タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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<   2005年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧

カニ獲りで 燃えた日々

「あきおー、なおこー、マヨムー、準備はいいかー。 じゃあ、ママ、後ろに乗って」
バイクを吹かして出発進行!目指すは島の最南端ラワイビーチ。

あきお(長男)と なおこ(次女)が小さい時はよく行きました。
しかも、あの頃は車がなかったのでバイクの5人乗りです。(末娘のきよみは、まだ生まれていませんでした)
何処に行くのも、いつも5人乗りで、こんな姿を見掛けた、どこかの大金持ちのフォラン(白人)が同情して小さな車をプレゼントしてくれるんじゃないかと期待していたんですが結局 誰も買ってくれませんでした。世間は冷たいもんですねえ・・・。

ラワイに着いたら午後3時をちょっとまわったところです。
もう潮が引いていて、岩場や珊瑚、珊瑚の残骸なんかが海面から現われ出ていました。ちょうどいい時間のようですね。
「日に焼けて黒くなるのはイヤ」というラントムを残し、わたしは子ども達と海に入って行きます。小さな岩を一つ一つ、ひっくり返していくと、中から出て来る、出て来る、いろんな生き物。

まず宇宙怪獣を小さくしたようなクモヒトデがわれわれを「いらっしゃいませ」と お出迎えです。その後方では、小さなカニたちがビックリ仰天、カニなのに、クモの子散らして逃げていきます。
僅かに残された海水の中でイソギンチャクがゆらゆら。
その傍で真っ黒なトゲトゲ発見。
「おっ ウニだ!」
タダで食べ放題、いいんですか、なんて最初は喜んでいましたが、中を割ってみると身がほとんどありません。ガッカリです。

「あきおー、変なのいるぞー」
白黒のシマシマがニョロニョロと・・。海ヘビかと思いましたが、よく見ると顔は魚です。どうやらウツボのようですね。ウナギのようにも見えたので期待して食べてみましたが最悪でした。
でも、こいつの歯は危険なんですよ。一度噛まれて大流血しましたが、ラントムは海ヘビだと思ったようで 「パパが死んじゃう」と、うろたえていました。

となりでタイ人のお兄ちゃんが二人、針金を穴に突っ込んで何か採っています。ヌルヌルしたのが穴から引っ張り出されてきました。
これはタコですね。一匹もらって、タコ焼き作って食べてみましたが一応 タコの味はしていました。

<バリバリ、バリバリッ>
これは何の音?
サンゴ踏む音。
「こらー、マヨム。それ踏んじゃあ駄目、怒られるぞー」

そうこうしてたら、もう我慢できなくなったのかラントムが日焼けの危険を犯して追走してきました。きっと野生の血が騒いだんでしょう。
「おお、ママか。ちょうどいいところに来てくれた。ここに何かいるんだ。手伝ってくれ」
岩場の穴の中で何か動いています。どうも魚のようですが体長20センチくらいありそうです。大きな岩でしたが二人で気合入れて、ひっくり返しました。こういうときの二人の息はピッタリです。似た者夫婦なんでしょう。
「おっ、これは・・」
ハリセンボンです。フグのように膨れたと思ったら針がいっぱい突き出てきました。怒ってないときはヘリコプターみたいに泳いで実に可愛い。

だんだん調子が出てきました。もっと沖に出てみましょう。
<のっし、のっし>
これは象さんじゃないですよ。大やどかり、いや、それともヤシガニ?
こっちにいるのはサザエですか。コケのようなものが、いっぱいくっついていて何かあまりうまそうじゃありません。
さっきから、獲る、獲らない、の基準は、食べてうまいか、うまくないか、だけなのが自分でもちょっと気になります。そういえば、ラントムを初めて日本の動物園に連れて行ったときのことです。そこにいた小さなヤギを見て、他の人たちはみんな、「可愛いー!」という無難な形容詞を使っていましたが、その横で彼女一人、「これ美味しいのよ」と素敵な感想を聞かせてくれました。

でも、このサザエ、見てくれが悪いわりには本当にサザエの味がします。珍しく大当たり。これに反して、ムール貝を巨大にしたような黒い貝は、図体がデカイので獲ったときは、みんなで大喜びしましたが気持ち悪くて、ぜんぜん食べられません。

やっぱり、食べるなら、ラワイの王者ギザガニですね。胴のわきがギザギザしてるから、わたしは、こいつを勝手にギザガニと呼んでいますが、パッポンカレーの中に無理矢理入れちゃうと一応食べられます。

おや、そこの岩陰から、のこのこ出て来てしまったのは、さっき、わたしが獲り逃がしたギザガニくんじゃあないですか。
「せっかく、逃げのびたのに、油断しちゃったんだな・・・」
でも、そういう間抜けなところが自分に似ているようで可哀相になってきました。今日は見逃してやりましょう。
「ギザカニくん、勝負は、また次の機会につけようじゃないか!」

するとラントムが遥か前方で怒鳴っています。いつの間に、あんなところまで進出したんでしょう。彼女もやる気満々ですね。
「パパー! カン(シャコ)いたよー!」
浅瀬にいるシャコは、10センチにも満たない小さなヤツですが、何故かこいつを見つけると、うちの家族は、みんな燃えてきます。他の獲物をほったらかしにしても、こいつを追いかけてしまうのです。
「パパ、早く、早くー!」
子ども達も、わたしを呼んでいます。こういうときの父親は、子供にとって最も頼りになる存在なんでしょう。
「はい、はい、パパに、まかせなさい」

「あきおと なおこは、ここに立って、ディフェンス」
「マヨムは、その反対側を塞いどいて」
「パパは、ここで待ち構えてるから、ママは、そっちから追い込んできて」
こういうときの、わたしの指示は、迅速かつ的確です。この見事な指揮がどうして自分のレストランでは出来ないのでしょう。
しかし、シャコは、のらりくらりと逃げ回ります。
「シャコさん、無駄な抵抗はやめて、もう、いい加減に捕まってくださいよ。わたしも、だんだん疲れてきました」

ようやくシャコを捕まえたら、マヨムがまた何か見つけたようです。
ゴツゴツした、いかめしい面構えは、オニオコゼです。でも、さすがラントム、動きが遅いので一発で捕まえてしまいました。ところが、ポクッと指に一撃され、さあ大変。指先から手の平へ、痺れが広がってきて大騒ぎです。何事も大袈裟なラントムは、死んでしまうんじゃないか、と心配させるような状態で息も荒くなってきました。
「こりゃあ、カニ獲りなんて、やってる場合じゃないぞ。早く医者に連れて行かなきゃ」
しかし、その2時間後、獲ってきたカニを自分で炒め、何事もなかったかのように夕食を食べるラントムの姿がありました。まさに野生児、カントリーガールの魅力爆発です。

プーケットの夕日の中で、マヨム、あきお、なおこ、ラントムが創りだすシルエットは、きらきらと輝いていて ほんわかとした幸せを、わたしに感じさせてくれました。
わたしのとって、宝物のように大切な思い出の一つです。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-29 03:51

ハービー熱唱 感動の夜

津波直後の混乱も収まり、清掃作業もようやく一段落ついた2月上旬、パトンビーチでもポツリ、ポツリと、ビーチ近辺のお店が再開し始めました。わたしが経営するお土産屋・サウスロードも5日から営業を始めています。
しかし 、ブレイクポイント(サウスロードの隣でわたしが経営するレストラン)は復旧工事が長引き、再オープンの日程は未定のままでした。

