡くなったSさんの奥さんソーイ(仮名)は、エイズで命を落としていました。彼のHIVは、ソーイから感染したものだったようです。それでもSさんは、彼女を怨んではいませんでした。幸せな結婚生活が突然終わりを迎え、Sさんは、どんな気持で日本を離れ、パタヤに移り、プーケットに流れてきたのかは、わたしには分かりません。しかし、彼は、自分も奥さんと同じ運命を辿る可能性がある事は分かっていたと思います。それにも拘わらず、彼は頻繁に女性を変え、遊び続けていました。彼は、毎回コンドームを使用していたのでしょうか。

Sさんがよく顔を出していたマッサージ店の女の子達は、パニックになっていました。お店を辞めてしまった子もいたようです。そして、Sさんのガールフレンドであり、彼のバーの名義上のオーナーであるアンの運命は・・・。彼女には、その頃、シンガポール人の恋人が出来たようで、Sさんのお見舞いにも、ほとんど行きませんでした。日本人の間からも、「あの女はヒドイ」という声が上がっていました。しかし、それは、お互いさまかもしれません。こちら側は、彼女に対して、もっと重大な事をしているわけですから・・・。

スタッフのポーンは、何回も、お見舞いに行っていたようです。彼女が単なる使用人でない事は、わたしにも、すぐに分かりました。しかし、彼女はSさんが亡くなるその日まで、彼の病名を知りませんでした。ラントムがその事を尋ねると、
「彼も、奥さんも、肺炎で死んだんでしょ?」と言っていました。ポーンからは、葬式の後も暫くの間、よくラントムに電話が掛ってきました。
「ピー(タイでは親しい年長者をこう呼ぶ)、わたし、体調が悪くて・・・。どうしよう、わたし恐い・・・」
彼女からの電話も、今では、もう掛ってくる事はありません。ポーンは今、どうしているのでしょう。Sさんが残していった傷痕は、大きかったようです。

葬式の日の夜、わたしは、Sさんが大好きだったジョン・レノンのCDをお店でかけてしまい、寒々とした心が更に冷え込んでしまったのを覚えています。ビートルズ解散後のジョンのしんみりとした曲が、ゆっくりと店内に流れていきました。
早く忘れてしまいたい。いや、忘れてしまっていいものかどうか、分からない・・・。Sさんの事件は、わたしにとって、そんな出来事でした。
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by phuketbreakpoint | 2005-11-29 20:36

いつも心に<谷啓>を

2005年12月26日の夜、わたしは人生三回目の野宿を経験していました。
1回目は、ミコノス島のパラダイスビーチで。二回目は、隅田川の土手で。いずれも20代の話です。40代にもなって、まさか3回目があろうとは、思いもよりませんでした。
過去の2回は、いずれも時期は夏で、最初は蚊がブンブン、痒くてなかなか眠れません。そのうち風が強くなってきて、今度は寒くてどうしようもありません。この日も、やっぱり同じでしたが、かつての野宿では、 
「朝まで我慢すれば、明日は、また楽しい一日が待っているんだ」、そう思いながら、わたしは耐えていました。ところが、この日のわたしに待っていたのは、明日から何日続くか分からない復旧までの長い長い日々でした。
いや、果たして元どおりの状態に戻るかどうかも、この時点では怪しいものでした。前日のアンダマン海は荒れ狂い、真茶色に変色し、転覆した船からは油が流れ出しているようにも見えたからです。たとえビーチが元に戻っても、観光客が来なければ、プーケットは、ただの田舎の島でしかありません。結局、この夜は一睡も出来ませんでした。女房のラントムも、同じように眠れない夜を過ごしたようです。

寒さに震えていたら、パトンビーチの遥か沖合い、水平線の彼方に、うっすらとオレンジ色の明かりが見えてきました。前日の大惨事が嘘のように、美しい朝焼けが目の前に広がっていきます。本当に素晴らしい朝日でした。この光を浴びながら、子供たちは、まだ眠っていました。

「ママ、オレ、今からお店に戻るよ」
「ダメよ。まだ危ないって、みんな言ってるわよ」
「いや、今すぐお店に戻らなければ、何をされるか分からないよ。オレは行くから」
日本では、何をやっても中途半端だったわたしが南の島でようやく築いた小さなお城。ブレイクポイントは、わたしの存在そのものとも言えます。わたしの強い口調に、ラントムも仕方なく同意してくれました。ラントムだって、お店が心配なのは同じだったでしょう。前日、タイ警察があれだけ言い放っていましたから、夜の間は、恐らく無事だったと思います。ラントムと彼女の両親に子供たちを見ていてくれるように頼んで、わたしは山を下りて行きました。

ビーチロードから垂直に走るサイナムジェン通りを海に向かって真っ直ぐに直進すると、ビーチに近づくにつれ、壮絶な状況がわたしの目に飛び込んできました。3段重ねになった乗用車、店舗に頭から突っ込んでいるモーターボート、ケンショップ(日本人経営のネットカフェ)なんか、お店ごと消滅しているように見えます。ケンさん(オーナー)は、大丈夫だったでしょうか。しかし、ビーチに目をやると、海は前日の大荒れから一転し、信じられないくらいの静けさです。
この時点で、もうかなりの人達が動き出していましたが、みんな両手に大きなビニール袋を持って、金目の物が落ちていないか探し始めています。わたしは、先を急ぎました。

