タイ・プーケット島在住。タイならではの出来事や日々の体験、個人的な思い出などを書きとめています。


by phuketbreakpoint
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あきお君へ

あきお君は、4歳まで日本語は、ぜんぜん話せなかったのに、一生懸命努力して、話せるようになってくれました。
パパは、あきお君が偉い人になんか、ならなくていいから、日本語だけは、話せるようになって欲しいと思っていました。
あきお君は、それをやり遂げました。

あきお君は、小6までプーケットで暮らし、野球なんかやったことなかったのに、中学で野球部に入って、パパとキャッチボールをしてくれました。
日本人であるパパにとって、自分の息子とやるキャッチボールって、特別の意味があるんですよ。
あきお君は、それを実現してくれました。
2年生になって、試合にも出場し、初出場で二塁打も打ちました。本当にすごいことです。
この目で見れなかったのは、ちょっと残念でしたが、あきお君が、「努力して、成し遂げた」、それだけで、パパは満足でした。

去年の夏、サムイ島に行ったときのことを覚えていますか?
品川さんと再開し、3人で飲みに行って、あの夜は、本当に楽しかったです。
品川さんが帰った後、バンガローのベランダで、一緒にシーバスを飲みましたね。
パパは、あきおくんと、ああやって飲みながら、日本語で話したかったからこそ、一生懸命、あきおくんに日本語を教えていたのです。

バンコクの高校を中退し、プーケットに戻ってきた後は、定時制高校に通いながら、お店を手伝ってくれました。
一時は、荒れた生活で、
「いったい、どうなることやら・・・・」
とパパも心配でしたが、奮起して、ついに立ち直ってくれました。ここ3ヶ月間の働きっぷりは、誰の目から見ても、見事なものでしたよ。
50キロもある米俵を2つ、二階まで1人で運んでくれました。
誰よりも早くピサを作り、料理をセッティングし、仕込みも見事な手捌きでこなしていました。パパは、全部見ていましたよ。
「最近、なんか凄いねえ・・・」
パパも、ママも、お世話になった人たちや、うちによく来る常連さんも、みんな、びっくりしていました。
そんな、あきお君の姿を、厨房の小窓から見かけるたびに、
お店の裏で、あきお君と、すれ違う度に、
パパは、大いに励まされていました。
「あきお君と、一緒に闘ってる・・・」
そんな気分に、なれたからです。
自分の子と、一緒に働くって、お父さんにとっては、大きな「夢」の一つなんですよ。

パパの、「望み」や、
パパの、「願い」や、
パパの、「夢」を、
あきお君は、全部叶えてくれました。
本当にありがとう。
パパは、いつでも、誰にでも、胸を張って言えます。
「これが、あきお君です。私の息子です」

パパは、これからも、ずっと、あきお君と一緒にいます。
ずっと、ずっと、一緒です。

最後に、もう一度、
あきお君、本当にありがとう。


(喪中につき、しばらく休載します)
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# by phuketbreakpoint | 2010-10-24 10:00

犬が死んだら、父も死ね

「子どもができたら、犬を飼え」
という諺があります。

子供が生まれたら、犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして、子供が青年になった時、
自らの死をもって、子供に命の尊さを教えるでしょう。


私の父が、プーケットを訪れたのは、まだ、きよみが赤ちゃんだった、1998年のことです。その後、私は、ブレイクポイントをオープンし(2001年)、津波があり(2004年)、帰国する度に、
「もう一度、プーケットに遊びに来てください」
そう誘っていましたが、結局、いつも延び延びになっているうちに、12年の歳月が流れてしまいました。
「行きたいけど、誘ってくれるだけじゃあ・・・・」
昨年、ラントムと一緒に里帰りしたときも、やっぱり、この話になり、父は、ポツリと、そう漏らしたようですが、このひと言を、ラントムは聞き逃しませんでした。
「あれは、誰かに、連れて行ってほしいという意味よ」
日本人の私が気付かないのに、タイ人の彼女に、どうしてわかったのか不思議でしたが、考えてみると、思い当たる節はいくつもあります。

学会がある度に、日本全国を飛び回っていた父にとって、旅は生活の一部のようなもので、10年ほど前にも、
「何かあっても、旅行会社に責任はありません」
と誓約書を書いて、ヒマラヤ登山ツアーに、1人で参加しているくらいですから、
「来たければ、勝手に来るだろう」
そう思っていましたが、父も、今年83歳で、ここ2、3年は、さすがに元気がなくなりました。
特に、昨年春、名誉職を勤めていた病院を退職してからは、大きく老け込んだ様子で、自分の死期が近づきつつあることを悟っているかのようでした。

最初の計画は、6月でした。
私とラントムが里帰りする際に、父も一緒にプーケットに来て、帰りは、一人で帰ってもらうというものです。
ところが、4月、5月とバンコクで騒乱が起こり、それを連日テレビで見せられた父は、行く気が失せてしまったのか、
「体調が悪くてねえ。悪いけど、中止してくれ」
そう電話してきました。
年寄りの体調が悪いのは、いってみれば、当たり前ですから、
「これは、(1人での)帰路を心配しているんだろう」
と、私は感じました。
「仕方ない。行きも、帰りも、同行者を付けよう」
初めは、行き帰りとも、自分で行こうかと思いましたが、それでは、いかにも大変です。そこで、時期を夏休みにずらして、まず、あきおを日本に送り、往路を任せ、夏休みの最後に日本に戻る、なおこと、きよみに復路を任せることにしました。

しかし、なおこと、きよみはともかく、あきおは、一時期、父とは険悪でしたし、あの素行ですから、父に、タバコを吸っているところでも見つかったら、血圧が上がって、大変かもしれません。親孝行するつもりが、逆に、親殺しになってしまったら、シャレになりませんから、あきおを呼んで、質してみることにしました。
「あきお、パパの代わりに、行ってくれないか?」
「うん、いいよ」
「おじいちゃんの前では、絶対に、タバコは、ダメだぞ。大丈夫か?」
「安心して。約束するよ(うそつけ!)」

閉店後、お店の裏で、ビールを飲みながら話していたら、しばらくして、あきおは、ポツリと、
「おじいちゃんには、ずいぶん酷いことを、しちゃったからなあ・・・・・」
と呟きました。東京で同居していた頃は、憎まれ口ばかりきいていた、あきおの口から、そんなセリフを聞いて、
「この子も、成長したんだなあ・・・。これなら、大丈夫かもしれない」
そう思いました。
菱和をクビになって以来、約2年ぶりの日本ですから、あの子も嬉しかったのでしょう。
「大丈夫。心配しないで」
足取りも軽く、あきおは、日本に旅立っていきました。

8月26日、
父は、あきおと共に、プーケットにやってきました。
定刻より早く着いてしまったようで、私が到着ロビーに入ると、父と、あきおは、椅子に座って、私が来るのを待っていました。遠目に、父の姿を見ると、
「ずいぶん、痩せたなあ・・・」
と、改めて感じます。
「遅くなって、すいません」
「ありがとう。お願いします」
それほど疲れた様子はなく、安心しましたが、あきおが、とても献身的に、父の世話を焼いている姿を見て驚きました。

翌日は、島内観光です。
私の運転する車で、パトン・ビーチを出発し、カロンを回って、ビュー・ポイントへ。それから、ナイハン・ビーチ、プロンテップ岬と回りました。
12年前と、ほとんど同じコースでしたが、つい最近まで、ひと言も弱音を吐いたことのない父が、体力があまり残っていないのか、
「ちょっと、目眩がする」
と、体調の不安を口に出します。
ロータスで入った、MKでも、父は、食事が進まないようで、本当に、わずかしか食べません。大食漢だった父の、現在の食べる量を見れば、
「老いとは、どういうものなのか」
容易に想像できました。