人通りは疎らで、再開したお店は、どこも閑古鳥が鳴いています。急いでオープンしたところで赤字必死ですから、わたしはブレイクポイントの再開には、二の足を踏んでいました。マイペースで工事を進め、終わった時点で日程を決めればいいか・・・、そう考えていたのです。
心に受けた痛手は、まだ癒えることはなく、お土産屋の売り上げもサッパリで、貯金を食い潰す日々が続いていました。入ってくるお金はほんの僅か、それに反して、修理代やら、何やらで毎日お金がどんどん出ていってしまいます。自然とわたしの気分も塞ぎがちとなっていました。

そんなある日、日本人会の役員・正美さんが一枚のチラシを置いていってくれました。「2月13日 復興支援コンサート 」と書いてあります。まだまだコンサートを楽しむなんて気分にはなれませんでしたが、場所がうちから歩いて2-3分のバングラーロードだったこと、ハービー・トンプソンズ・ジャズ(大阪で活躍しているそうです)という名前がなんとなくカッコ良かったこと、ヴォーカルのハービーが黒人だったこと等から、わたしも行く気になってきました。

当日の夕方、「私は行かない」と 言っていた女房のラントムを、もう一回誘ってみます。
「ママも一緒にどう? どうせ、お店見てたって、お客さんいないし・・・」
いつもは強気で楽天的な彼女も、さすがに精神的なダメージは大きかったようです。未だに夜外出するのを怖がっていました。
ラントムの気持ちも分かります。実際 ビーチロードは真っ暗で、ほとんど人は歩いてないんですから。
「パパ、子ども達と行って来て。わたしは店番してるから。もしかしたら売れるかもしれないし・・・」
そう言う彼女を残し、わたしは子ども達4人とバングラーロードに向かいました。

バングラーロードに入ると、そこに並ぶバーや商店は、ほとんど営業していて津波の傷痕を感じさせません。人通りも意外なほど多く、活気があります。ここだけ見ていると津波以降閑散としていたプーケットが嘘のようです。
歩いていくと、ソイの一番奥にステージは設置されていました。空いている席に子ども達と座ろうとしたら、その傍に日本人会会長の宮下さん、ナイトクラブ経営者の矢野さん、ダイブショップオーナーの泰志郎さんらが立っていました。わたしの姿を見つけて矢野さんが、まるで葬儀のスピーチのような、かしこまった口調で挨拶してくれました。わたしは軽いジョークで対応しようと思っていたのですが、それを聞いたら、何だか言葉に詰ってしまいます。

席に付いて周りを見渡してみると、おやおや見慣れた顔がいっぱいです。道路脇の仮設カウンターでは、パトンビーチでツアー会社を経営する品川さんが例によって、幸せいっぱい、といった顔で美味しそうにビールを飲んでいました。その前方ではプーケットの復興状況をサイトで紹介し続けているウイリーさんや正子さんが写真を撮っています。
あっ、あれは、うちの常連客でイタリア人のアルベルトさん御夫婦じゃないですか。一月に帰ったはずなのに、また戻ってきちゃったみたいですね。ドイツ人のカールさん御夫婦もいます。11月末から滞在していたのに、まだ帰ってなかったんでしょうか。この他にも何人かの常連のお客さんや補習校の人達の姿も見えました。久しぶりに見たみんなの顔で、わたしの気分も、だんだんほぐれてくるのが自分でも分かります。

そして壇上に司会が上がり、いよいよコンサートがスタート、ハービーバンドの登場です。バンドといっても、ヴォーカルのハービーとサックスのポールの二人だけ。おまけに伴奏はテープです。それでもガッカリしなかったのは、ハービーが発する独特の雰囲気と歌唱力、ポールのサックスも抜群にいい音を出しており、ジャズのスタンダードナンバーの中にポップな曲も混じっていて、ぐっと惹き込まれます。なかなか、うまい構成ですね。

そして5曲目あたりに「アンチェインドメドレー」。なんて素敵な曲なんでしょう。苦しかった一ヶ月半の日々が洗い流されるような優しいメロディーラインにハービーの黒人独特のネバっとしたヴォーカルが重なって白人観光客たちも聞き惚れています。
間奏に入り、思わず瞼を閉じてしまいそうなポールのサックスソロ。星が無数に輝くパトンビーチの夜空に、スーっと沁み込んで行くような甘いサックスの音色がわたしの心に残された厚い雨雲をとかしていくようでした。

このまま、いつまでも、いつまでも、ずーっと聞いていたかったけれど、ハービーバンドは予定された10曲ほどを歌い終えてステージを降りていきました。空しい清掃作業やビジネスの再開といった雑事から離れ、久しぶりにプライベートな娯楽の時間が持てたことに満足して私は家路に就きました。やっぱり、こういうときはエンターテイメントです。

混雑するバングラーロードも海に近づくにつれて、その人通りは、まばらになってきます。ビーチロードにぶつかるT字路を左に曲がると トゥクトゥクが何台か客を拾うために駐車していましたが、そこから先はバナナディスコが一軒オープンしているだけの真っ暗闇でした。今現在のパトンビーチの姿が、わたしの前に容赦無く現われてきます。以前の活気のあるビーチロードを思うと信じられないほどの惨状でした。
いきなり現実に引き戻されてしまったわたしは、ちょっと憂うつな気分になりましたが、それでも2時間前、ここを通ったときには感じなかった、小さな灯りが心の中にポッと灯っているような、そんな心地よい気持ちに代わっていきました。
ソイに入ると、お客さんもほとんどいないのに白人経営のレストラン・ハーリーやオールドダッチが暗闇の中で灯りをこうこうと照らして営業しています。彼らは本当にタフですね。

お店に戻るとラントムが一人ポツンと座って店番していました。彼女を残して行ってしまったことに軽い後悔を感じます。
「どう 売れた?」わたしが聞くと、
「ぜんぜんダメだった」という答えが返ってきました。話しながら、わたしは隣のブレイクポイントに目を向けます。 誰もいない、真っ暗なお店が、黙ってこちらを見ているようでした。
  ラントムがカウンターでドリンクを作っている。
  そこに子供たちがアイスクリームをせびりにやって来る。
  お店の裏では、またラントムのお父さんがお母さんに怒られている。
  厨房からは、料理長の大きな声が聞こえてくる。
  ホールの女の子が常連客と冗談を言い合っている。
そんな、ありふれた毎日がなんだかとっても懐かしい。大損くらったそのすぐ後で、さらにマイナスが出たらどうしようと、ずいぶん、しみったれたことを考えていましたが、やはりブレイクポイントのない生活は、わたしには考えられません。

静かに眠るこのお店に、もう一度命を灯してやりたい。うまくいくか、どうかなんて、やってみなければわかりません。多少赤字が出たとしても、それで、すべてがパーになるわけでもなし、貯金が減るといったって、それはすべて、この南の島で稼いだお金なんですから、どーってことはありません。だって、わたしにはまだ、一番大切なものが無傷でそのまんま残っているんですから。

「おーっし、明日から工事、気合入れてくぞー。マヨムも、なおこも、あきおも、きよみも、お父さんも、お母さんも、みんな、パパとママを手伝ってくれよー。来月から、みんなで、また頑張って、お店をやろう!」

