プーケット・南の島で遊んで暮らそう
2016-05-22T11:29:12+09:00
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タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。
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あきお君へ
http://phuketbrea.exblog.jp/13449481/
2010-10-24T10:00:00+09:00
2016-05-19T18:04:47+09:00
2010-10-19T01:00:02+09:00
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パパは、あきお君が偉い人になんか、ならなくていいから、日本語だけは、話せるようになって欲しいと思っていました。
あきお君は、それをやり遂げました。
あきお君は、小6までプーケットで暮らし、野球なんかやったことなかったのに、中学で野球部に入って、パパとキャッチボールをしてくれました。
日本人であるパパにとって、自分の息子とやるキャッチボールって、特別の意味があるんですよ。
あきお君は、それを実現してくれました。
2年生になって、試合にも出場し、初出場で二塁打も打ちました。本当にすごいことです。
この目で見れなかったのは、ちょっと残念でしたが、あきお君が、「努力して、成し遂げた」、それだけで、パパは満足でした。
去年の夏、サムイ島に行ったときのことを覚えていますか?
品川さんと再開し、3人で飲みに行って、あの夜は、本当に楽しかったです。
品川さんが帰った後、バンガローのベランダで、一緒にシーバスを飲みましたね。
パパは、あきおくんと、ああやって飲みながら、日本語で話したかったからこそ、一生懸命、あきおくんに日本語を教えていたのです。
バンコクの高校を中退し、プーケットに戻ってきた後は、定時制高校に通いながら、お店を手伝ってくれました。
一時は、荒れた生活で、
「いったい、どうなることやら・・・・」
とパパも心配でしたが、奮起して、ついに立ち直ってくれました。ここ3ヶ月間の働きっぷりは、誰の目から見ても、見事なものでしたよ。
50キロもある米俵を2つ、二階まで1人で運んでくれました。
誰よりも早くピサを作り、料理をセッティングし、仕込みも見事な手捌きでこなしていました。パパは、全部見ていましたよ。
「最近、なんか凄いねえ・・・」
パパも、ママも、お世話になった人たちや、うちによく来る常連さんも、みんな、びっくりしていました。
そんな、あきお君の姿を、厨房の小窓から見かけるたびに、
お店の裏で、あきお君と、すれ違う度に、
パパは、大いに励まされていました。
「あきお君と、一緒に闘ってる・・・」
そんな気分に、なれたからです。
自分の子と、一緒に働くって、お父さんにとっては、大きな「夢」の一つなんですよ。
パパの、「望み」や、
パパの、「願い」や、
パパの、「夢」を、
あきお君は、全部叶えてくれました。
本当にありがとう。
パパは、いつでも、誰にでも、胸を張って言えます。
「これが、あきお君です。私の息子です」
パパは、これからも、ずっと、あきお君と一緒にいます。
ずっと、ずっと、一緒です。
最後に、もう一度、
あきお君、本当にありがとう。
(喪中につき、しばらく休載します)]]>
犬が死んだら、父も死ね
http://phuketbrea.exblog.jp/13158764/
2010-09-19T18:54:00+09:00
2016-05-19T18:56:02+09:00
2010-08-30T12:46:33+09:00
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という諺があります。
子供が生まれたら、犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして、子供が青年になった時、
自らの死をもって、子供に命の尊さを教えるでしょう。
私の父が、プーケットを訪れたのは、まだ、きよみが赤ちゃんだった、1998年のことです。その後、私は、ブレイクポイントをオープンし(2001年)、津波があり(2004年)、帰国する度に、
「もう一度、プーケットに遊びに来てください」
そう誘っていましたが、結局、いつも延び延びになっているうちに、12年の歳月が流れてしまいました。
「行きたいけど、誘ってくれるだけじゃあ・・・・」
昨年、ラントムと一緒に里帰りしたときも、やっぱり、この話になり、父は、ポツリと、そう漏らしたようですが、このひと言を、ラントムは聞き逃しませんでした。
「あれは、誰かに、連れて行ってほしいという意味よ」
日本人の私が気付かないのに、タイ人の彼女に、どうしてわかったのか不思議でしたが、考えてみると、思い当たる節はいくつもあります。
学会がある度に、日本全国を飛び回っていた父にとって、旅は生活の一部のようなもので、10年ほど前にも、
「何かあっても、旅行会社に責任はありません」
と誓約書を書いて、ヒマラヤ登山ツアーに、1人で参加しているくらいですから、
「来たければ、勝手に来るだろう」
そう思っていましたが、父も、今年83歳で、ここ2、3年は、さすがに元気がなくなりました。
特に、昨年春、名誉職を勤めていた病院を退職してからは、大きく老け込んだ様子で、自分の死期が近づきつつあることを悟っているかのようでした。
最初の計画は、6月でした。
私とラントムが里帰りする際に、父も一緒にプーケットに来て、帰りは、一人で帰ってもらうというものです。
ところが、4月、5月とバンコクで騒乱が起こり、それを連日テレビで見せられた父は、行く気が失せてしまったのか、
「体調が悪くてねえ。悪いけど、中止してくれ」
そう電話してきました。
年寄りの体調が悪いのは、いってみれば、当たり前ですから、
「これは、(1人での)帰路を心配しているんだろう」
と、私は感じました。
「仕方ない。行きも、帰りも、同行者を付けよう」
初めは、行き帰りとも、自分で行こうかと思いましたが、それでは、いかにも大変です。そこで、時期を夏休みにずらして、まず、あきおを日本に送り、往路を任せ、夏休みの最後に日本に戻る、なおこと、きよみに復路を任せることにしました。
しかし、なおこと、きよみはともかく、あきおは、一時期、父とは険悪でしたし、あの素行ですから、父に、タバコを吸っているところでも見つかったら、血圧が上がって、大変かもしれません。親孝行するつもりが、逆に、親殺しになってしまったら、シャレになりませんから、あきおを呼んで、質してみることにしました。
「あきお、パパの代わりに、行ってくれないか?」
「うん、いいよ」
「おじいちゃんの前では、絶対に、タバコは、ダメだぞ。大丈夫か?」
「安心して。約束するよ(うそつけ!)」
閉店後、お店の裏で、ビールを飲みながら話していたら、しばらくして、あきおは、ポツリと、
「おじいちゃんには、ずいぶん酷いことを、しちゃったからなあ・・・・・」
と呟きました。東京で同居していた頃は、憎まれ口ばかりきいていた、あきおの口から、そんなセリフを聞いて、
「この子も、成長したんだなあ・・・。これなら、大丈夫かもしれない」
そう思いました。
菱和をクビになって以来、約2年ぶりの日本ですから、あの子も嬉しかったのでしょう。
「大丈夫。心配しないで」
足取りも軽く、あきおは、日本に旅立っていきました。
8月26日、
父は、あきおと共に、プーケットにやってきました。
定刻より早く着いてしまったようで、私が到着ロビーに入ると、父と、あきおは、椅子に座って、私が来るのを待っていました。遠目に、父の姿を見ると、
「ずいぶん、痩せたなあ・・・」
と、改めて感じます。
「遅くなって、すいません」
「ありがとう。お願いします」
それほど疲れた様子はなく、安心しましたが、あきおが、とても献身的に、父の世話を焼いている姿を見て驚きました。
翌日は、島内観光です。
私の運転する車で、パトン・ビーチを出発し、カロンを回って、ビュー・ポイントへ。それから、ナイハン・ビーチ、プロンテップ岬と回りました。
12年前と、ほとんど同じコースでしたが、つい最近まで、ひと言も弱音を吐いたことのない父が、体力があまり残っていないのか、
「ちょっと、目眩がする」
と、体調の不安を口に出します。
ロータスで入った、MKでも、父は、食事が進まないようで、本当に、わずかしか食べません。大食漢だった父の、現在の食べる量を見れば、
「老いとは、どういうものなのか」
容易に想像できました。
夜は、いよいよ、今回のメインです。新装なった、ブレイクポイントで、私の働きっぷりを見てもらいます。夏休みも終わりで、4、5日前から、客足が弱くなってきましたから、
「ガラガラだったら、どうしよう」
と心配しましたが、3日間とも、よく持ちこたえ、面目を保ちました。
「お店も繁盛しているし、あきおも、ずいぶん立派になった。なおこも、きよみも、本当によくしてくれた。これで、思い残すことはない」
8月30日未明、
父は、なおこと、きよみに連れられて、日本に帰っていきました。
「また、来てくださいね」
私も、ラントムも、あきおも、そう言って見送りましたが、今回が最後の海外旅行になるかもしれません。
昔は、多くの家庭で犬を飼い、年老いた、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らす子どもが大勢いましたが、それも時の流れと共に少なくなって、今では、別居が当たり前になってしまいました。
子が親を殴り殺したり、親が過剰防衛で、息子を刺し殺してしまったり・・・、そんなことが起こらないように、犬や、老人がタイムリーに死んで、子どもたちに、大切なもの、つまり、
「命の尊さ」や、「それを、失うことの重大さ」
を教えていたのでしょう。
もしかしたら、今の老人は、元気すぎるのかもしれません(特にプーケット!)。
「ゴルフ」や、「女」に、現を抜かす暇があるのなら、孫と一緒に暮らして、とっとと、死んで、悲しませてあげるのが、じいちゃんの最後の愛情ってもんですよ(犬と一緒に、死んでください!)。
姉と一緒に、小さな私が、父の後を歩いています。
麦わら帽子を被り、手には魚獲りの網を持って、大きな背中についていきます。
一緒に暮らせるだけで、家族一緒にいられるだけで、幸せいっぱいの毎日。そんな日々から、あっという間に、時は流れ、今、私は49歳、姉は他界し、父は、人生の黄昏時を迎えています。
あんなに強く、恐く、ずっと私を守り、叱り、支えてくれた父も、命の炎が消えようとしている今、私や、あきおを頼っているのです。そんな父の姿を見て、私は、初めて自分が大人になったことを実感できたような気がしました。
子どもが幼いころは、「優しさ」を、
ちょっと、成長したら、「強さ」を、
思春期には、その両方を、
そして、大人になったら、「老い」と、「死」を見せるのが、父親の役目・・・。
老いて、よぼよぼになって、老醜を晒し、そんな私の姿を見たとき、子供たちは、きっと、逞しく、優しい大人になってくれるでしょう。
父の魂が私に、私の魂が子どもたちに・・・。
たとえ死が訪れ、時は過ぎ行くとも、その魂が絶えることはありません。
生んでくれて、ありがとうございました。
育ててくれて、ありがとうございました。
今、私は父に、心から、そう言いたいと思います。
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親子で遠足、エイエイオー!
http://phuketbrea.exblog.jp/13158754/
2010-09-05T10:42:00+09:00
2016-05-19T19:04:40+09:00
2010-08-30T12:42:43+09:00
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帰国中の、あきを除く、私たち家族は、ピピ島の一泊旅行に出かけました。
前回、ここを訪れたのが、1995年の2月です。あれから、15年、どう変わっているか、非常に興味がありましたが、トン・サイ湾の港から眺める景色は、それほどの変化はないように思えました。
しかし、船が多い!