ようやく、お店に着いたら、うちのホテルとレストランの内外装をやってくれた土建屋のピーチャンが来ていました。
「心配だから、見に来たよ」
ピーチャンは、翌日から2-3日掃除を手伝ってくれたり、それが終わると修理や改装を格安でやってくれたりと、本当に頼りになる人です。ピーチャン、あなたの親切を、わたしは忘れませんよ。

泥だらけになって作業していたら、お昼ごろ、ラントムがお弁当を持ってやって来ました。
「パパの好きな、から揚げ買ってきたよ」
一人で心細かったので、ちょっと元気が出てきました。怪しげな連中がウロウロしている中で外国人は、わたしだけだったからです。ラントムが来ると、急に強気になってきたわたしは、周りで略奪作業中のお兄ちゃん、おねえちゃん達を蹴散らしていきました。
「分かってると思うけど、アンタが今拾ってる物、それ全部持ち主がいるんだよ」
犯罪だかんね、ホント。もし怒って何か言ってくる奴がいたら、すぐにラントムにタッチ。タイ人の彼女に、タイ語で正論を言ってもらえば、彼らは何も言い返せないでしょう。ラントムは、わたしの最も頼りになる用心棒でもあるのです。

そんな時でした。
「ツナミが来たー、大ツナミだー!」
誰かが大声で叫ぶと、みな一斉にソイの奥にある32階建てコンドミニアムまで全力疾走で駆け出します。ラントムも走りながら、
「パパ、早く、早く、何してるの、早くー!」と言いながらも、動かないわたしを見捨てて、逃げて行ってしまいました。子供達と違って、夫の価値なんてこんなものでしょうか。コンドミニアム5階の駐車場まで駆け上がったラントムは、まだ大声で叫んでいます。
「パパー、早く逃げて」
しかし、わたしは逆にビーチに向かって歩き出し、海の状態を確認しましたが何の変化もありません。完全にデマでした。しかも、これと同じ事が翌日も含めて3回もありました。なんて酷い連中でしょう。復旧作業をしている人々のために、誰かが寄付をしてくれた水やお弁当を食べながら略奪し、狂言でみんなを怯えさせ、笑っている人たちがいるのです。

しかし、タイ王国も、まだまだ捨てた物ではありません。前日に続き、この日も、タイ警察が存在感を示しました。パトンビーチではありませんが、やはり、デマを流した奴がいたそうで、その男を、たまたま近くにいた警察官が現行犯逮捕し、何と、ヤシの木の上に吊るして、みんなの見せしめにしたのです。
偉いぞ、タイ警察!さすがキングダムの法の番人です。こういう時に、ちゃんと働いてくれるなら、ワイロだって、何だって喜んで払いますよ。この写真が翌日の新聞に載せられてからは、オオカミ少年たちは姿を消しました。

回収作業をやりながら、つい先程、みんなが逃げ込んだコンドミニアムの前まで来ると、地下駐車場の入口が完全に水没したままになっています。前日から行方不明になっているわたしの車やバイク、その他の家具類なども、きっと、この中に吸い込まれてしまったのでしょう。そういえば昨夜、子供たちが言っていました。
「どこかのおじさんとおばさんが車と一緒に流されて行ったよ」
きっと、その方たちも、この中に・・・。
プーケットに来た津波は、カオラック等を襲った10-15メートル級の大津波と比べると、規模は小さかったのですが、危ないポイントにいた人達は大勢犠牲になりました。そして、うちのすぐ裏にある、このソイも、本当に危険な場所だったのです。
   いつも子供達が遊んでいる裏通り。
   そこに襲い掛かる大津波。
   流されていく子供達。
   その先には地下駐車場が恐ろしい口を大きく開け・・・。
こんな夢を、あの日以来、いったい何回見たことか。うなされて、汗だくになって目を覚ますと、隣で末娘のきよみが、すやすやと気持ち良さそうに寝っています。以前は、寝相の悪いきよみに腹を立てていたわたしですが、津波以降、隣から足で蹴られても、わたしは安心して、また眠り続ける事が出来ました。
(動いてる、動いてる。生きてる、生きてる。よしよし・・・)

夕方暗くなってきたので、わたしは、お店の周囲にバリケードを築き、体を洗ってから着替えをして、また山に歩いて帰っていきました。被害に合ったのが一階だけだったのが本当に幸運でした。着替えと飲み水は無事だったからです。
帰り道、サイナムジェン通りに入ると、路上には早くも泥棒市場が出来ていました。しかし、日本の報道では、こうなっていたようです。
<津波にも負けず、逞しく生きる人々。悲しみを乗り越えて、笑顔で物売り>
・・・だそうです。
今更特に言うことはありませんが、嬉しそうに笑っていた、あの顔のどこが悲しみを乗り越えているんでしょうか。

ところで、わたしは復旧作業の間、疲れてヨレヨレになりながらも、1つだけ意識していた事がありました。それは以前、どこかの記事で読んだ谷啓さんの話です。何年か前、谷啓さんの自宅が火事で全焼してしまったそうで、知らせを聞いた関係者がすぐに駈けつけてきました。しかし、そこでみんなが見たものは、焼け跡に台を置いて、友達と楽しそうにマージャンに興じる谷啓さんの姿だったそうです。
さすがですね。しょぼくれた姿を、みんなに見せるのは、喜劇王としての彼のプライドが許さなかったのでしょう。わたしも同じ気持ちで行くことにしました。
「よーし、一発かましてやるか」
心配して様子を見に来てくれた人の顔を見つける度に、わたしは如何にも営業中といった顔を作って、こう出迎えました。
「へい、らっしゃい!ビール冷えてないっスけど、いいですかー」
これ受けましたよ、ホント。 
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by phuketbreakpoint | 2005-11-23 01:24