いつもは津波のトラウマで熟睡できなかったわたしですが、この夜はハービーバンドのステージが頭から離れず、興奮してなかなか眠りに付くことができませんでした。

ハービーさん、ポールさん、素晴らしい曲をありがとう。
わたしは、やっぱり、これからも、プーケットで生きていきます。




ハービーの熱唱に 心が熱く
ポールのサックスに 目蓋をとじる

ビーチロードの暗闇に 心が沈み
オールドダッチの灯りに 勇気づけられる

工事はそろそろ 終わるけれど
人の歩く 姿はなし

準備はいつでも 整うけれど
やっていける 自信もなし

いつも お店で 泥まみれ
あれが壊れた これがない
おまけに ほとんど 錆だらけ

毎日 毎日 くたくたで
毎日 毎日 物入りだ
さすがに ちょっと 辛くなる

それでも 夢見る 青い空
もう一度 みんなで 青い海

横を見れば ラントムが
わたしの 右手を つかんでる

横を見れば 子供たちが
わたしの 左手 つかんでる

わたしが愛する この島で
みんなと一緒に 暮らしたい

ずっとずっと いつまでも
暮らしていたい この島で!
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by phuketbreakpoint | 2005-09-26 13:10

塀の中の話

みなさんは、刑務所に入ったことはありますか?
刑務所は、何処の国でも、罰を与え、反省させるためにあるわけですから、そこに入れられている人たちにとって居心地がよくないのは当たり前です。でも、タイの刑務所は、本当に辛いみたいですよ。わたしも、タイのムショの辛さは、よーく分かりました。いや、わたしが収監されていたわけじゃないんです。面会です。

危うく入れられそうになったことはあります。
トランにいた頃、夫婦喧嘩で女房のラントムに、殺虫剤のスプレーで頭をかち割られ(今でもこの時の傷が後頭部に残っています)、逆上し、とっさに彼女の足をとって、必殺の足四の字固めを炸裂させてしまいました。「デストロイヤー、怒りの大逆襲」といった気分だったのですが、これがとんだ大間違いでした。やはり、タイ人相手に関節ワザは、まずかったようです。
今まで経験したことのない痛め技に殴られた以上の怒りが彼女を襲いました。その足ですぐ警察に向かったようで、しばらくすると自動小銃を持った完全武装の警官が8人 、ピックアップトラック2台に分乗し、うちに乗り込んで来ました(うちの奥さん、警察でどんな説明したんでしょうか・・・)。予想外の展開に、わたしは、もう真っ青です。
「あわわ・・ 大変だ・・」
署に連行され、始末書のような物を書いて許してもらいましたが、やって来た警官の中にホモがいて、連行される途中、車の中で 「奥さんと別れるなら一緒に住もう」と言いながら、ずっと、わたしの手を握っていました。
(すいません。わたし今、そういう心境じゃないんですが・・・)


ラントムの兄トゥアンが20代後半の頃の話です。仕事もしないでブラブラしていたのは今と同じですが、ブラブラ仲間の友人たちと強盗事件を起こしてしまい、拘置所に入ることになりました。場所は、タイ有数の犯罪都市ナコンシータマラートです。街の中心地にある市役所と隣接した変なロケーションでした。
この拘置所、今思い出しても、仕切りがあったという記憶がありません。どこまでが役所で、どこからが拘置所なのか分からない不思議な構造になっています。
中に入ると面会者が大勢いて大変な賑わいでした。みんな楽しそうに、お弁当を食べたり、寛いだりしていましたが、雰囲気としては動物園に似ています。
中の造りも実にいい加減で、囚人の入れられた檻が外から丸見えになっています。囚人服(注、シマシマではありません)を着せられた囚人達が中でのんびり、ゴロゴロと暇そうにしており、それを面会に来た人達が外から見ていて、これでは本当に動物園ですね。

囚人の一人が家族と話しながら面白そうに自分の足を指差して何か喋っていましたから目をやると、彼の足には鉄枠と鎖が付けられていました。「こんなの付けられちゃったよー」なんて言っているのでしょうか。やっぱり、ここは罪人を収容する場所なんだなあ、と改めて感じたわたしですが、さらに、よく見ると、鎖の先には丸い大きな鉄球が付けられています。マンガのような光景でしたが、わたしは、かなり引きつりました。
しかし、ここは拘置所です。まだまだ甘い世界でした。

一年後、判決が下りて刑期が確定しましたが、なんと強盗傷害で20年も打たれてしまいました。泣いて悲しむラントムのお母さん。みなさんも、子どもを甘やかせてると後で泣く事になりますよ。
そして、家族総出で、またナコンシータマラートに行くことになりました。しかし、今度は刑務所です。ここは街の外れにポツンと建てられた施設で、建物もいかにも、それっぽい外観をしていました。隣りが受け付け兼売店になっていて、そこで差し入れ用のお菓子や日用品を買えるようになっています。商品を選んでカウンターでお金を払うと、お店の人が袋に入れて奥に持っていきます。後で囚人に渡す、ということになっているのですが、本当に渡しているのでしょうか。

売店の脇にある椅子に座って一時間ほど待つとアナウンスが入り、名前を呼ばれた人が正門の前に集合しました。約10組が呼ばれましたが、すぐには中に入れてもらえません。そこでまた時間調整です。ここは、ただの門外といった所で屋根も椅子もなく、ボサっと立って待たされました。すると突然雨が降り始め、みんな、びしょ濡れです。それでも中に入れてくれません。どうやら囚人だけでなく 、その家族も罪人扱いのようですね。
20分程して、ようやく中に入ったら、ここでも更に時間待ちでした。一応屋根は付いていましたが椅子は、わずかしかありません。なんだか東京ディズニーランドのアトラクション待ちを過酷にしたようなシステムです。

やっとのことで面会になりました。拘置所のときと、うって変わって、みんなピリピリしています。看守達は、みな恐そうな顔をして、手には、こん棒のようなものを持っていました。トゥアンも、看守と話すときは直立不動です。うかつに逆らうと、すぐに、こん棒が飛んでくるであろうことは容易に想像がつきました。頭部に直撃を受けて絶命した人もいるそうです。
今日は面会者が少ないようで特別に2回分(1回10分)の許可をもらいました。両者の間は、間隔をおいた2枚の金網で仕切られています。

久しぶりに会ったトゥアンは、元気そうでした。トゥアンの娘達(当時小学校低学年)が金網ごしに 「お父さーん」なんて声をかけていたのが痛々しく思い出されます。わたしが1歳になったばかりの、あきおとなおこを紹介したら、トゥアンはニッコリ笑って、こう言いました。
「おじさんみたいになったらダメだぞー。いい子になれ」
そして、「来年には出られそうだ」と言っていましたが、この「来年」は、毎年続き、結局出所できたのは6年半後の2000年7月でした。

8年間の服役後、仮シャクで出所してきた トゥアン。本当に、長いお勤めになってしまったものです。そのトゥアンと入れ替わるように、ある事件によって一人の外国人がタイの刑務所に入れられてしまいました。わたしがタイのムショの本当の怖さを知ったのは、実はこの事件のときだったのです。

この話 続く予定です。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-23 02:26

雨 あめ 降れ ふれ

「まだかなあ・・・」
「すぐ来るって、言ってたけど・・・」
八月のある日、私はラントムと二人で給水車を待っていました。

パトンビーチは、ここ数年急激に増えた店舗やホテルに追いつくことができないのか、水不足がかなり深刻になってきました。しかも、今年は雨季だというのに雨がほとんど降らず、今日でもう一週間水道が止まったままです。うちのようにレストランやホテルをやっているところは、水なしでは営業できませんから、業者に電話して、給水車で水を持ってきてもらうことになります。
水代、一回1台800バーツ。給水会社は睡眠時間もないほどの大忙しで、嬉しい悲鳴をあげていますが、どうも不自然に感じるときがあります。毎年、お正月になると、どういうわけか水道が止まり、お正月が終わると、また何事もなかったかのように水が流れてきたり、貯水池には水がいっぱいあるのに、突然4日間水が来なくなったり・・・。水道局が業者とつるんでいるという噂もありますが、真意の程はハッキリしません。いずれにしても、早く雨に降ってもらわなければ、落ちついて眠ることもできません。