元々、小さな湾ですが、大小様々な船舶で埋め尽くされており、
「ちょっと、海水浴でも・・・」
とても、そんな気分にはなれません。
島の反対側にある、ロ・ダラム湾は、船も少なく、ビーチ・パラソルが並んでいて、一応、リゾートという雰囲気はありましたが、目を見張るほどの美しさでもなく、プーケットのビーチと、大差ないように感じます。ボート・タクシーで、足を延ばせば、
「さすが、ピピ島!」
というポイントもあるようですが、わざわざ、プーケットから船で来たというのに、また、船に乗らねばならないというのも、
「入場料を、二度取られるような気分」
になって、どうにも気が進みません。
翌日、ホテルのチェックアウトは、11時でした。
帰りの船が出る2時半まで、たっぷり時間がありましたから、徒歩でビュー・ポイントまで、行ってみることにしました。
ところが、ラントムは、出発前から、
「私、この辺(ホテル周辺)で、ブラブラしてるわ」
と、まず脱落です(タイ人は、太陽の下で歩くことを、極端に嫌いますね)。きよみも、少し歩き始めて、
「私も、ママと一緒にいる」
と、リタイアしました。前日に散歩したときも、
「夕方は、涼しくて気持ちがいいねえ」
と、みんなが喋っている、その横で、きよみ1人だけ、汗だらけになって、
「暑くて、死にそうだー」
なんて言っていましたし、菱和の寮生活で落としてきた体重も、プーケットに戻って、僅か2週間の間に、リバウンドしてしまい、山登りするには、体が重くなり過ぎていたようです。
近所の飼い猫が、寄ってくる度に、
「この猫、きよみのことが好きみたい」
と可愛がっていましたが、きっと、猫は、こう言いたかったのでしょう。
「しめしめ・・・・。この子の傍にいれば、いつでも、食べ物にありつけるぞ・・・」
結局、なおこと2人で登ることになりました。
アスファルトで舗装された坂道を歩いていくと、しばらくして、
「ビュー・ポイント、こちら」
の目印が出ています。残り時間は、まだ、たっぷりありましたから、その先にある、「TUNAMI VILLAGE」を、見に行くことにしました。南海の離島で山登りというのも変な話ですが、前日の冴えない湾の様子より、こちらの方が、遥かに魅力的に思えます。
しかし、道路は、よく整備されているものの、道幅が広く、木陰もほとんどありませんから、日光が全身を直撃し、しかも、雨季とは思えないほどの青空の下、私と、なおこは、坂道を上っていきました。
大勢いる我が子の中で、父の無謀な提案や思いつきに、いつも最後まで付き合ってくれるのが、なおこです。
私は自分の長所を、辛抱強さだと自己評価していますが、これを最も受け継いでいるのが、なおこなのかもしれません。
「長い坂だなー。ぜいぜい・・・・・。でも、頑張るぞー」
「オー!」
「上りきるぞー」
「オー!」
なおこと勝どきを挙げながら(2人だけの、アワ・ブームです)、ようやく、坂の上に着いたと思ったら、そこには、さらに厳しい急勾配が続いていました。
「うわあああ、また坂だー!」
「ひゃー、パパ、死んじゃうー!」
1時間も歩いたでしょうか。突然、山の中に、人工湖が現れました。
「こんな小さな島に、こんなに、いっぱい人がいて、よく水が足りるもんだ」
と不思議でしたが、こういう仕掛けだったんですね。
山の斜面に、ゴムシートを張って作られた湖には、水は、あまり残っていませんでしたが、この地点から、山向こうに海が見えました。
「あと少しだー!頑張るぞー!」
「オー!」
本当に、あと少しかどうか、根拠はありませんでしたが、とりあえず、そういうことにして、私たちは先を急ぎました。
ところが・・・・、
「痛ーっ!なんか、踏んだー」
なおこが突然叫んだので、靴を脱がせて調べてみると、ガラスの破片が靴底に、めり込むように突き刺さっています。足の裏から、血も出ていましたから、葉っぱに唾をつけて止血しましたが、これ以上、無理をして歩いても、目標に辿り着ける当てもありません。
「仕方ない。ここで引き返そう」
ツナミ村は、断念することにしました。
人間とは不思議なもので、当てもなく歩いているときは、実際の距離より遠く感じ、不安になるものですが、ひとたび帰路に就くと、とたんに元気がいっぱいで、ピクニックのような気分になってきます。
「なおちゃんのー、一番好きな人は、誰ですかー!」
「それは、パパで~す!」
「クシシシシっ・・・・・、お菓子買ってあげよっと」
足取りも軽く、下り坂を歩いているうちに、だんだんと勢いがついてしまい、駆け足の状態になってしまいます。
「なおこー!止まらない、止まらない、止めてくれええええ・・・・」
「パパー!助けてえー、止まらなーい!」
小学生の遠足みたいなことをやりながら、私たちは、山を下って行きました。
すると、いきなりサルが現れ、我々の前方を、ひょこひょこと歩いていきます。
「あっ、サルだー!」
ビックリしましたが、
「パパ、あれは、きっと、ガイドさんだよ」
なおこが、そう言うので、ついて行くことにしました。
ところが、その先に分かれ道があり、なんとなく、右に進む方が正しいように思えましたが、サルは、「左に行け」と言っています(そう見えたんですよー)。
「パパ、左だって・・・。大丈夫かなあ」
「なおこ、騙されるなよ。こいつは、嘘つきだ」
サルの案内とは逆に進むと、しばらくして、ファランのお兄ちゃんが、前方から歩いてきました。
「エクスキューズ・ミー。ビュー・ポイントは、こっちで、いいんですか?」
私が英語で尋ねると、
「・・・いいのかな?どうなんだろう・・・?どう思う?」
この人も迷っていたようで、まるで話になりません。すぐに、お兄ちゃんを見限って、私と、なおこは、さらに前進しました。
「なおこ、見ろー!あそこだー!」
5分も歩かないうちに、ビュー・ポイントの入り口は簡単に見つかりましたが、だったら、さっきのお兄ちゃんは、いったい何だったんでしょう(サル以下?)。
大きな岩肌に腰かけ、しばし休憩です。眼前には、アンダマン海と、ピピ島の山々が広がっていました。近くで見ると大したことのないビーチでも、苦しい思いをして辿りついた、ビューポイントからの眺めは、格別のものでした。
「ああ、いい気分だねー!」
頑張って、目標に到達するって、本当に素晴らしいことですね。
「やったな、なおこー。エイ・エイ・オー!」
私たち父娘は、もう一度、勝ちどきを挙げました。
8月30日、なおこと、きよみは日本に戻っていきました。
久しぶりに賑やかだった我が家も、静かになり、私とラントムに、また普段の生活が戻ってきました。
子どもの頃、学校が休みになるたびに、神戸に住む祖父母の家に、親戚たちが大勢集まったものでしたが、みんなが帰った後、祖母は、いつも気が抜けたように、ボンヤリしていたそうです。
月日が流れ、私にも、同じ思いをする番が回ってきたようですね。
ぼやーん・・・・・・。
なんとなく、虚ろな表情の私に気付いたのか、
「今夜は、なおこと、きよみを連れてきてあげたわよー。これ、パパにあげるから、一緒に寝たら」
ラントムが、クマさん人形と、キティーちゃん人形を、寝室に持ってきてくれました。
「こっち(クマさん)が、なおこ・・・・で、こっち(キティーちゃん)が、きよみ・・・・?
うん、確かに、よく見ると、似てるような気もする・・・・。
よしよし、よく帰ってきたなあ。今夜は一緒に寝よう」
私とラントムは、子供たちと一緒に、今夜も眠りに就くのでした・・・・。
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野良仕事なら、どんと来い!
http://phuketbrea.exblog.jp/10058313/
2010-08-03T00:58:00+09:00
2016-05-19T11:36:59+09:00
2009-04-16T00:58:04+09:00
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お父さんは、田舎生まれの田舎育ちで、田んぼと、ゴム林以外は、ほとんど何も知らない人間ですが、だからこそ、プーケットでは、非常に重宝されていたのです。
「パン(お父さんの略称)、ちょっと林に行って、ドリアン採って来てくれないか。半分、あんたにやるから」
「うちの裏庭、草ぼうぼうで大変だ。ちょっと、刈ってくれ」
「葬式で、豚を殺すから(出席者にふるまうため)、やってくれないか」
人殺し以外は何でもやる、便利屋みたいな仕事が多かったのですが、お父さんのように、田舎仕事ができる人は、今のプーケットには、なかなかいません。
人殺しで思い出しましたが、お父さんは、自称マッサージ師を名乗っていますが、若い頃、頼まれて揉んだ相手の男性が突然死してしまったそうです。村の人たちは、
「パンが、変なツボを押したから、死んじゃった」
と噂していたそうですが、遊び人である、お父さんは、その男性の未亡人を、しっかりモノにしてしまったようで、それを聞いた人たちは、
「やっぱり・・・。これが目的だったか」
と、ますます疑惑が深まってしまったそです(お母さん談)。
牛飼いに、ブタの世話、牛殺しに、ブタ殺し、野菜や果物の収穫、鳥打ち、カエル取り、ギボン狩り・・・。
「椰子の実採り」なんて、猿にしかできないと思っていましたが、人間だって、できるんです。椰子の木に、するすると攀じ登って、ココナツの実を下に落とす・・・、見ていると、簡単そうに見えますが、これができる日本人は、まず、いないでしょう。
椰子の木は、実の生っている部分から下は、枝が、まったくありませんから、手で掴んだり、足に引っ掛けて、踏ん張ったりすることができません。
まるで、ぶっとい上り棒のように、腕と足の平、腿の内側の3点で挟み込み、ぐっと腰を入れるように登っていきますが、かなり強靭な肉体を持った人でないと、なかなか上には行けません。私も、チャレンジしたことがありましたが、2メートルも登れませんでした。
ムエタイの選手が首相撲(相手の首の後ろに両手を回し、上体を引き込んで、ひざ蹴りを狙う動き)に、めっぽう強いのは、こういった日常運動で鍛錬されているからでしょう(当然、セックスも強いはず)。
もし、熱帯版「サスケ」、なんて番組があれば、制覇できる日本人は皆無でしょう。
ルクタンの実(砂糖やお酒にしたり、生で食べる果物。寒天のような食感)も、カロン・ビーチに住んでいた頃(1995年)は、よく採りに行っていました。
様々な木種がありますが、カロンに生えているものは、ココナツの木のように細長く、しかも、実が生っている部分は、かなりの高度にありますから、落ちたら、一巻の終わりです。近所に住む仲間とペアを組んで、一本一本、交代で登っていました。
採ってきた実を、ビニールパックに6個ずつ入れて、売っていましたが、公共の土地だろうが、個人所有の土地だろうが、勝手に採っていても、誰からも文句がつきませんでした。危険と収益のバランスが、著しく悪い作業でしたから、
「あんな危険な仕事で、1袋20バーツ?冗談じゃない!」
ライバルは、誰もいませんでしたが、相棒がバイクで事故死して、廃業となりました。
「椰子の実割り」も、田舎では必須の作業です(タイ料理には、ココナッツが欠かせません)。
昔、ジャイアント馬場さんが必殺技として使っていましたが、実際の「椰子の実割り」は、あれとは、似ても似つかないものなのです。
ナタで、グサリと切り込みを入れ、突き刺さった刃の、テコの作用を利用しながら、分厚い外皮と、内皮の間に隙間を作っていきます。それから、両手を使って、
“人間の頭の毛を、毟り取るように”
外皮を剥がし、取り出した中心部分を真っ二つに割って、内部の白い実を、専用の道具を使って、細かく削り取っていきますが、都会で暮らす人は、こんな面倒な作業は、まずやりません。袋入りのものを市場で買うか、市販のココナツミルクをスーパーで購入します。
新婚当時、ラントムが簡単そうにやっていましたから、これもチャレンジしてみましたが、まったく歯が立ちませんでした。
ブタを殺すのも、簡単ではありません。
“大きなハンマーで、頭部を強打して・・・・”
カウボーイが牛を殺すようなスタイルを、私は想像していましたが、タイ人は、そんなやり方はしません。
4人がかりで押さえつけて、動けなくし、ナイフで頚動脈を突き刺します。鮮血が流れ落ち(それをバケツで受けて、凝固させ、食べます)、次第に、ブタは動かなくなって、ご臨終となります。
しかし、こう書いていても分かりますが、かなり凄惨な作業ですから、
「じゃあ、オレがやろう」
という物好きな人は、プーケットでは、なかなか見つかりません(最近は、田舎の方でも少なくなってきたようです)。特にタイ人は、タンブン(徳を積む)に非常に熱心ですから、殺生は、極力避けたいのでしょう。
結局、いつも、お父さんのところに話が回ってくることになります。
ナマズ獲りも、得意でした。
「こんなの、ただのドブでしょう」
日本人から見れば、明らかにそう思える湿地帯でも、タイでは食料の宝庫です。岸辺には、パクブン(空芯采)が群生し、魚類も、たくさん住んでいますから、まったく、お金がない人でも、食べ物にありつくことができます。
浅瀬に壺を埋めておくと、翌朝には、ナマズや、プラチョーン(雷魚)が迷い込んでいるという、単純な漁法ですが、プーケットでは、
「あんな汚い川に入ってまで、獲りたかねえや」
と、お父さんの独占状態でした。
こうして、野良仕事最強王の名を欲しいままにしていたお父さんですが、倒れる数年前あたりから、強力なライバルたちに、その座を脅かされるようになっていました。
年々増加の一途を辿るミヤンマー人労働者が、建設現場の周辺に臨時の集落を作り、お父さんですらやらなかった、「犬さらい」(犬鍋用)や、雑草摘み(食べられるものが何種かあるようです)をやるようになると、
「奴らには、敵わん」
と、第一線を離れていきました。さすがのお父さんも、近代化の波には逆らえず、とうとう、時代の渦に飲み込まれてしまったようです。
ここ何年かは、廃品回収に精を出して、
「ポー(お父さん)、みっともないから、ソイ中のゴミ箱をあさるの、止めてちょうだい」
ラントムから、怒られながらも、小遣い稼ぎに余念がありません。
数年前、社会科の教科書を使って、なおこに日本語を教えていた頃、
「リサイクルって、ポータウ(おじいちゃん)が、やってるようなこと?」
と、聞かれたことがありました。私は、
「ああ、ポータウは、地球の資源を大切にして、タイの環境を守っているんだよ」
そう教えてやりましたが、どういうわけか、なおこは、その話を、まったく信じていないようでした。
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いろんなことがありますよ・・・本当に
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2010-07-24T08:20:00+09:00