南の島の一番長い日

どうか全員生きていますように・・・。
津波が襲ってきた時、わたしは最初、家族の安全だけを考えていました。ところが、人間というのは命が助かったと思った、その瞬間から、ソロバン勘定が始まってしまいます。エゲツない動物なんですね。
「あーあ、こんなになっちゃって これじゃあ、当分観光客なんか来ないだろうなあ。それに、この水位だと厨房も、オーディオ機器も全滅だろうし・・・」
わたしは早くも、津波後の心配をし始めていました。しかし、そんなわたしの頭から水をぶっ掛けるように、最初の波が来た約15分後、さらに大きな第二波が襲ってきました。

グシャ、ガシャ、グシャ、ガシャ、グギギ・・・・・。
様々な物が押し流され、擦れ合い、ぶつかり合う音が人々の恐怖心を煽りながら、バシャバシャという水の音を完全に掻き消してしまいます。この音の何と凄まじかった事か。
しかも、追い討ちを掛けるように、3軒隣りの屋上にいるタイ人女性の常軌を逸した異様な叫び声が聞こえてきました。
「クウェーッ、フギャーッ、ウギャー」
自分の目の前に、いきなり巨大なニシキヘビが現われてしまった時のオランウータンは多分、こういう声を上げるのではないでしょうか。同じような叫び声があちらこちらから聞こえてきて、人々の恐怖を更に増幅させてしまいます。

この大きな第二波の襲来で、わたしは再び生きた心地がしなくなってきました。この後、第三波、第四波と、どんどん波が大きくなっていったら・・・。どのビルも海水に包囲され、完全に孤立していましたから、屋上に駆け上った人達は、もうこれ以上、どこにも逃げる場所はありません。神様以外、頼れるものは何もないのです。わたしの後ろでは、ラントムのお母さんが両手を合わせて拝み続けていました。道は運河のようになっており、これが真茶色に変色したアンダマン海と直結して、まるでベニスのようです。

しかし、10分ほどしてやって来た第三波は、第二波よりも小さな波でした。わたしは心底ホッとしました。その後も10分くらいの間隔で、第四波、第五波と来ましたが、津波の高さは、どんどん小さくなって、水位も次第に下がっていきます。第一波が来た10時から2時間半後に、わたしは、ようやく下に降りる事ができました。
一階のサウスロードは、目を覆うばかりの悲惨な状態でした。年末年始のトップシーズンに備え、店内所狭しと並べておいた商品は、ほとんどが流され、消えています。残されたわずかな商品も、一目見て、売り物にならないことは明らかでした。
レストランでは、大きなL字型のカウンターが捻じ曲がって破壊され、8人掛かりでなんとか動かせるプールテーブルが隅っこに追いやられ、冷蔵庫がひっくり返って、その上にのっかっています。まるで像の群れが店内を暴れまわったような破壊の跡が、そこにありました。外にはまだ海水が残っていて、お店の周りでは、小魚が群れをなして泳ぎまわり、大きなカニが、その後をついていきます。
暫くすると、まわりのビルからゾロゾロと、みんな下に降りてきました。どの顔も呆然としており、ほとんど喋る人はいません。

そんな時、誰かが、「この後、もっと大きな波が来るから、すぐに逃げろ」と言い出しました。怪しげな情報でしたが、その恐れも、ないわけではありません。わたしは、とりあえず上階に残っていた宿泊客を、うちの奥にあるパトン・リゾート・ホテルに移るように指示を出し、二階、三階の客室のドアを全てロックしてから、自宅でもあるサウスロードに戻って、現金等の貴重品だけをバックに詰め込みました。
 
一階に下りようとしたとき、二階の棚に置いてある数冊のアルバムが目に入りました。これには、わたしたち家族の思い出が、ギッシリとつまっているのです。重くて、とても持っていくことはできませんが、わたしは、たとえ、大津波が再び来たとしても、何とか、これだけは守りたいと、その時、ふと思いました。
「ちょっと、みんな手伝って。これを三階に上げておこう」
子供たちに手伝ってもらい、10冊以上あるアルバムを3階から屋上に上がるラセン階段の最上段に移しておきました。
この家に再び戻ってこれますように・・・。
その時、アルバムがここにありますように・・・。

一階は、入口も、シャッターも、どうしようもない状態で戸締まりできません。命の次に大事なお店を残して逃げていくのは、やはり後ろ髪引かれる思いがしましたが、ついさっき、お店の前で拾った数足の靴が、この時役に立ちました。家族の物も含めて、一階に置いてあった靴は、ほとんど全部流されてしまったからです。

路上には、避難する人が溢れていました。パトンタワー(32階建 コンドミニアム)の前では、ここでツアー会社を経営する高橋さんが、脅えた表情で立っています。
誰に命じられたわけでもないのに、みな山に向かって歩いて行きました。可能な限り高い所へ、可能な限り海から遠くへ・・・。みんなの考えていたことは同じだったと思います。
まずパトンリゾートホテルの中を突っ切り、新ショッピングセンター建設工事現場に侵入し、更に青空市場の傍を抜け、道があるような、ないような所も通って、ただただ、山に向かって真っ直ぐ、真っ直ぐ、歩いていきました。パトンビーチの一番奥にあるナナイロードに着くと、そこのセブンイレブンは黒山の人だかりで、みな飲み物、食べ物を買い漁っていました。