私は10年前、プーケットから300キロほど離れたトラン県で、ゴムのプランテーションを営んでいました。
かつてプーケットの主要産業といえば、ゴムとスズでしたが、今やゴムの方は死滅寸前の産業といえます。だいたい、リゾート地プーケットで、こんな原始的な作業をやろうと思う奇特な人は、そうはいません。追い追いミヤンマー人のように、低賃金での肉体労働を厭わない人達に限定されてきてしまいます。ミヤンマー人はタイ人と比べ勤勉という話もありますが、お金に対する執着心が強いのでしょう。彼らは、もらえるタイバーツを自分たちの通貨に頭の中でエクスチェンジしながら、それを活力に頑張っているのかもしれません。
ただ、その辺でウロチョロしている犬を勝手に食べてしまうのは、やめてほしい思います。ラントムのお兄さん夫婦が田舎から連れてきた犬が、先月から行方不明なんですけど。

ゴムの生産は、すべて手作業で、何から何まで人間がやらねばなりません。
真夜中の1時頃、ゴムの木一本一本に特製のナイフでキズを入れ、その傷から湧き出てくる真っ白な樹液を小さな壷で受け、それを翌朝、一つ一つバケツに入れて回収していきます。ネバネバした原液は、放っておくと固まってしまいますが、この中に、さらに凝固剤を入れ、ある程度固まったところで、薄く延ばして乾燥させ、町の問屋に持っていって売ることになります。その日のゴム相場の変動によって卸値が変わり、売り上げは、地主の私が小作人と6-4で分けていました。

ゴム園業の一番大きな特徴は、雨が降ったら、作業ができないことでしょう。木の幹が濡れてしまうと樹液が滲んでしまい、回収できなくなるからです。トラン県では、いったん雨が降り始めると、最低1週間は続き、その間作業は完全にストップしてしまいますが、雨季の間にまとまった量の雨が降らないと、乾季になっても樹液があまり出ません。ゴムの生産は、天候と非常に密接な関係にあるといえるでしょう。

トランはプーケットと同じ南部にあり、季節の変化もほぼ同じです。毎年、5月から11月頃までは雨季で、12月から乾季に入り、ゴムのシーズンが始まりますが、2月中旬ごろから葉っぱが散り始め、2-3ヶ月作業を中断せねばなりません。二ヶ月勝負というのも、プーケットの観光業と同じで、普通なら、この期間に可能な限り稼いでおこうと考えるはずですが、そう思わないのが田舎の人の凄いところです。10日ごとの休みは仕方ないとして、それ以外にも、何かしらの理由を見つけては、すぐに休もうとします。

まず12月5日、父の日と呼ばれる国王の誕生日。
突然、愛国に目覚めたのか、誰かが「誕生日を祝おう」と言い出して作業が中断します。中断中は、酒やバクチ、あるいは、その両方ということになりますが、この間、国王陛下の話題は、ほとんど出ないのは言うまでもありません。クリスマスは関係ないようですが、1月1日は当然のように中断。そして中国人でもないのに中国正月(旧正月)まで祝おうとします。正月は、どっちか一つ選んでください、お願いします。

そうこうしているうちに、1月の末ごろから、ゴム林に落ち葉の舞い散る季節が訪れ、みんな、「待ってました」とばかり休みに入っていきます。
「うちは、まだ葉っぱが残ってるだろう」なんて言ってもムダですね。小作人たちは林の状態なんか関係ないとでも言いた気に、
「テープさんが 休みにはいった」
「その向かいのレックさんも」
そんな話を聞こえよがしにしてきます。小学生が「友達の山田君も持ってるんだよ」という理由で親におねだりしているのと同じですね。

そして2月も中旬になると、本当に作業ができなくなってしまい、ここから2ヶ月以上の長い休みに入ります。みんな大喜びで、はしゃいでいますが、
「ちょっと待って。あなたは、もう充分に休んでいるでしょ」
そう言いたくなる人も、一緒に喜んでいます。

5月に入り、ポツリ、ポツリと雨が降り始めると、葉っぱもようやく生え揃い作業再開となります。待ちに待った再スタートですが、6月、7月とますます雨量は増えていき、一ヶ月の間で作業できる日は、少ない月で9-10日くらいになってしまいます。
ところが、この9日を休んでしまう人がいるから恐ろしい。その理由は博打や酒 といった身も蓋もないもの以外にも、「女房とケンカしたから・・・」という仕事や娯楽とは関係のないものも入っていたりします。先月、私も同じ理由で一日サボってしまいましたから、気持ちはわかるんですが、後で「お金が無くなった」といっては借りに来ないでください。これもお願いしときます。

日本国や欧米先進国では、真面目に働かない人は、最後は食べ物に困って野垂れ死にする定めになっているはずです。イソップ物語でも、そうでした。
しかし、タイのキリギリスは、そんなに簡単には死にませんよ。少なくとも南部に限れば、周りに食べ物はいっぱいあって、飢え死にすることはありません。海に行けば魚介類が、山に入れば果物や野菜がいつでも手に入ります。お腹が空いたときに、ちょっとだけ働けばいいわけですね。実際、私の林の近所でも、何もやらないでブラブラしているキリギリスは大勢いました。それでも、冬は絶対にきませんから路頭に迷うこともありません。

さらに言えば、たとえキリギリスが路頭に迷ったとしても、この国のアリは、ちゃんと食べ物を恵んでくれるのです。
「どうしようもない奴だけど、可哀想だから、助けてやるか」
困っている怠け者を吹雪の中に叩き出すような無慈悲な仕打ちはできません。なんと太っぱらな人たちなんでしょう。タイは、本当に心の豊かな国なんですね。

ゴム園をやっている間、私は田舎の人たちの考え方や天候に、ずっと振り回されていましたが、どちらも打つ手がない、という点では、まったく同じでした。自然環境とその中で生きてきた人たちに逆らってはいけません。あの頃は、せめて作業のできる9日間を少しでも増やすことはできないものかと足掻いていましたが、すべて無駄なことでした。
「あーあ、きょうも雨か・・・・・」
自然相手に怒るわけにもいかず、また人間相手に腹を立てるよりは、はるかに精神的にも楽でしたから、私はよく1人で、ぼんやりと雨空を眺めていたものです。トランでの日々は、私にタイでの暮らし方や、タイ人と、どうやって付き合っていけばよいかを教えてくれたような気がします。


どうやら、給水車が来たようです。
やれやれと思っていたら、しばらくすると、雨も降り出しました。この調子で4、5日降り続けば、カトゥーの貯水池にも水が溜まるでしょう。これで、ひと安心です。
ところが、ふと横を見ると、きよみが何かやっています。
「きよみ、なに作ってるの?」
「てるてる坊主」
「てるてる・・・!? ダメだよ、そんなもん作っちゃあ。せっかくの雨が止んじゃったら、どうするの」
明日、友達と遊びに行く約束をしているようですね。とやかく言うのは止めましょう。雨が降れば、水不足は解消される。降らなければ、きよみは遊びに行ける。結局、どちらでも、いいんでしょう。
<雨、あめ、降れ、ふれ、かあさんと・・・・>
子供の頃、母と歌った、あの歌を、今日はきよみと歌います。そして、てるてる坊主がぶら下がる軒下で、私は、また雨空を見上げていました。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-19 01:45

