タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
カレンダー

<   2005年 10月 ( 13 )   > この月の画像一覧

犯されて

「ファックユー」
怒りを露わにした2人のレディーボーイがうちのお店の階段を2階から下りてきました。
中指を突き立て、憤慨のポーズ。
「やってられないワッ、まったく・・・」
そんな雰囲気です。

その15分前、わたしは、この2人がうちのゲスト・ハウスで泊まっている日本人男性に連れられて階段を上っていくのを目撃していました。
「2対1か。なかなか やるなあ」
とても綺麗な2人でしたが、わたしは一目見て、彼女たちが女性でないと気がついていました。
しかし、連れてきた当の本人が、とても幸せそうな顔をしていたので、敢えて、わたしがそれをブチ壊す必要はないだろう、と思っていたのです。
しかし 、案の定、途中でバレてしまったようで、2人は部屋の外に追い出され、冒頭のシーンとなってしまいました。

彼女たちが去って、しばらくすると男性が下りてきました。
「参りましたよ・・・」
わたしは、「参った理由」は分かっていましたが、知らないフリをしていました。この人は、何がどう参ったのかを、わたしに説明してくれましたが、わたしは話の内容より、この人の息が歯磨き粉臭かったのがとても気になりました。まだ寝るわけでもないのに、入念に歯を磨かねばならない理由があったようですね(お気の毒に・・・)。

この人は相当落ち込んでいるようで、「今夜はもう寝ます」と言い残して自分の部屋に上がっていきました。
でも そんなに気にすることじゃないと思いますよ。オカマと危うく関係しそうになったくらいで、何ですか。その直前まで、あなたは自分から彼女たちを求めていたんでしょ?
わたしは、まったく望まなかったにも拘わらず、もっと悲惨な目にあっているんですよ、日本で・・・。


20代半ばの頃は、仕事が終わると終電に乗って新宿に行き、グリーンプラザという大きなサウナで一晩過ごした後、ひとっ風呂浴びて、さっぱりしてから、また仕事へ、という生活を送っていました。なぜ、そんな事をやっていたのか理由は自分でもよく分かりませんが、ここの大きなお風呂と、ちょっと立派なマットがある仮眠室は気に入っていたと思います。

この日も仮眠室で朝まで寝て、その後サウナに入ってサッパリしようと思っていました。
履いていたトランクスを脱ごうと手を掛けると、何故か糊でも付けたようにゴワゴワになっています。そのトランクスを触っている手も、ヒラの部分にパリパリと何か付いています。
わたしは、「何でこんなになっているんだろう?」と思いましたが、特に気にする事も無く、そのまま手を洗って、サウナルームに向かいました。

サウナに2-3回入った後、体を拭いて洗面台で顔を洗っていたら、中年の男性がすっと、わたしの後ろに立ちます。
わたしは、この人が順番待ちしているのかと思い、急ごうとしたのですが、その直後に、この男は意外な行動にでました。
「可愛いオチンチン」
そう言うや否や、いきなり後ろからブリーフのモッコリ部分に手を廻してきたのです。予想もしていなかった男の動きに、わたしのディフェンスは、ふた呼吸遅れてしまい、かなりしっかりと握られてしまいました。
「何するんですか」
ちょっと遠慮がちに言ってしまったのが悪かったのか、男は攻撃の手を緩めようともせず、二度、三度と仕掛けてきます。女性のみなさんも、電車の中で痴漢にあったときは、ハッキリと大きな声で意思表示した方がいいと思います。そうじゃないと、この日のわたしみたいになってしまいますよ。
しつっこい男に、わたしも遂に爆発し、
「いい加減にしろ、このオヤジ」
近くにいた従業員が、「まあまあ」と2人をなだめて事無きを得ました。

「なんて奴だ、まったく・・・」
わたしはムッとしながらも化粧室に行き、髪を整えていたのですが、つい先程の出来事をいろいろ考えているうちに、真夜中の仮眠室で睡眠中に起こった様々な場面がボンヤリと頭に浮かんできました。

そういえば昨夜は、いつもと違って、とても寝苦しく、夢うつつの中でモヤモヤと断片的に残っている記憶の中に、
<何故か、わたしに密着して寝ている人>
<振りほどいても、振りほどいても、すぐまた密着されてしまった事>
<右の手の平の中に何か生暖かい物が入ってきて、慌てて手を引っ込めた事>
等が思い出されてきました。
そして、あのゴワゴワのトランクスとパリパリの手の平
駄目押しで、さっきの中年オヤジです。
いろいろなパーツがわたしの頭の中で繋ぎ合わされて、パズルの全体像が突然見えてきました。
「・・・・・・・・・」
それは絶対に考えたくないような姿をしていたのです。

「いや、いや、これは何かの間違いだ」
そう思い、もう一度、一つ一つの事象を並べて検証してみましたが、やっぱり結論は同じになってしまいます。とりかえしのつかない事が起こってしまったようです。
わたし、もしかして、犯されてしまったみたいですね、寝てる間に・・・。

被害に遭ったのが、右の手の平だけだった(たぶん)のが、せめてもの救いでした。あの時は本当に頭にきて、ショックも大きかったのですが、今にして思えば、当時のわたしには、それなりに魅力があったからこそ、あのおじさんも、わたしを犯そうと思ったんでしょう。今なら誰も、そんな気にはならんでしょうから、それを思うと、ありがたい話と言えなくもありません。
しかし、やっぱり、こういう事は、両者合意の上でやらないといけませんね。
わたしは絶対に合意しませんけど。


冒頭の日本人男性も、自分の目で見て、綺麗な人だと思ったからこそ、2人をホテルまで連れてきたわけですから、自分で下した評価を、そんなに簡単に変えてはいけませんよ。
ちょっと余計な物がくっ付いていたくらいで何ですか。
顔だけ見てれば、いいじゃないですか。
わたし、そう思います。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-27 10:50
東京都 杉並区 神明中学入学式。
<♪ 鳥は梢に、光は胸にー>
28年ぶりに聞いた母校の校歌に、わたしは涙が出そうになっていました。

長男あきおは今年の4月から、私の両親に引き取られ、この学校に通っています。タイで生まれ育ったあの子が、パームツリーもバナナの木もない東京で、うまくやっていけるのかと心配していましたが、クラスの仲間や先輩達、先生方に見守られ、楽しい中学生生活を過ごしているようです。
しかし、この学校も年々生徒が少なくなり、3年後には隣りの中学と統合され、廃校になるかもしれなという噂を耳にします。都心の夜間人口の減少は、ずいぶん前から言われていましたが、ここは昔から閑静な住宅街で、華やかさはないものの、人だけはたくさん住んでいると思っていたのですが・・・。

そういえば街を歩いていても、あまり子ども達を見かけなくなりました。
いや、子供だけではありません。商店街も、1つ、また1つと、お店が消えていきます。残っているお店も、昔は、おじさんとおばさんの2人でやっていたものが、今、おじいちゃん、おばあちゃんになって、細々と営業している所が多く、どちらか一方が亡くなられたら、それでお終いとなってしまうのでしょう。日本はどうなってしまうのでしょうか。

あきおは、クラブ活動で野球部に入りました。サッカー部と、どちらにするか迷ったようですが、サッカーはプーケットでも出来ますから、野球を選んだようです。
野球をやるには、とりあえずグローブが必要です。あきおはサウスポーなので、わたしが昔使っていた物は使えません。荻窪までグローブを買いに行きましたが、スポーツ用品店を見つけるのも一苦労でした。ゴルフショップは、いっぱいあるようですが、要するに日本中じいさんだらけ、ということなのでしょう。
ようやく見つけたお店に入って、わたしは、「あきお、好きなの選んでいいぞ」と口を滑らせてしまいましたが、後で後悔しました。ローリングスが高いのは分かりますが、昔は安物だと思っていたミズノも、今や高級品らしく、値段がほとんど変わりません。6000円もするグローブが、「お買い得」なんて書かれています。