ここからは道もないのに山に入り、ひたすら真っ直ぐに登って行きました。山を1キロ程入った所に高級分譲住宅があり、その駐車場で休む事にしました。
「さすがに、ここまで来れば、いくらなんでも、波は届かないだろう」
家族を安全な場所まで誘導し、安心したわたしは、お店の事が、また心配になってきます。やはり、オーナーが逃げ回っていたのでは話になりません。

「下のセブンイレブンで 何か買ってくるから、ママは子供たちと一緒に、ここで待ってて」
わたしは、そう嘘をついてラントムから離れ、また1時間ほどかけて、お店まで歩いて行きました。お店に着くと、もう3時を回っていました。わたしは、とりあえず、流されてしまった物を一つ、また一つと回収していきましたが、辺りには、早くも見知らぬ人達が金目の物を物色し始めていました。
どろどろになって作業していたら、だんだん暗くなってきます。わたしは、周りに転がっている瓦礫を掻き集め、バリケードを作って、お店の外回りを固めました。

「こちらはタイ警察です。これより明朝7時まで、この地域を封鎖します」
「勧告に従わず、不信な動きをする者は、直ちに射殺せよ、との命令を我々は受けています」
「繰り返します。この地域に残っている者は速やかに・・・」
電気も無く、真っ暗になってしまったビーチロードをパトカーがスピーカーをフルボリュームにして流して行きました。これだけの事を言っておかないと あの夜は修羅場になっていた事でしょう。

朝から何も食べていませんから、体力も消耗していましたが、わたしは、これからまた歩いて家族の元に戻らねばなりません。帰り道、誰かが無責任なデマでも流したようで、どのバイクも、みな血相変えて猛スピードで走り去って行きます。本当に殺伐とした雰囲気でした。

ようやく山の上まで辿り着きましたが、そこには避難して来た人達が、恐らく千人以上集まっていたと思います。皆、更なる大津波を恐れていました。ところが、暗さもあって、自分の家族がどこにいるのかさっぱり分かりません。こんな所ではぐれてしまったのでしょうか。途方にくれて、あちらこちらと探し歩いていたら、末娘のきよみがわたしの姿を見つけて飛び付いてきました。
「あっ、パパだ! きよちゃん(きよみは自分の事をこう呼びます)、パパ大好き」
本当に嬉しい事を言ってくれます。子供心に、疲れて帰って来た父親を喜ばしてやろうと思ったのでしょうか。なかなか戻って来ないわたしのことを、ずーっと心配して待っていてくれたようです。この日は、ここで野宿する事にしました。

海岸から数百メートルの部分だけ、真っ暗になったパトンビーチの奇妙な夜景が、この場所からよく見えました。空には真ん丸の月が綺麗に輝いています。子ども達と、この月を見ながら、帰り道で買ったお弁当を食べました。
マヨム、なおこ、あきお、きよみ。わたしの命よりも大切な子ども達。
この子らを、一人も欠けずに、ここまで無事に連れて来れたことに、大きな安堵を感じます。ハイネケンが疲れた体に沁み込んでいきました。
食事を終えると、今日一日分の疲労が、どっと体を包みます。しかし、酔いも回り、くたくたのはずなのですが、何故だか、まるで眠くなりません。夜空に光る、真ん丸の月を、わたしは、ボンヤリ見上げていました。大自然の巨大なエネルギーに圧倒され、恐れ、逃げ廻った一日が、ようやく終わろうとしています。
しかし、明日の朝は、間違いなく闘いになるでしょう。今度の敵は、もう自然現象ではありません。秩序が崩壊しかけ、そのドサクサに蠢く、人間達が相手なのです。


この話 次回に続きます。
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by phuketbreakpoint | 2005-11-20 02:40

タイした人だ

ダマされたと思って、やってみるかと、わたしもトゥアン(女房ラントムのお兄さん)の背中に薬を塗るのを手伝いながら、10日ほど様子を見ていましたが、そのうちに、はっきりしてきたのは、「やっぱり、騙された」ということでした。

イレズミが心なしか薄くなったように見えたのは、皮膚が腫れて赤みを帯びていたせいで、腫れが引いて、皮膚の色が元に戻ったら、イレズミも以前と同じように、ハッキリと、その姿を現してきました。
消えていくどころか、どんどん色みを帯びてくるイレズミを見ながら、わたしは、
「ダマされちゃったなあ・・・。今更、お金が戻ってくるわけでもなし、諦めるしかないか」
そう思っていました。ラントムは、しばらく黙っていましたが、
「わたし、もう一回バンコクに行ってくる。お金取り返してくる」
悔しそうな表情で、そんな事を言い出します。
「無理だよママ。連中は、そうやって人をダマして金儲けしてるわけだから、すんなり返すわけないよ」
交通費が無駄になるだけだと、わたしは考えていたのですが、ラントムは、トゥアンを連れて、再び夜行バスに乗って出掛けて行きました。彼女の、こういう時の粘りは、選挙の時でも実証済みですが、今回は、いくらなんでも無理じゃないでしょうか。