一休さんが やって来た

「オーッス」
久しぶりに一休さんが来たようです。
この人が私の前に現れるときは初対面のときからいつも、この掛け声と共にやって来ました。そして必ず「ダマされたー」というセリフが続きます。
わたしは 、やれやれ・・・、という感じで、「またですかー」とお約束の返事を返すわけですが、ほんとに、これで何回目なんでしょう。

一休さんがプーケットにいたのは、だいたい今から5、6年ほど前だったと思います。当時、わたしは、まだブレイク・ポイントをオープンする前で、おみやげ屋だけやっていました。
一休さんは、ビーチボーイや出会った日本人観光客を連れては、よくうちの向かいにあるレストランで食事していました。見るからに堅気でなさそうな風貌(早い話がヤクザ風)で、いつも羽振り良さそうに、みんなにパーっと、ご馳走していたものです。最初は相当、お金を持っていたようで、派手に遊んでいることが、はた目にも、よく分かりました。

スキンヘッドで、が体がよく、ダミ声、とてもエネルギッシュな雰囲気で迫力がある、といったヤクザ的な特徴以外に、ユーモラスな面もあって、うちの近所の女の子たちからも、よくたかられて人気者でした。この人と一緒にいると不思議と楽しい気分にさせてくれます。もてる人というのは、こういうもんなんでしょう。
勿論、一休さんはニックネームで、本人がみんなに、そう呼ばせていました。
当時59歳。指が1、2本 足りなかったような気がします。合わせると17、8年、ムショに入っていたと自分で言っていました。
一休さんは、どう見ても、プーケットにチャラチャラと遊びに来るようなタイプではありません。ヤクザ映画によくあるように、「2-3年、東南アジアにでも行って、ほとぼり冷ましてこいや」と親分に言われてきたんでしょうか。実際、どこまで本当かわかりませんが、この人はいつも、「ボクは逃亡者だから」と公言していました。

一休さんは、なぜか一人称で「ボク」を使っていました。
「ボクは今、恋をしてるから」
まったく柄にもないセリフをはいていたと思ったら、その一ヶ月後にうちにやって来て、例のごとく、「ダマされたー」が始まります。
いつも、この繰り返し。うちのテンちゃんもそうですが、プーケットには、騙され続ける「騙され組」がいる一方で、どうも「騙し組」の人たちも多いようですね。わたしは一休さんの姿がみえなくなると、「また、どこかで女に引っかかっているんだな」と思っていたものでした。
だいたいヤクザというのは、「女を食い物にする」とよく言われていますが、一休さんの場合は「女に食い物にされていた」わけで、どこか憎めないところがありました。

そんな一休さんですが、わたしと面識ができたあたりから、だんだんお金がなくなってきたようです。
あっちこっちから商売の金が足りないと言っては借金していました。でも、この人は、ちゃんと返していたんですよ。借用書には 本名が書いてありました。在日韓国人だったようです。

いよいよ、お金が底をついてきたのか、ある日、わたしのところにやって来て、こんなことを言い出しました。
「マスター・・・」、 一休さんは、わたしのことをこう呼びます。
「日本に帰らないで、タイに金を送金するには、どうしたらいいんだ」
わたしは最初、言ってる意味がよくわかりませんでした。
「いや実は、オレも、ここらで一発勝負に出ようと思ってるんだ」
この人が「勝負」と言っているのですから、まっとうな商売じゃないのは明らかです。
「ちょっと金持ちの年寄り夫婦がいるんだけど、いつも生意気なことを言ってるから、仲間と組んで拉致しようと思ってるんだ。それで日本の銀行から、こっちの口座に送金させるつもりなんだけど、マスター、どう思う?」
「どう思う」といわれても、わたしは、今までの人生で犯罪計画の相談を受けたのは、この時が初めてでした。
「そんなことして大丈夫なんですか」と、わたしが聞くと一休さんは、「仲間は二人とも警察官だから大丈夫だ」なんて言っています。そのパターン、タイでは一番危ないんですけど・・・。

「送金が無理なら、オレが日本に行って、お金を下ろしてくるよ。その金をこっちにもって来て3人で山分けだ。その後は、どこ行こうかなあ。タイ以外で、どこか面白いとこ、この辺にない?」
わたしは犯罪のことはよく分かりませんが一言だけアドバイスしました。
「お金をおろしに行くんだったら、絶対に、絶対に、ここに戻って来たら駄目ですよ。戻って来たら、確実に殺されます。そのお金をもって何処かに高飛びしなきゃダメですよ」
すると一休さんは、
「でも、そうすると、あの夫婦が殺されちゃうんだよ。それにオレ、仲間の連中に、日本のヤクザは嘘をつかないって、大見得切っちゃったからなあ・・・」
意外と義理堅いんですねえ。

その後、一休さんは一度だけ、うちにお金を借りに来ました。
わたしは手切れ金のつもりで1000バーツだけ渡し、「このお金は、絶対に一休さんが返しに来ませんように・・・」と神様にお祈りしながら渡しました。
それ以降、一休さんの姿を見かけることも、噂を聞くこともありませんでした。計画を実行したのか、どうなのかも分かりません。

今でも一休さんの、この言葉は忘れられません。
「どこか他に面白いとこ・・・。海があって、リゾートで、女がいて、メシがうまくて・・・・。ほんとはプーケットが一番気に入ってるんだけどなあ」
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by phuketbreakpoint | 2005-09-16 13:16

楽園が震撼した日

「最近Sさん、見かけませんねえ。もう日本に帰っちゃたんですか?」
パトンビーチのバングラーロードでカウンターバーを経営していたSさんが数ヶ月、姿を見せなくなったことを不思議に思ったわたしは、うちの近所で中華料理店を経営している中村さんに、こう尋ねました。
中村さんは、「ああ、そのことか」という感じで、わたしに答えます。
「うーん・・・。まだいるけど、もう一人じゃ歩けないよ」
まったく予想もしていなかった中村さんの返答に、わたしは言葉を失いました。
だって、ほんの数ヶ月前まで、Sさんはピンピンしていて、うちでハンバーグステーキを食べていたんですから。

中村さんの話は続きます。
「どうも 肺ガンの末期らしいよ。先週パトンの病院に入院したけど、もう40キロもないんじゃないのかなあ。髪の毛も、髭もボウボウで、おじいさんみたいに見えるよ」
わたしは、Sさんとは、それほど親しくはありませんでしたが毎日顔を合わせて挨拶する仲でした。
お見舞いくらいは行くべきだと思いましたが、あまりにも急激に体調を崩してしまったSさんの <今の姿>を見るのが恐ろしくて、なかなか、その決心がつきません。
翌週、その事で中村さんに相談したら、彼はちょっと、ためらう素振りを見せた後、わたしに、こう言いました。
「実は病院で検査したら、H.I.V.の陽性反応が出たんだ」
H.I.V. (ヒト免疫不全ウイルス)、わかりやすく言えばエイズウイルスです。
ただでさえも気乗りしなかったお見舞いですが、中村さんのこの話を聞いて、わたしは、ますます気が重くなってしまいました。

ほぼ毎日姿を見せていたSさんを最初に見かけなくなったのが、その年の7月初旬ごろ。約1ヶ月後の8月中旬のある日、久しぶりに顔を見せたSさんは、随分やせていました。
元気な頃のSさんは、身長は175センチくらいで体重は90キロ以上あったと思います。サラリーマン・カットを無精にしたようなヘアスタイルで黒ぶちメガネをかけていました。年はわたしより一つ上。ジョン・レノンが大好きで、よくそんな話をしていました。うちの近所のマッサージ屋に頻繁に顔を出し、マッサージが終わった後は、そこの女の子を<テイクアウト>していたものです。チップの払いが良かったようで、女の子達の評判は上々でした。
「あれ?ちょっと痩せたんじゃないですか?」わたしがこう言うとSさんは、
「風邪をこじらせちゃって一ヶ月くらい寝てたんだ。でも、もう大丈夫」
結局、これがSさんと外で交わした最後の会話になりました。