夜は、いよいよ、今回のメインです。新装なった、ブレイクポイントで、私の働きっぷりを見てもらいます。夏休みも終わりで、4、5日前から、客足が弱くなってきましたから、
「ガラガラだったら、どうしよう」
と心配しましたが、3日間とも、よく持ちこたえ、面目を保ちました。
「お店も繁盛しているし、あきおも、ずいぶん立派になった。なおこも、きよみも、本当によくしてくれた。これで、思い残すことはない」

8月30日未明、
父は、なおこと、きよみに連れられて、日本に帰っていきました。
「また、来てくださいね」
私も、ラントムも、あきおも、そう言って見送りましたが、今回が最後の海外旅行になるかもしれません。

昔は、多くの家庭で犬を飼い、年老いた、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らす子どもが大勢いましたが、それも時の流れと共に少なくなって、今では、別居が当たり前になってしまいました。
子が親を殴り殺したり、親が過剰防衛で、息子を刺し殺してしまったり・・・、そんなことが起こらないように、犬や、老人がタイムリーに死んで、子どもたちに、大切なもの、つまり、
「命の尊さ」や、「それを、失うことの重大さ」
を教えていたのでしょう。
もしかしたら、今の老人は、元気すぎるのかもしれません(特にプーケット!)。
「ゴルフ」や、「女」に、現を抜かす暇があるのなら、孫と一緒に暮らして、とっとと、死んで、悲しませてあげるのが、じいちゃんの最後の愛情ってもんですよ(犬と一緒に、死んでください!)。

姉と一緒に、小さな私が、父の後を歩いています。
麦わら帽子を被り、手には魚獲りの網を持って、大きな背中についていきます。
一緒に暮らせるだけで、家族一緒にいられるだけで、幸せいっぱいの毎日。そんな日々から、あっという間に、時は流れ、今、私は49歳、姉は他界し、父は、人生の黄昏時を迎えています。
あんなに強く、恐く、ずっと私を守り、叱り、支えてくれた父も、命の炎が消えようとしている今、私や、あきおを頼っているのです。そんな父の姿を見て、私は、初めて自分が大人になったことを実感できたような気がしました。

子どもが幼いころは、「優しさ」を、
ちょっと、成長したら、「強さ」を、
思春期には、その両方を、 
そして、大人になったら、「老い」と、「死」を見せるのが、父親の役目・・・。
老いて、よぼよぼになって、老醜を晒し、そんな私の姿を見たとき、子供たちは、きっと、逞しく、優しい大人になってくれるでしょう。

父の魂が私に、私の魂が子どもたちに・・・。
たとえ死が訪れ、時は過ぎ行くとも、その魂が絶えることはありません。

生んでくれて、ありがとうございました。
育ててくれて、ありがとうございました。

今、私は父に、心から、そう言いたいと思います。
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# by phuketbreakpoint | 2010-09-19 18:54
8月25日、
帰国中の、あきを除く、私たち家族は、ピピ島の一泊旅行に出かけました。
前回、ここを訪れたのが、1995年の2月です。あれから、15年、どう変わっているか、非常に興味がありましたが、トン・サイ湾の港から眺める景色は、それほどの変化はないように思えました。
しかし、船が多い!
元々、小さな湾ですが、大小様々な船舶で埋め尽くされており、
「ちょっと、海水浴でも・・・」
とても、そんな気分にはなれません。
島の反対側にある、ロ・ダラム湾は、船も少なく、ビーチ・パラソルが並んでいて、一応、リゾートという雰囲気はありましたが、目を見張るほどの美しさでもなく、プーケットのビーチと、大差ないように感じます。ボート・タクシーで、足を延ばせば、
「さすが、ピピ島!」
というポイントもあるようですが、わざわざ、プーケットから船で来たというのに、また、船に乗らねばならないというのも、
「入場料を、二度取られるような気分」
になって、どうにも気が進みません。

翌日、ホテルのチェックアウトは、11時でした。
帰りの船が出る2時半まで、たっぷり時間がありましたから、徒歩でビュー・ポイントまで、行ってみることにしました。
ところが、ラントムは、出発前から、
「私、この辺(ホテル周辺)で、ブラブラしてるわ」
と、まず脱落です(タイ人は、太陽の下で歩くことを、極端に嫌いますね)。きよみも、少し歩き始めて、
「私も、ママと一緒にいる」
と、リタイアしました。前日に散歩したときも、
「夕方は、涼しくて気持ちがいいねえ」
と、みんなが喋っている、その横で、きよみ1人だけ、汗だらけになって、
「暑くて、死にそうだー」
なんて言っていましたし、菱和の寮生活で落としてきた体重も、プーケットに戻って、僅か2週間の間に、リバウンドしてしまい、山登りするには、体が重くなり過ぎていたようです。
近所の飼い猫が、寄ってくる度に、
「この猫、きよみのことが好きみたい」
と可愛がっていましたが、きっと、猫は、こう言いたかったのでしょう。
「しめしめ・・・・。この子の傍にいれば、いつでも、食べ物にありつけるぞ・・・」

結局、なおこと2人で登ることになりました。
アスファルトで舗装された坂道を歩いていくと、しばらくして、
「ビュー・ポイント、こちら」
の目印が出ています。残り時間は、まだ、たっぷりありましたから、その先にある、「TUNAMI VILLAGE」を、見に行くことにしました。南海の離島で山登りというのも変な話ですが、前日の冴えない湾の様子より、こちらの方が、遥かに魅力的に思えます。
しかし、道路は、よく整備されているものの、道幅が広く、木陰もほとんどありませんから、日光が全身を直撃し、しかも、雨季とは思えないほどの青空の下、私と、なおこは、坂道を上っていきました。

大勢いる我が子の中で、父の無謀な提案や思いつきに、いつも最後まで付き合ってくれるのが、なおこです。
私は自分の長所を、辛抱強さだと自己評価していますが、これを最も受け継いでいるのが、なおこなのかもしれません。
「長い坂だなー。ぜいぜい・・・・・。でも、頑張るぞー」
「オー!」
「上りきるぞー」
「オー!」
なおこと勝どきを挙げながら(2人だけの、アワ・ブームです)、ようやく、坂の上に着いたと思ったら、そこには、さらに厳しい急勾配が続いていました。
「うわあああ、また坂だー!」
「ひゃー、パパ、死んじゃうー!」

1時間も歩いたでしょうか。突然、山の中に、人工湖が現れました。
「こんな小さな島に、こんなに、いっぱい人がいて、よく水が足りるもんだ」
と不思議でしたが、こういう仕掛けだったんですね。
山の斜面に、ゴムシートを張って作られた湖には、水は、あまり残っていませんでしたが、この地点から、山向こうに海が見えました。
「あと少しだー!頑張るぞー!」
「オー!」
本当に、あと少しかどうか、根拠はありませんでしたが、とりあえず、そういうことにして、私たちは先を急ぎました。

ところが・・・・、
「痛ーっ!なんか、踏んだー」
なおこが突然叫んだので、靴を脱がせて調べてみると、ガラスの破片が靴底に、めり込むように突き刺さっています。足の裏から、血も出ていましたから、葉っぱに唾をつけて止血しましたが、これ以上、無理をして歩いても、目標に辿り着ける当てもありません。
「仕方ない。ここで引き返そう」
ツナミ村は、断念することにしました。