しかし、彼女は、私が思っていた以上に強く、そして賢い女性でした。バンコクに着いたラントムは、まず業界ナンバー1で、同業(美容整形)のペーリークリニック(仮名)に行って相談しました。この人、無学な割には、なかなか抜け目がありません。
相談を受けたトゥープ先生(仮名)は、すぐに、いい方法を伝授してくれました。奥の部屋から新聞を持ってくると、新聞社の電話番号をメモしてラントムに教えます。
「ここにタレ込んじゃえば、いいんだよ」
「えっ!?、そんなこと出来るんですか」
「そんなの簡単、カンタン。こういうネタは、マスコミも大好きだから、すぐに飛び付いてくるよ」
アドバイスだけでなく、この先生は、目の前で自ら電話を掛けはじめ、大体の状況説明をした後、「詳しい話は、被害者から 聞いてくれ」と言って 受話器をラントムに渡します。そしてラントムは、事の経過を、この記者に説明し、電話を切りました。彼女のいつものパターンからすると、ずいぶん大袈裟に言ったに違いありません。

「本当に、この先生は凄いわ。偉い人は、何でも知ってるのね」
トゥープ先生の素早い対応に感心しているラントムの横で、看護婦さんは小声で、こう教えてくれました。
「そうじゃないのよ。あの先生も、よく同じように、密告されているの」
やはり商売敵同士ですから、業界内ではイザコザが絶えないようですね。
とは言うものの、この方法は確かに効果バツグンでした。2時間後、相手のサミークリニックの女性スタッフから、わざわざ、プーケットのわたしの家まで電話が掛かってきたのです(当時は携帯が普及する前でした)。
「あのー、ラントムさん、いらっしゃいますか」
「今、バンコクに行って留守ですけど」
「それでは、彼女から、もし電話があったら、お伝え下さい。お金は、全額お返しします」
あっけにとられたわたしは、何がなんだかわかりませんでしたが、翌朝、帰ってきたラントムから話を聞いて納得しました。

彼女がサミークリニックに行くと、もう新聞記者から問い合わせの電話が入っていたようで、対応も実に丁重だったそうです。やはり、悪い評判がたつと商売に響きますから、相手も低姿勢にならざるを得なかったのでしょう。
「もう一度やったら、必ずイレズミは消えます」
性懲りも無く、この女性は、まだそんな事を言っていたそうですが、それをラントムは固辞。支払った全額を回収することに見事成功しました。そして、その日の夕方の夜行バスに乗って、プーケットに戻ってきたのです。
「パパ、お金取り戻してきたよ」
そう言って、丸くまとめて輪ゴムで止めた1000バーツ札の束を、わたしの手に握らせるラントム。こういうお金のまとめ方をする人は、かなり珍しいと思いますが(タイの田舎方式?)、自分の女房ながら、実に大したもんだと思いました

ところで、トゥアンは最近とうとう定職に就く決意を固めたようです。職種は、なんとイレズミ師。彼にとって、これは天職ではないでしょうか。儲けは、エージェントと彼で折半するそうです。オフシーズンは、仕事もほとんど入らないようなので、そういう面でも、彼に向いているのではないでしょうか。期間限定で、しっかり働いて下さい。
今度こそ ガンバッテちょうだい トゥアン!
わたしも 応援しているゾ。
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by phuketbreakpoint | 2005-11-16 11:25

イレズミ 消すぞ

ラントムの兄・トゥアンは、ムショにいる間に2人いた娘が、どちらもドロップアウトして家出し、本人にも特にいい事がないのは、まじめに働かないから当り前ですが、出所後、半年程経った頃、お母さんにこうボヤいたそうです。
「あー、オレは、ホントーに、ついてないよ」
あなたの今の状況は、ツキのせいですか?と思わず突っ込みを入れたくなりましたが、ラントムにすれば、あれでも、たった一人しかいない大切なお兄さんです。最近でこそ諦めてしまいましたが、出所後1年くらいは、何とかしようと、いろいろ頑張っていました。お兄さん思いの、いい妹なんですよ、彼女は。

考えた挙句、ラントムは、日本人の友人、里見さん(仮名)をトゥアンの彼女にする計画を思い付いたようです。しかし、彼女を紹介するといっても、トゥアンには、何も「売り」がありません。いや 、売りなんかなくても、山のようにあるマイナスポイントさえ無くなってくれたら・・・。いや、1つでも、2つでもいいから、少なくなってくれたら・・・。ラントムだけでなく、周りの人は皆そう思っていました。

トゥアンは、顔はイケメンとまではいきませんが、そこそこ甘いフェースでルックスは悪くありません。しかし、南部タイ典型の遊び人である、お父さんの息子とは、とても思えない程性格は暗め。この性格と、ブラブラしながら女に食わせてもらう生活は、ムショに入る前も、出てきた後も、まったく変わりませんでした。

そんな中で、変わっていたことが2つあります。1つは、ムショにいる間に、ダッチョウを患ってしまい、出所後も、なかなか完治しなかった事。そして、もう1つは、それは、それは大層なイレズミを全身に彫ってしまった事です。ムショの中というのは余程暇なようで、彫るほうも、彫られる方も、ちょうどいい時間潰しになるイレズミは大流行だったそうです。タイはムショまで自由があるんですね。しかし、更生させるために入るムショの中で、更生を難しくさせるホリ物を彫らせてしまっていいのでしょうか。