2016-05-19T01:43:24+09:00
2010-07-03T13:20:25+09:00
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長女マヨムが、イギリスに旅立ちました。
「こんなに大きなバッグ買っちゃって、大丈夫なのか?重量制限に引っかかったら、大変だぞ」
「心配しないで。留学生は、30キロまで、許されるの」
こんな会話をした数日後、チェックイン・カウンターの重量表示は、なんと、49・5キロを示しています。
「20キロも、オーバーしてるじゃないか!国内線は、15キロまでだから、35キロ・オーバーだって!?」
超過金は、キロ当たり、1650バーツも、チャージされるようで、トータルでは、3万バーツを超えてしまいますから、ラントムも、私も、血の気が失せて、
「減らせ、減らせ!」
と、空港ロビーでバッグを開けて、大騒ぎになってしまいました。
「本とか、重いものは、なるべく機内持ち込みのバッグに入れて、服とか、軽いものは、トランクに入れるんだ・・・」
土壇場で、ジタバタする見苦しさは、減量に失敗したボクサーみたいでしたが、なんとか、33キロまで落とし、ずっしりと重くなった、機内持ち込み用のスーツケースと、手さげ袋を2つ抱え、あの子は、手荷物検査のブースに消えていきました。
「出発前から、こんな調子で、大丈夫なのかねえ・・・」
ラントムと2人、心配顔で、空港を後にしましたが、今回の留学話は、ここまで、こぎ着けるだけでも、けっこうな労力を必要としました。
いよいよ、グリニッジ大学から入学許可も下り、代理店経由で学費を送金することになった、6月上旬の、ある日のことです。担当者は、
「(小切手は、バンコクまで)郵送すれば、いいですよ」
と言っていましたが、失くしたら大変ですから、ビザ申請を兼ねて、マヨムが、バンコクまで持参することになりました。
「これで、ひと安心だ。あとは、英国での送金確認を待って、ビザを申請するだけだな・・・」
そう思っていた、一週間後です。バンコクにいるマヨムから、電話がかかってきました。
「困ったことになったの。小切手が、なくなっちゃったって・・・・」
聞けば、代理店の管理がズサンで、どこを探しても、見つからないということです。すぐに、担当者に電話を入れて、状況を確認しましたが、
「安心してください。受取人限定ですから、お金は、まだ引き出されていません。もう一度、小切手を作って、送ってください」
大金を失くしておきながら、
「すいません」
の一言もなく、余りにも、
「あっけらかーん」
とした説明に、ラントムも、私も、頭にくるやら、呆れるやら。
「あんたじゃ、埒があかないから、上司の携帯番号を教えてくれ」
責任者に、電話を入れ直しましたが、すでに、先回りされていたようで、
「あのー、こちらは、プーケット・・・・」
と、ここまで言ったこところで、この上司は、ブチっと、電話を切ってしまい、その後は、何回かけても、電話に出ませんでした。
怒りは、収まりませんでしたが、手続きしないことには、話は進みません。
銀行に行って相談すると、紛失証明が必要だということで、私とラントムは、その足でパトン警察に向かって、証明書を出してもらい、また銀行に戻って、小切手を作り直しました。
「タイでは、いろんなことがありますよ」
最近は、少々のことでは驚かなくなった私ですが、あまりと言えば、あまりの、いい加減さで、久々に、
「タイの恐ろしさ」
を、味わいました。
再び、バンコクに戻ったマヨムですが、
「今度こそ、ビザが下りるのを待つばかり」
そう思っていた、6月中旬、またバンコクから電話がかかってきました。
「パパ、大変なの、ビザが出ないんだって。この前提出した申請書類が、1枚足りなかったみたい。もう一度申請し直してだって」
しかも、1万バーツ(高すぎねえかい、アンタら?)もした、ビザ代は、
「お返しできません」
だそうで、なんと、もう一度払わなければ、申請できないなんて言っています。
「書類が1枚足りないなら、追加提出すれば済みだろう。申請を受理できないなら、お金を返すのが、当たり前だろ」
ところが、英国大使館に電話を入れても繋がらず、受付窓口になっている出先機関(東京なら、ブリティッシュ・カウンシルのようなところ)も、午後まで、担当者は来ないと言い、ようやく出てきた担当者は、
「日本大使館なら、お金を返してくれる・・・?ここは、英国大使館(の出張所)だから、返せないですよ。みんな(他の大使館も)、そうですよ」
強気の対応で、まったく話になりません。
英国大使館の関係者・・・、特に、大使ら、本国から来ている人たちは、こういった状況を、把握していないのかもしれませんから(現地採用の英国人や、タイ人スタッフが、つるんで金儲けに走っている可能性大)、近々英文で正式に抗議文を郵送しようと思っていますが、酷い話の連続で、マヨムも、私たち夫婦も、もうキャンセルして、別の国に留学しようかと、話し合っているときでした。
紛失事件の引け目もある代理店から電話が入り、
「我々も全面的に協力しますから、もう一度だけ、申請してください」
ということで、また1万バーツ持って、マヨムは、バンコクに向かいました(いったい、何回行かされてんだか・・・)。
ビザ申請が終わり、プーケットに戻ってきたマヨムですが、今度は突然、
「もしも、イギリス行きがダメになったら、私、結婚するわ」
と、トンデモ発言が始まります。
留学が実現するかどうかの、瀬戸際だというのに、どこから、そういう話が出てくるのか、不思議でしたが、今度の相手は、26歳のドイツ人で、バンコクで知り合ったんだそうです。本人は否定していますが、どうせまた、ネットで見つけてきたに違いありません。
「あのなあ、マヨム。何で、いきなり結婚なんだ?」
「彼は、とっても、いい人なの」
「なんで、そんなことが、わかるんだ?」
「何回も、会ったから、わかるの」
「何回もって、何回だ?」
「2回。でも、いつも、メール交換してるから・・・」
こっちの話も、空いた口が塞がりませんでした。
やっとのことで、ビザは発給され、なんとか、イギリスに行くことができましたが、昨夜も、あの子から、電話がかかってきて、
「あ、パパ?ステイ先の黒人家族は、ケチくさいことばっかり言って、イヤ。やっぱり、タイがいいなあ」
なんて、言っていました。マヨムの話を聞くまでもなく、タイほど、自由な国はありません。
「やりたいことが、何でもできる」
そして、
「やりたくないことを、やらずにすむ」
そんな国は、他にないでしょう。
それがわかるだけでも、留学した意義があるんじゃないでしょうか。
マヨム、
大きな世界を、見てきてください。
いろんな人に出会って、いろんな経験をつんで、そこで見たり、感じたりしたことが、きっと将来、あなたを助けてくれるでしょう。
検討を祈ります。
Good luck!]]>
なおこと2人きりの夜
http://phuketbrea.exblog.jp/12840588/
2010-07-14T08:55:00+09:00
2016-05-19T10:30:52+09:00
2010-06-22T00:44:31+09:00
phuketbreakpoint
未分類
「ゴルフ界の超新星、西岡きよみ、ツアー5連勝」
「来年は、世界制覇だ」
出るトーナメント、出るトーナメント、次から次へと勝ちまくり、ガッポ、ガッポと舞い込んでくる賞金の山!私にも、インタビューの依頼が殺到し、
「きよみパパ」
として、マスコミ各社に引っ張りだことなり、参院選出馬へ。見事当選し、国会議員になるも、一度も国会に顔を出さず、きよみに買ってもらった温泉宿で、悠々自適の老後を過ごす・・・・・。
そんな夢を抱いていたのですが、やはり、世の中、甘くはありません。
結局、ゴルフ部は、
「先輩・後輩の上下関係が非常に厳しいみたいだから(これはタイ人留学生が最も敬遠したがる理由のようです)、入るのやめた」
そうで、きよみは姉の、なおこが席を置く、和太鼓部に入りました。
「和太鼓?それじゃあ、パパの夢は、どうなっちゃうんだ?」
「心配しないで。和太鼓で優勝して、ちゃんと温泉は買ってあげるから、期待しててよ(和太鼓に賞金なんかあるんでしょうか?)」
そもそも、きよみが中学1年から、私の手もとを離れてしまったのも、あきおや、なおこが日本に行くことになったのも、元を質せば、私がプーケットで暮らしはじめたのが原因ですが、タイでタイ人の女性と結婚し、家族を持つというのは、辛いことばかりでもありません。
日本のお父さんたちが経験できないような、素敵な思い出を作ることだってできるのです。
昨年の10月、私は、再び高知県・菱和高校を訪れようとしていました。前年に、あきおが、「あんなこと」になってしまったので、今回は、なおこと2人っきりで、年頃の娘と一緒に数日間過ごさねばなりませんから、私には、ちょっとしたプレッシャーに感じられました。
「果たして、なおこは喜んでくれるだろうか?」
「話が合わず、場がもたなかったら、どうしよう・・・」
あの子が、私と一緒に遊んでくれたのは、ずいぶん昔のことです。それも、双子の弟である、あきおといつも一緒でしたから、2人っきりではありませんでした。きよみ(なおことは、5つちがい)が生まれて以来、私も、ラントムも、小さな、きよみの世話に追われ、なおこや、あきおは、「おいてけぼり」にされることも多かったですから、本当の意味で、あの子と、1対1で向き合うというのは、今回が初めてになるでしょう。2人で楽しい時間が過ごせるかどうか、とても心配だった私は、初デートに挑む、中学生のような心境で予定を組んでいきました。
「初日は、お土産渡して、喜ばして・・・・。そうそう、なおこの好物のタイのお菓子も、忘れないようにしないと・・・。その後、ホテルでチェックイン。前に、あきおと一緒に泊まった所が、清潔でいいな。それから、ご飯食べて・・・」
いつも、高知では、金曜日の午後から、月曜日の朝まで、3泊4日、ゆっくり時間をとって、子どもたちとの再会を楽しんでいましたが、このときは、
「土曜と、日曜だけで充分だろう」
と、2泊にしておきました。
そして、3週間後、
「なおこー!パパ、来たぞー!」
お土産を、いっぱい抱え、私が顔を出すと、なおこは、
「パパ、サワッディー」
と嬉しそうな笑顔で、タイ式の挨拶をしてくれました。
2人で一緒に寮に行って、持ってきたお土産類を置き(本当は男子禁制ですが、寮長さんが親切な方で、中まで案内してくれました)、市内のホテルに向かいます。チェックインの後、ショッピングモールに出かけ、
「何が食べたい?」
と聞くと、
「じゃあ・・・、お好み焼き」
ということで、二人で鉄板を囲みました。
「どうだ、学校は?」
「あんまり、面白くない」
昨年、大勢いたタイ人の友だちが、厳しい寮生活や、田舎暮らしに耐えられなかったのか、みな辞めてしまったそうで、なおこは、一人ぼっちになってしまったようです。
所属クラブ(当時は、銃剣道部)の練習も、非常に中途半端(平日の放課後に1時間程度)で、勉強以外は、あまりやることがなかったのでしょう。
お勘定を払うとき、お店の若いご主人が、
「菱和の生徒さんですか?実は、私も卒業生でして・・・」
と挨拶してくれました。翌日の、すき焼き屋でも、ホールリーダーらしき女の子が、
「私、横峰さくらさんと、同級生で・・・」
と自己紹介を受けましたし、ここら一帯は、菱和コネクションで溢れているようです。
食事の後は、映画を見ました。
「カイジ・人生逆転ゲーム・・・何だい、これは?」
と思いましたが、意外と面白く(コミックスが原作の映画は、けっこうイケますね)、最後まで、手に汗握って、大いに楽しみました。
映画が終わり、ジャスコで、お菓子や、ビールをたっぷりと買い込んで、ホテルに戻り、私は、ビールとハイボール、なおこも、チューハイで乾杯です。
「お酒飲んで、大丈夫なのか?」
「いいの、いいの。学校じゃ飲まないから、安心して」
カクテル系の甘ったるい酒を3本、一気に飲んだ、なおこに、
「パパ、もっと買ってきて」
と言われ、ホテルの一階にあるコンビニに下りて、買ってきてやりましたが、これもケロッと飲んでしまい、まだまだ、飲み足りない様子でした(酒豪になりますね、この子は)。
「そろそろ寝るか・・・」
小さめのダブルベットが一つだけの部屋でしたが、なおこは嫌な顔もせず、同じベットで寝入っています。
なおこが小さかった頃、私とラントムは、子ども3人(なおこ、あきおとマヨム)を挟むようにして、寝ていました。
あの頃は、サウスロードも、ブレイクポイントも、始める前で、お金こそありませんでしたが、子どもたちと過ごす時間だけは、たくさんあったと思います。すやすやと気持ちよさそうに眠る、なおこの顔を見ながら、私は、あの頃のことを思い出していました。
現在ジャングセイロンが建っている場所は、昔は、大きな原っぱで、私たち家族は、よく、ラントムの運転練習を兼ねて、ここに遊びに行きましたが、違法投棄された産業廃棄物の中から、古いポットを見つけ出した、なおこは、それを片手に、
「パパー、ママー、みてー!」
と大喜びしていました。大人から見れば、単なるゴミも、当時1~2歳だった、あの子には、
「こんな、すごいもん、みつけたぞー!」
という思いがあったのでしょう。
「これ以上ない」という満面の笑みは、私や、ラントムの脳裏に強く焼きついているようで、今でも、ときどき、このときの、なおこの笑顔が話題に出ます。
その、なおこが、こんなに大きくなって、もう高校生です。あのとき以上に大きな笑顔を、これからも、ずっと見せてくれればいいのですが。
2日半を、水入らずで一緒に過ごし、3日目の午後に、菱和の寮に戻るときの、なおこは、本当に名残り惜しそうでした。
「あー、寮に帰りたくないー。もっと、一緒にいたい」
別に、私が恋しいわけでもなく、学校の外に連れ出してくれるなら、誰でもよかったのかもしれませんが、父親なら、安心して自分を曝け出すことができますから、あの子にとっては、貴重な時間だったのでしょう。
「じゃあ、パパは、行くからな。最後に、お別れのキスをしてちょうだい」
恥ずかしがって、嫌な顔されるかと思いましたが、すんなりと、あの子はしてくれました。
日本では、「キモい」とか言われ、虐待されているお父さんもいるようですが、17歳にもなって、なおこは、私と手をつないで歩いてくれます。娘と2人っきりで、足掛け3日、こんなに素敵な時間を過ごせたのも、タイで暮らしていたお陰かもしれません。
「あと、1年半、いや、来年の今頃は、もう推薦も決まってるだろうから、正味、あと1年の辛抱だよ」
最後に私は、そう言って、なおこと別れました。
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宇宙ゴミなんか捨てちまえ!