小子化問題は本当に深刻なようで、わたしの在学中には、大勢の部員を抱えていたバレー部は消滅していました。当時はミュンヘン五輪で男子バレーが金メダルを取った後でしたから、人気がありました。やはりスポーツは、勝たなければ駄目なんでしょうか。
人気があるわりに、メンバーが揃わないのがサッカー部です。 10人しかいませんので、入ればすぐレギュラーです。野球部は、これと比べると少しはマシなようで、一応メンバーを組む事が出来ますが、中学生にもなって未経験者のあきおをチームに入れてくれるんですから、ありがたいような、情けないような・・・。以前は、近隣小学校の主力クラスが集まっていました。

わたしは断言しておきますが、これから日本の野球は、どんどん弱くなります。野球だけでなく、どのスポーツも、いや、スポーツ以外の全ての分野において、レベルダウンしていくのではないでしょうか。
だって、子供がいないんですから。放っておいたら、どんどん子供が増えていってしまうタイ王国は、ずいぶん健全で前途洋々のような気がします。

最近の日本人は、深くものを考えすぎなんじゃないでしょうか。
「この先、もっと、いいことがあるかも・・・」
なんて考えたりしないで、自分のすぐ目の前にいる女性に、とっとと惚れる。この女性と一緒にくらせば、当然、子供ができる。そしてパパになる。あんまり、いっぱいできちゃうと大変だから、頃合を見計らって、打ち止めにする。
タイでは、そして日本でも、ちょっと前までは、誰でも当たり前のようにやっていたことが、最近は国家的課題になってしまったようですね。

半年後の10月下旬、私は再び日本を訪れ、あきおの様子を見てきました。
ちょっと見ないうちに、随分逞しくなったような気がします。背も高くなり、日本語もかなり自然になっていました。これだけでも、わたしは、大きな満足を感じます。
午後、野球部の練習を、あきおに内緒で、こっそり見に行きました。見に来たのが、あきおに分かると、プレッシャーがかかってしまいますから、ちょっと配慮したんですね。
あきおは、レフトを守っていました。昔から、下手なヤツは外野、と相場が決まっていましたから、当り前ですが、わたしは、校庭のフェンスの反対側から、じっと真剣に、あきおを見つめていました。
しばらくすると、散歩中のおばあさんが不信に思ったのか、「どうしましたか」と声を掛けてきます。わたしのことを変質者と思ったのかもしれません。

「あきお、違う、もっと前だ!」
「ダメだ、スタートが遅い」
思わず、声が出そうになります。しばらくすると、あきおにも打つ順番が廻ってきました。
「どうか、バットにボールが当たりますように・・・」
何球か空振りはありましたが、あきおは、結構上手にボールを当てていました。たまにですがジャストミートもあります。なかなか筋がいいですね。

そのとき、後ろからポンポンと肩を叩かれ、振り向くと、若いお巡りさんが立っていました。わたしがあんまり長く、フェンスの外から練習を見ていたので、とうとう誰かが通報してしまったようです。殺伐とした世の中という事なんでしょう。
「すいません。今、打っているあの子、わたしの息子なんですよ」
そう説明しましたが、
「だったら、どうして中で見ないんです」
とお巡りさんは聞いてきます。
子供の気持ちも、お父さんの気持ちも、全然わかってないんですね。あなたにも、その内、わかりますよ。

練習を終えて、あきおが帰宅し、キャッチボールがやりたいと言うので、食事の後、2人で大宮前公園に行きました。今やここは、近所でキャッチボールが出来る、唯一の場所なのです。もっと小さな公園には立て看板が出ていて、「キャッチボール禁止」と書いてあります。もはや空地など存在しませんし、空いた土地があっても、アスファルトが打たれて駐車場になっています。このブースでも、やっていいのはキャッチボールだけで、「バットの使用禁止」と注意書きが出ていました。何から何まで、禁止にしてしまうんですね。誰が決めているんでしょう。現在の東京ではクラブに入らない限り、子ども達が仲間と野球をやることすら、できないようになっているようです。

自分の息子と、初めてやるキャッチボール。なんだか、変な気持ちです。
少年時代に父とやったキャッチボール、空地でのゴムボールを使った草野球、クラス対抗で隣りの3組にボロ負けした試合、高四小で出場した大会の決勝戦で、「神様、ここで俺に打たせてくれ・・」、それだけを思った、あの一瞬。あきおの球を、一球一球、受けながら、あきおの胸に、一球一球、投げ返しながら、わたしは、そんなヒトコマ、ヒトコマを思い出していました。
<息子とやるキャッチボール>
お父さんにとって、これ以上の幸せは、ありません。やっぱり、オヤジになったからには、これですよ。ゴルフなんかやってちゃ、ダメですね。

「あきお、パパは、明日プーケットに帰るけど、野球だけじゃなく、勉強も、しっかりやるんだぞ」
一緒に来ていた末娘のきよみは、退屈して先に帰ってしまいましたが、わたしとあきおは、いつまでも、暗い公園の灯りの下で、キャッチボールを続けました。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-25 14:02

悪魔が来たりて酒を飲む

2002年サッカーワールドカップ決勝大会。
グループリーグが終了し、いよいよ決勝トーナメントに突入しました。今日は宿命のライバル同士、サッカーの王国ブラジルとサッカーの母国イングランドが激突します。
「ママ、今日は(試合終了後の)夕方から、お店開けた方がいいんじゃないかなあ」
私は、開店の準備をしながら、女房のラントムに、そう話し掛けていました。
「今日のフットボールローク(サッカーワールドカップ)、まずい事になりそうなんだ」

あの時は日本でも、イングランド・サポーターの悪逆非道ぶりが、大会前から問題視されていました。
日本の入国管理局は、ヨーロッパの警察の協力を得て、
<絶対に入国させてはならない人物>
<可能な限り入国させない人物>
<入国は拒否できないが、入国後要注意な人物>等をピックアップし、徹底した水際作戦を展開していました。前科のあるフーリガンは、在外の日本大使館にビザを申請しても、発給を拒否されてしまいます。金と時間はあるのに、日本に行けない人達は、とりあえずタイまで飛んで、日本潜入のチャンスを伺っていました。タイ王国は日本のようにケチ臭い事は言いませんから、プーケットの盛り場は、無法者たちの怪獣墓場と化していたのです。

大会が始まると、バングラー(パトンビーチの繁華街)をバイクで流していても、危なそうなのがいっぱいいて落ち着きませんでした。大体 5-10人くらいのグループで飲んだくれている場合が多いのですが、全員がスキンヘッドというのが、そもそも異様でした。
ガ体は太りすぎのボクサー、あるいは 出場停止処分中のラグビー選手のような奴が多く、T-シャツ(イングランドのユニフォームである場合が多い)から覗く二の腕には、恐ろしい柄の刺青が掘ってあります。紳士の国・大英帝国の面汚しども、と呼ぶにふさわしい連中です。
こんな人達が入店してきて、飲みまくった後に、もしイングランドが変な負け方でもしようものなら、お店はメチャクチャにされてしまいます。
「しまった、せめて保険にでも、入っていれば・・・」
そう思いましたが、この時の反省をすっかり忘れてしまったようで、津波の後、私は、まったく同じ思いをすることになるのです。

試合開始は、こちらの時間で13時頃でした。イングランドのゴールデンタイムに合わせられていたようです。
「神様、どうか変な奴等が入ってきませんように」、私は、いつもより入念に、仏壇の前で手を合わせてお祈りしました。勝手な時だけ神頼み、私の性格は昔から変わってないようです。
ただ、不幸中の幸いというのも何ですが、対戦相手のブラジルは、優勝候補筆頭でしたから、イングランドのフーリガン達も、ある程度は心の準備が出来ていたのではないでしょうか。イングランドが勝つとは思えませんでしたから、出来る事ならブラジルが本領を発揮して、3-1くらいで力勝ちしてくれたら良いのですが・・・。彼らがあまり悔しがらないような展開を私は望んでいました。

最悪なのが、86年にマラドーナがハンドを使ってゴールした時のように、ブラジルがズルイ勝ち方をした場合です。あの時、私は、まだ学生で、たまたまロンドンに住んでいました。試合後、夜の町にくり出したのですが、パブの前には、変な目付きをした危なそうな兄ちゃんが十数人屯して、今にも爆発しそうです。
「こりゃあ 無理だな」
とても彼らの傍をすり抜けてお店に入れるとは思えず、この夜は、私のロンドン滞在中でも珍しく、「パブに行かない夜」になってしまいました。