ちなみに、どんなイレズミが入っているかというと・・・、まず、両手の中指の背にヤモリがら。これが1匹づつ。脳天から前頭部にかけて、鉄のくちばしを持つ鷲が睨んでいます。ムショの中は坊主頭ですから、ここに入れていると、カッコ良かったそうです(本人 談)。背中から、お尻、腿の裏側にいたるまで大作の「下り龍(注 登り龍の逆方向を向いています)」が牙を剥いています。肩から腕にかけては、コブラが一匹づついたような・・・。胸には虎が吠えていて、足の内側のくるぶしのところに、弓矢で射抜かれたハート。ここだけプリティー系なのは何故なんでしょう。わたしも、5年ほど前に一度見せてもらっただけですから、ちょっとハッキリしない部分もありますが、これでは皮膚をキャンバスにした人間動物図鑑です。

ムショ帰り、ネクラ、怠け者、ダッチョウ、そしてイレズミ。これだけ揃ってしまう人も珍しいと思いますが、ラントムは、それでも諦めませんでした。ダッチョウとイレズミをなんとかすれば、日本人の彼女もでき、ネクラと怠け者も治る。そして、ムショの話は、みんなで隠しとおす。そういう計算だったようです。そんなに、うまくいくとは思えませんでしたが、彼女は、お兄さんのために一生懸命やっていました。


「パパ、お願いがあるんだけど・・・。トゥアンのイレズミ、消そうと思ってるの」
その事自体は大賛成ですが、そんなに簡単にいくのでしょうか。
「消す?そんなの無理じゃないの」
「大丈夫。バンコクに、いいクリニックがあるから」
タイ人の「大丈夫」は信用できないことが多いのですが、ラントムは続けます。
「本当は50000バーツ(約15万円)以上かかるんだけど、今なら38000バーツでいいんだって」
やっぱり金の相談か、と思いつつ、わたしも、あの頃はトゥアンに真面目になってもらいたいと望んでいましたから、お金を出す事にしました。

翌週ラントムは、トゥアンと一緒に夜行バスに乗ってバンコクに出かけて行きました。目指すは、タイでもナンバー2の知名度を誇る美容整形外科サミークリニック(仮名)です。ここは、バンコクで一番有名だといわれるペーリークリニック(仮名)に対抗する後発医院ですが、派手な広告活動で、かなりお客さんを集めているようでした。

「レーザーを当てるって言ってたけど、うまくいってるのかなあ・・・」
なんて心配していたら、3日後、二人はプーケットに戻ってきました。トゥアンは、治療がハードだったのか、グッタリした様子です。
「どうしたのママ?」
「うん、タワシでギューギュー擦ったから、かなり痛かったみたい」
「こすった?」
「うん。薬を付けてから、タワシで擦って、その後また薬付けて、それを何回か繰り返してたよ」
落書き落とすんじゃあるまいし、そんなんで本当に消えるんでしょうか?
「それで イレズミとれたの?」
「まだだけど、毎日薬塗って、マッサージしてたら、自然に消えてくるって」
かなり疑問に思ったわたしは、トゥアンに服を脱いでもらい、見せてもらいました。皮膚は真っ赤に腫れ上がり、実に痛イタしい姿のトゥアン。赤い皮膚の間には、イレズミがまだ残っていましたが、心なしか、その色が薄くなったような気もしました。これで、クリニックの人が言うように、イレズミは消えていくのでしょうか。疑問は残りつつも、そうなってくれる事を望んでいたのですが・・・。

この話 次回に続きます。
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by phuketbreakpoint | 2005-11-14 11:48

ブラックホール

<リゾート地で酒場を経営する>
男なら一度は夢みるロマンかもしれません。私もプーケットで暮らし始める前は、そんな事を考えていた時期もありました。映画「カサブランカ」に憧れ、ハンフリー・ボガードを気取って、<Rick's cafe Americain>のオーナーのような人物になりたかったのでしょうか。人があふれる酒場の奥で、目を光らせて佇む男、そんな情景に強く惹かれるものがありました。

プーケットで酒場といえば、まずオープン形式のカウンターバーが挙げられます。物価が安く、女の子の調達も、それ程難しい話ではありませんから(当時の話。今はバーの数が数倍になっており、人材確保が難しいのは他の業界と同じようです)、白人長期滞在者のみならず、日本人男性も、このビジネスに手を出す人が後を絶ちません。日本円で100万-200万、あるいは、もっと少ない金で始める事ができますから、ほんの少し勇気を出せば、この夢は実現してしまいます。

バングラー等のカウンターバーが密集するソイに入っていくと、必ず目に付くのが「SALE」と書かれた小さな看板です。
「ほー、このバー、売りに出てるよ」
そう思ったら大間違いで、実際は、経営者の持つ賃借権の譲渡にすぎません。解りやすくいえば、3年契約のうち、1年半、自分で経営した人が、残り1年半を誰かに譲りたいという話で、1年半後にどうなるかは、「知った事ではありません」といった話が多く、恐ろしくて手が出せない内容です。
大体どこのバーの契約も、似たりよったりですが、まずキーマネーと呼ばれる契約金が30万-100万バーツ程かかります。 これだけでなく、管理費と称して、月に5千-1万バーツの家賃を取られます。これで長期間、経営できればいいのですが、3-5年の契約期間が終わると、また振り出しにもどってキーマネーからやり直しとなり、これでは、永久に上がれない スゴロクみたいなものですね。
それでも、潰れていく人の後から後から、このビジネスを始める人がどんどん出て来ます。わたしの知る限り、通りに面しているような立地のいいお店を除いて、「儲かった」という人の話を聞いた事がありません。一時的に羽振りの良かった人はいるのですが、彼らも、遅かれ早かれ、消えていってしまいました。問題は、そのスピードが早いか遅いか、というだけの話のようです。