http://phuketbrea.exblog.jp/11873869/
2010-06-23T10:21:00+09:00
2016-05-18T19:34:34+09:00
2009-12-31T02:50:42+09:00
phuketbreakpoint
未分類
グラハム・カーという料理研究家(ということになっていましたが、お笑いタレントに見えました)が、世界の珍しい料理を紹介する番組でしたが、レシピを詳しく説明するわけでもなく、料理も、それほど美味しそうでもなく、繰り出すジョークも、北米在住者向けのようで、あまり意味がわからないものが多く(吹き替えは良かったですね)、要するに、
「大したことのない番組」
だった記憶がありますが、最後の試食時に、彼が見せる表情だけは、他の、いかなる料理番組にもない、素晴らしいものがあったと思います。
「人間は、きっと、本当に美味しいものを食べたとき、こんな顔になるんだろうなあ・・・」
そんなことを感じさせるものでした。
昨年の暮れ、お土産で戴いたオールドパーを飲んだところ、予想を遥かに上回る美味しさで、ビックリし、グラハム・カーの表情と同じになってしまいました。
爽やかに広がる、「口あたり」、
鼻腔から、後頭部に、スーッと抜けていく、「香り」、
舌の上で、じんわり、溶けていく、「まろやかさ」、
喉越しの強烈な、「破壊力」、
そして、胃袋に入った後も、ジンワリと余韻に浸れる幸福感・・・・、胸の奥がキューンと締めつけられるような、体の芯が暖かくなるような、全身が、ムニュムニュしてくるような・・・、例えるなら、激しい恋をしたときの状態と、この幸福感は似ているのかもしれませんが、こんな説明を、たらたら書いていること自体、オールド・パーに対して、失礼なんでしょう。
20歳の頃から、ふらふらと海外に出かけるようになった私は、世界の各地で、文化遺産と呼ばれるものを見てきましたが、ルーブル美術館だろうが、大英博物館だろうが、コロッセオだろうが、エトワール凱旋門だろうが、「スゲーな、これは!」と感動したことなんて、ただの一度もありません。
「19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトによって・・・」
なんて説明されても、
「ああ、そうですか」
と、それだけです。
そもそも、自分には、
「どうせ、人間の作ったものなんだから、大したことないだろう」
という感覚があるのか、歴史に残る、偉大な巨匠の作品も、工作上手な、小学生の作品も、
「あんまり、違いは、ないんじゃねえの?」
と思ってしまうわけです。
私は、大自然が創り出す、美しさが好きです。
アルプス、フィヨルド、グランド・キャニオン、ナイアガラ・フォールズ・・・・。
見てきた人に、
「どうだった?」
と尋ねれば、
「凄かった」
としか、答えようがありません。無駄な説明をする必要は、まったくないと言えるでしょう。
うちの奥さんなんかも、同じようなことを言っています。40歳になった今でも、いつも自信満々に、こう豪語していますね。
「私はねえ、パンニャン(実家のあった村)で、一番きれいだったんだから・・・。
どれくらい、きれいだったか、ですって?
とにかく、きれいだったのよ」
(大した自信です)。
人間が造ったもので、私を感動させたものが、一つだけありました。
ニューヨークの摩天楼です。
2度目に、ニューヨークを訪れた際、空港から地下鉄に乗って、50番ストリート駅で降り、階段を上って、地上に出て、パッと、頭上を見上げると、そこには、眩いばかりの電飾の世界が、空一面に広がっていました。あのときは、理屈ぬきで、
「スゲーなー!」
と思ったものです。
で、オールド・パーなんですが、つまらない説明なんてしてないで、たった一言、
「・・・・・・これは、うまい!」
と言えば、充分じゃないでしょうか。
説明のいらない美味しさ、素晴らしさこそ、本物の証だと思われますが、人間年をとってくると、そういった素直な感覚が、どんどん失われていってしまうわけです。
プーケットを初めて訪れて、ラントムに出会ったときも、
「彼女こそ、運命の人ですね。純潔美少女ですよ」
なんて、勝手に盛り上がっていましたが、結婚を決意した後になって、
「あれ、離婚暦があるの?」
「ふーん、娘もいるのか?」
どんどん、「真実」が解き明かされていき、ずいぶん経った後になって、
「あらま、息子もいたんだ・・・」
という事態に直面したりすると、
「世の中ってのは、裏があるもんなんだなあ・・・・」
そんなことを学んだりして、素直な感覚どころでは、なくなってしまうわけですね。
そこで、「女」の代用品として、酒が登場してくわけです。
酒の場合、
「さんざん、お金を注ぎ込んで、ようやく、念願かなったのに、意外とガッカリ・・・」
インチキな、キャバクラみたいなことは、まず、あり得ません。使ったお金に見合うだけの内容は、しっかり、付いてくるでしょう(そうじゃない場合は、偽物じゃないでしょうか)。
一口に、酒といっても、
「こってり飲んで、ドロンと酔ってしまう」
ワインや、日本酒などの醸造酒は、体内に不純物が、いっぱい溜まっていくようで、私は、ほとんど飲まず、サラッと飲んで、すっきり酔う・・・、ウイスキーや、ジンなどの蒸留酒が好きです。
特に、いいウイスキーを飲むときは、とりあえず、ストレート、そして、できることなら、一人酒がいいですね。
しみじみ味わって、思いっきり、だらしない表情になっていても、誰にも見られずに済みますから、安心できます。つまみも、肴も、必要ありません。
コークや、ジュースと混ぜてしまうのも、ずいぶん無礼な話だと思います。きっと、胃の中で、お酒が泣いているでしょう。
「私を、こんな女たち(?)と、同格扱いにするのね・・・」
と。
もうじき、50歳になろうとしている今、改めて感じますが、「酒」や、「女」を真っ正直に追求する人生を歩んでいる人には、決して、大きな失望や、苦悩は、ないような気がします。
「なかなか、自分が評価してもらえない」とか、
「他の人たちが、自分より幸せに見えてしまう」とか、
「みんなから、なんて言われているか、気が気ではない」とか・・・・。
そんな、つまらない面子や、意地、見栄、プライド、世間体なんか、「酒」や、「女」の前では、クソみたいなもんです(断言)。
うまい酒が飲めて、いい女が抱けるなら、そんなもん、どうだって、いいじゃねえですか。
「学業」も、「職業」も、「地位」や、「名誉」や、「富」も、、「酒と女」という、巨大惑星の周りを浮遊する、「宇宙ゴミ」みたいなものでしょう。
パーっと、全部ドブに捨てちまって、この南の島に、どんどん遊びにきてください。
50歳になっても、60歳を過ぎても、70歳を超えて、「もう、オレの人生は、終わった」なんて、しょぼくれたことを言っている人にでも、ここには、胸を焦がすような、酒と恋が、きっと、あなたを待っているはずです。
さあ、宇宙ゴミなんて、捨てちまいましょう。
思い切って、パーっと、全部・・・・。
さあ!]]>
単なる計算間違い?
http://phuketbrea.exblog.jp/11061036/
2010-06-14T09:43:00+09:00
2016-05-19T00:30:52+09:00
2009-09-06T02:43:41+09:00
phuketbreakpoint
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日本人3割(約100名)、タイ人7割(200名以上)、白人4、5名(国籍分らず)の聴衆の前で、
「Ladys and gentlemen・・・・」
拡張高く始まった、来賓(日本人)の挨拶でしたが、続くスピーチも、すべて英語でしたから、用意した通訳(日ータイ)も、どうすることもできず、聞いていた人の、多くが内容を理解することはできませんでした。
「すいません・・・・。ここは、タイなんスけど・・・・」
思わず、そう呟いてしまった私でしたが、もしも、状況が違っていたら(例えば、アラブ諸国だったら・・・)、間違いなく、ド顰蹙ものでしょう。
日本人が、タイでやっているイベントなんですから、タイ語か、日本語、どちらかを使えばいいはずですが、この人は、僅か5人の白人のために(それも、英国圏の人か、どうかも、わかりません)、英語を使うことに対して、まったく疑問を持っていなかったようです。
こういったことが起こる原因は、
「オレは、英語が流暢に喋れるんだぞー」
という、自己顕示欲だけでなく、
「英語なら、世界どこにいっても、通用するはずだ」
といった、大きな勘違いも、含まれていると思います。
学生時代、共産圏だった頃の、東ヨーロッパを旅したことがありましたが、呆れるくらい英語が使えないので、驚きました。
基本動詞はもちろん、「mother」「father」など、ごく簡単な単語ですら、ほとんど通じません。なんとか、理解してもらえたのは、「Yes」「No」くらいでしょうか(頷いたり、首を振ったりすれば、誰だってわかりますね)。
当時(1984年ごろ)の東ヨーロッパでは、第一外国語はロシア語で、ドイツ語や、フランス語は、古くからヨーロッパの主要言語でしたから、使える頻度も高いのですが、英語は、敵性言語(アメリカ人が使ってますからね)の上に、「島の言葉(失礼。でも、かつて欧州の中心だった中部ヨーロッパから見れば、イギリスなんて、そんなところでしょう)」ですから、あまり重要視されていなかったように感じます(注、若者を除く)。
また、西ヨーロッパでも、北欧を除けば、英語は、それほどオールマイティーとは言えず、南に下れば、下るほど、通用しなくなっていきました。南米は、もちろん、アフリカ大陸でも、イギリスの植民地だった国は、それほど多くはなく、英語が通じない国は、結構多いように思えます(日本も、ある意味そうでしょうか)。
「こんなの常識」
だと思っていたことが、実際は、
「そうでもなかった」
というのは、世の中には多いですね。
最近は話題性で、ライバルのカーネル・サンダースに、すっかり、遅れをとっている感のある、マクドナルドの「ドナルドくん」ですが、なんと、本名(?)は、ロナルドだと言うじゃないですか。
日本では、公共のメディアを使って、堂々と、
「僕、ドナルド」
と、他人になりすましていましたから、ネット上なら、「不正アクセス防止法違反」に問われているかもしれません。
「ロナルド・マクドナルド被告に、懲役5年の実刑判決。改めて問われる、企業倫理」
そんな記事が、紙面を、賑わすことになるのでしょうか。
また最近、大阪在住の知人に、関西ローカルのバラエティー番組を録画してもらって、見る機会があったのですが、東京と大阪では、論調が、まるっきり違うので驚きました。
大阪の番組では、素の意見が、そのまま流されることが多いように感じます(ネットに近い)。東京だと、差し障りのない内容でまとめて、最後のコメントも、
「本当に、困ったもんですね」
と締めるのが、一般的ですが(周りの雰囲気を確かめた上で、自分だけ突出しないように、「安全地帯」から、多数派で穏便な意見だけを口に出す)、大阪は、
「そんなもん、当たり前とちゃう?」
完全に、開き直っているのです。
以前から、東京マスコミの、
"メディア大政翼賛会”
的な横並び、同一論調には、大きな疑問を感じていましたが、これだけ世の中が多様化しているのに、各紙、各テレビ局、みな同じ意見で、誰も疑問に思わない(注、思わせない。反目の意見は、決してオンエアされない)のが実に不思議です。
そして、朝青龍です。
東京で、袋叩きにあった不人気横綱も、高知県・菱和高校(仮名)では、依然として、ヒーローでした(OBですから)。
きよみの入学式は、同校の体育館で行われましたが、入り口には、
「どうじゃー!」
と言いたげなほど、巨大なパネルが飾ってありました。
「酔っ払いを、ぶん殴ったくらいで、横綱をクビにするな!」
そんな気概が伺われます。さすが、高知だと思いました。
その昔、12月になると、
「力道山暴れる」
「力道山、また暴れる」
こんなベタ記事が、しばしば新聞の社会面を飾っていたそうですが、プロレス界は勿論、マスコミ各社の論調も、
「年末に、力道山が(リングではなく、盛り場で)暴れるのは、師走の風物詩(?)なんだから、大目に見てやろう」
といったものだったようです。
「国民的ヒーローの力道山が、プライベートで、美味しくお酒を飲んでいるのに、怒らしちゃあ、いけねえぜ」
そんな意識もあったんでしょうか(いい時代ですねえ)。
殴られた側だって、
「オレよう、この前、力道山に、ぶん殴られちまったぜ、ガハハハ・・・」
怒るどころか、酒のネタにして、十分に元は取っていたでしょう(私なら、そうしますが・・・)。
また、2代目・貴乃花が横綱に昇進した頃(1994年ごろ)も、巡業先で高校生を殴打したことがあったのですが、マスコミは、
「生意気な態度の高校生が悪い」
という論調に終始し、
「僕が悪かったんです」
という高校生の談話も、わざわざ載せて(本当に、本人が喋ったんでしょうか?)、みんなで寄ってたかって、
「見知らぬ高校生にも、ちゃんと指導できる(あれって、頭にきたから、殴っただけでは・・・)貴乃花は、さすがに、立派だ」
という虚構を作り上げていました。
同じことを、やっているのに、人気絶頂だった頃の貴乃花なら許され(今ならダメでしょう)、不人気の朝青龍なら、「クビ」という、ダブル・スタンダードは、誰が決めているんでしょうか。
どんなことでも、裏表は、必ず存在します。人それぞれ、立場や、考え方の違いは、確実に、あるわけですから、物事を絶対視していては、大きな過ちを生む可能性があることだけは、忘れてはいけないでしょう。
その点、ラントムは、自分の女房ながら、実に立派です。
驚くべき話ですが、21世紀だというのに、我が家では、ダーウィンの「進化論」も、コペルニクスの「地動説」も、キリスト教徒のラントムによって、完全否定されたままで、そんな「邪説」を、うっかり口にしようものなら、「異端」扱いされて、弾圧の対象となり、3日くらい、口を利いてもらえなくなってしまいます。
「ガリレオ・ガリレイが、400年も前に、数学を使って、科学的に実証したんだよ」
なんて説明しても、
「そんなもんは、計算間違い」
の一言で、片付けられてしまうのです(いや、もしかしたら、本当に間違っているかもしれませんよ。その可能性は、ゼロではないはずです)。
“他人に迎合することなく、自分の信念を貫く”
そういう人が、本当に少なくなりました。
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UFO、遂に発見!