中村さんの話を聞いた後、わたしの気持ちは連日揺れていました。
「そんなにひどい状態なら、やっぱり、お見舞いに行かなければ・・・」
「いや、よれよれのSさんを見るのは、辛いよなー、実際の話・・・」
何度も心が行ったり、来たり。
それでも一人で寝ているであろうSさんを、ほったらかしにしておくのは、ちょっとまずいのでは、と思い、クリスマスの夜、女房のラントムに「明日、お見舞いに行こうと思うんだけど・・・」と打ち明けてみました。このとき、もし彼女がイヤだと言ったら、わたしも行かなかったと思います。ところがラントムは、すぐに乗ってきてしまったので翌日行くことになりました。

パトンビーチにあるカトゥーホスピタル(現パトン・ホスピタル)。
受け付けで入院患者の病棟を聞くと、Sさんは新館にいると教えてくれました。
完成したばかりの新館は、塗装の臭いがまだ残っていて、そのひんやり静かな雰囲気は、わたしとラントムの緊張感を、より一層高めます。
新館の入口でSさんのベッドの場所を確認し、緊張しながら接近すると、どういうわけか全然違う人が寝ています。もう一度別の看護婦さんに聞き直したら、全く正反対の方向を指差しました。普段なら、タイはこんな調子だから、と余裕のあるわたしですが、このときばかりは少し怒りを覚えました。

教えられた場所は、病棟の一番どん詰まりにありました。 わたしは歩きながら、自然と足が竦んできてしまいます。怖じ気付く、という言葉が正にピッタリでした。ラントムがもし一緒でなかったら、引き返していたかもしれません。生と死の現実を見せられる事への恐怖は、隠しようがありませんでした。
出来る事ならラントムに先に歩いてほしかったのですが、彼女にもそれが分かっているのか、わたしより、もっとゆっくり歩こうとします。わたしは、追いつめられるようにSさんのベッドに近づいて行きました。

Sさんは、薄目を開けて、じっと動かず、横たわっていました。
しかし、中村さんの話どおり、やせ衰えてはいましたが、ボウボウであるはずの髪と髭は、入院後に切ってもらったようで整えられています。わたしは、ちょっとホッとしました。

Sさんは、時々寝返りを打つような動きを見せましたが、起きているのか、眠っているのか、よくわかりません。いや、わたしはそのとき、Sさんに眠っていてほしかった。
「ねてるのかな」
わたしはラントムに話しかけるふりをしながらSさんの反応を待ちました。
それでもSさんのリアクションはありません。わたしは、なんと声をかけていいのか、いや、声をかけるべきかどうかもわからず、どんどん時間が過ぎていきます。この時間のなんと重く、長かったことか。

結局、Sさんは、ほとんど動かず、わたしもSさんにかける言葉を見つける事ができず、困り果てたわたしは、横にいるラントムに「帰ろう」と声をかけました。
彼女は、黙ってわたしについてきました。

2002年12月26日のことです。

この項続く予定 次回は別の話です。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-14 02:35
プーケットでは、年に一度、日本人医師による巡回診療が、バンコク・プーケット・ホスピタルで行われます。
私の家族も毎年参加して診てもらいますが、昨年、ここに来られたパリっと身なりの良い紳士風の先生から、こんなことを言われました。
「西岡さんは、わたしと同級生ですねえ」
同じ年という意味なんですが、私は別に悪いことをしたわけでもないのに、なんとなくバツの悪い、ちょっと恥ずかしい思いをこのとき感じました。

20代なら、「なあに、そのうち逆転してやるさ」と虚勢を張り、
30代でも、「まだまだ、チャンスはあるはずだ・・・」と自分に言い聞かせることもできます。
しかし、40代ともなると将来の可能性は、かなり小さなものになっていることが自分でもハッキリと分かってきますし、対する相手方の人間も、社会的な地位を確立している場合が多いわけです。
ホリエモンさんが何歳か知りませんが、アメリカでは40代といえば、大統領にもなれる年齢ですから、ちょっと焦りも感じてしまいます。
お店で お客様と話していても、自分と同じような年齢の方が立派に活躍していることがよくわかります。
大企業の営業部長、ホテルの支店長、会社社長など・・・。
名刺交換するのが恐いくらいです。
でも、たとえ現在のステータスに違いがあろうとも、あの頃は一緒だったんです。みんなが同じように遊び、みんなが同じように笑った、あの素晴らしい時代、昭和の40年代には・・・。

「ただいまー」
学校から帰って来たら、まず粉末ジュースを水で溶いて、かき混ぜます。
これをグーっと一気飲み。
こんなもの、おいしいわけはないんですが、とりあえず色が付いていて甘かったので満足していました。ちょっと、お金がある家だったら、これがカルピスになります。
その後は友達と駄菓子屋で待ち合わせ。
何しに行くって、そりゃあ、怪獣写真を買いに行くに決まってるじゃないですか。一枚5円です。
これ以外にも、梅ジャムや、あんずアメ等得体の知れない不思議なお菓子が山のように積んであり、当たれば、もう一つタダでもらえるところが子供心をくすぐる憎いところです。
もちろん普通のお菓子屋にも行きます。
エンゼルパイ、バタープリッツ、かっぱえびせん、カール等が新発売されたのもS40年代です。
そして大問題に発展してしまった仮面ライダーカード
いや、あれはスナックのオマケだったんですねえ。

お腹がちょっとふくらんだら、空地で野球です。
当時はわたしの住んでいた杉並区にも、まだ空地がいっぱい ありました。みんな勝手に、「ここは1組の球場」「あそこは4組の球場だ」なんて決めていましたが地主の了解は、とっていたんでしょうか。
いや、昔の地主は、そんなケチくさいことは言いませんでした。立派です。
巨人軍V9の時代で、3番 王、4番 長嶋、特に王さんは、バリバリの全盛時代でしたから、これを見れたのは、当時の少年たちの宝物の一つです。
みんなGYの野球帽をかぶっていました。わたしは一人、ヤクルト(当時アトムズ)の帽子で、みんなの顰蹙を買っていましたが、このころから変な子供だったんでしょう。

雨で野球ができないときは、家の中でエポック社の野球盤、任天堂のウルトラマシンで遊びます。
バンダイの怪獣も売れてました。
億万長者になれなければ、貧乏農場に送られてしまう、恐ろしいルールは、タカラの人生ゲーム
「平凡な人生じゃあ、ダメだ」と子供達に教えたかったのでしょうか。
もう潰れてしまった会社も含め、玩具メーカーがズラリと並んで、それぞれ新商品のテレビCMを打っていたものです。たいしたもんですねえ。
おもちゃ屋さんも、街にいっぱいあったんですよ。

学校の休み時間は、教室の後方でプロレスごっこ。これは男の子の定番です。
馬場さんと猪木さんがタッグを組んでました。
対する外人レスラーは、鉄の爪、人間発電所、黒い魔人、金髪の爆撃機、地獄の料理人・・・。どれもこれも、おとぎ話の登場人物のような、うっとりするネーミングです。これは誰が考えていたんでしょう。ハッキリ言って、天才ですね。
このとき、プロレスでできた先入観はまだ生きていて、白人で名前がロビンソンだと無条件で「いい人」、逆にソイ ・エリックなんかは、悪の巣くつだと思ってしまいます。