そんな中、失敗例の最短記録保持者は、イギリスはノーリッチからやってきたアランさんです。アランさんは、5年程前、日本円にして約1000万円のお金を持って、プーケットにやってきました。ソイ・サンサバイの真ん中にある貸し店舗でバーを始めましたが、僅か3週間でジ・エンドとなってしまいました。しかも、3週間の間に来店した客は、なんとたったの一人だけ。このお店に、いくら注ぎ込んだかは、申し訳なくて聞けませんでしたが、彼はそれ以降、いかなるビジネスにも手を付けようとはしませんでした。そして、去年の10月、持ってきたお金を全て使い果たし、彼は母国への帰途に就きました。

バーを始めた人の中で最も多い失敗例、それは自分のお店の女の子と仲良くなってしまう、というものでしょう。
「商品には手を付けるな」
水商売に於いて、恐らく世界共通の金言を守れない人が多いようです。
「お菓子をお腹いっぱい食べたいから、お菓子屋さんをやりたい」
小さな子供の、そんな夢と同じレベルの話ですが、数年前、ソイ・シードラゴンでカウンターバーを経営していたイタリア人のマリオさんも、そんな一人です。この人も、そっち方面は非常に精力的でした。今日、(自分のお店で働いている)プンという名の女に手を出したと思ったら、次の夜はカンチャナーという女に、そして、その次の日には、別のオンナに、とやっているうちに、あっという間に一巡してしまったそうです。これだけならよかったのですが、手を付けられた女性が・・・、つまり、お店で働く女性全員がその後、彼の恋人気取りだったようで、「お店のお酒は、自分のお酒」「お店の釣銭は、自分のお小遣い」といった状態になってしまったようです。客もいないのに酒がどんどん減っていく、レジのお金は、閉店時の残金が、開店時の釣銭を下回っている、そんな日の連続だったようで、ここも、あっという間に潰れてしまいました。

数あるソイの中でも、日本人にとって、一番の鬼門がタイガーディスコの下にある洞窟のような一帯です。正式名称で何と呼ばれているのか知りませんが、以前エイズで亡くなられたSさんのお店があったのもここでした。Sさんのお店は、最初は2階にあるタイガーディスコの入口の手前にあり、ディスコのお客が来店の前後で立ち寄り、賑わっていました。その後、タイガーディスコが改装となり、1階に降ろされた後は売り上げも半減し、その約半年後に彼は亡くなりました。
Sさん以外にも、お店を任せていた奥さんのバクチで大変な借金を背負い込む事になってしまった井原さん(仮名)の例にもビックリさせられました。お店を始めたばかりの頃、私がお祝いを兼ねて顔を出した時の奥さんの笑顔は、今でも忘れられません。普段見せた事もないような嬉しそうな表情で、水を得た魚のように生き生きとお店を切り盛りしていたのですが、大きな落とし穴があったものです。

その他にも、手を出す商売がどれもうまくいかず、とうとう奥さんに三行半を突きつけられてしまった菊池さん(仮名)とか・・・。しかも不思議な事に、これらの人達が経営していたお店同士が隣接しており、まさにこのポイントは、南の島の夜のブラックホールと言えるかもしれません。プーケットでバーを経営しようと考えている人も、ここだけは避けるべきだと思いますが・・・。

やはり、バングラーにあるソイ・ライオン。日本人の女性が2人、よりにもよって津波直後の2月に、お店をオープンするという暴挙を犯してしまいました。カウンターバーの女性経営者自体、タイ人を除けば皆無ですから、なんとか成功してもらいたいものです。現在、休止中のようですが、是非また再開して下さい。

こんな中にあって、パトンビーチで10年以上、カウンターバーを経営していた トシさんという方がいますが、この人なんかは「神様」と言えるのではないでしょうか。そのトシさんをもってしても、バーの経営を継続していくのは割のいい話ではなかったようで、3年前 、遂にお店を閉める事になってしまいました。

私の経営するブレイクポイントも、前のオーナーの頃は、酒がメインで料理はあくまでオマケでしたが、私の代になり、今のようなスタイルになりました。酒で勝負する自信がなかったのです。客が溢れるほど入っている酒場をバンコクやプーケットで見かけることがありますが、私は、こんなお店のオーナーは、尊敬に値すると考えています。

他人と違う、キラリと輝く何かがあれば、その人の周りには自然に人が集まってくるといわれています。お店の経営も、きっと同じなのでしょう。誰にでも始められる、単純な業種であるがゆえに、そこに他店と違う、「特別な何か」がなければ、お客さんを集めることはできません。その「何か」が何なのか、私には、いまだに分からないのですが・・・。

最後に以前、プーケットで長期滞在していたヤクザの一休さんが、ラワイビーチで経営していたバーの話を紹介しておきましょう。お店の名前は「ダック」。しかし、1ヶ月ちょっとでアウトとなってしまいました。お店を閉めた一休さんは、私に、こう言ってました。
「やっぱり、名前が良くなかったよ。ダックって、アヒルだろ。潜っちゃったんだなあ・・・」
失敗しても、この人くらい、明るくいきたいものです。ここは、プーケットなんですから。
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by phuketbreakpoint | 2005-11-09 12:29