http://phuketbrea.exblog.jp/7986391/
2010-05-29T13:11:00+09:00
2016-05-18T11:13:35+09:00
2008-05-22T13:34:59+09:00
phuketbreakpoint
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「ええ、宇宙人の死骸が、UFOと一緒に保管されているんです」
「どこに・・・?」
「どこにって、エア・フォース(空軍)のベースキャンプですよ。あなた、オハイオに住んでいて、こんな有名な話も知らないんですか!」
1983年3月、アメリカ大陸をバスで横断中だった私は、オハイオ州クリーブランドを訪れていました。
バスターミナルでグレイハウンドの職員を捉まえて、目的地までの道のりを尋ねていたのですが、
「あんた、バカなテレビ番組でも見て、騙されてるんじゃないのかい」
「冗談じゃないですよ。ちょっと、これ見てください(と言いながら、「UFO本」を見せる私)」
“アメリカ・オハイオ州、ライトパターソン空軍基地の地下格納庫には、UFOの残骸と、エイリアンの死体が保管されている”
「ライト・パターソンねえ・・・・。確か、デイトンだったなあ・・・。300キロは、離れてるんじゃないか」
これまで、ヒューストンのNASA、ワシントンDCの合衆国・国防省と、UFOの関連記事に、よく登場してくるポイントには、足を運んできましたが、
「ここが、ペンタンゴン内部の売店ですよ」的な、しょうもない写真が撮れるという以外のメリットは、何もありませんでした。
UFOの正体を確認する、という作業は、実態があるのか、ないのか、わからない不確実なものが対象ですから、最初から無理があったのかもしれません。思えば、私の半生は、そんなモヤモヤとした何かを、捜し求めていたのかもしれません。
あきおが帰ってきてから1ヵ月後に、なおこが夏休みを利用して、日本から戻ってきました。
「パパ、ママ、ただいま」
菱和の制服を身に纏い、到着ロビーに現れた、なおこは、爽やかさに溢れています。つい、2年前のお正月、受験を終えて、颯爽と凱旋帰国したときの、あきおにも、同じような雰囲気を感じましたが、あのときの輝きが、今の、あきおに、あるんでしょうか?
なおこは、何事にも、そつが無く、ほとんど手はかかりません。菱和に入学した当初は、ホームシックで泣きながら、電話をかけてきたこともありましたが、
「可哀想だなあ・・・」
と思いこそすれ、あきおのときのように、怒りの感情が沸いてきたことなど、一度もありませんでした。我が子ながら、感心してしまうほど、あの子は、問題なく成長していきます。いや、マヨムのときも、同じでしたし、恐らく、きよみも、大丈夫でしょう。4人の子を育ててきた経験から、見つけ出した、究極の結論としては、
「苦労したくなければ、男の子は作るな!」
ということなのでしょうか。
結局のところ、かつての私がそうだったように、今の、あきおも、
“自分が何を、やりたいのか”
“どういう人間に、なりたいのか”
はっきりと定まっていないところに、問題があるわけです。好きな道さえ決まっていれば、菱和(仮名)でも、あんなことにはならなかったでしょう。
では、あきおにとって、それは、いったい何かといえば、答えを導き出すことは、容易ではないと言わざるを得ません。
私自信、悩み、苦しみ、空回りしながら、数限りない失敗を繰り返した後に、この南の島で、ようやく、答えが得られたような気もしますが、それが少年時代に憧れていた物と同じ姿かといえば、似ても似つかない物だったりするわけです。
目指すべき理想の世界とは、試行錯誤を繰り返し、壮大な回り道を辿っていった、その果てに、ようやく、おぼろげに見えてくるものかもしれません。
夏休みも、いよいよ終わりに近づいた、8月下旬、私達家族は、サムイ島に遊びにいきました。
昨年まで、プーケットでツアー会社を経営していた品川さんが、ここで働いていましたから、久しぶりに会って、一緒に食事をしました。
「サムイ島は、おもろない!若いもん、ばっかりや・・・。一緒に飲みに行ってくれるヤツが、おらへん」
内容は愚痴ばっかりなんですが、この人が喋ると、全部明るく聞こえてくるから不思議です。つい、30分ほど前には、ブータレてばかりいる、あきおに切れて、
「どこに行きたいのか、何も言わない。だったら・・・と、こっちで決めたら、ぶつくさ文句を言う。お前みたいなのが、一番困るんだよ」
不機嫌極まりなかった私でしたが、品川さんの話を聞いているうちに、いつの間にやら、気分が晴れ晴れとしてきます。
「ささ、品川さん、まずは、ぐーっと、一杯・・・。あきお、お前も飲め!」
途端に、ニコニコ顔となって、つい先程の怒りは、
「いったい、どこに、行っちゃったんだ?」
あきおも、呆れ顔で見ていました。
食事が終わって、ホテルに戻り、バンガローの縁台に腰掛けて、あきおと1対1で、久しぶりの親子酒になりました。
「どうだ、あきお。この酒(シーバス・リーガル)、美味いだろ。(東京の)おじいちゃんも、これが一番好きなんだ」
「昔、あきおが生まれたときに、空港で高級ブランデーを買って、ポータウ(ラントムのお父さん)に、お土産持っていったんだけど、近所の仲間と、5分くらいで飲んじゃってなあ・・・。大きな器に、並々と注いで、回し飲みするんだけど、口当たりがいいから、みんな、ぐびぐび、いっちゃって、一回りしたら、もう無くなっちゃった。あれ以来、ポータウには、質より、量だって、思ったな」
「田舎の連中は、朝から飲むからなあ・・。でも、ラオカウなんて、あんまり、飲まない方がいいぞ。ありゃあ、なんか混ざってるぞ、絶対に・・・」
「こうやって、おいしい酒が飲めるのも、一生懸命働いてるから、そう感じるんだ。さっき、あきおは、『退屈だ』って、言ってたけど、パパなんか、プーケットから離れて、今日は、お店を見なくてもいいって思うだけで、気分が軽くなって、何やっても楽しくなる。
いつも、ブラブラしていたら、こうはいかないぞ。ルング・トゥアン(トゥアンおじさん)見てれば、分るだろ。きっと、酒も美味しくないぞ。ああいう生活をしていると・・・」
酒を飲みながら、ほとんど酒の話しかしていませんでしたが、実に、美味しいお酒でした。
ここ数ヶ月、あるときは、怒り、あるときは、悲しみ、また、あるときは、呆れ返った、私の、あきおに対する感情でしたが、この夜は、本当に、心地よい時間を過ごすことができました。
あきおと一緒に酒を飲んで、
“こういう話を、日本語でしたかったからこそ”
私は、長い間、苦しんできたのです。その夢に付き合って、実現してくれた、あきおには、この先、何があろうとも、耐えて、見守ってやることが、せめてもの罪滅ぼしだと思いました。私が日本人でなかったら、あの子も、苦労することはなかったでしょうから・・・。
中1で、あきおを日本に送り出して以来、勉強のことも、それ以外のことも、あまり教えてやる時間はありませんでしたが、考えようによっては、そのいい機会ができたのかもしれません。
“自分の子の教育は、自分でやる”
“結果は、すべて受け入れる”
今こそ、原点に、立ち返るべきなのでしょう。
小学生だった、あきおに、1つ1つ漢字を教えていったときのように、今一度、あの子には、時間をかけて、私が、これまでの人生で培ってきたものを教えてやらねばなりません。あきおが頑張ってくれたおかげで、コミュニケーションの手段は、もう十分に確立されているのですから。
8月29日、
なおこが、日本に戻る日がやってきました。
「パパ、ママ、サワッディー・カー。日本に着いたら、電話入れるから」
「なおこ、気をつけなさいよ。忘れ物は、ないわね」
久しぶりに戻ってきた娘が、再び旅立っていく・・・。母親にとって、それは、やはり寂しいことだったようで、ラントムの目には、涙が光っていました。
今夜、なおこは日本へ。マヨムも、もうすぐ、イギリスに。きよみも、「来年、日本に行きたい」なんて言っていますし、あきおは、バンコクなのか、自宅学習のままなのかは、わかりませんが、まあ、なんとかやっていくでしょう。
5人で揺られた道のりを、4人で戻る、帰り道、
「明日、お寿司食べたい。あきお兄ちゃんも、行くでしょ?」
「きよみ、食べることばっかり、考えるなよ。また、太るぞ」
あきおと、きよみが喋っている、その傍で、
「子ども達が全員、プーケットにいればいいのに・・・」
ラントムが寂しそうに、呟いていました。
突然の大雨で、視界は、ほとんど見えないけれど、
なおこの声が、聞こえるような、
子どもたちの声が、聞こえるような、
みんなの声が、聞こえるような、
そんな、不思議な、帰り道。
来年、また、会えるといいな、
子どもたち、みんなと、会いたいな、
ラントムと一緒に、会えるといいな、
プーケットで、みんなと、会いたいな・・・、
車は、カトゥーの山を超え、夜のパトンビーチが見えてきました。
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まずは自腹で
http://phuketbrea.exblog.jp/12680240/
2010-05-29T10:10:00+09:00
2016-05-18T11:56:22+09:00
2010-05-22T01:10:40+09:00
phuketbreakpoint
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「黄シャツ」も、「赤シャツ」も、やっていることは同じで、私には、「目くそ、鼻くそ」に見えてしまいますが、当事者や、その応援団は、
「俺たち、目くそを、鼻くそなんかと、一緒にしてもらっちゃあ、困るよ」
と言いたいのでしょう。プーケットで暮らす知人の奥さん(40代前半、南部出身、心情的に黄シャツのファン)も、こんな風に説明してくれました。
「こっち(黄シャツ)は、弁護士とか、学校の先生とか、実業家とか、立派な仕事についている人が多いけど、あっち(赤シャツ)は、不労者とか、農民とか、日雇い作業人とか、そんなのばっかり」
だから、「こっちの勝ち」と言いたげでしたが、一昨年、黄シャツが空港を占拠したときは、
「幼稚園じゃあるまいし、元市長さんとか、大学教授とか、立派な職業に就いている人たちが大勢集まって、やっていことと、悪いことの区別もつかんのか?」
と、正直思ったものです。
そして、今回の騒乱も、変な話が、本当に多かったと思いまいす。
3月の末、私は、家族と一緒に、バンコクを訪れていました。
「おー、やってる、やってる。記念写真でも、撮っていくかー」
赤シャツ隊の人たちが、揃いのユニフォームに身を包み、ピックアップ(ダットラ)の荷台や、バイクに分乗して、街宣活動を行っていましたが、夜になって、ワールド・トレード・センターに、映画を見に行くと、
“ガラーん”
いつもは、ハイネケンや、ビア・チャンなど、ビール各社が競うように、ビアガーデンを営業している店頭の大広場は、どういうわけか、閑散としていました。
「変だなあ・・・」
と思って、プーケットに戻ってきたら、2~3日して、
「赤シャツ隊が、あの広場を占拠した」
というニュースが入ってきます。まるで、
“予約が入っていたから、場所を空けておいた”
かのような、準備のよさでした。
タイ関連の、この手のニュースは、大体が、こんな調子ですから、いちいち真に受けていたら、キリがないのですが、私は、この手の話を耳にする度に、いつも、アントニオ猪木さんの言葉を思い出してしまいます。
「我々の闘い(プロレス)は、すべて本気でやってしまうと、シャレにならない。かといって、まるっきり、デタラメだと、ただの茶番になってしまう。この辺のサジ加減が、プロとして難しいところだ」
大雑把な筋書きの元で始められた、擬似的な闘争が、途中から、話の筋を理解していない飛び入り組や、ドサクサに紛れて、窃盗や放火、殺人がやりたいだけの連中が、呼んでもいないのに大勢参加してきて、筋書きを書いた本人たちにも、コントロールが効かなくなっているのでしょう。
今回は、警察も、軍も、政権側だったわけですから、躊躇することなく、出動命令を出して、
「はい、みなさん、違法行為はいけませんよ。とっとと、帰ってください」
武装警官を、100人ほど、現場に急行させれば、