試合開始10分前、ボツボツとお店に入り始めたイングランドサポーターらしき人は、約4名。
「よしよし、この程度なら、もし暴れても、従業員総出で押え込めば、なんとかなるぞ(お店の主人が、客の入らないのを喜んでどうする!)」
さあ、いよいよキックオフです。カウンターでジョッキ片手に観戦するサポーターのボルテージが一気に上がりました。このノリは日本人、いや、アジア系の人には絶対に真似のできない、野獣のように凄まじい迫力があります。

開始からしばらくすると、イングランドがなんと先制してしまいました。
大喜びのオッさんたち。バシバシと力いっぱい、カウンターをぶっ叩いて、もう優勝したかのような大騒ぎです。ミシミシと木製カウンター(当時)のきしむ音が、本当に聞こえてきました。みんな次々にビールのお代わりを注文します。
(ちょっと、みなさん、ほどほどにいきましょう。あんまり飲むのは体によくないですよ)
アルコールは時として、大きな問題を引き起こす事がありますから、私は、飲み屋のオヤジであるにも拘わらず、そんな事を考えていました。

前半のロスタイム、サポーター達は 1-0で折り返す事ができそうで、みな満足そうにビールを飲みながら話していました。
「こりゃあ、なんとか、なりそうだなあ」
「いや、楽勝だったりしてな、ガハハハ・・・・!」
しかし、そんな、おっさん達の油断を突くように、ブラジルの同点ゴールが決まってしまいます。
「オーノー」
「ファック」
「シッツ」
みな悔しさを滲ませながら、飲んでいたビールをグッと空けて、もう一本追加注文しました。
(みなさん、落ち着いて下さい。まだ半分終わっただけじゃないですか)
ここでハーフタイムになりましたが、人相の悪いのが2人程入ってきたのが気になります。

「ちょっと、まずい展開になってきちゃったなあ・・・。こうなったら、何が何でも、イングランドに勝ってもらわないと、お店が危ないぞ」
そして50分、最悪の事態勃発です。ブラジル、ロナウジーニョのフリーキックがミスキックとなり、フラフラと上がったボールはキーパーの逆を突いて、そのままゴールインしてしまいました。
「オーウ・・・」
低い溜め息を押しつぶしたような呻き声がカウンターに響きます。みなショックを受けたようで、この時はビールの追加注文も、ほとんど入りませんでした。
(そうですね。酒を飲んだからといって、この状況は変わりませんよ)
その後、イングランドにチャンスらしいチャンスはなく、ズルズルとゲームセット。みんな、ガックリきていましたが、暴れそうな雰囲気はありませんでした。
(さ、さっ、皆さん、終わりましたよ。楽しかったですねえ。さあホテルに帰りましょう)
私は、イザとなったら、みんなの気を静めるためにクリスマスソングのCDを使おうとスタンバイさせていたのですが、どうやら使わずに済んだようです。

うちのお店は大丈夫でしたが、バングラーは今ごろ大変な事になっているんじゃないでしょうか。
酔っ払った大男がウイスキーをラッパ飲みしながら女の子達を追い掛け回して・・・
「カリブの海賊」のような場面を私は想像していましたが、意外とみんな大人しくビールを飲んでいました。タラート(市場)手前で、私のバイクを猛スピードで追い越していったイングランドファンらしき人の運転する大型バイクが転倒して、駐車中の車の後部に激突し、中破しましたが、騒ぎは結局、この一件だけだったと思います。

考えてみれば、凶悪なサポーター達も、暴れさえしなければ、飲みっぷりはいいし、金払いも悪くありませんから、上客ではあります。何が野獣たちの牙を抜いたのでしょうか。
フーリガンと呼ばれる人達は、実はサッカーの試合なんか関係なく、ただ暴れたいだけの連中が多いと聞きます。自分たちの、ぶつけ所のない不満を爆発させたいだけなのでしょう。ところが、プーケットに来てみると、爆発させたい不満があったとしても、それが日に日に小さくなっていくのではないでしょうか。
「爆発させて捕まるのもアホらしい」
そんな普通の判断力が彼らに戻って来るのだと思います。
「ビールはうまいし、ねえちゃんはキレイだ!」
これで不満のある男、いませんよ、やっぱり。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-24 16:59
プーケットで暮らし始めて約1ヶ月後、女房ラントムのおばあさんが亡くなり、わたし達夫婦は、お葬式のためソンクラー県ラノットにある彼女の実家を訪れました。

ラントムのおばあさんは、ここでラントムの両親と共に暮らしていましたが、ある日、歯が痛くなったというので市の外れにある公立病院に行って奥歯を1本抜いてもらいました。しかし、その日から出血が数日間止まらず、次第に意識障害を起こして恍惚の人になってしまったそうです。わたしは常々言うんですが、タイの医者には、根性決めて掛からないと本当に危ないときがあります。おばあさんは、トイレに行くことも出来ず、垂れ流しだったようで、わたしがラントムの実家に初めて遊びに行った時も、家の裏にある小さな小屋に入れられて、ボヤーっと1日中座っていました。こんな状態が2年間も続いていましたから、悲しみをあまり感じない、明るい雰囲気のお葬式だったと思います。

タイのお葬式は、田舎に行けば行くほど期間が長くなると言われていますが、おばあさんの時もそうでした。わたしとラントムが実家に着いた時、もう死後1週間以上経っていたと思いますが、葬式は2週間後だといいます。その間、毎日のようにブタやら牛を生きたまま買ってきては殺し、来訪者に振舞っていました。近所の人達は、みな笑顔が耐えません。タイの田舎の人は、遠慮を知りませんから思いっきり、たかられてしまいます。
「あれ、今日は何も食べる物ないのかい」
3軒隣りのおばさんは、ご馳走されるのが当り前といった顔をしてラントムのお母さんに催促しています。言う人も言う人ですが、そう言われたからといって、
「じゃあ、午後にブタ一匹買ってきて鍋でも作ろう」
と、すぐに乗ってしまうラントムのお父さんにも困ったもんです。

お金持ちの家の葬儀なら、たくさん振る舞ったとしても、集まってくる親類や友人、知人もそれなりにお金を持っていますから香典も大きな額になって帳尻があうようです。だいたい、お金持ちは他人にたかったりしませんから出費も少なく済み、ちゃんと利益が出るようになっています。
しかし、貧乏な人が見栄を張って、同じ様にやってしまうと集まるお金の数倍の出費となって大赤字を食らってしまいます。さっき催促していたおばさんも、初日に50バーツ(約150円)封筒に入れてきただけで、連日朝・昼・晩と家族全員三食タダで食べたうえに、お持ち帰りまでしていました。
おばさん、食べるのは払ったお金の分だけにしてください!都会では一応そうなっていますよ。

ラントムの両親は、お金持ちとは言えませんから、わたしも、だんだん心配になってきました。ラントムに、「ママ、ちょっと大丈夫なの?随分派手にやっちゃってるようだけど お金だってバカにならないよ」と言ったのですが、彼女は、「大丈夫、大丈夫」と笑っているだけです。このペースで振る舞っていたら、どう考えても、大丈夫じゃないと思うんですけど・・・。
しかし、ラントムのお父さんは、やる気満々にこう言います。
「2日前、あそこの農豚場に、いいのがいたから、今日はアレを殺ろう」
人の死を悼むお葬式なのに、そんなに殺生を繰り返して、どういうつもりなんですか、お父さん!