人間とは不思議なもので、当てもなく歩いているときは、実際の距離より遠く感じ、不安になるものですが、ひとたび帰路に就くと、とたんに元気がいっぱいで、ピクニックのような気分になってきます。
「なおちゃんのー、一番好きな人は、誰ですかー!」
「それは、パパで~す!」
「クシシシシっ・・・・・、お菓子買ってあげよっと」
足取りも軽く、下り坂を歩いているうちに、だんだんと勢いがついてしまい、駆け足の状態になってしまいます。
「なおこー!止まらない、止まらない、止めてくれええええ・・・・」
「パパー!助けてえー、止まらなーい!」
小学生の遠足みたいなことをやりながら、私たちは、山を下って行きました。

すると、いきなりサルが現れ、我々の前方を、ひょこひょこと歩いていきます。
「あっ、サルだー!」
ビックリしましたが、
「パパ、あれは、きっと、ガイドさんだよ」
なおこが、そう言うので、ついて行くことにしました。
ところが、その先に分かれ道があり、なんとなく、右に進む方が正しいように思えましたが、サルは、「左に行け」と言っています(そう見えたんですよー)。
「パパ、左だって・・・。大丈夫かなあ」
「なおこ、騙されるなよ。こいつは、嘘つきだ」
サルの案内とは逆に進むと、しばらくして、ファランのお兄ちゃんが、前方から歩いてきました。
「エクスキューズ・ミー。ビュー・ポイントは、こっちで、いいんですか?」
私が英語で尋ねると、
「・・・いいのかな?どうなんだろう・・・?どう思う?」
この人も迷っていたようで、まるで話になりません。すぐに、お兄ちゃんを見限って、私と、なおこは、さらに前進しました。
「なおこ、見ろー!あそこだー!」
5分も歩かないうちに、ビュー・ポイントの入り口は簡単に見つかりましたが、だったら、さっきのお兄ちゃんは、いったい何だったんでしょう(サル以下?)。

大きな岩肌に腰かけ、しばし休憩です。眼前には、アンダマン海と、ピピ島の山々が広がっていました。近くで見ると大したことのないビーチでも、苦しい思いをして辿りついた、ビューポイントからの眺めは、格別のものでした。
「ああ、いい気分だねー!」
頑張って、目標に到達するって、本当に素晴らしいことですね。
「やったな、なおこー。エイ・エイ・オー!」
私たち父娘は、もう一度、勝ちどきを挙げました。


8月30日、なおこと、きよみは日本に戻っていきました。
久しぶりに賑やかだった我が家も、静かになり、私とラントムに、また普段の生活が戻ってきました。
子どもの頃、学校が休みになるたびに、神戸に住む祖父母の家に、親戚たちが大勢集まったものでしたが、みんなが帰った後、祖母は、いつも気が抜けたように、ボンヤリしていたそうです。
月日が流れ、私にも、同じ思いをする番が回ってきたようですね。

ぼやーん・・・・・・。
なんとなく、虚ろな表情の私に気付いたのか、
「今夜は、なおこと、きよみを連れてきてあげたわよー。これ、パパにあげるから、一緒に寝たら」
ラントムが、クマさん人形と、キティーちゃん人形を、寝室に持ってきてくれました。
「こっち(クマさん)が、なおこ・・・・で、こっち(キティーちゃん)が、きよみ・・・・?
うん、確かに、よく見ると、似てるような気もする・・・・。
よしよし、よく帰ってきたなあ。今夜は一緒に寝よう」

私とラントムは、子供たちと一緒に、今夜も眠りに就くのでした・・・・。
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# by phuketbreakpoint | 2010-09-05 10:42
ラントムのお父さんは、数年前に脳溢血で倒れ、左半身が不自由になってしまいましたが、元気だった頃は、いろんな方面から声がかかり、結構忙しくしていました。

お父さんは、田舎生まれの田舎育ちで、田んぼと、ゴム林以外は、ほとんど何も知らない人間ですが、だからこそ、プーケットでは、非常に重宝されていたのです。
「パン(お父さんの略称)、ちょっと林に行って、ドリアン採って来てくれないか。半分、あんたにやるから」
「うちの裏庭、草ぼうぼうで大変だ。ちょっと、刈ってくれ」
「葬式で、豚を殺すから(出席者にふるまうため)、やってくれないか」
人殺し以外は何でもやる、便利屋みたいな仕事が多かったのですが、お父さんのように、田舎仕事ができる人は、今のプーケットには、なかなかいません。
人殺しで思い出しましたが、お父さんは、自称マッサージ師を名乗っていますが、若い頃、頼まれて揉んだ相手の男性が突然死してしまったそうです。村の人たちは、
「パンが、変なツボを押したから、死んじゃった」
と噂していたそうですが、遊び人である、お父さんは、その男性の未亡人を、しっかりモノにしてしまったようで、それを聞いた人たちは、
「やっぱり・・・。これが目的だったか」
と、ますます疑惑が深まってしまったそです(お母さん談)。


牛飼いに、ブタの世話、牛殺しに、ブタ殺し、野菜や果物の収穫、鳥打ち、カエル取り、ギボン狩り・・・。
「椰子の実採り」なんて、猿にしかできないと思っていましたが、人間だって、できるんです。椰子の木に、するすると攀じ登って、ココナツの実を下に落とす・・・、見ていると、簡単そうに見えますが、これができる日本人は、まず、いないでしょう。
椰子の木は、実の生っている部分から下は、枝が、まったくありませんから、手で掴んだり、足に引っ掛けて、踏ん張ったりすることができません。
まるで、ぶっとい上り棒のように、腕と足の平、腿の内側の3点で挟み込み、ぐっと腰を入れるように登っていきますが、かなり強靭な肉体を持った人でないと、なかなか上には行けません。私も、チャレンジしたことがありましたが、2メートルも登れませんでした。
ムエタイの選手が首相撲(相手の首の後ろに両手を回し、上体を引き込んで、ひざ蹴りを狙う動き)に、めっぽう強いのは、こういった日常運動で鍛錬されているからでしょう(当然、セックスも強いはず)。
もし、熱帯版「サスケ」、なんて番組があれば、制覇できる日本人は皆無でしょう。

ルクタンの実(砂糖やお酒にしたり、生で食べる果物。寒天のような食感)も、カロン・ビーチに住んでいた頃(1995年)は、よく採りに行っていました。
様々な木種がありますが、カロンに生えているものは、ココナツの木のように細長く、しかも、実が生っている部分は、かなりの高度にありますから、落ちたら、一巻の終わりです。近所に住む仲間とペアを組んで、一本一本、交代で登っていました。
採ってきた実を、ビニールパックに6個ずつ入れて、売っていましたが、公共の土地だろうが、個人所有の土地だろうが、勝手に採っていても、誰からも文句がつきませんでした。危険と収益のバランスが、著しく悪い作業でしたから、
「あんな危険な仕事で、1袋20バーツ?冗談じゃない!」
ライバルは、誰もいませんでしたが、相棒がバイクで事故死して、廃業となりました。

「椰子の実割り」も、田舎では必須の作業です(タイ料理には、ココナッツが欠かせません)。
昔、ジャイアント馬場さんが必殺技として使っていましたが、実際の「椰子の実割り」は、あれとは、似ても似つかないものなのです。
ナタで、グサリと切り込みを入れ、突き刺さった刃の、テコの作用を利用しながら、分厚い外皮と、内皮の間に隙間を作っていきます。それから、両手を使って、
“人間の頭の毛を、毟り取るように”
外皮を剥がし、取り出した中心部分を真っ二つに割って、内部の白い実を、専用の道具を使って、細かく削り取っていきますが、都会で暮らす人は、こんな面倒な作業は、まずやりません。袋入りのものを市場で買うか、市販のココナツミルクをスーパーで購入します。
新婚当時、ラントムが簡単そうにやっていましたから、これもチャレンジしてみましたが、まったく歯が立ちませんでした。