「ヤバイの来た。ズラかれー」
と、事態が大きくなる前に、いくらでも押さえ込めたような気がします。
モタモタしている間に、デモ隊のおばちゃんたちも、すっかり居心地が良くなったのか、のんびり寛いでしまったようで、軍が動き出した頃には、
「誰が帰るか、アカンベー」
子どもの喧嘩みたいに、なってしまいました。
ミヤンマー人相手なら、間違いなく、その日のうちに、皆殺しにしていたでしょうし(タイ警察のミヤンマー人に対する仕打ちは、苛烈です)、日本人でも、容赦しては、もらえなかったでしょう(何年か前、ドンムアン空港で、カウンター業務に業を煮やした日本人男性が、大声で怒鳴り散らしたところ、30秒もしないうちに、自動小銃を構えた兵隊さんが現れました)が、タイ人は、相手がタイ人の場合は、遠慮深いですね。
一票手に入れるために、
「3000バーツだ」
「じゃあ、こちらは、4000バーツだ」
「ええい、だったら、オレは、4500バーツだ。もってけ、泥棒(お金だけもらって投票しない、ドロボウのような人もいるようです)!」
と、大金を動かして、文字通り、命がけの選挙戦を戦っている南部の候補者(特にパトンビーチ町長選)から見れば、
「ナンプラー(30バーツ)、タダでくれたから、あの人に入れよ」
で、当選してしまう(?)北部の候補者は、ずいぶん、いい加減な選挙を戦っているように見えてしまいます。本来なら、反対派を封じるためにも、
「私が、まず・・・」
自ら率先して、貧困層の援助に、私財を投げ打って乗り出すべき、タクシンさんが、政治的地位を利用して、巨万の富を築き、税金も、ほとんど払っていないようですから、
「人のフンドシ(他人の税金)で、相撲をとっている(自分の人気取りをしている)」
と言われても仕方ありませんし、赤シャツ一人雇うのに、1日1500バーツ(約7500円)払ってるという話もありますが、タクシンさんが、初めて自腹を切って、貧しい人たちにバラ撒いた、とも言えますから、これからも、どんどん、やったらいいんじゃないでしょうか。田舎の人たちは、きっと、大喜びしてますよ。
ただ、今回の騒乱、海外のメディアが、
「好き勝手に、言い放題」
しているのは、タイで長年暮らしてきた一人として、ちょっと憤りを感じました。
“たまには、女房の悪口を言うこともあるけど、それを、「他人」に言われると、腹が立つ”
まあ、そんなところでしょうか。
5月17日付の、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は、
「政治が、富の増大と、同じ速さで発展することができなかったことが、背景にある」
と論評しているそうですが、一ヶ月の家賃が数万バーツもする高級コンドミニアムの窓から、下界を見下ろして暮らしている特派員に、
“タイの本当の姿”
なんか分かるわけもなし、しかも、この記事を書いた記者さんは、騒乱の激化以来、
「アパートでも、体に合わない防弾チョッキとヘルメットを着用して、過ごしている」
んだそうです(変態か?)。
衝突の、しかも、一番危険な中心部の取材に出かけ、人が倒れている横で、嬉しそうに、カメラを構えている白人ジャーナリストの群れを、報道番組で見るにつけ、
「流れ弾、飛んでけー!(宮尾すすむ風、古過ぎ?)」
と、私は思ってしまうわけです。
また、同日付の、ウォール・ストリート・ジャーナルには、
「今回の騒乱を、国王が収拾できなかった現実を目の前に、人々は、タイが目指すべき民主主義システムのあり方を、模索し始めた」
と書いているそうですが、うちの近所に住む、おばさんは、
「民主主義?そんなもんは、関係ない。とにかく、タクシンが悪い」
の一点張りで、まるで聞く耳を持っていません。どこから見ても、「模索」してるようには、思えないんですけど・・・。
「国王が死去した後の、国の姿を憂慮し続けたタイ国民は、その姿を垣間見ることになった」
とも書いていますが、確かに憂慮してるのかもしれませんけど、結局のところ、
「あの息子さん、なんとかならん?」
という方向に、話は向かい、
「そういえば、また、新しい・・・」
「今度の女は・・・」
「なんか、新聞に、写真載っとったよ」
と、どんどん話題は、三面記事に向かい、最終的には、
「王様は、次で、10代目だから、今月の買い目は、1と、0だ!間違いない!」
最後は、数字当て宝くじの、「当選番号」に、話は落ち着くわけです。
そして、そんなタイが、私は大好きなわけです。
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鬼刑事再び
http://phuketbrea.exblog.jp/10240172/
2010-05-14T19:36:00+09:00
2016-05-18T14:12:08+09:00
2009-05-14T19:36:27+09:00
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真っ黒な、まん丸顔に、人懐っこい笑顔を見せて、6万バーツ盗難事件を見事解決した、鬼刑事アカラポーンさんが現われました。
この日も、例によって、ジーンズの上は、着古したチェックの赤シャツという、トゥク・トゥク・ドライバー・ファッションに、身を包んでいましたから、すぐには思い出せませんでしたが、確かに、あのときの刑事さんでした。
「で、今日は何を?」
私が尋ねると、隣りにいた、スタッフのミヤオが、
「お客さんの携帯電話が無くなったので、防犯カメラを見に来たそうです」
そう教えてくれました。
ブレイクポイントでは、お客さんの忘れ物は、宿泊客であろうが、食事客であろうが、全部取っておくようにしていますから、開業以来、こういった問題は起こりませんでした。
「携帯が無くなった?どっかで、忘れてきたんじゃないの?」
過去の例では、そういうパターンが多かったので、私は軽く考えていたのですが、相手の女性は、
「防犯カメラで、確認してちょうだい」
と譲りません。
まあ、専門家のアカラポーンさんもいることですし、
「一応は、やってみましょう」
と、隣の2階でモニターを見ることになりました。
・お客さんが入ってくる。
・オーダーを取る、ミヤオ。
・ミヤオが料理を持ってくる。
・食事が終わり、携帯で電話をかける女性。
・電話が終了。
・携帯を、テーブルに置く。
・その携帯で遊ぼうとする赤ちゃん。
・携帯を移動させる女性。
・席を立ち、お店を出る3人。
・放置される、テーブル。
・別のお客が、近くのテーブルに座る。
・ミヤオが、テーブルを片付ける。
・去っていく、ミヤオ。
テーブルに近づいたのは、ミヤオ一人、しかし、特に怪しげな動きはなく、普通に仕事をしているように見えます。
「うーん、どうかなあ・・・」
アカラポーン刑事も、決め手がないようで、もう一度再生することになりました。
・女性が携帯で、会話を始める(ここからスロー再生)。
・赤ちゃんが、携帯を奪おうとする。
・会話終了。
・赤ちゃんを気にしながら、携帯を机に置く女性。
・それを奪おうとする、赤ちゃん。
・携帯を移動させる、女性。
(画像が鮮明でなく、携帯の位置が確認できない)
・お客さんが、席を離れる。
(携帯を持っていったかどうかは、不明)
・ミヤオが、テーブルを片付ける。
・ミヤオが、テーブルを離れる。
「ほら、やっぱり、ミヤオじゃないでしょ」
私が、そう言おうとしたら、アカラポーン刑事は、この前の事件のときのように、
「よし、判った」
それだけ言うと、席を立ち、お店に方に歩いていきました。
「判ったって、何が判ったんだ?」
私は、そう思いましたが、お店に戻ると、アカラポーン刑事が、ミヤオを尋問しています。
(ミヤオを疑ってるのか?そりゃあ、違うんじゃないか。今度ばかりは、刑事さん、見込み捜査の失敗ですよ・・・)
ミヤオは、ブレイクポイントで働くようになって、約1年で、特に大きな問題はありませんでしたから(小さな問題は、いっぱいありますが、目をつぶります)、私は彼女を信じていました。
「刑事さん。この子は、ちょっと、口は悪いですけど、働き者の、いい娘ですから、信じてやってくださいよ」
私は、情状を説明し、なんとか、彼女の「無実」を晴らそうと、一生懸命喋っていたのですが、
「あんたの気持ちは、よく判るんだけど・・・・、彼女、もう、自白しちゃったよ」
「えー!?ホントですかー?」
なんとも言えない、バツの悪さが、私とミヤオの間を漂って、白々とした沈黙が、ゆっくりと流れていきました。
「ボス、すいませんでした」
ようやく、口を開いたミヤオは謝ってきましたが、返す言葉が見つからなかった私は、
「うん、うん」
と頷くのが、精一杯のリアクションでした。
ちょうど、ハイシーズンも終わって、
「やれやれ」
といった時期でしたが、まだまだ人手が必要で、一人欠けても、シフトを組むのは大変でしたから、ミヤオに抜けられると非常に痛かったのですが、問題が起こった以上、彼女を、ここで働かすわけにもいきません。
私は、涙を飲んで、ミヤオのクビを切りました。
6万バーツ事件のクックと違って、あの子には、悪い印象はなく、まったく疑いの目を向けていませんでしたから、刑事さんにも、相手の女性にも、
「うちのスタッフが、そんなこと、するわけないじゃないですか」
と大見得を切っていたのですが、ミヤオが、アッサリと口を割ってしまい(タイ人らしく、シラを切り通してちょうだい!)、私自身も、面目丸つぶれの事件でした。
落し物、忘れ物をネコババするのは、もちろん、いけないことです。
でも、タイでは、失くした物が、すんなりと出てくるとは限りません。田舎に行けば、行くほど、その辺に置いておいた物が、ドロンと失くなってしまうのは、よくあることで、まず、出てくることはありません。
あのとき、もし、女性が携帯を忘れなければ・・・・、
あのとき、もし、ミヤオ以外のスタッフが、机を片付けていたら・・・・、そして、
あのとき、もし、捜査に来たのが、アカラポーン刑事でなかったら・・・・、
数週間が経過した今でも、そう考えてしまいます。
それにしても、あのオッサン(アカラポーンさん)、風貌に似合わず、腕の方は、確かなようです。
相変わらず、事件化しないで、示談でまとめてしまうのは同じでしたが、今度、盗難事件が起こっても、状況によっては、彼を呼ぶのを躊躇してしまうかもしれません。
3ヶ月しかない、大切なハイシーズンの真っ只中で、貴重なスタッフが、もし、しょっ引かれでもしたら、大変です。
「お客さん、犯人は、絶対に挙げますから、警察に連絡するのは、3ヶ月だけ、待ってもらえませんか?」
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最後の「電車ごっこ」
http://phuketbrea.exblog.jp/12475922/
2010-04-18T10:32:00+09:00
2016-05-18T01:03:13+09:00
2010-04-13T23:32:16+09:00
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「毎晩、せっせと励んでいるうちに、できちゃいました」
と、自然発生的な存在(なおこさん、あきおくん、すいません)だと思いますが、2人目、3人目の場合は、
「じゃあ、そろそろ、もう一人・・・」
ある程度、計画的に作っているんじゃないでしょうか。
そして、1人目や、2人目が生まれた後に、時間を置いてできた子というのは、
「上の子には、こんなことも、あんなことも、してやれなかった(あるいは、してしまった)。だから、今度の子には、してやりたい・・・」
経済的にも、少しゆとりができて、そんなことも考えたりするのですが、きよみが女の子だったこともあり、私は、あの子が赤ちゃんの頃から、ずっと、ベタベタした、親子関係を続けてきたと思います。
それが私の活力源であり、最も心の休まる時間でもありました。
「いつかは、きよみも、私の元から、離れていってしまうんだろうな・・・」
そんな日が、遅かれ、早かれ、来ることは、充分覚悟してはいましたが、それは、私が思っていたより、遥かに早く、しかも、唐突でした。
2月の中旬ごろでした。
「パパ・・・、きよみ、日本に行きたい。(姉の)なおこと同じ学校で、勉強したいの」