暗くなるまで外で遊んだ後は、家に帰って夕食です。
今夜のおかずは子供達の一番人気ハウスバーモントカレー甘口。これは西城秀樹さんがデビューする前から、もう有名だったんです。
夕ご飯を食べながら東京12チャンネル(今のテレビ東京)でマンガキッドボックスを見ます。
「ラリホー・ラリルレロ、コイルは、でぶっちょ、ビヨヨのよーん」「ちびっこ光線浴びちゃって・・・」等、体のハンディーを笑いにする歌詞がまだ許される時代でした。ケンケンブラック魔王、ドボチョン一家も人気がありました。

夜7時からは、梶原一騎さんの独壇場です。歴史に残るスポコン漫画のオンパレード。
でも、ジョーとタイガーマスクが同時間帯でバッティングしていて子供達を悩ませました。当時番組編成していた人は反省してください。ドラエモンが初めてアニメ化されましたが、このときはパっとしませんでした。ウルトラ・シリーズも「怪奇大作戦」でこけるまでは絶好調でした。

おーっと、忘れるところでした。今日は土曜日です。
8時だよ 全員集合!」を見なければなりません。当たり前ですね。これ以外の番組を見ていた子はいたんでしょうか。いたとしたら、今大人になって、ろくな事やってませんよ、こういう人は(断言)。

芸能界は、白雪姫と呼ばれていた天地真理さん。元祖アイドルです。
素人を10倍下手にしたような浅田美代子さんが西荻のレコード屋にやって来ました。わたしが生まれて初めて生で見た歌手です。
スペシャル物もスタートです。UFOに超能力、ネッシーに雪男。矢追純一さんなんか、今何やってるんでしょう。
キックの王者・沢村 忠さん、ボーリングの中山律子さんも大人気でした。
日本初のマクドナルドができたのも、この頃です。どんなに美味しい物かと思っていたら ハンバーガーだったので ちょっと ガッカリ。
パンダもやって来ました。日中友好なんて言葉が大流行していました。
詐欺だったんですねえ。まあ、しかし、一匹一兆円で子供達の夢を買ったと思えば安いもんです。
映画は日活のポルノ、東映のヤクザ、東宝の怪獣のポスターが同じ掲示板に貼ってあったりして 子供達もみんな見てしまっています。いいんでしょうか。

まるで、おもちゃ箱をひっくり返したような、すてきな時代、S40年代。
子供達みんなが一生懸命遊び、大人達は一生懸命働いていたS40年代。
こんなS40年代を子供として過ごせたことを、わたしは誇りに思っています。
近い将来、そんなS40年代の子供達の中から、<日本国の総理大臣>を勤める人が現れるでしょう。
その人がやるべきことは、たった一つしかないと私は思います。
“S40年代の大人達がそうしてくれたように、わたしたちも素晴らしい時代を子供達に与えてあげよう”
そのためには当時の大人達がそうだったように、今の大人達も、みんなで一生懸命働きましょうよ。
それが日本人の心意気ってもんじゃあないですか。
日本のみなさん、がんばってください!
わたしは、ちょっと疲れたので、これからパトンビーチで昼寝してきます。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-09 12:43

大惨事だ!

パトンビーチに吹き荒れる海風が ピタリと止まり、猛烈な暑さが続く2月下旬になると、いつも思い出す出来事があります。

1993年2月。
私は生まれたばかりの、あきおと、なおこの出生届を出すためにバンコクを訪れていました。
ソイ・アソックにある日本大使館領事部で必要書類を提出し、その後はワールド・トレード・センターに向かう予定でした。

「オレも、とうとうパパになっちゃったんだなあ・・・」
そんなことを考えながら歩いていると、お尻のあたりがムズムズともよおしてきました。
さて、どうしたものか。誰にも聞かれないように、ソーっとやるのが、もちろん一般的ですが、歩きながらというのは、ちょっと難しいようにも思えます。
立ち止まって、他の通行人たちの目を気にしながらやるというのも、やはり不自然で逆に目立ってしまいます。
「ここは行き交う車の騒音でカムフラージュさせ、溜まっているものを一気に外に送り出してしまう方が得策じゃあないか」
私は、あまり迷うこともなく、この方法を選びました。

まずは後方確認。
人が歩いていますが、その距離8-10メートル。微妙な状況です。
「ここで、やってしまうべきか」
ちょっと考えましたが、
「まあ、バンコクの喧騒の中で少しくらい変な音が混じっていたとしても、誰もおかしいとは思わないだろう」
そう思い、私は実行しました。しかし、ここで、思わぬ大誤算が・・・。

みなさんも、ソーっと出そうとしたとき、一緒に水っぽいのがチョロリと出てきてしまって、慌てて、お尻の穴をすぼめ直したことってありませんか?
わたしは、何回も、何回も、あるんですが・・・。
でも、わたしの経験から言わせてもらえば、出てきたものがチョロリ程度だった場合、何食わぬ顔して トイレに行き、そこで応急処置をすれば、近くに人がいても、ごまかすことは可能です。
しかし、この時は、ソーっと出そうとはしませんでしたから、かなり勢いよく出て来てしまいました。いまだに、このとき、どのくらい出たのかは、はっきりしませんが、右モモの内側から足首に向かって、生暖かい液体が、ツーっと一筋の流れになって落ちて行ったあの感触を、私は忘れることができません。
悪いときには悪いことが重なるものです。私は、このとき黒っぽいサッカーパンツを履いていて、この「ツーっ」が外から丸見えの状態に・・・。

「うわっ・・・、何だこれ・・・、どっ、どうしよう・・・」
私は足を止め、誰も背後に廻ってこれないように商店に背を向け、近くの通行人をやり過ごしました。そして、お店の中からも見られないように死角になるポジションに向かって、カニのように平行移動します。
さらに、不自然な動きを周りの人から変に思われてはいけない、と手に持っていたバス路線地図で、何かを探しているフリもしてみました。
すると、こういうときに限って、おせっかいな人が寄ってきてしまうんですねえ。
「何探してるんです?」
ほっといて下さいよ、今大ピンチなんですから。わたしは、持っていたカバンの中からティッシュを取り出し、人が通らない隙をついて、この「ツーっ」を拭き取り、パンツの後部も外から拭いておきました。

さて問題はここからです。どうやって、カオザンの安宿まで戻るべきでしょうか。
直接帰るのは無理と判断した私は、どこでもいいからトイレに駆け込み、状況確認したうえで、可能な範囲内でこれを処理してしまおうと考えました。当時日本大使館領事部は来訪者にトイレを開放していませんでしたから、どこか別の場所を探さねばなりません。
ここで一句、
<ビジターに、ウンコもさせない、大使館>

私が選んだ場所は、シーロム ・ロードにあるシーロム・タワーでした。ここなら場所の割にあまり人もいませんし、トイレの場所も分かっていますから、すんなり自分だけのプライベート・スペースを確保できるという判断です。
バンコクの照り付ける太陽の下 、ウンコパンツと共に、私は猛スピードで歩き始めました。この時のスピードは、素人離れしていたと思います。
約一時間後、足がパンパンになりながらシーロム・タワーに到着しました(それにしても、なんで、あんなに遠くのビルを選んでしまったのでしょうか)。
私の予想どおり、トイレはガラガラです。私は、ほっとひと安心して中に入り、鍵をかけました。
パンツを降ろしてみると、意外にも、被害は小規模でした。ここまでの道のりが長かったために乾燥してしまったのかもしれません。