ブタを殺すのも、簡単ではありません。
“大きなハンマーで、頭部を強打して・・・・”
カウボーイが牛を殺すようなスタイルを、私は想像していましたが、タイ人は、そんなやり方はしません。
4人がかりで押さえつけて、動けなくし、ナイフで頚動脈を突き刺します。鮮血が流れ落ち(それをバケツで受けて、凝固させ、食べます)、次第に、ブタは動かなくなって、ご臨終となります。
しかし、こう書いていても分かりますが、かなり凄惨な作業ですから、
「じゃあ、オレがやろう」
という物好きな人は、プーケットでは、なかなか見つかりません(最近は、田舎の方でも少なくなってきたようです)。特にタイ人は、タンブン(徳を積む)に非常に熱心ですから、殺生は、極力避けたいのでしょう。
結局、いつも、お父さんのところに話が回ってくることになります。

ナマズ獲りも、得意でした。
「こんなの、ただのドブでしょう」
日本人から見れば、明らかにそう思える湿地帯でも、タイでは食料の宝庫です。岸辺には、パクブン(空芯采)が群生し、魚類も、たくさん住んでいますから、まったく、お金がない人でも、食べ物にありつくことができます。
浅瀬に壺を埋めておくと、翌朝には、ナマズや、プラチョーン(雷魚)が迷い込んでいるという、単純な漁法ですが、プーケットでは、
「あんな汚い川に入ってまで、獲りたかねえや」
と、お父さんの独占状態でした。

こうして、野良仕事最強王の名を欲しいままにしていたお父さんですが、倒れる数年前あたりから、強力なライバルたちに、その座を脅かされるようになっていました。
年々増加の一途を辿るミヤンマー人労働者が、建設現場の周辺に臨時の集落を作り、お父さんですらやらなかった、「犬さらい」(犬鍋用)や、雑草摘み(食べられるものが何種かあるようです)をやるようになると、   
「奴らには、敵わん」
と、第一線を離れていきました。さすがのお父さんも、近代化の波には逆らえず、とうとう、時代の渦に飲み込まれてしまったようです。
ここ何年かは、廃品回収に精を出して、
「ポー(お父さん)、みっともないから、ソイ中のゴミ箱をあさるの、止めてちょうだい」
ラントムから、怒られながらも、小遣い稼ぎに余念がありません。


数年前、社会科の教科書を使って、なおこに日本語を教えていた頃、
「リサイクルって、ポータウ(おじいちゃん)が、やってるようなこと?」
と、聞かれたことがありました。私は、
「ああ、ポータウは、地球の資源を大切にして、タイの環境を守っているんだよ」
そう教えてやりましたが、どういうわけか、なおこは、その話を、まったく信じていないようでした。
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# by phuketbreakpoint | 2010-08-03 00:58
7月9日、
長女マヨムが、イギリスに旅立ちました。
「こんなに大きなバッグ買っちゃって、大丈夫なのか?重量制限に引っかかったら、大変だぞ」
「心配しないで。留学生は、30キロまで、許されるの」
こんな会話をした数日後、チェックイン・カウンターの重量表示は、なんと、49・5キロを示しています。
「20キロも、オーバーしてるじゃないか!国内線は、15キロまでだから、35キロ・オーバーだって!?」
超過金は、キロ当たり、1650バーツも、チャージされるようで、トータルでは、3万バーツを超えてしまいますから、ラントムも、私も、血の気が失せて、
「減らせ、減らせ!」
と、空港ロビーでバッグを開けて、大騒ぎになってしまいました。

「本とか、重いものは、なるべく機内持ち込みのバッグに入れて、服とか、軽いものは、トランクに入れるんだ・・・」
土壇場で、ジタバタする見苦しさは、減量に失敗したボクサーみたいでしたが、なんとか、33キロまで落とし、ずっしりと重くなった、機内持ち込み用のスーツケースと、手さげ袋を2つ抱え、あの子は、手荷物検査のブースに消えていきました。
「出発前から、こんな調子で、大丈夫なのかねえ・・・」
ラントムと2人、心配顔で、空港を後にしましたが、今回の留学話は、ここまで、こぎ着けるだけでも、けっこうな労力を必要としました。


いよいよ、グリニッジ大学から入学許可も下り、代理店経由で学費を送金することになった、6月上旬の、ある日のことです。担当者は、
「(小切手は、バンコクまで)郵送すれば、いいですよ」
と言っていましたが、失くしたら大変ですから、ビザ申請を兼ねて、マヨムが、バンコクまで持参することになりました。

「これで、ひと安心だ。あとは、英国での送金確認を待って、ビザを申請するだけだな・・・」
そう思っていた、一週間後です。バンコクにいるマヨムから、電話がかかってきました。
「困ったことになったの。小切手が、なくなっちゃったって・・・・」
聞けば、代理店の管理がズサンで、どこを探しても、見つからないということです。すぐに、担当者に電話を入れて、状況を確認しましたが、
「安心してください。受取人限定ですから、お金は、まだ引き出されていません。もう一度、小切手を作って、送ってください」
大金を失くしておきながら、
「すいません」
の一言もなく、余りにも、
「あっけらかーん」
とした説明に、ラントムも、私も、頭にくるやら、呆れるやら。
「あんたじゃ、埒があかないから、上司の携帯番号を教えてくれ」
責任者に、電話を入れ直しましたが、すでに、先回りされていたようで、
「あのー、こちらは、プーケット・・・・」
と、ここまで言ったこところで、この上司は、ブチっと、電話を切ってしまい、その後は、何回かけても、電話に出ませんでした。

怒りは、収まりませんでしたが、手続きしないことには、話は進みません。
銀行に行って相談すると、紛失証明が必要だということで、私とラントムは、その足でパトン警察に向かって、証明書を出してもらい、また銀行に戻って、小切手を作り直しました。
「タイでは、いろんなことがありますよ」
最近は、少々のことでは驚かなくなった私ですが、あまりと言えば、あまりの、いい加減さで、久々に、
「タイの恐ろしさ」
を、味わいました。

再び、バンコクに戻ったマヨムですが、
「今度こそ、ビザが下りるのを待つばかり」
そう思っていた、6月中旬、またバンコクから電話がかかってきました。
「パパ、大変なの、ビザが出ないんだって。この前提出した申請書類が、1枚足りなかったみたい。もう一度申請し直してだって」
しかも、1万バーツ(高すぎねえかい、アンタら?)もした、ビザ代は、
「お返しできません」
だそうで、なんと、もう一度払わなければ、申請できないなんて言っています。

「書類が1枚足りないなら、追加提出すれば済みだろう。申請を受理できないなら、お金を返すのが、当たり前だろ」
ところが、英国大使館に電話を入れても繋がらず、受付窓口になっている出先機関(東京なら、ブリティッシュ・カウンシルのようなところ)も、午後まで、担当者は来ないと言い、ようやく出てきた担当者は、
「日本大使館なら、お金を返してくれる・・・?ここは、英国大使館(の出張所)だから、返せないですよ。みんな(他の大使館も)、そうですよ」
強気の対応で、まったく話になりません。
英国大使館の関係者・・・、特に、大使ら、本国から来ている人たちは、こういった状況を、把握していないのかもしれませんから(現地採用の英国人や、タイ人スタッフが、つるんで金儲けに走っている可能性大)、近々英文で正式に抗議文を郵送しようと思っていますが、酷い話の連続で、マヨムも、私たち夫婦も、もうキャンセルして、別の国に留学しようかと、話し合っているときでした。
紛失事件の引け目もある代理店から電話が入り、
「我々も全面的に協力しますから、もう一度だけ、申請してください」
ということで、また1万バーツ持って、マヨムは、バンコクに向かいました(いったい、何回行かされてんだか・・・)。