日曜日の午後、プーケット・タウンのピアノ教室が終わって、家路に着く途中、きよみは、突然、そう言ってきました。
私としては、プーケットの中学で、まずタイ語を固め、それから、日本に行った方が無難なように思えましたが、そんなことよりも、あの子が、いない毎日は、
「何か、大切なものを失ってしまう」
ような気がして、できることなら、先送りしたいというのが本音でした。
ラントムに話すと、案の定、
「あの子は、まだまだ、子どもだから・・・。それに、きよみが、いないと、私も寂しいわ」
とても消極的な反応です。
「日本に行って、寮生活するのは、大変なことなのよ。何でも、自分でやらないとダメなの。お菓子だって、今みたいに食べ放題できないわよ」
否定的な話を聞かせて、一生懸命、あの子が翻意するよう仕向けていましたが、きよみの決心は固く、
「ママ、やっぱり、きよみ、行く」
あの子は、最後まで、自分の考えを変えようとしませんでした。
4月5日、
私と、きよみは、ラントム、あきお、マヨムに見送られ、プーケット国際空港から、日本に飛び立ちました。ラントムは、あきおのときのように、涙を流すことはありませんでしたが、やはり寂しそうでした。
入寮を翌日に控えた、8日の夜は、高知市内のホテルに泊まりました。
「きよみー、電車ごっこ、やるかー!」
電車ごっこというのは、きよみが赤ちゃんの頃から、家族でバンコクに行く度に、ホテルのバスタブで、繰り返し、繰り返し、2人でやった遊びです。
私が、車掌さん兼運転手で、きよみが、お客さんになり、JR西荻窪駅から出発して、新宿まで行って、戻ってきます。なおことも、あきおとも、やらなかった、私と、きよみ、二人だけの遊びでした。
この日は、久しぶりだったので、一緒に入ってくれるかと心配でしたが、あの子は、私に付き合ってくれました。
おそらく、きよみにとっても、親元を離れ、一人で生活していく前に、思い出深い、この遊びを、最後に楽しんでいきたいという思いも、あったのかもしれません。
「次は、阿佐ヶ谷、阿佐ヶ谷でございます。お降りの方は、お忘れ物のないように・・・・。ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン・・・・」
今どき、こんな車内放送をする電車はありませんが、私は、きよみと縦列で湯に浸かり、このひと時を楽しみました。
そして、今夜が、恐らく、
“最後の電車ごっこ”
に、なってしまうんでしょう。
「きよみ、今日は、もっと現代風でいこう。
『The next station is Asagaya・・・・でございます』
どう?カッコいい?」
私が、JR中央線のアナウンスを真似ると、
「うん、似てるけど・・・、なんで、最後が、『ございます』なの?」
きよみも、喜んでくれました。
9日、金曜日、
「きよみ、忘れ物はないか?」
100円ショップで買い込んだ日用品が、ぎっしりと詰まった大きなビニール袋が2つ、パソコンや、トランク、サイドバック等を抱えて、あの子は女子寮に入っていきました。
なおこが、この春卒業していった寮の先輩たちから、棚や、収納ケース、電気スタンド等の家具類と、使わなくなった学校指定のジャージや、カーディガン等を、もらっておいてくれたので、大変助かりました。
2年前は、すべて買い揃えねばならず、大変でしたが、こうやって、姉妹で助け合いながら、仲良くやっていってくれれば、親として、心配することは何もありません。
10日、土曜日は、入学式でした。
いつの時代の、どの学校でも、この日は、特別です。
「希望に燃えて・・・」
そんな雰囲気にさせてくれるのが、日本の学校の良いところでしょう。
今年は、同じクラスに、4名の帰国子女がいるそうで、学校では、特別に指導係をつけて、面倒をみてくれることになりました。日本語が追いつくまでは、他の子たちから切り離し、補習授業をやってくれるそうです。
幼児の頃の、きよみは、親離れが、なかなかできない子どもでした。裏を返せば、それだけ私や、ラントムが、甘やかしていた証拠ですが、上の子たちと一緒に、カロンビーチにある、メータウ(おばあちゃん)の家に遊びに行ったときも、
「今日は、きよみも、ここで泊まっていく」
明るいうちこそ、元気いっぱいで、そう言っているのですが、私とラントムが家に戻り、暗くなってくると、だんだん心細くなってくるのでしょう。夜になると、いつも電話が入ってきました。
「きよみが(家に帰りたいと言って)泣いてるから、迎えに来てちょうだい」
そんな、きよみを、
「やっぱり、パパのそばが、一番いいだろ」
私は目を細めて、あの子の頭を撫でながら、家に連れて帰ったことが、何度も、何度もありました。
それが小学校に上がった頃から、夜も泣かなくなり、カロンでも、日本でも、親から離れて、どこにでも行けるようになりました。
心の準備は、できていたはずです。
それでも、胸の奥にポッカリと開いた、心の隙間は隠しようもなく、プーケットに戻ってきた後も、なんだか秋風が、じんわりと吹き込んでくるような、そんな日々が続いています。
いらなくなったノート等を、メモ用紙で使おうと、カッターナイフで切ろうとしたところ、きよみの字や、絵が目に入り、ついつい、その手が止まります。
「きよみが描いたのか・・・・・。一応、置いとくかな・・・」
失くさないように、傷つけたり、壊れたりしないように、大事に、大事に、この両腕で、しっかりと抱き寄せていたはずだったのに、ふと気が付くと、あの子は、私の腕の中から、すーっと、すり抜けていってしまいました。
きよみ。
頑張ってください。
辛いときも、悲しいときも、プーケットでの楽しい日々を、思い出してください。
パパは、ずっと、きよみを見守っています。
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王者ローリング・ドリアンズ
http://phuketbrea.exblog.jp/10636228/
2010-04-02T09:10:00+09:00
2016-05-18T02:17:18+09:00
2009-07-17T13:10:21+09:00
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彼らの素晴らしさに驚いたのではなく、あまりの酷さに、ビックリしてしまったのです。
“ビートルズのライバル”
“ストーンズは、遂に、ビートルズを超えた”
“ビートルズなき後の、ロック界の王者ストーンズ”
日本のレコード会社が考えた宣伝コピーは、ほぼ、すべて、ビートルズ絡みのものでしから、それを読んだ人たちは(特に私のような中学生は)、当然、ビートルズのように、美しいメロディーラインや、高度な音楽性を期待していたと思います。
ところが、スピーカーから流れてきた音は、いきなり、アレでしたから、
「なんじゃい、コレは?」
というのが、正直な感想でした。
メロディーは、グチャグチャで、ギター・テクニックも、大したことはなく、何よりも、ミックの、あの声と歌唱力(音痴に聞こえました)には、かなり幻滅しました。レコード屋に、返しに行こうかと思ったほどです。
当時(1974年頃)は、ビートルズを別格にしても、レッド・ツェッペリンや、ディープ・パープル、クイーン、ピンク・フロイド、バッド・カンパニー、ELPなどが売れていましたから、不良中高生向き(?)の、音楽専門誌、「ミュージックライフ」の年間人気投票でも、これらのバンドが上位を占めていました。
それに対して、ストーンズは毎年、13位から、17位辺りを、ウロチョロしており、ザ・フーや、Tレックスといった、同じく、ゲテモノ扱いされていたグループらと、レベルの低い順位争いをしていた記憶があります。
散々な、ストーンズ初体験でしたが、不思議なことに、我慢して聞いているうちに(誰かにあげようと思ったのですが、誰も欲しがりませんでした)、妙な味わいがあって、だんだんと、ハマッてきている自分に気がついたのは、買ってから、3~4ヶ月経った頃でしょうか。
ストーンズの最新アルバム、「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」が発売されるや、なんと私は、レコード屋に走っていたのです。そして、そのときも、やっぱり、
「やっべぇー、また、失敗だよー!」
が、第一印象でした。
発売される度に、欲しくはないんだけど、なんとなく買いたくなってしまう、不思議な魅力が、ストーンズにはありました。
プーケットに来て、初めて、ドリアンを食べたときも、これと同じだったように思います。
「うっ!?なっ、なんだ、これは・・・・」
腐りかけのミルクを、多目に入れたチーズケーキ?いや、異様に臭い、果物グラタン?
そんな印象だったでしょうか。
「これが、果物の王様・・・、まっさかあ・・・。だって、これ、果物じゃないでしょう」
そう感じました。
ロックの王者ストーンズに、負けないくらいの、不当表示、誇大広告だと思いました。
わずか、3粒ほどが入った小さなパックでしたが、結局、半分も食べられず、残りは、捨ててしまったと記憶しています。
しかし、ラントムと結婚し、美味しそうに、ドリアンを食べているラントムを見ていたら、釣られるように、私も、何粒か食べてしまいました。
そして、普通に食べられるようになると、あの独特の臭みや味が、忘れられなくなり、無性に恋しくなってきてしまうのです。
ドリアンには習慣性があるようですね。
その昔、ドリアンは高級果実だったようで、貧乏人の口には、滅多に入りませんでした。
ラントムが子どもの頃のコンジャン家も、非常に貧しく、ドリアンを、そのまま食べる、お金はありませんでしたから、一番安い品種である、トゥーリアン・バーンを、1個だけ買い、汁状のお菓子を作って、カウニヤオ(もち米)にかけて、食べていたのです。
ある日、彼女が学校から帰ってくると、台所に、ドリアンが置いてありました。
「わあ、ドリアンだー!おいしそうだなあ・・・・・。食べたいなあ・・・・・。でも、お母さんに、怒られるしなあ・・・・」
そんな心の葛藤に、とうとう耐え切れず、
「誰も、見ていないし、ちょっとだけなら・・・」
皮を、少し剥がし、中から一粒抜き取って、食べてしまいます。
「やっぱり、おいしいー!」
これで満足すれば、よかったのですが、食べた一粒の味が口から離れず、じっと、ドリアンを見つめていたら、唾液で、口の中が、いっぱいになってしまい、
「もう一つくらいなら・・・・」
と、再び皮を剥いで、また一口。
「本当に、おいしいー!!」
ここで、台所を出ようとしましたが、心では、そう思っていても、足が動きません。
「よし、じゃあ、今度こそ、本当に、最後ね」
自分に言い聞かせるように、そう誓うと、さらに、もう一粒。
「あー、幸せー!!」
しかし、ドリアンの神秘的な魔力は、彼女を離そうとせず、悪魔のような囁きが、耳元に聞こえてきます。
“あと1個だけ、食べちゃえよー。バレやしないさー!”
そんな誘惑を振り切ることもできず、手は、再びドリアンに・・・・。
この時点で、ドリアンは、既に、半分くらい無くなっていましたが、
「ええい、こうなったら、もう、全部食べちゃえ!!」
悪魔に、どっと身を投げ出したラントムは、残りの半分も、一気に食べてしまい(さすが、お父さんの娘です)、最後は、皮を元に戻して、紐で結び、偽装工作を施してから、その場を離れました。
お母さんが戻ってきて、すぐに見つかってしまったのは、いうまでもありませんが、数十年前のタイの田舎では、ドリアンは、それほど貴重な存在だったようです。
ドリアンを食べて、美味しいと感じる日本人は、10人に1人もいないわけですから、ストーンズを聴いて、素晴らしいと思う人も、だいたい、同じくらいの比率とみて間違いありません。
だいたい、キース・リチャーズのボーカルや、ミック・ジャガーのギター、ましてや、キーボードなんかは、はっきり言って、
“聴きたい人は、誰もいない”
と言い切れますが(失礼)、
「最後に、ちゃんと盛り上げてやるから、お前ら、オレのギターも、我慢して聴いてくれ」
と無理やり、ショーに挿入してしまう強引さが素晴らしい。
みなさんも、
「これは、ちょっと・・・」
と敬遠していることがあっても、我慢してやっているうちに、病み付きになってしまうかもしれませんよ。
やっぱり、ドリアンは果物の、そして、ローリング・ストーンズは、ロックの王者です!