奇跡の人

「お父さん、また女遊びですか?」
そう言われ、一瞬驚いた表情を見せた女房ラントムのお父さんですが、すぐさま「マーイ(いや、ちがう)」と否定しました。この人の凄い所は、例えそれが動かしがたい事実であったとしても、間髪入れずに否定してみせることです。顔には、「どうして、そんなデタラメを・・・」といった表情を作り、聞いてもいないのにアリバイ解説を始め、最後に必ず、こう付け加えます。
「ウソじゃない」
少年時代、「嘘じゃないよ、本当だよ」、そう言う奴に限って、嘘つきだった、という記憶がありますが、お父さんの話も、その類なのでしょう。

でも、これは教育上、本当によくありません。お父さんが見え見えの言い訳をしているとき、廻りには孫たちがいっぱい(8人)いるわけです。物心ついた頃から、お父さんの「嘘がバレても、即否定」を学習してしまうと、大きくなって、同じような事をやるかもしれません。わたしの子ども達が幼少の頃、お父さんと一緒に暮らす期間が短かったのは、いまさらながら本当によかったと思っています。

タイには、いい所、悪い所、勿論いろいろありますが、わたしの個人的な意見を言わせてもらえば、タイで最も良くない点は、真顔で嘘をつける子供がいることだと思います。ラントムのお父さんだけでなく、同じようなリアクションを繰り返している人は、少なくないのかもしれません。今の日本は、どうか分かりませんが、昔は、嘘をつこうとしても、オドオドして、すぐにバレてしまったり、先生から「嘘つくな」と言われ、無言になってしまったり、今考えると、みんな正直で、いい子供たちだったと思います。

お父さんは、ラノットの田舎に住んでいた頃は、普段はサロンと呼ばれる腰巻き一枚の姿ですから、格好を見れば、どこかに行くつもりかどうか一目瞭然でした。靴を一足しか持っていませんでしたから、姿が見えない時でも、靴がなくなっていれば、すぐにバレてしまいます。どこかに行くといっても、用事なんかありませんから、「遊びに行ったんだな」と廻りの人は、感づいていました。

こんなお父さんに、じっと辛抱しながら耐え続けてきたのがラントムのお母さんです。耐えるといっても、タイ人は日本の演歌のように、辛気臭いイメージは全然なく、カラッと明るい人生を送っています。そして我慢できなくなったら、次の男を見つけ、去っていくのです。タイの女性はタフですね。
お父さんとお母さんは、そもそも馴れ初めがムチャクチャで、わたしもラントムから話を聞いて唖然としました。日本でなら、いや、タイを含めて法治国家なら、どこでも完全に犯罪だと思います。

それは、お父さんが18歳の頃の話です。お母さんは、一歳下の17歳で、お父さんは前々から、村に可愛い娘がいると目を付けていました。ある日、町で祭りがあり、お母さんは両親に連れられ出かけていきました。祭りの会場で、たまたま、お母さんとすれ違ったお父さんは、ある計画を思い付きます。タイの田舎には、当時は公衆便所なんてありませんから、トイレに行きたくなったら、どこか人目に付かない所に行って、用を足すしかありません。お母さんも両親から離れ、ちょっと寂しい場所に行ってしまったそうです。
「チャンス!」
そう思ったお父さんは、お兄さんと2人で、お母さんを強制的に自分の家まで連れていってしまいました(そういうのは日本では、拉致、あるいは誘拐というんですよ、お父さん!)。お父さんの家に隔離されたお母さんは、一週間後に、ようやく家に帰る事が出来ましたが、お母さんの両親(つまりラントムの祖父母)は、「パン(お父さんの本名プラパンの略)を殺してやる!」と殺気だっていました。当然の反応ですが、当時は、一旦こういうことになってしまった女性は、他に嫁の貰い手がありませんから、おじいさんとおばあさんは、悔し涙を飲み込んで、お父さんとの結婚を認めざるを得ませんでした。

ただ、お父さんは、今でも笑顔がチャーミングで、話も面白いですから、若い頃は随分モテたようです。お母さんも、憎からず思っていたのかもしれません。そうじゃなければ、やっぱり必死で抵抗したんじゃないでしょうか。しかし、これを、お母さんに言ったら、こう返されてしまいました。
「何言ってるの。ピストル持ってたのよ」
・・・・これも犯罪ですね。

この後の人生を真面目に生きていたのなら、おじいさん、おばあさんの怒りも静まったのかもしれませんが、お父さんは、次々に問題を起こしていって・・・。お父さんの話を書いているだけで、何十巻もの大作ができてしまいますから、これで止めますが、ラントムのおじいさんが死ぬ前に、改めてみんなに言ったセリフがあります。
「わしが死んでも、絶対にパンには、わしの棺桶を持たさんでくれ」
わたしも3人の娘を持つ親として、おじいさんのこの気持は、よーく分かります。

最近プーケットでは、真面目に働き、女遊びもしない、タイ人の風上にも置けない男が急増中で、わたしを嘆かせていますが、ラントムのお父さんは、昔ながらの歴史と伝統を守り続けているのです。タイに人間国宝というものがあれば、指定されるかもしれません。
飲む、打つ、買う、夢の三拍子を兼ね備えた奇跡の人、それがラントムのお父さんだと言えるでしょう。
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by phuketbreakpoint | 2005-11-03 12:33