ビザ申請が終わり、プーケットに戻ってきたマヨムですが、今度は突然、
「もしも、イギリス行きがダメになったら、私、結婚するわ」
と、トンデモ発言が始まります。
留学が実現するかどうかの、瀬戸際だというのに、どこから、そういう話が出てくるのか、不思議でしたが、今度の相手は、26歳のドイツ人で、バンコクで知り合ったんだそうです。本人は否定していますが、どうせまた、ネットで見つけてきたに違いありません。
「あのなあ、マヨム。何で、いきなり結婚なんだ?」
「彼は、とっても、いい人なの」
「なんで、そんなことが、わかるんだ?」
「何回も、会ったから、わかるの」
「何回もって、何回だ?」
「2回。でも、いつも、メール交換してるから・・・」
こっちの話も、空いた口が塞がりませんでした。

やっとのことで、ビザは発給され、なんとか、イギリスに行くことができましたが、昨夜も、あの子から、電話がかかってきて、
「あ、パパ?ステイ先の黒人家族は、ケチくさいことばっかり言って、イヤ。やっぱり、タイがいいなあ」
なんて、言っていました。マヨムの話を聞くまでもなく、タイほど、自由な国はありません。
「やりたいことが、何でもできる」
そして、
「やりたくないことを、やらずにすむ」
そんな国は、他にないでしょう。
それがわかるだけでも、留学した意義があるんじゃないでしょうか。

マヨム、
大きな世界を、見てきてください。
いろんな人に出会って、いろんな経験をつんで、そこで見たり、感じたりしたことが、きっと将来、あなたを助けてくれるでしょう。
検討を祈ります。
Good luck!
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# by phuketbreakpoint | 2010-07-24 08:20

なおこと2人きりの夜

菱和高校(仮名)ゴルフ部に入部した末娘のきよみは、順調に実力を伸ばし、学生トーナメントでも好成績をあげ、とんとん拍子で勝ち進んでいきました。そして念願のプロテスト合格、初年度から大活躍です。
「ゴルフ界の超新星、西岡きよみ、ツアー5連勝」
「来年は、世界制覇だ」
出るトーナメント、出るトーナメント、次から次へと勝ちまくり、ガッポ、ガッポと舞い込んでくる賞金の山!私にも、インタビューの依頼が殺到し、
「きよみパパ」
として、マスコミ各社に引っ張りだことなり、参院選出馬へ。見事当選し、国会議員になるも、一度も国会に顔を出さず、きよみに買ってもらった温泉宿で、悠々自適の老後を過ごす・・・・・。

そんな夢を抱いていたのですが、やはり、世の中、甘くはありません。
結局、ゴルフ部は、
「先輩・後輩の上下関係が非常に厳しいみたいだから(これはタイ人留学生が最も敬遠したがる理由のようです)、入るのやめた」
そうで、きよみは姉の、なおこが席を置く、和太鼓部に入りました。
「和太鼓?それじゃあ、パパの夢は、どうなっちゃうんだ?」
「心配しないで。和太鼓で優勝して、ちゃんと温泉は買ってあげるから、期待しててよ(和太鼓に賞金なんかあるんでしょうか?)」

そもそも、きよみが中学1年から、私の手もとを離れてしまったのも、あきおや、なおこが日本に行くことになったのも、元を質せば、私がプーケットで暮らしはじめたのが原因ですが、タイでタイ人の女性と結婚し、家族を持つというのは、辛いことばかりでもありません。
日本のお父さんたちが経験できないような、素敵な思い出を作ることだってできるのです。

昨年の10月、私は、再び高知県・菱和高校を訪れようとしていました。前年に、あきおが、「あんなこと」になってしまったので、今回は、なおこと2人っきりで、年頃の娘と一緒に数日間過ごさねばなりませんから、私には、ちょっとしたプレッシャーに感じられました。
「果たして、なおこは喜んでくれるだろうか?」
「話が合わず、場がもたなかったら、どうしよう・・・」
あの子が、私と一緒に遊んでくれたのは、ずいぶん昔のことです。それも、双子の弟である、あきおといつも一緒でしたから、2人っきりではありませんでした。きよみ(なおことは、5つちがい)が生まれて以来、私も、ラントムも、小さな、きよみの世話に追われ、なおこや、あきおは、「おいてけぼり」にされることも多かったですから、本当の意味で、あの子と、1対1で向き合うというのは、今回が初めてになるでしょう。2人で楽しい時間が過ごせるかどうか、とても心配だった私は、初デートに挑む、中学生のような心境で予定を組んでいきました。

「初日は、お土産渡して、喜ばして・・・・。そうそう、なおこの好物のタイのお菓子も、忘れないようにしないと・・・。その後、ホテルでチェックイン。前に、あきおと一緒に泊まった所が、清潔でいいな。それから、ご飯食べて・・・」
いつも、高知では、金曜日の午後から、月曜日の朝まで、3泊4日、ゆっくり時間をとって、子どもたちとの再会を楽しんでいましたが、このときは、
「土曜と、日曜だけで充分だろう」
と、2泊にしておきました。

そして、3週間後、
「なおこー!パパ、来たぞー!」
お土産を、いっぱい抱え、私が顔を出すと、なおこは、
「パパ、サワッディー」
と嬉しそうな笑顔で、タイ式の挨拶をしてくれました。
2人で一緒に寮に行って、持ってきたお土産類を置き(本当は男子禁制ですが、寮長さんが親切な方で、中まで案内してくれました)、市内のホテルに向かいます。チェックインの後、ショッピングモールに出かけ、
「何が食べたい?」
と聞くと、
「じゃあ・・・、お好み焼き」
ということで、二人で鉄板を囲みました。

「どうだ、学校は?」
「あんまり、面白くない」
昨年、大勢いたタイ人の友だちが、厳しい寮生活や、田舎暮らしに耐えられなかったのか、みな辞めてしまったそうで、なおこは、一人ぼっちになってしまったようです。
所属クラブ(当時は、銃剣道部)の練習も、非常に中途半端(平日の放課後に1時間程度)で、勉強以外は、あまりやることがなかったのでしょう。
お勘定を払うとき、お店の若いご主人が、
「菱和の生徒さんですか?実は、私も卒業生でして・・・」
と挨拶してくれました。翌日の、すき焼き屋でも、ホールリーダーらしき女の子が、
「私、横峰さくらさんと、同級生で・・・」
と自己紹介を受けましたし、ここら一帯は、菱和コネクションで溢れているようです。

食事の後は、映画を見ました。
「カイジ・人生逆転ゲーム・・・何だい、これは?」
と思いましたが、意外と面白く(コミックスが原作の映画は、けっこうイケますね)、最後まで、手に汗握って、大いに楽しみました。
映画が終わり、ジャスコで、お菓子や、ビールをたっぷりと買い込んで、ホテルに戻り、私は、ビールとハイボール、なおこも、チューハイで乾杯です。
「お酒飲んで、大丈夫なのか?」
「いいの、いいの。学校じゃ飲まないから、安心して」
カクテル系の甘ったるい酒を3本、一気に飲んだ、なおこに、
「パパ、もっと買ってきて」
と言われ、ホテルの一階にあるコンビニに下りて、買ってきてやりましたが、これもケロッと飲んでしまい、まだまだ、飲み足りない様子でした(酒豪になりますね、この子は)。

「そろそろ寝るか・・・」
小さめのダブルベットが一つだけの部屋でしたが、なおこは嫌な顔もせず、同じベットで寝入っています。
なおこが小さかった頃、私とラントムは、子ども3人(なおこ、あきおとマヨム)を挟むようにして、寝ていました。
あの頃は、サウスロードも、ブレイクポイントも、始める前で、お金こそありませんでしたが、子どもたちと過ごす時間だけは、たくさんあったと思います。すやすやと気持ちよさそうに眠る、なおこの顔を見ながら、私は、あの頃のことを思い出していました。