田舎の人は、誰かが死ぬと異常に燃え上がり、葬式の期間中は、てこでも働きませんから、可能な限り葬式の日程を先延ばしにしようとします。一週間後に絶好の日取りがあったとしても、何やかやと理由を付けて、一ヶ月後の、それなりの日取りに決めてしまいます。タイの田舎は普段娯楽がほとんどありませんから、親類 縁者みな勢揃いするお葬式は一大イベントになっているようですね。

葬式のない時のタイの田舎は、一言でいうなら、「何もない世界」です。
朝、まだ真っ暗なうちから、コケコッコーとニワトリが鳴き始め・・・、いや 正確には真夜中、チンチョッと呼ばれるヤモリが 、キキキキキ・・・と室内で鳴いて目が覚めてしまいます。わたしは、この声の主の正体が分かるまで数年を要しました。それまでは、どうして家の中に鳥がいるんだろうと、ずっと思っていたのです。
ニワトリが鳴くのと同時に、そこに住んでいる人、この家ならラントムのお父さんが起きてきますから、他の人も自然に目が覚めてしまいます。
どろーん、とした空気の中、時間がゆっくり、ゆっくり流れていきます。もうそろそろ夕方だろう、と思って時間を見ると、時計の針は正午を指していたりします。聞こえて来る音は、ニワトリの「コッコッコッコッ・・・」という鳴き声と時折通りかかるバイクの「ブーン」というエンジン音が一瞬、それだけなのです。毎日がこんな調子ですから葬式が始まると、みんな急に元気になってしまう気持もわかります。

タイ南部の男達にとって、葬式ほど楽しいものはないようですね。何しろ朝っぱらから、みんなで酒盛りやっていても、「葬式なんだから仕方ないだろう」という言い訳がちゃんとたってしまいます。一番安くて強いラオカウというお酒を誰かが買ってきて、それを器の中にガバガバガバと注ぎ込み、その中に氷とM150というビタミンドリンクを入れて、みんなで廻し飲み。これを連日、朝からお昼までの前編と、食事と昼寝を挟んで再び夕方から始まってしまう後編の1日2ラウンド、しっかりこなしますから、かなりハードではあります。
「毎日忙しくて大変だ。体が持たないよ」
ラントムのお父さんがそんな事言っていますが、単に酒疲れですね、これは。

酒盛りだけでなく、葬式期間中は特別に賭場を開くことも許されるようです。
おや、村長のパットさんは、随分負けが込んでいるようですね。大丈夫でしょうか。この人は、村長さんなのに引き際が分からないようで、葬式期間中に博打で5万バーツ(日本円で15万円弱)以上の借金を作ってしまいました。彼が村の財政を含む最高責任者でいいんでしょうか。

奥さんたちも幸せそうです。
普段なら亭主をガミガミやるところですが、この期間中は家族でタダ飯が食べられ、懐が痛みませんから、みんなニコニコ笑っています。
子ども達も嬉しそう。見知らぬ仲間が突然増えて、大勢で遊んでいます。
こうして男も女も、大人も子供も、みんなが幸せに包まれる夢のような ひととき、それがタイのお葬式なんですね。

あれ? お母さんが浮かない顔して、どうしたんでしょうか。
「お金が足りなくなっちゃったから、2万バーツほど都合してちょうだい」
結局、そういう事になってしまうようですね。どうやら、このお葬式で幸せになれなかったのは、わたしとラントムのお母さん、2人だけだったようです。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-23 11:53

メンダーはつらいよ

出所するとき、「これからは、一生懸命働くよ」と爽やかに話していたトゥアン(女房ラントムのお兄さん)でしたが、ときどきペンキ屋の仕事を手伝う程度で、一向に定職にに就く気配がありません。ムショ暮らしというのは、シャバとは全然違う世界ですから、出所してきて急に元の生活というのも、なかなか難しいとは思いますが、彼の場合はムショに入る前もブラブラしていたわけですから、生活のリズムが戻ってきたところで、暮らしっぷりに何ら変化はありませんでした。

恋人でもできれば、少しは真面目に働くんじゃないかしら・・・、そうラントムは考えたようで、友人で日本人の里見さん(仮名)を紹介しようとしていました(紹介される人も可哀相ですね)。
「アイバーオ(お兄さん)、いい人がいるんだけど、付き合ってみない?」
そう言われ、トゥアンは極めてあっさりと、こう答えました。
「でもなあ・・・、日本人の彼女がボクを養うならいいんだけど、ボクが彼女を養うのは無理じゃないかなあ」
本当に正直な人ですね。

タイでヒモは、メンダーと呼ばれています。
メンダーとは、本来タガメのことですが、タガメはオスよりメスの方が体が大きく、交尾する時は、まるでオスがメスにおんぶしてもらうような体勢になりますから、そう呼ばれるようになったそうです。
昔、ビートたけしさんが「世界まるごとHOWマッチ」という番組で、タイの通貨バーツを間違えてメンダーと書いてしまい有名になったというエピソードもあります。

トゥアンは出所後、半年から1年くらいのスパンで次々と女を取り替えていますが、これは別に彼がそうしたいからそうなるのではなく、相手の女がアホらしくなって去っていく時間がそのくらいだということです。
でも一応、彼のために弁解しておきますが、トゥアンも働く気持はあるようです。しかし、辛抱ができませんから、どれも長続きしません。結果的に女に食わせてもらう事になります。
日本でも転職と失業を繰り返している人がいますが、彼もきっとそんな感覚なのでしょう。

そんなトゥアンですが、半年程前に大きなバイク事故を起こしてしまい、危うく下半身不髄になってしまうところでした。なんとか歩けるようにはなりましたが、この体では、ますます働くことが難しくなってしまったようです。
これまでは、たまたまなのか、狙ってそうなったのかは分かりませんが、真面目に働く女、ちょっとお金を持ってる女に、いつも当たっていました。ところが、今付き合っている女というのは、トゥアンに輪を掛けてグータラな人で、まったく働く気がありません。しかも、前の旦那の子供が2人 くっ付いてきています。生まれたばかりのトゥアンの子供と合わせて5人、どうやって暮らしていくのでしょう。
(わたしは 知りませんからね)
このトゥアンの子供、見た人みんなが言うのですが、彼女の前の旦那の子と顔がそっくりだそうです。
(こっちも、わたしは知りませんからね)

トゥアン以外にも、パトンビーチにはメンダーがウジャウジャいます。知人でトゥクトゥク・ドライバーのノックは、半メンダーだと言えるでしょう。
奥さんのジョイは、パトンビーチのカウンターバーで働いていました。ジョイがお客を見つけるとノックの出動となります。バーからお客のホテルまで2人を運んで、彼はまずトゥクトゥク代をもらいます。そこでジョイが「このドライバーにチップをあげて」と客にねだり、彼はチップももらいます。
2人がホテルで楽しんでいる間、ノックはホテルの前で時間待ち。そしてジョイが仕事を終えて出て来ると、彼女を乗せて、またバーに戻っていきます。たまにジョイが親しくなったお客と昼間どこかに遊びに行くときもノックの車を使います。ジョイはお客にはノックの事を、自分のお兄さんと説明しているようですね。
「こんな事やってて、男として悔しくないのか?」
と思われるかもしれませんが、ノックは、彼女はビジネスで客と遊ぶ、そして、それを耐えるのが、オレのビジネス、と割り切っているようです。
毎日アッケラカンと時間待ちしていたノックですが数年前にジョイがポックリ死んでしまいました。病名は恐くて聞けませんが、彼は今、トゥクトゥクだけで暮らしていけるのでしょうか。

メンダー達は、自分の奥さんをバーで働かせて、というより、バーで働いている、お金のありそうな女を自分の女にして遊んで暮らしているわけです。奥さんに外国人の恋人ができ、結婚して外国に行ってしまっても、メンダー達は平気な顔をしています。
「オレもお前も、2-3年我慢しよう。どうせ、そのうちに相手も飽きてくるから、そうなったら、別れて慰謝料をもらって帰ってくればいいよ。でも月々の仕送りだけは忘れちゃダメだぞ」
まるで自分の女を、出稼ぎに送り出すようにする男もいます。

まあ、こういう男たちがはびこっていけるのは、タイの女性の考え方にも原因があるようです。わたしがラントムと結婚したとき、彼女は真顔でこう言ったものでした。
「アナタは子供の面倒でも見ながら、ブラブラしてればいいから。わたしが美容院でもやって、アナタを食べさせてあげる」
あの時の話は一体どうなったんでしょうか?
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-22 10:40