必死の作業が終わり、少し自信を取り戻した私は、再びビルの外へ出ていきました。
しかし、それでも問題解決とはいきません。いくら処理したとはいえ、臭いは、まだ残っている筈です。
「この状態で、どうやって、カオザンまで戻るべきか・・・」
思案の末、私はタイムリーにやって来た15番バスに大胆にも乗り込みました。考えていた事は一つです。
「私の臭い付きパンツを、座っている人の鼻先には、絶対に近づけちゃあダメだ」
しかし、バスが停留所を一つ、二つと過ぎていくうちに、新しいお客さんがどんどん乗り込んできます。
「オレを押しちゃあ、ダメだっつうの」
私は、押し出されるようにアベックの学生が座っている席の真ん前に流されてしまいました。まさに最悪のポジションです。観念した私は乗客を掻き分けるようにバスを降りました。やっぱり、歩くしかないようですね。

その後は、地図を片手に、とぼとぼとカオザンに向かって、ひたすら、ひたすら歩いていきました。長い、長い道のりでした。歩くこと約50分、遂にカオザンの入り口にある民主記念塔が私の目に入ってきます。事件の勃発から二時間余り、孤独な戦いを続けてきましたが、これでようやく開放されるようです。
私は涙と共に(心の中で)絶叫していました。
「ウ〇コよ、見よ!あれがカオザンの灯だ!」

私は20代の頃、ピチピチの白ジーンズにTシャツ,皮ジャンといういでたちで粋がっていたのですが、30代に入り、さすがに、そういう格好は自粛していました。
あの日、あの時、 履いていたパンツが白でなくて本当によかった!
もし白だったら・・・。考えただけでも、ゾッとします。
みなさん、白パンなんて履いて、カッコ付けてたら、大変なことになりますよ。
白パンだけは、やめましょう。最後に忠告しておきます。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-07 13:50

テンちゃん ついに切る

物凄くきれいな男の人と、ごくごく普通の女の人。
あなたなら、どちらを選びますか?

タイのゲイ人口は、ライトな人をカウントに加えれば、かなりのパーセンテージになると思われますが、感心するのは、その多くがカミングアウト、というよりも、最初から隠そうなんて気はさらさらなく、様々な職場に社会進出している点です。
例えば、・・・・・・・・の所長さんは、誰がどこからどう見ても、あからさまにゲイなんですが、ここはどういうわけか警察の管轄になっていて、彼の部下にあたる人達は、彼より、かなり年上の人も多く、みな叩き上げのデカ、といった面構えをしています。
そんな中にあって、彼の存在は一際目についてしまうわけです。
どうして、こういう人事になってしまったんでしょうか。

わたしのレストランにも一人ゲイが働いています。
名前はテンモー、これはタイ語でスイカという意味ですが、わたしは、テンちゃんと呼んでいます。スタッフの中では一番キャリアが古く、彼女は女房のラントムのことを、お母さんと呼んでいます。
テンちゃんは3-4ヶ月働いては男ができて退職し、さらに2-3ヶ月すると、その男に捨てられたのか、また戻ってくる、という繰り返しで、もう3年になります。

昨年8月、そんなテンちゃんが、とうとう決心しました。
うちの常連客の中にアニー(仮名)という元男性がいます。お世辞にも綺麗とは言えませんが、性格の良さが幸いし、フランス人の若いハンサムなボーイフレンドをゲットし結婚、パトンビーチに新築の家を建て、最近は新車も買ったようです。
どうもテンちゃんは、このアニーをライバル視していたようで、「私も負けてはいられない」と彼女からいろいろ性転換手術の情報を聞き出していました。

テンちゃんから、「手術するから休職したいんですが・・・」と言われたとき、わたしは翻意を促しました。
いくら他人のモノとはいえ、みすみす大事な所が切られてしまうのを放っておくのは、男として余りに忍びない、そんな気持ちからです。
「どうしても、やっちゃうのか、テンちゃん。一度切っちゃたら、二度と生えてこないんだぞ。オシッコだって、どこ飛んでくか、分からないじゃないか!」
女性の方々がどういうふうにやっているのかは、いまだに分かりませんが、わたしは小さいとき母親から、「しっかり持って、方向を定めてから、やりなさい」と 教えられて以来、今でも、この言葉を守っています。
オシッコのときばかりじゃありません。男なら誰しも経験があると思います。つらいとき、悲しいとき、恐いとき、不安なとき、寂しいとき・・・・、そんなときは自分でギューッと握り締めると、何だかホッと安心したしたような気持ちになることが・・・。
えっ、ない? わたしだけなんですか?

ゲイの人達は、一見華やかに面白おかしく人生を送っているように見えますが、彼女たちの分厚いメイクの裏側に隠された素顔を覗いてみると、実は大変な世界だということがよく分かります。
やはり、いくら髪を伸ばし、お化粧して着飾ってみたところで所詮は男ですから、女性本来の丸みを帯びた 優しい身体付きとは比較しようもありません。
ところが、それが何とかなってしまうようです。
二週間に一度500バーツ払って女性ホルモンを注射すれば、身体が自然と丸みを帯び、女性特有の美しいボディーラインを作り出すことが可能になるようです。
男性がオカマと分かっていても、ついムラムラきてしまうのは、きっと、この注射のせいなんでしょう。しかし、劇的な効果を産むホルモン注射ですが、実は彼女たちの内臓を蝕んでしまう恐ろしい薬という側面も同時に持っています。
この注射を打ち続けることによって、女性になることができる。しかし、その結果、内臓はボロボロとなり、彼女たちは年齢以上に、みるみる老けていってしまいます。
長生きしたかったら、オカマとダイバーにだけはなるな
彼女たちは、まさに命を賭けて、女性を演じているんですねえ。

8月下旬、テンちゃんは手術の地・ナラーティーワートへ笑顔で旅立って行きました。よりにもよって、なんで、そんなところで・・・、とも思いましたが彼女の決意の程は、よく分かっていましたから、もう引き止めませんでした。
「テンちゃん、立派に、女になって帰ってこいよ」
抗争中のヤクザの親分がヒットマンを送り出すときの心境だったと思います。

10日後、なぜかパトンビーチの病院に入院しているテンちゃんから電話が入りました。
手術の翌週に、ラノーンの実家に帰ったようですが、そこで母親や弟から、さんざんなじられたようですね。いたたまれなくなったテンちゃんは、住み慣れたプーケットに傷ついた身体を引きずるように戻ってきました。
お見舞いに行ったらテンちゃんは、ラントムの顔を見るなり涙ぐんでしまいます。こんなテンちゃんを見たことありません。完全にウツ状態でした。わたしは黙って二人の会話を聞いていましたが最後にこう口を開きました。
「さんざん悩んで出した結論じゃないか。切っちまったもんは仕方ない。これから女として楽しく生きていけば、それでいいじゃないか」

その後、テンちゃんは新しいボーイフレンドを見つけて退職しましたが(しかも二人。二股掛けてたようです)、案の定、この二人から連続で騙され、捨てられてしまったようで、再びパトンビーチに戻ってきました。
そして、またもや新しい恋人を捉えたようです。恋多き女・テンちゃん。
しかし、新しい彼氏は、なんと、わたしの娘(中1)の同級生だというじゃないですか。
もはやテンちゃんに幸せな日々は訪れないのでしょうか。
他人の性癖を、とやかく言うのは、わたしの流儀に反しますが一言だけ言っておかねばなりません。
「テンちゃん、いつか、訴えられることになるぞ!」
まあ、命賭けのテンちゃんにとっては、そんなこと大した問題じゃないのかもしれません。
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by phuketbreakpoint | 2005-09-03 02:08