現在ジャングセイロンが建っている場所は、昔は、大きな原っぱで、私たち家族は、よく、ラントムの運転練習を兼ねて、ここに遊びに行きましたが、違法投棄された産業廃棄物の中から、古いポットを見つけ出した、なおこは、それを片手に、
「パパー、ママー、みてー!」
と大喜びしていました。大人から見れば、単なるゴミも、当時1~2歳だった、あの子には、
「こんな、すごいもん、みつけたぞー!」
という思いがあったのでしょう。
「これ以上ない」という満面の笑みは、私や、ラントムの脳裏に強く焼きついているようで、今でも、ときどき、このときの、なおこの笑顔が話題に出ます。
その、なおこが、こんなに大きくなって、もう高校生です。あのとき以上に大きな笑顔を、これからも、ずっと見せてくれればいいのですが。

2日半を、水入らずで一緒に過ごし、3日目の午後に、菱和の寮に戻るときの、なおこは、本当に名残り惜しそうでした。
「あー、寮に帰りたくないー。もっと、一緒にいたい」
別に、私が恋しいわけでもなく、学校の外に連れ出してくれるなら、誰でもよかったのかもしれませんが、父親なら、安心して自分を曝け出すことができますから、あの子にとっては、貴重な時間だったのでしょう。

「じゃあ、パパは、行くからな。最後に、お別れのキスをしてちょうだい」
恥ずかしがって、嫌な顔されるかと思いましたが、すんなりと、あの子はしてくれました。
日本では、「キモい」とか言われ、虐待されているお父さんもいるようですが、17歳にもなって、なおこは、私と手をつないで歩いてくれます。娘と2人っきりで、足掛け3日、こんなに素敵な時間を過ごせたのも、タイで暮らしていたお陰かもしれません。

「あと、1年半、いや、来年の今頃は、もう推薦も決まってるだろうから、正味、あと1年の辛抱だよ」
最後に私は、そう言って、なおこと別れました。
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# by phuketbreakpoint | 2010-07-14 08:55
30年ほど前、東京12チャンネル(今のテレビ東京)で、「世界の料理ショー」という番組が放映されていました。
グラハム・カーという料理研究家(ということになっていましたが、お笑いタレントに見えました)が、世界の珍しい料理を紹介する番組でしたが、レシピを詳しく説明するわけでもなく、料理も、それほど美味しそうでもなく、繰り出すジョークも、北米在住者向けのようで、あまり意味がわからないものが多く(吹き替えは良かったですね)、要するに、
「大したことのない番組」
だった記憶がありますが、最後の試食時に、彼が見せる表情だけは、他の、いかなる料理番組にもない、素晴らしいものがあったと思います。
「人間は、きっと、本当に美味しいものを食べたとき、こんな顔になるんだろうなあ・・・」
そんなことを感じさせるものでした。


昨年の暮れ、お土産で戴いたオールドパーを飲んだところ、予想を遥かに上回る美味しさで、ビックリし、グラハム・カーの表情と同じになってしまいました。
爽やかに広がる、「口あたり」、
鼻腔から、後頭部に、スーッと抜けていく、「香り」、
舌の上で、じんわり、溶けていく、「まろやかさ」、
喉越しの強烈な、「破壊力」、
そして、胃袋に入った後も、ジンワリと余韻に浸れる幸福感・・・・、胸の奥がキューンと締めつけられるような、体の芯が暖かくなるような、全身が、ムニュムニュしてくるような・・・、例えるなら、激しい恋をしたときの状態と、この幸福感は似ているのかもしれませんが、こんな説明を、たらたら書いていること自体、オールド・パーに対して、失礼なんでしょう。

20歳の頃から、ふらふらと海外に出かけるようになった私は、世界の各地で、文化遺産と呼ばれるものを見てきましたが、ルーブル美術館だろうが、大英博物館だろうが、コロッセオだろうが、エトワール凱旋門だろうが、「スゲーな、これは!」と感動したことなんて、ただの一度もありません。
「19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトによって・・・」
なんて説明されても、
「ああ、そうですか」
と、それだけです。
そもそも、自分には、
「どうせ、人間の作ったものなんだから、大したことないだろう」
という感覚があるのか、歴史に残る、偉大な巨匠の作品も、工作上手な、小学生の作品も、
「あんまり、違いは、ないんじゃねえの?」
と思ってしまうわけです。

私は、大自然が創り出す、美しさが好きです。
アルプス、フィヨルド、グランド・キャニオン、ナイアガラ・フォールズ・・・・。
見てきた人に、
「どうだった?」
と尋ねれば、
「凄かった」
としか、答えようがありません。無駄な説明をする必要は、まったくないと言えるでしょう。
うちの奥さんなんかも、同じようなことを言っています。40歳になった今でも、いつも自信満々に、こう豪語していますね。
「私はねえ、パンニャン(実家のあった村)で、一番きれいだったんだから・・・。
どれくらい、きれいだったか、ですって?
とにかく、きれいだったのよ」
(大した自信です)。

人間が造ったもので、私を感動させたものが、一つだけありました。
ニューヨークの摩天楼です。
2度目に、ニューヨークを訪れた際、空港から地下鉄に乗って、50番ストリート駅で降り、階段を上って、地上に出て、パッと、頭上を見上げると、そこには、眩いばかりの電飾の世界が、空一面に広がっていました。あのときは、理屈ぬきで、
「スゲーなー!」
と思ったものです。

で、オールド・パーなんですが、つまらない説明なんてしてないで、たった一言、
「・・・・・・これは、うまい!」
と言えば、充分じゃないでしょうか。
説明のいらない美味しさ、素晴らしさこそ、本物の証だと思われますが、人間年をとってくると、そういった素直な感覚が、どんどん失われていってしまうわけです。
プーケットを初めて訪れて、ラントムに出会ったときも、
「彼女こそ、運命の人ですね。純潔美少女ですよ」
なんて、勝手に盛り上がっていましたが、結婚を決意した後になって、
「あれ、離婚暦があるの?」
「ふーん、娘もいるのか?」
どんどん、「真実」が解き明かされていき、ずいぶん経った後になって、
「あらま、息子もいたんだ・・・」
という事態に直面したりすると、
「世の中ってのは、裏があるもんなんだなあ・・・・」
そんなことを学んだりして、素直な感覚どころでは、なくなってしまうわけですね。

そこで、「女」の代用品として、酒が登場してくわけです。
酒の場合、
「さんざん、お金を注ぎ込んで、ようやく、念願かなったのに、意外とガッカリ・・・」
インチキな、キャバクラみたいなことは、まず、あり得ません。使ったお金に見合うだけの内容は、しっかり、付いてくるでしょう(そうじゃない場合は、偽物じゃないでしょうか)。
一口に、酒といっても、
「こってり飲んで、ドロンと酔ってしまう」
ワインや、日本酒などの醸造酒は、体内に不純物が、いっぱい溜まっていくようで、私は、ほとんど飲まず、サラッと飲んで、すっきり酔う・・・、ウイスキーや、ジンなどの蒸留酒が好きです。
特に、いいウイスキーを飲むときは、とりあえず、ストレート、そして、できることなら、一人酒がいいですね。
しみじみ味わって、思いっきり、だらしない表情になっていても、誰にも見られずに済みますから、安心できます。つまみも、肴も、必要ありません。
コークや、ジュースと混ぜてしまうのも、ずいぶん無礼な話だと思います。きっと、胃の中で、お酒が泣いているでしょう。
「私を、こんな女たち(?)と、同格扱いにするのね・・・」
と。