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悪女と野獣
http://phuketbrea.exblog.jp/9763461/
2010-03-25T23:39:00+09:00
2016-05-17T00:25:08+09:00
2009-03-05T11:54:03+09:00
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学生時代のコンパで、そう自己紹介して顰蹙を買ったことがありましたが、昔から、私の女性の好みは、これだったと思います。しかも、
「ちょっと、遊び慣れた感じの女の子」
を、どういうわけか好きになってしまう、妙な傾向がありました。
そんな一人に、リリーという女性がいます。
スイスのチューリッヒで働く、26歳(当時)の銀行員で、私は、彼女とイギリスの語学学校で知り合いました。
白人女性は、14、15にもなれば、もう充分に女、といった感じですが、20歳を過ぎる頃から、急激に老け始め、26歳だと、普通なら、かなり、おばさんに見えてしまいます。
ところが、彼女は小柄(160センチ弱くらい)な上に、若作りしていましたから、なんとなく、自分とつり合いが取れているようにも思え、18、19の女の子たちに比べ、男の扱いも上手で、話していても、とても楽しく、私は、どんどん彼女の魅力に惹き込まれていきました。
しかし、さすがに彼女は、(あらゆる意味で)経験豊富な社会人です。チューリッヒに彼氏もいましたから、そう簡単には、いいムードには、させてくれず、かといって、相手にされないわけでもなく、付かず、離れず、私のような「子供」は、いいように、弄ばれていたように思いますが、そんなとき、突然、ライバルが現れてしまいます。
インドネシア出身のジョンは、オランダ人との混血で、リリーと同じ試験対策コースで学んでいました。体つきは、ガッシリしており、180センチあった私の友人よりも、さらに上背はありましたから、身長は恐らく184、5センチくらい、体重も85~90キロは、あったんじゃないでしょうか。
ジョンは荒削りというべきか、スマートさがないと書くべきか、とにかく、愛情表現が直線的、かつ、これ見よがしで、それがことごとく、私の神経を逆撫でしていましたが、リリーは、自分の手の平の中で男たちが争っているのを、楽しんでいるようなところもありました。
当時の私は、若さの盛りにあって、朝から、ベーコンエッグとイングリッシュソーセージを頬張り、昼も、夜も、ビュッフェ形式の食べ放題で、味はともかく、量と栄養価だけは、極めて良好な食事を、毎日3食摂っていましたから、
「毎朝、(朝立ちが)凄くて、(洋式トイレでの)オシッコが大変だ。体を、90度に曲げないと、できやしないよ(友人談)」
といった状態でしたし、マス大山(というより梶原一騎)の影響を受けていたのか、
「論理的に言って、親指だけで、指立て伏せが100回できれば、素手で牛が殺せる(どういう理論だったんでしょうか?)」
という話を真に受け、毎日、せっせと鍛錬に励んでいたので、大柄とはいえ、
“牛より、はるかに小さいジョン”
に対して、私の導いた結論は、至って単純でした。
「いざとなったら、実力行使も辞せず」
そして、あの夜です。
メイン・ビルディングの別館で、ハーフ・タームの最後を飾る、ディスコ・パーティーが開かれていました。このときの私は、リリーを攻めあぐね、突破口を見出せず、なんとなく、心に隙間風が吹いているような気分でしたが、そんな間隙を突くように、ジョンが酒に酔った勢いで、彼女に接近していきました。
「もう、この女は、もらった」
とでも言いたげな表情で、ベタベタと彼女に絡みついているジョンを見ても、どうすることもできず、私は会場の隅で、唇を噛み締めながら、ラガーのパイント(大グラス)を傾けるしかありませんでしたが、場内いっぱいに響く、ハード・ビートの振動が、徐々に私の本能を刺激し、アルコールも加わって、セックスと、バイオレンスに対する欲求が、みるみる膨らんでいきました。
「このまま、指を咥えて、見ている場合じゃないだろう・・・」
一旦、私は、バトラー・ウイング(寮)の部屋に戻り(ディスコ会場も、寮も、学校の敷地内にありました)、動きやすいようにジーンズから、トレパンに穿き替え、トレーナーの上からは、厚手の革ジャンを着込んで(ボディーへの攻撃を吸収してくれます)、シューズの紐も、解けないように堅結びにして、戦闘態勢を整えると、1分ほど、シャドーボクシングで体を温め、最後に、机の上に置いてあったギルビー(ジン)のビンを掴んで、ラッパ飲みし、外に出て行きました。
頭に血が上っていた割には、慎重でしたが、この勝負だけは、どうしても負けるわけにはいきません。
“先制攻撃から、短期決戦に持ち込んで、一気に決着”
彼との体重差を考えると、これ以外に戦法はないでしょう。
ウイニフレッド・パーソンズ・ホール(ディスコ会場、通称ウインピー)に近づくと、寮に向かう通路の入り口で、また、ジョンがリリーに抱きつくように絡んでいましたから、迷いは、まったく、ありませんでした。
嫉妬の炎に押し出されるように、素早く、彼に近づくと、すぐに目線がぶつかり合い、間髪を入れず、私は渾身の力を込めて、右ストレートで、彼の顎を打ちぬきました。
“ガツン”
という確かな衝撃が、拳から肩に伝わり、次の瞬間、
“ドサッ”
と、彼の巨体が崩れ落ちていきました。
私の攻撃が引き金となり、ここから、乱打戦が始まると思って身構えていた私でしたが、相手が一発で倒れてしまい、起き上がってきそうもありませんでしたから、次に何をしてよいか分からず、ただ、立ちつくしていると、ちょっと間を置いて、ジョンの相棒たち(南米の学生)が、猛抗議してきます。
「どうして、仲間を殴るんだ!?」
激しい口調でしたが、彼に代わって、私に制裁を加えようという雰囲気でもなく、私は、
“唖然・呆然状態で、言葉も出ない、リリー”
の手を掴むと、そのまま無言で、別の場所に連れていってしまいました(拉致ですね)。
そして、このとき、リリーと初めて、キスをして・・・・・・・・・・・・・・・・。
「大人の女は、キスも、上手なんだなあ・・・・」
彼女と唇を重ねながら、そんなことを考えていたものです。
この後、しばらく、
“惚れた女は、力づくでも、奪い返す”
という、武闘派強硬路線に入っていくわけですが、結局、それで成功したのは、このとき、一回限りでした(やっぱり、この路線では、ダメですね。ぜんぜん、女にモテません)。
まあ、ああいった特殊な状況(田舎町の学校に、世界中から若者が集まっている)でない限り、こんなやり方では、うまくいくはずはないんですが、今にして思えば、タイ王国での男女関係修復の手段と、非常に似通っている部分があるように思います。
この国では、自分の女(あるいは男)を、失いそうになった場合、
「冷静に、話し合って・・・・」
とは、決してならず、
“暴力で決着(凶器攻撃あり)”
という方法が、一般的に、とられているように思います。
(ラントムのお父さんのように)さんざん、デタラメなことをやって、相手に苦労を、かけ続けているのに、恋敵が現れるや、包丁を手に取って、
「人の女に、ちょっかい出すなんて、最低の奴だ」
等と、突然正論を言い始めたりしますが、こういう場面に出くわすにつけ、私は、あの晩のことを思い出してしまうわけです。
そして先日、母から届いた手紙の中に、もう一枚、別の封筒が入っていました。
差出人を見ると、
「リリアン・アムスタード」
と書かれています。
リリーの本名は、リリアン・ヘス。当時、本国で付き合っていた恋人の名(苗字)が、アムスタードでしたから、
「やっぱり、彼と結婚したんだ・・・」
そう思いました。
「お元気でしょうか?私のことを、覚えているかしら・・・・」
何のことはない、差し障りのない内容で、特に、感情の変化は起こりませんでしたが、私は、まだ返事を書いていません。たぶん、このまま書かないで終わるでしょう。
私にとって、リリーとは、永遠の悪女。最後の最後まで、捕まえきれず、振り回されて、傷ついて、
「もう、あんな女のことなんか、忘れよう」
何度そう思っても、結局、忘れられず・・・・・、いつまでも、そんな存在であってほしいのです。
ところで、被害者のジョンですが、この事件以降、ますます酒癖が悪くなり、別件(確か、「器物破壊行為」か、「大麻吸引」)で、姉妹校のあったノーリッチへ、追放処分となってしまい、一方で、加害者の私は、事件の翌日から、5日間、ハーフ・ターム・ホリデーを利用して、ニューヨークに逃亡(?)し、その間、学校が休みでしたから、ほとぼりが冷めていたようで、
「まったくの、お咎めなし」
という、天下の御正道を踏み外す、片手落ちの沙汰が下されました。時代が時代なら、彼の家臣たちに、「討ち入り」に合っていたかもしれませんが、あきおが菱和をクビになってしまったのも、
“親の因果が、子に報いて・・・・”
このときの罪と罰が、時を超えて、巡ってきてしまったのでしょうか。
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因果応報
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2010-03-18T10:37:00+09:00
2016-05-22T11:29:12+09:00
2009-09-06T01:37:20+09:00
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「東経大の山村(仮名)と申しますが、西岡くん、いらっしゃいますか?」
ところが、このとき、うちの母親は、バカ正直にも、こんな返事をしてしまったようです。
「史雄なら、『ユーゴの方に行く』とか言って、一ヶ月ほど前に、家を出て行きましたけど・・・・」
「ユーゴって、ユーゴスラビアのことですよねえ・・・。それで、いつ頃、お帰りでしょうか?」
「さあ、いつになるかは、ちょっと・・・・・。たぶん、大学が始まる頃には、帰ってくるんじゃないでしょうか・・・・」
数週間が経過し、二学期が始まって、ずいぶん経った頃、ようやく大学に顔を出した私に、山村先生は、こう言ってきました。
「キミの家は、いったい、どういう家庭なんだい。我が子が行方不明だというのに、まったく心配してなかったよ」
母は、このとき既に、「息子のことは、心配すること自体が、アホらしい」という、悟りの境地に入っていたようで(注、伏線として、『捜索願い事件』というのがあったんですが・・・・)、少々のことでは動じない精神構造になっていました。
その後も、私の放浪癖は収まるどころか、どんどん悪化し、神戸の祖母が他界したときも、祖父が永眠したときも、親戚のおじさんが亡くなったときにも、どこで何をやっているのか、さっぱり分らない状態が慢性化していた私とは、連絡をつけることすらできませんでした。
最初のうちこそ、親戚筋の中で、ただ一人、葬儀に参列していない私を不審に思い、
「あれ?史雄は、どうしたんだ?」
そう聞いてきた親戚も、いたようですが、終いには、
「(私がいなのに)今日は、久しぶりに、親戚一同、勢揃いか」
完全に、員数外扱いにされていたようです。
プーケットに戻ってきた、あきおは、最初の数日こそ、殊勝な態度だったものの、それ以降は、
「やっぱりか・・・」
と、予想通りの荒れた生活でした。
高校の先生から送られてくる宿題を、「自力でやるのは、無理」ということで、入学前に通っていた塾に行くことになりましたが、それも、1日2時間だけで、後の時間は、予習復習をやるわけでもなく、グータラと時間を浪費する日々が続いていました。
朝は、昼頃まで、高いびき。ようやく、起きてきたかと思ったら、
「今日も、元気だ、タバコがうまい!」
と、屋上でやっているようで、ヤニの臭いが、ぷんぷんしています。
どこかに、出かけたと思ったら、酔っ払って帰ってきて、お店のビールを盗みだし、マッサージ屋の女と、月見で一杯・・・。
「あー、極楽、極楽」
菱和で、不祥事を起こしたときも、
「パパ、ぐっと堪えてね・・・」
バンコクの学校から、電話がかかってきたときも、
「パパ、お願いだから、我慢してね・・・」
何度も、問題を繰り返したときにも、
「でも、息子だから、捨てるわけには、いかないから・・・」
いつも、カンカンに怒っている私を諭し、あきおを庇ってきたラントムも、自分で直接、我が子の醜態を目にしてしまい、とうとう、耐えられなくなってしまったようです。
ある晩、例によって、盗み酒している、あきおを捕まえて、
「もう、あなたは、修道院(彼女はプロテスタントなので、実際は別名ですが、似たような場所がバンコク郊外にあるようです。不良少年の、「虎の穴」といったところでしょうか)に行きなさい。明日、電話して、連れてってもらうわ」
島流しにすると、決めてしまいました(ここも、島なんですが・・・)。
翌日、塾に行く時間になっても、あきおは起きてきません。
「ママ、そろそろ、起こしたほうが、いいんじゃないかなあ・・・」
私が、そう言っても、
「放っときなさい。もう、修道院送りなんだから・・・」
まるで動こうとしませんから、仕方ないので、私が屋上(あきおの部屋があります)まで上がって、あの子を起こすことになりました。
「あきお、お前、ちょっと気をつけた方がいいよ。今までは、パパが怒ってるのを、ママが止めてたからいいけど、これからは、止める人が、いなくなっちゃうぞ。ママに捨てられたら、後がないからな」
私の話を分ってくれたのか、どうか、あきおは、塾に出かけていきました。
この日から、私たち夫婦の立場が逆転し、激怒するラントムを、
「まあ、まあ・・・」
と宥める私という、妙なことになってしまいました。
しかし、いくら、役割分担だとはいっても、やはり、宥め役は大変です。
「あの野朗、また、タバコ吸ってやがる。今度こそ、ぶん殴っ・・・」
と思っても、爆発しそうな、ラントムの顔色を窺いながら、小声で、
「あきお、上(屋上)で吸え、上で・・・」
また、あるときなど、
「あきおの奴、今夜も、酔っ払ってやがる。よーし、ドカーンっと・・・」
と思っても、鬼の形相のラントムを想像し、冷静になって、
「あきお、酒臭い。早く、上に行け。早くしろ、見つかるぞ」
自分が悪いことをしてるわけでもないのに、なぜか、コソコソしなければならないのです。
学生時代(いや、それ以降もか?)、さんざん、親を苦しめてきた報いを、私は、遂に受けるときが来てしまったのでしょうか!?
(お母さん、遅まきながら、すいませんでしたー!)
いや、これは、あきおにも、言えることです。何十年後かには、あの子も、きっと、同じような思いをすることになるのでしょう。
(パパを苦しめた呪いが、いつか、きっと、お前に降りかかってくるぞー、あきお!)
こんな状態で月日が流れ、私の辛抱は益々大きくなり、心労は、どんどん重なっていきました。
(続く)]]>
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