行く人 来る人

「はい・・・、あらアイバーオ(兄ちゃん)、今何処なの?」
強盗事件で服役中だった女房ラントムのお兄さんトゥアンから、ある朝、電話が掛かってきました。たった今、ナコンシータマラートの刑務所を出たばかりだといいます。何日か前に、「いよいよ出所が近い」と手紙が来ていましたが、そういう話は過去に何度かあったので、あまり期待していませんでした。

思えば8年前の9月、犯行後、わずか3日で逮捕されて以来、まさか、こんなに長いお勤めになろうとは、トゥアン本人も含めて誰も考えていなかったと思います。組んだ相棒の顔見知りの家に素顔で押し入ったわけですから、すぐに捕まるのは当然ですが、それにしても、3人がかりで奪ったお金は僅かに8万バーツ、当時のレートで40万円くらいです。本当に高くついた「過ち」でした。
まあ、そのお陰なのか、出所後のトゥアンは、決して、自分の力でお金を都合しよう等とは思わず、ひたすらヒモ稼業一筋の人生を歩むようになりましたが、再び犯罪に手を染めることはありませんでした。
人間、学習が大切です。

強盗犯といえば、日本では極悪人というイメージがありますが、タイの田舎では、ちょっとした小遣い稼ぎ程度の感覚しかないのかもしれません。あちらこちらで頻繁に起こる、ありふれた事件とも言えるでしょう。
以前、トランに住んでいた頃も、ラントムのおとうさんと近所のオッサンの会話を聞いて、青くなったことがあります。
「おおっ、パン(お父さんのこと)じゃねえか!何やってるんだ、こんなところで」
「おお、ムーか。久しぶりだなあ。オレ、今、ここに住んでるんだよ」
「そうだったのか。いや、今度ここに日本人が引っ越してきたって聞いたんで、この前、プロン(強盗)しようと思ってな。真夜中に来たんだが、あんまり犬がうるさく吼えるんで、諦めて帰ったんだ。来週あたり、また来ようと思って偵察にきたんだけど、よかったよ。危うくアンタの家をやっちゃうところだった。ワハハハ・・・・」
そういえば、その4-5日前、深夜に犬が鳴き止まない日が確かにありました。シラミだらけのボサボサ黒毛、日中はグダっと寝ているだけの元野良犬ジョン(注、プーケットでミヤンマー人に食われた可能性大)ですが、真夜中に、ちゃんと寝ないで働いていたんですね。
番犬っていうのは必要なんだと、このとき、よくわかりました。

電話の後、プーケットタウンのバス・ターミナルまで、トゥアンを迎えにいきました。2時間以上も待たされましたが、ようやくバスから降りてきたトゥアンは、朝まで囚人だったとは思えないほど、爽やかな好青年に見えました。
「8年間のお勤め、本当にご苦労さま」
「ありがとう。長い間、父さん、母さん、そして娘たちまで面倒見させてすまなかったなあ。これからは、心を入れ替えて、一生懸命働くよ」
そう明るく語っていたトゥアンですが、結論を言えば、この日の約束は、さっぱり実行されませんでした。

「チョーグ・ディー・カップ(乾杯)!」
この夜は御馳走を作って、みんなでトゥアンの出所祝いを行いました。お父さんも、お母さんも、笑顔でいっぱいです。特にお母さんは、逮捕直後から、何度も何度も面会に出かけ、なんとか息子の懲役を軽くしようと一生懸命でした。知り合いの知り合いに警察官がいると聞けば、ワイロを持って出かけていき、お金だけ取られて戻ってきたり、せめて犯行に使ったバイクだけでも返してもらおうと、やっぱりワイロを持って出かけていくと、またお金だけ取られてしまったり・・・。
こんなお母さんの努力も実らず、受けた判決は懲役20年です。被害者がお金を使って最大限の刑量を科すよう、圧力をかけていたようですね。金と金との勝負になれば、やはり量の多い方が勝つのでしょう。
ちょっとした、小遣い稼ぎ、のはずが、とんでもないことになってしまいました。
このときは、お母さんも大変なショックを受けたようで、1週間食事も喉を通らず、寝込んでいたそうです。今でこそ、兄の話になると、あまりいい顔をしないラントムも、この夜は、さすがに嬉しそうで、彼の出所を心から喜んでいる様子でした。タイは、親子兄弟、そして親戚の絆が本当に固いんですね。
このように、出てきた人と、その家族は、8年ぶりに幸せな夜を迎えることができましたが、その一方で、新たに入れられた人と、奥さんには、苦悩の日々が訪れることになります。

実はこの夜、私たち家族以外にも、スーマリーという名のタイ人女性が、この席に同席していました。彼女はブレイクポイントの当時のオーナー婦人で、6年前、ニュージーランド人の夫ビルさんとここを購入し、夫婦でお店を回していましたが、経営状態は火の車だったようです。
ビルさんとスーマリーさんは開店以来、購入時に銀行から受けた借金の返済で、ずっと苦しんできました。4年近く、利息の支払いだけに追われていた彼らは(結局、元本はまったく返済できなかった)、とうとう首が回らなくなり、常連の宿泊客から預かったキャッシュカードを使って、約100万バーツ(日本円で300万円くらい)のお金を無断で引き出してしまいます。3ヵ月後に、これを知った常連客は、
「すぐに返せ」と2人に迫りますが、それができるくらいなら、最初から、こんなことはしません。
「わかった、来週返そう」
そう約束だけしておいて、その日がくると、どこかに雲隠れ・・・、そんなことを繰り返しているうちに、頭にきた常連客は、とうとう警察に訴え、ビルさんは逮捕されてしまいました(この辺の話はプーケットガゼットで報道されましたから、興味のある人はバックナンバー探して読んで下さい)。

「トム(注、ラントムのこと)、実はねえ、私、ブレイクポイントを売ろうと思ってるんだけど・・・」
すぐにでも保釈の手続きをしたいスーマリーさんでしたが、銀行への返済が滞っているくらいですから、そんなお金はどこにもありません。彼女には、このお店を売る以外、金を作る方法はありませんでした。
「いくらなら、買うの」
と迫る彼女に対し、私は、自分で作れそうな額の上限を提示し、彼女がそれでOKして取り引きが成立しました。切羽詰った彼女に対し、細々とした駆け引きは無用です。結果的に相場より、ずいぶん安く買うことができました。

こうしてスーマリーさんとは合意に達した土地建物の売買契約ですが、一応、事実上のオーナーであるビルさんの了解は取っておこうと思い、面会に行くことになりました。土地の名義は彼女の名前でしたから、登記上は何の問題もありませんが、後でゴタゴタしたくはなかったのです。
プーケットタウンの外れの、土地登記局の斜迎いにある刑務所は、以前トゥアンの面会に行ったナコンシータマラートのものと比べると、ずいぶん小ぶりにできていて、待合室(といっても屋根が付いているだけ)と面会場が隣りどうしになっています。

売店で差し入れを買って待っていると、名前を呼ばれ、スーマリーさんとラントム、私の3人で中に入りました。古びた建物ですが、中は近代的に造られており、囚人と面会者の間はガラスで仕切られ、会話は備え付けの電話で行ないます。
椅子に座って待っていると、すぐに奥の部屋からビルさんが出てきました。意外と元気そうでしたが、一ヶ月のムショ暮らしで、ウンザリしている様子です。彼は私の顔を見るなり、
「おう、よく来てくれたなあ」と笑顔を見せてくれました。
取り引きの話は伝わっているようで、私が紙を見せながら販売価格や手付金、支払期日等を説明すると 、彼は、
「OK、OK、何でもいいから、早くお金を払って、ここから出してくれよ」とすぐに契約書にサインして親指を立て、
「とにかく早くしてくれよ」ともう一回付け加えました。
このときのビルさんは、少し苛ついてはいましたが、身体付きも表情も、以前と変わらなかったと思います。
「来週日本に帰ってお金を作り、すぐに戻ってきますから」
話もまとまり、ビルさんも元気そうだったので、私は安心してパトンビーチに戻り、帰国の準備に取り掛かりました。
「早く戻ってきて、お金を払い、登記を済ませたい。そうすればビルさんも釈放され、この話は一件落着だ」
ところが、日本から戻って、再び面会に行った時のビルさんは、前回のときとは様子が全く違っていました。そしてこの事件も、どんどん話が複雑になっていくのです。