もうじき、50歳になろうとしている今、改めて感じますが、「酒」や、「女」を真っ正直に追求する人生を歩んでいる人には、決して、大きな失望や、苦悩は、ないような気がします。
「なかなか、自分が評価してもらえない」とか、
「他の人たちが、自分より幸せに見えてしまう」とか、
「みんなから、なんて言われているか、気が気ではない」とか・・・・。
そんな、つまらない面子や、意地、見栄、プライド、世間体なんか、「酒」や、「女」の前では、クソみたいなもんです(断言)。
うまい酒が飲めて、いい女が抱けるなら、そんなもん、どうだって、いいじゃねえですか。

「学業」も、「職業」も、「地位」や、「名誉」や、「富」も、、「酒と女」という、巨大惑星の周りを浮遊する、「宇宙ゴミ」みたいなものでしょう。
パーっと、全部ドブに捨てちまって、この南の島に、どんどん遊びにきてください。
50歳になっても、60歳を過ぎても、70歳を超えて、「もう、オレの人生は、終わった」なんて、しょぼくれたことを言っている人にでも、ここには、胸を焦がすような、酒と恋が、きっと、あなたを待っているはずです。

さあ、宇宙ゴミなんて、捨てちまいましょう。
思い切って、パーっと、全部・・・・。
さあ!
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# by phuketbreakpoint | 2010-06-23 10:21

単なる計算間違い?

何年か前、プーケットで行われた、あるイベントでのことです。
日本人3割(約100名)、タイ人7割(200名以上)、白人4、5名(国籍分らず)の聴衆の前で、
「Ladys and gentlemen・・・・」
拡張高く始まった、来賓(日本人)の挨拶でしたが、続くスピーチも、すべて英語でしたから、用意した通訳(日ータイ)も、どうすることもできず、聞いていた人の、多くが内容を理解することはできませんでした。
「すいません・・・・。ここは、タイなんスけど・・・・」
思わず、そう呟いてしまった私でしたが、もしも、状況が違っていたら(例えば、アラブ諸国だったら・・・)、間違いなく、ド顰蹙ものでしょう。
日本人が、タイでやっているイベントなんですから、タイ語か、日本語、どちらかを使えばいいはずですが、この人は、僅か5人の白人のために(それも、英国圏の人か、どうかも、わかりません)、英語を使うことに対して、まったく疑問を持っていなかったようです。

こういったことが起こる原因は、
「オレは、英語が流暢に喋れるんだぞー」
という、自己顕示欲だけでなく、
「英語なら、世界どこにいっても、通用するはずだ」
といった、大きな勘違いも、含まれていると思います。
学生時代、共産圏だった頃の、東ヨーロッパを旅したことがありましたが、呆れるくらい英語が使えないので、驚きました。
基本動詞はもちろん、「mother」「father」など、ごく簡単な単語ですら、ほとんど通じません。なんとか、理解してもらえたのは、「Yes」「No」くらいでしょうか(頷いたり、首を振ったりすれば、誰だってわかりますね)。

当時(1984年ごろ)の東ヨーロッパでは、第一外国語はロシア語で、ドイツ語や、フランス語は、古くからヨーロッパの主要言語でしたから、使える頻度も高いのですが、英語は、敵性言語(アメリカ人が使ってますからね)の上に、「島の言葉(失礼。でも、かつて欧州の中心だった中部ヨーロッパから見れば、イギリスなんて、そんなところでしょう)」ですから、あまり重要視されていなかったように感じます(注、若者を除く)。
また、西ヨーロッパでも、北欧を除けば、英語は、それほどオールマイティーとは言えず、南に下れば、下るほど、通用しなくなっていきました。南米は、もちろん、アフリカ大陸でも、イギリスの植民地だった国は、それほど多くはなく、英語が通じない国は、結構多いように思えます(日本も、ある意味そうでしょうか)。

「こんなの常識」
だと思っていたことが、実際は、
「そうでもなかった」
というのは、世の中には多いですね。
最近は話題性で、ライバルのカーネル・サンダースに、すっかり、遅れをとっている感のある、マクドナルドの「ドナルドくん」ですが、なんと、本名(?)は、ロナルドだと言うじゃないですか。
日本では、公共のメディアを使って、堂々と、
「僕、ドナルド」
と、他人になりすましていましたから、ネット上なら、「不正アクセス防止法違反」に問われているかもしれません。
「ロナルド・マクドナルド被告に、懲役5年の実刑判決。改めて問われる、企業倫理」
そんな記事が、紙面を、賑わすことになるのでしょうか。

また最近、大阪在住の知人に、関西ローカルのバラエティー番組を録画してもらって、見る機会があったのですが、東京と大阪では、論調が、まるっきり違うので驚きました。
大阪の番組では、素の意見が、そのまま流されることが多いように感じます(ネットに近い)。東京だと、差し障りのない内容でまとめて、最後のコメントも、
「本当に、困ったもんですね」
と締めるのが、一般的ですが(周りの雰囲気を確かめた上で、自分だけ突出しないように、「安全地帯」から、多数派で穏便な意見だけを口に出す)、大阪は、
「そんなもん、当たり前とちゃう?」
完全に、開き直っているのです。
以前から、東京マスコミの、
"メディア大政翼賛会”
的な横並び、同一論調には、大きな疑問を感じていましたが、これだけ世の中が多様化しているのに、各紙、各テレビ局、みな同じ意見で、誰も疑問に思わない(注、思わせない。反目の意見は、決してオンエアされない)のが実に不思議です。

そして、朝青龍です。
東京で、袋叩きにあった不人気横綱も、高知県・菱和高校(仮名)では、依然として、ヒーローでした(OBですから)。
きよみの入学式は、同校の体育館で行われましたが、入り口には、
「どうじゃー!」
と言いたげなほど、巨大なパネルが飾ってありました。
「酔っ払いを、ぶん殴ったくらいで、横綱をクビにするな!」
そんな気概が伺われます。さすが、高知だと思いました。

その昔、12月になると、
「力道山暴れる」
「力道山、また暴れる」
こんなベタ記事が、しばしば新聞の社会面を飾っていたそうですが、プロレス界は勿論、マスコミ各社の論調も、
「年末に、力道山が(リングではなく、盛り場で)暴れるのは、師走の風物詩(?)なんだから、大目に見てやろう」
といったものだったようです。
「国民的ヒーローの力道山が、プライベートで、美味しくお酒を飲んでいるのに、怒らしちゃあ、いけねえぜ」
そんな意識もあったんでしょうか(いい時代ですねえ)。
殴られた側だって、
「オレよう、この前、力道山に、ぶん殴られちまったぜ、ガハハハ・・・」
怒るどころか、酒のネタにして、十分に元は取っていたでしょう(私なら、そうしますが・・・)。

また、2代目・貴乃花が横綱に昇進した頃(1994年ごろ)も、巡業先で高校生を殴打したことがあったのですが、マスコミは、
「生意気な態度の高校生が悪い」
という論調に終始し、
「僕が悪かったんです」
という高校生の談話も、わざわざ載せて(本当に、本人が喋ったんでしょうか?)、みんなで寄ってたかって、
「見知らぬ高校生にも、ちゃんと指導できる(あれって、頭にきたから、殴っただけでは・・・)貴乃花は、さすがに、立派だ」
という虚構を作り上げていました。
同じことを、やっているのに、人気絶頂だった頃の貴乃花なら許され(今ならダメでしょう)、不人気の朝青龍なら、「クビ」という、ダブル・スタンダードは、誰が決めているんでしょうか。

どんなことでも、裏表は、必ず存在します。人それぞれ、立場や、考え方の違いは、確実に、あるわけですから、物事を絶対視していては、大きな過ちを生む可能性があることだけは、忘れてはいけないでしょう。
その点、ラントムは、自分の女房ながら、実に立派です。
驚くべき話ですが、21世紀だというのに、我が家では、ダーウィンの「進化論」も、コペルニクスの「地動説」も、キリスト教徒のラントムによって、完全否定されたままで、そんな「邪説」を、うっかり口にしようものなら、「異端」扱いされて、弾圧の対象となり、3日くらい、口を利いてもらえなくなってしまいます。
「ガリレオ・ガリレイが、400年も前に、数学を使って、科学的に実証したんだよ」
なんて説明しても、
「そんなもんは、計算間違い」
の一言で、片付けられてしまうのです(いや、もしかしたら、本当に間違っているかもしれませんよ。その可能性は、ゼロではないはずです)。

“他人に迎合することなく、自分の信念を貫く”
そういう人が、本当に少なくなりました。
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# by phuketbreakpoint | 2010-06-14 09:43

UFO、遂に発見!