この話 また続きます。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-21 13:06

お医者さまは神様です

「あれ? まだ9時半なのに、もう先生来ちゃってるぞ」
最近パトンビーチのカトゥー・ホスピタル(現パトン・ホスピタル)で、お医者さん達が、ちゃんと朝から働いているのを見ると ビックリさせられます。

この病院は、一応24時間の緊急医療体制完備と謳っていますが、シフトが無茶苦茶いい加減でした。お医者さん達は、一人8時間の3交代制の筈ですが、みんな大幅に遅刻出勤し、早々に仕事を切り上げ、早退していきますから、交代時間の前後4時間程の間は、誰もお医者さんがいない空白の時間が存在していました。
これがたまにならいいのですが、連日でしたから、どうして問題にならなかったのか不思議です。急病や大ケガするときも、時間を選んで、うまくタイミングを合わせて、運び込まれないと命を失うことになります。

私たち家族がプーケットに移り住んだ頃のことです。
ある夜寝ていたら、何の前触れもなく、
「寒い、物凄く寒い。どうしたんだ・・・?」
毛布に包まってガクガク震えていたら、しばらくして、今度は体が猛烈に熱くなり、汗が吹き出してきました。
「これは高熱が出ているな」
はっきりと自分でも分かる状態です。時間が真夜中でなかったら、すぐに医者に駆け込みましたが、とりあえず朝まで我慢することにしました。

翌朝、カトゥーホスピタルの実状をまだよく知らなかったわたしは、愚かにも朝一番の時間帯に合わせて行ってしまいました。病院では、わたしよりも先に5-6組の人が、すでに待っていました。
しかし、受け付けや看護婦さんたちは仕事を始めていますが、お医者さんが来ていないようで、待てども待てども、誰一人として名前を呼ばれません。この間、看護婦さんが熱を計ってくれましたが、体温計を見るなり彼女もビックリです。39度ありました。

2時間ほど待った10時過ぎ、ようやく最初の1人目が呼ばれ、診療開始です。さんざん待たされましたが、ひとたびスタートすると、順番の廻りは驚異的なスピードでした。一人60-90秒くらいでしょうか。秒の闘いですね。
診療が始まって5-6分で、すぐにわたしに順番が廻ってきました。診察室に通されると、メガネを掛けた、ちょっと性格のキツそうな女医さんが座っています。
「どうしました?」
わたしは下手なタイ語と英語を使って昨夜の状況を説明しました。わたしの説明も終わらないうちに、この先生は、あっさりと、こう言います。
「風邪ですね」
「うそだろう!? こんな風邪あるわけない」と思いましたが、プーケットで生活し始めて、まだ4-5ヶ月の頃でしたので、もしかしたら、タイの風邪は、こういう症状なのかもしれないと、これを認めてしまいました。本当にバカでした。
先生は、無駄に時間を喰っている場合じゃない、と思ったのか、もう一言、「注射打っときますか?」とわたしに尋ねます。わたしは、さんざん待って問診だけ、というのも空しいので、
「じゃあ、お願いします」と打ってもらう事にしました。
すぐに隣りの部屋に移され、わたしに対する先生の診察時間は終了です。この間、約60-70秒だったでしょうか。

このとき打たれた注射は強烈でした。
それまでの人生で打ってきた数々の注射が、土下座してしまう程のダントツでナンバー1の痛みです。打った場所がお尻だったためなのか、それとも注射自体が痛かったのか、打ち終わった後、看護婦さんに、「帰っていいですよ」と言われたのですが、余りの痛さに起き上がるのも、ひと苦労です。それでも、全身の力を絞り出すように立ち上がったわたしは、ヨレヨレの状態で診療室の外に出て行きました。KO寸前のボクサーのように、一歩一歩、物凄い、しかめっ面で、踏みしめるように歩くわたし・・・。
その時の、わたしの形相が余りにも壮絶だったようで、さっきまで一緒に順番待ちしていた白人のおじさんの、わたしを見るなり顔に出した驚愕の表情が、逆にわたしを驚かせました
(今の俺って、そんなに悲惨?)
きっと、このおじさんは、こう思っていたはずです。
「どうしたんだ、この日本人は・・・。ついさっきまで、ちゃんと歩いていたのに、どうして急にボロボロになっちゃったんだ。この病院、危ないんじゃないか!?」

病院で渡された薬を一週間ほど飲み続けましたが一向に良くなる気配はありません。当たり前ですね。風邪じゃないんですから。食欲はゼロ、というより何を食べても苦い味しかしません。水を飲んでも苦かったんです。
それより最悪だったのは、何かを考える事すら気だるいような脱力感でした。何も喋らず、ぼんやり座っているわたしに、女房のラントムが、とうとう怒りだしました。
「アナタ、いい加減にして。まるで半分死んでるみたい」
いい加減にして、と言われても、どうにもならないから仕方ありません。終いには、
「これは、きっとエイズに違いない」と病名まで決められてしまいました。

ラントムに追い立てられるように、翌日、わたしはカトゥーホスピタルに見切りをつけ、プーケットタウンのソムポット病院に行くことにしました。こんな状態になりながらもトゥクトゥク代150バーツ(当時)を節約するために自分でバイクを運転して行った、わたしのケチは筋金入りだと分かりました。

ソムポット病院では、それ程待たされることもなく順番がきました。
今度は男性の先生でしたが、問診したら、また、こう言います。
「風邪ですね」
今度は、わたしも間髪いれずに反論しました。
「先生、これは、ぜったいに、ゼッタイに、絶対に風邪ではありません。お願いですから血液検査して下さい」

指先にチクリと針を刺し、血液を採って30分ほど待つと、診察室に通されました。
「肺炎ですね。すぐ入院してください」
いい加減なヤツだ、と思いましたが、とりあえず入院すれば、ラントムに怒られずに済みますから、ちょっと安心しました。
3日間の入院で、随分楽になったわたしは、退院できましたが、その後、一ヶ月ほどは体調の悪さを、ずっと引きずっていました。かなりダメージを受けたようです。みなさんも、タイに限らず、具合が悪くなったときは、ある程度自分で病気の目星を付けてから医者に係らないと、とんでもない事になる場合がありますよ。

もし、わたしが吐血して意識を失い、全身痙攣で麻痺していたとしても、カトゥー・ホスピタルの女医さんなら、きっと、こう言うでしょう。
「風邪ですね」
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-20 12:35

母犬の愛情

インド洋津波発生直後、マヨム(長女、女房ラントムの連れ子)が一時行方不明になったときのラントムのうろたえようは尋常ではありませんでした。子供の様に泣きじゃくり、目からは涙がボロボロ流れてきます。
緊急事態の真っ只中でしたが、このときのラントムの様子を見て、私は、ふと、ある光景を思い出しました。

私がラントムと結婚し、始めて彼女の実家(ソンクララー州ラノット)に遊びにいったときの事です。
彼女の実家の前には、小さな水路が掘ってあり、その溝は道路の下に埋設された直径40センチほどの土管で家の反対側にある田んぼと繋がっていました。そして、この土管の中に野良犬が入り込み、そこで生まれたばかりの子犬たちと一緒に子育てしていました。ちょうど4月の終わり頃で、溝も、土管も、田んぼも、カラカラに干からびて、子犬を育てる場所としては、絶好のようにも見えましたが、雨が降ったらどうなるのでしょうか? 土管に水が流れ込み、母犬はともかく、子犬達は流されて死んでしまうでしょう。私はラントムに何度か注意したのですが、彼女は、
「大丈夫よ。雨が降っても母犬がなんとかするから。危ない時は、他の場所に移るのよ」と気にも留めてくれません。わたしは、
「ふーん、そんなもんですかねえ」と納得するより仕方ありませんでした。

するとその一週間後、やっぱり雨が降ってしまいました。しかも大雨です。
もう夜で外は真っ暗でしたが、子犬が心配になったわたしは、家の木戸(タイの田舎の家には ドアのない家が多く、夜は折りたたみ式の木戸を広げて戸締まりします)を開けて、土管を見に行きました。
外に出るや、耳に入ってきたのは、母犬の悲しげな鳴き声です。犬の親子が暮らしていた場所に目をやると、水路から流れ込む水が土管の入口を完全に水没させていました。
「クーン、クン、クン、クン、クーン・・・・」
悲鳴のような鳴き声をあげて、どうしたらよいのか分からず、オロオロして、土管の家側の口と田んぼ側の口を行ったり来たりしています。津波の時のラントムは、この時の母犬の姿にそっくりでした。

「中の子犬は大丈夫なのか?」
わたしは道路を渡り田んぼ側に回り込んでみました。反対側の土管の口からは、凄い勢いで水が流れ出して来ますが、暗くて、子犬がいるかどうかは、よく分かりません。
「ラントム、懐中電灯持ってきて!」
土管の周囲に灯りを当ててみると、子犬が2匹、残された力を振り絞って水が滝のように流れ落ちる田んぼ側の土手に牙と爪でしがみ付いていました。
「おお、いたぞー!」
母犬が育てていた子犬が全部で何匹いたのかは分かりませんが、救出した2匹を家の軒下まで運んでから、私は再び外に出て行きました。
田んぼに流れ込んだ水の深さは、足首のちょっと上くらいしかありませんでしたが、まだ歩くことも出来ない子犬が溺れ死ぬには充分の深さです。私は懐中電灯で照らしながら、田んぼの中を探しました。
すると、ぐったりと動かなくなった子犬を2匹、なんとか息だけはしている子犬を1匹発見し、また軒下に運びました。このとき母犬は、先ほど助けられた2匹にオッパイをやっており、子犬は目をつぶって、震えながら母犬の乳房に食いついていました。
新たに見つけてきた子犬を、その傍に置いてやると、母犬は自分の舌で、彼らの体をペロペロと舐め始めます。
「可哀相に・・・。子犬が死んだことを認めたくないんだな」

私は、再び田んぼに戻り、残された子犬がいないか隈なく捜してみましたが、これ以上は発見できませんでした。私は救出作業を打ち切り、また母犬の所に戻りました。
すると、驚いたことに、死んだと思っていた子犬たちが、生き返って、おかあさんのオッパイを美味しそうに飲んでいます。なんという生命力でしょう。母犬の愛情が子犬たちの消えかけた命を蘇らせたのかもしれません。
「犬のお母さん、子犬達を助けたのは、私なんですよ」
恩着せがましい顔で母犬を見ていた私ですが、母犬は別に感謝している様子もなく、子犬たちの体を自分の舌で舐め続けていました。この犬の前世は、ベドウィンかもしれません。

こうして、私がどしゃ降りの中で救出に成功した5匹の子犬たちですが、半年も経たないうちに車に跳ねられたり、病気になったりして、ほとんど死んでしまったそうです。近所に住んでいた小さな子供は、ちょっと大きくなってきた子犬を抱き上げたと思ったら、パッと手を離して地面に激突させて遊んでいました(なんて、ひどいことを!)。
そういえば以前、トラン(タイの南部)に住んでいた頃も、地元の人を相手に手長ザル(ギボン)の話をしたとき、会話がまったく噛み合いませんでした。
「ギボンは、絶滅の危機にあるんですよ」
「そうだな。最近、数が減ってきた」
「みんなで保護しないとダメですね」
「そうだ、明日みんなで獲りに行こう」
「絶滅したら、取り返しがつかないですから」
「そうだよ。食べるなら今のうちだ。そのうちいなくなっちゃうから」
田舎の人には動物愛護という言葉はないようですね。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-19 12:17

12.26

「この調子だと、来年はいよいよできるかもね」
わたしとラントムは、結婚して14年になりますが、まだ結婚式を挙げていません。これではいけないと思い、4年前本気で計画し、実行寸前までいったことがありましたが、そのときは突然の脱毛症が私を襲い、この計画はあえなくボツに。その翌年、ハゲは治ったものの、車を買い換えてしまい、また延期に。そして、来年こそは、と意気込んでいたのが、トップシーズン突入を直前に控えた、2004年12月、クリスマスの日の夜だったわけです。


<ミシミシミシミシミシ・・・・・・、ギシギシギシギシギシ・・・>
明けて26日の日曜日、朝8時頃、3階の寝床にいたわたしは、体に小さな揺れを感じました。
「これは地震か? いや、タイに地震なんかある筈はない。きっと自分の体が震えているだけだろう」と手や肩を触ってみましたが、わたしの体に異状はありません。隣に目をやると、ラントムも目を覚ましていました。
「これって地震だよねえ」
「そう思う。でも生まれて始めてよ、地震があったの」
日本の地震なら、20-30秒後に大きな揺れが襲ってきますが、それはなく、震度1くらいの微震がブルブルと続き、いつまでも止まりません。
なんとも薄気味悪い地震でしたが、数分後に、ようやく収まって、ほっと、ひと安心しました。いつもなら、この時間に目を覚ませば、もう起きてしまいますが、安堵のためか、わたしは、またウトウト始めてしまいます。

2時間後、まだ寝床にいたわたしの耳に、大きな怒鳴り声が聞こえてきました。うちの料理長の声です。他の人も何か慌てた様子で叫んでいます。わたしは、朝っぱらから誰かケンカでもしてるのか、それとも火事でもあったのか、と思っていたら、今度は2階からラントムの大きな声が聞こえてきました。
「パパ、大変、早く起きて!」
異状事態が起こっているようです。朝の地震、そしてこの大騒ぎ、5年前の占い師の大騒動、この3つが、わたしの頭の中で、瞬時にリンクされました。
「これは津波だ!」
慌てて飛び起きたわたしは、ベランダに走り、眼下の道路に目をやります。

ザザザザザザザザーッ、ドドドドドドドドーッ
まさに波が家のすぐ手前に差し掛かっていました。数ヶ月前、タウンの映画館で見た「デイ・アフター・トゥモロー」の津波シーン、あるいは以前、有名占い師が言っていた100mの大津波がわたしの頭に浮かんできます。そんな大きな波が襲ってきたら、屋上まで入れても10メートルそこそこのこのビルでは、ひとたまりもありません。家族全員、ここで死んでしまうのでしょうか。

「津波の高さはどれくらいなんだ・・・」
わたしは、ベランダから大きく身をのり出し、海の状態を確認しましたが、ビーチから沖合いにかけての様子では、それ程大きな波が後続しているようには見えません。
「よし、これなら3階にいれば大丈夫だ。しかし、子ども達は?」
わたしが下に降りようとしたら、子ども達がラントムと一緒に ドタドタと階段を駈け上がってきました。
「何人上がって来るのか?」
わたしは凍り付くような思いで、これを待ちます。
「神様、どうか全員上がってきますように・・・・」

最初は・・なおこでした。
「よし、1人OK」
次は・・・きよみです。
「2人OK」
あきおも来ました。ラントムのお母さんもいるし、どうやらみんな大丈夫。ラントムも同じように、ホッといている様子でした。
「いや、ちょっと待て!」
すぐに1人足りないことに気づきました。マヨム(長女・ラントムの連れ子)がいません。
マヨムは17歳で、もう体も大きく、大人という感覚でしたから、つい一瞬心配するのを忘れてしまったようです。
「ママ、マヨムどこよ」
わたしの一言に、ラントムの表情は、みるみる青ざめていきました。マヨムはスタッフの女の子と一緒に、一階の店舗を開けるのを手伝っていました。返事のないラントムに、
「マヨムは、下か?」と聞き直しましたが、ラントムは、オロオロ、ブルブルするばかりで、
「パァパァー・・・、 どっ、どーしよー、うっ うっ・・・う、えーん・・・」
言葉になりません。目からは涙がボロボロと流れ落ち、
「マヨムー、マヨム-ッ 、うっ、うっ、うー、えーん・・・・」
子供のように、何度もマヨムの名を、泣きながら叫びます。わたしがマヨムを探しに下に降りていくと、ラントムもついてきました。
「ママは、ここにいろ。心配するな、マヨムは俺が必ず探してくるから」

1階に降りてみると店内は予想通りグシャグシャです。しかし、予想に反して水位はそれ程高くありませんでした。わたしが3階から見ていた感じでは、1階は、とうの昔に水没し、2階も危ないと思っていましたが、階段を通って下まで簡単に降りることができました。店内に立ってみても、胸の辺りまでしか水はきていません。
「これなら大丈夫だ。必ず生きてる」
わたしは、「マヨーム、マヨムーう」と何度も大声で叫んでみました。しかし、返事がありません。
「外に流されてしまったのか・・・」
外を見ると、真茶色の水が激流となって、山の方向に流れていきます。この状態で店舗の外に出て行くのは、正直言って恐怖を感じましたが、あの子を失うわけにはいきません、絶対に・・・。ついさっき、ラントムと交わした約束も、わたしの頭に過ぎります。わたしは、倒れた試着ブースを乗り越え、ひっくり返った机や商品を掻き分け、店内をもがくように前進しました。
引きちぎられたように破壊されたシャッターに手を掛け、外に出ようとしたその時、上からラントムの声が聞こえてきました。
「パパ、マヨムいたよー。 マヨムは隣りにいる。隣りに逃げてた」
このときは、彼女も、ちゃんと言葉になっていました。マヨムは、隣りのレストランの2階に逃げ込んでいました。

海から内陸に向かって大河のように流れていた海水も、暫くすると、その動きもどうにか収まり、マヨムが隣から泳ぐように、こちらのビルに渡ってきました。こういう時は、やはり家族と一緒にいたかったのでしょう。
屋上まで上がってきたマヨムは、みんなの顔を見るなり、泣き出してしまいます。泣きながら、幼児のように、わたしに抱きついてきたマヨム。小さい時、父親の愛情に飢えていた、この子を抱いてやることができなかったわたしですが、この日ばかりは、自然にそれができたようです。

こうして家族全員の無事を確認できたわたしは、海に囲まれ、孤島のようになってしまったビルの屋上で、一旦は安心することができました。
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-18 12:34

楽園最後の誕生日

2002年12月末、
その年最後の補習校の授業が終わり、日本人会の会長でもある宮下校長が生徒達への訓示を兼ねて挨拶しました。例年だと、これが終われば解散ですが、このときは父兄の方達にだけ特別に話があるというので、皆残って校長の話を聞きました。
「今パトンビーチの病院で長期滞在の日本人男性が入院しています。この方はH.I.Vに感染され、もう歩くことは出来ません」
聞いていたわたしは、すぐにSさんのことだと分かりました。宮下会長の話は続きます。
「それだけでなく、下の世話も自分で出来ません。手で本を持つこともできません。しかも、彼は保険にも入っていません。貯金もありません。ビザも3ヶ月前に切れてオーバーステイになっています。入院の費用にも事欠いています。10日前にわたしの所に連絡がありました。日本の身寄りの方と連絡を取っているところですが返事がありません」
宮下会長の説明は、救いのないSさんの状況を、たんたんと箇条書きするように続いていきました。集まった人達も、シーンと静まり返って、じっとこれを聞いています。
「プーケットではありませんが、タイの南部には2ヶ所、エイズ患者を引き取ってくれるお寺があるそうです。タダというわけにはいきませんから、それなりのお金を御布施のようなかたちで渡そうと思っています。日本人会で出来ることは、彼のためにカンパを集めることくらいしかありません」

3日前の12月26日、わたしは意を決して、病院にSさんを見舞いましたが、一言も喋ることが出来ず、逃げるように帰ってきたばかりでした。
宮下会長の話が終わった後、わたしは、Sさんの今後について聞いてみました。
「本当に困ってるんだ。可哀相なのは分かるんだけど、我々で何時までも面倒みるわけにもいかないしなあ。この病気は、どれくらい生きられるのか、はっきりしないみたいなんだ。すぐかもしれないし、2年、3年もつ場合もあるし・・」
要するにSさんは、近いうちに姥捨て山のような、その寺に捨てられてしまうようです。

Sさんは日本にいた頃、テレビ番組の制作会社で働いていました。パタヤに旅行で行ったとき知り合ったタイ人女性と入籍し、日本で一緒に暮らしていましたが、奥さんは、その後、病気で亡くなってしまいます。奥さんの死後、Sさんがどういう経緯でタイに来たかは分かりませんが、この時、何らかのトラブルが彼の肉親との間にあったようで、日本大使館が連絡を取ろうとしたときも、門前払いに近い状態だったようです。

わたしは、暗い気持を引きずりながら12月31日を迎えました。大晦日の夜は、プーケットの大きなホテルは、どこもニューイヤーズパーティーを盛大に行ないます。毎日のように食べに来てくれる常連のお客さんも、この日ばかりは外食せず、パーティーに参加しますから、うちのような飲食店は、どこも商売になりません。8時を過ぎると、人通りも少なくなってきました。
わたしは、閉店時間を待たずに従業員と酒を飲み始めていましたが、飲みながら、昨年の大晦日の事を思い出しました。うちで働いていた日本人のコックさんが12月31日の夜、仕事が終わった後に、「これからSさんの誕生パーティーに行ってきます」と言っていたのです。
彼の誕生日が12月31日なのか、1月1日なのかは、はっきりしませんでしたが、たった一人、病院で迎える誕生日は、さぞ辛かろう、と思ったわたしは、酒の勢いもあって、もう一度Sさんを見舞いに行こうと突然思いたちました。時計の針は、既に9時を廻っています。昼間でも怖じ気づいていたのに、Sさんのベッドに、夜行こうだなんて、シラフなら絶対に考えなかったでしょう。

再びカトゥーホスピタル新館です。
ぐずぐずしていると、また恐くなると思ったわたしは、入口から一気にSさんのベッドまで早足に歩いていきました。近づいていくと、Sさんの手が動いているのが分かります。彼は起きています。わたしはベッドにたどり着くや、おもむろに、
「Sさん、誕生日おめでとうございます」
と声を掛けました。
「分かりますか? 西岡です。今日はSさんの誕生日なんでしょ?」

取り留めのない世間話をした後、わたしはSさんに、「何か食べたい物 ありますか?」と聞いてみました。
彼は、「ホコヘーホ(チョコレート)が食べたい」と言います。Sさんの中枢神経は、既にやられていたようで、呂律がうまく廻りません。これは末期のエイズ患者特有の症状だそうです。
わたしは、すぐに外に出て、近くのコンビニで、普段なら絶対に買わないような、高くて美味しそうなチョコレートを2-3枚選んで病院に戻りました。
外袋を破り、チョコの頭を出して渡すと、Sさんは、力ない手でこれを掴み、自分の口に入れました。しかし、ナッツ入りのチョコを噛み砕くのは、今の彼にとっては大変な作業のようです。もごもごと、必死で口を動かすSさんの姿を見て、わたしは、もっと柔らかいものを選べば良かったと後悔しました。

「他に何かありますか?」
わたしが尋ねると彼は、
「ハバホ(タバコ)が吸いたい」と言います。病室ですから当然禁煙ですが、彼は引き出しの中にタバコを隠し持っていて、ときどき吸っているようでした。わたしは、箱から一本取り出し、彼の口に咥えさせてライターの火を近づけます。しかし、彼にはもう、息を深く吸い込んで、タバコに火を点ける力が残っていませんでした。わたしはもう一本タバコを取り出し、自分で吸い込んで火を点けた後、これをSさんの口に咥えさせました。看護婦さんに見つかれば、大目玉を食らいますが、わたしは気にしませんでした。明日死ぬかもしれないSさんです。せめて最後に、タバコくらい吸わせてやってください、そんな思いでした。Sさんがタバコを吸い終わるのを待って、わたしは病院を後にしました。

お店に戻ると、みんな、もうすっかり出来上がっていました。わたしも参加し、大晦日の夜恒例の花火大会をみんなで楽しみました。Sさんの状態を見た後ですから、家族全員元気に新年を迎えられる幸せを改めて感じます。わたしは、ここ3-4週間、ずっと気になっていたSさんの見舞いを年の最後でようやく果たし、ちょっと気が楽になって、この夜は遅くまでビールを飲み続けていました。

この項 続きます
[PR]
by phuketbreakpoint | 2005-10-17 19:06