「エイリアン・・・、オハイオに・・・?」
「ええ、宇宙人の死骸が、UFOと一緒に保管されているんです」
「どこに・・・?」
「どこにって、エア・フォース(空軍)のベースキャンプですよ。あなた、オハイオに住んでいて、こんな有名な話も知らないんですか!」
1983年3月、アメリカ大陸をバスで横断中だった私は、オハイオ州クリーブランドを訪れていました。

バスターミナルでグレイハウンドの職員を捉まえて、目的地までの道のりを尋ねていたのですが、
「あんた、バカなテレビ番組でも見て、騙されてるんじゃないのかい」
「冗談じゃないですよ。ちょっと、これ見てください(と言いながら、「UFO本」を見せる私)」
“アメリカ・オハイオ州、ライトパターソン空軍基地の地下格納庫には、UFOの残骸と、エイリアンの死体が保管されている”
「ライト・パターソンねえ・・・・。確か、デイトンだったなあ・・・。300キロは、離れてるんじゃないか」

これまで、ヒューストンのNASA、ワシントンDCの合衆国・国防省と、UFOの関連記事に、よく登場してくるポイントには、足を運んできましたが、
「ここが、ペンタンゴン内部の売店ですよ」的な、しょうもない写真が撮れるという以外のメリットは、何もありませんでした。
UFOの正体を確認する、という作業は、実態があるのか、ないのか、わからない不確実なものが対象ですから、最初から無理があったのかもしれません。思えば、私の半生は、そんなモヤモヤとした何かを、捜し求めていたのかもしれません。


あきおが帰ってきてから1ヵ月後に、なおこが夏休みを利用して、日本から戻ってきました。
「パパ、ママ、ただいま」
菱和の制服を身に纏い、到着ロビーに現れた、なおこは、爽やかさに溢れています。つい、2年前のお正月、受験を終えて、颯爽と凱旋帰国したときの、あきおにも、同じような雰囲気を感じましたが、あのときの輝きが、今の、あきおに、あるんでしょうか?

なおこは、何事にも、そつが無く、ほとんど手はかかりません。菱和に入学した当初は、ホームシックで泣きながら、電話をかけてきたこともありましたが、
「可哀想だなあ・・・」
と思いこそすれ、あきおのときのように、怒りの感情が沸いてきたことなど、一度もありませんでした。我が子ながら、感心してしまうほど、あの子は、問題なく成長していきます。いや、マヨムのときも、同じでしたし、恐らく、きよみも、大丈夫でしょう。4人の子を育ててきた経験から、見つけ出した、究極の結論としては、
「苦労したくなければ、男の子は作るな!」
ということなのでしょうか。

結局のところ、かつての私がそうだったように、今の、あきおも、
“自分が何を、やりたいのか”
“どういう人間に、なりたいのか”
はっきりと定まっていないところに、問題があるわけです。好きな道さえ決まっていれば、菱和(仮名)でも、あんなことにはならなかったでしょう。
では、あきおにとって、それは、いったい何かといえば、答えを導き出すことは、容易ではないと言わざるを得ません。
私自信、悩み、苦しみ、空回りしながら、数限りない失敗を繰り返した後に、この南の島で、ようやく、答えが得られたような気もしますが、それが少年時代に憧れていた物と同じ姿かといえば、似ても似つかない物だったりするわけです。
目指すべき理想の世界とは、試行錯誤を繰り返し、壮大な回り道を辿っていった、その果てに、ようやく、おぼろげに見えてくるものかもしれません。

夏休みも、いよいよ終わりに近づいた、8月下旬、私達家族は、サムイ島に遊びにいきました。
昨年まで、プーケットでツアー会社を経営していた品川さんが、ここで働いていましたから、久しぶりに会って、一緒に食事をしました。
「サムイ島は、おもろない!若いもん、ばっかりや・・・。一緒に飲みに行ってくれるヤツが、おらへん」
内容は愚痴ばっかりなんですが、この人が喋ると、全部明るく聞こえてくるから不思議です。つい、30分ほど前には、ブータレてばかりいる、あきおに切れて、
「どこに行きたいのか、何も言わない。だったら・・・と、こっちで決めたら、ぶつくさ文句を言う。お前みたいなのが、一番困るんだよ」
不機嫌極まりなかった私でしたが、品川さんの話を聞いているうちに、いつの間にやら、気分が晴れ晴れとしてきます。
「ささ、品川さん、まずは、ぐーっと、一杯・・・。あきお、お前も飲め!」
途端に、ニコニコ顔となって、つい先程の怒りは、
「いったい、どこに、行っちゃったんだ?」
あきおも、呆れ顔で見ていました。

食事が終わって、ホテルに戻り、バンガローの縁台に腰掛けて、あきおと1対1で、久しぶりの親子酒になりました。
「どうだ、あきお。この酒(シーバス・リーガル)、美味いだろ。(東京の)おじいちゃんも、これが一番好きなんだ」
「昔、あきおが生まれたときに、空港で高級ブランデーを買って、ポータウ(ラントムのお父さん)に、お土産持っていったんだけど、近所の仲間と、5分くらいで飲んじゃってなあ・・・。大きな器に、並々と注いで、回し飲みするんだけど、口当たりがいいから、みんな、ぐびぐび、いっちゃって、一回りしたら、もう無くなっちゃった。あれ以来、ポータウには、質より、量だって、思ったな」
「田舎の連中は、朝から飲むからなあ・・。でも、ラオカウなんて、あんまり、飲まない方がいいぞ。ありゃあ、なんか混ざってるぞ、絶対に・・・」
「こうやって、おいしい酒が飲めるのも、一生懸命働いてるから、そう感じるんだ。さっき、あきおは、『退屈だ』って、言ってたけど、パパなんか、プーケットから離れて、今日は、お店を見なくてもいいって思うだけで、気分が軽くなって、何やっても楽しくなる。
いつも、ブラブラしていたら、こうはいかないぞ。ルング・トゥアン(トゥアンおじさん)見てれば、分るだろ。きっと、酒も美味しくないぞ。ああいう生活をしていると・・・」

酒を飲みながら、ほとんど酒の話しかしていませんでしたが、実に、美味しいお酒でした。
ここ数ヶ月、あるときは、怒り、あるときは、悲しみ、また、あるときは、呆れ返った、私の、あきおに対する感情でしたが、この夜は、本当に、心地よい時間を過ごすことができました。
あきおと一緒に酒を飲んで、
“こういう話を、日本語でしたかったからこそ”
私は、長い間、苦しんできたのです。その夢に付き合って、実現してくれた、あきおには、この先、何があろうとも、耐えて、見守ってやることが、せめてもの罪滅ぼしだと思いました。私が日本人でなかったら、あの子も、苦労することはなかったでしょうから・・・。

中1で、あきおを日本に送り出して以来、勉強のことも、それ以外のことも、あまり教えてやる時間はありませんでしたが、考えようによっては、そのいい機会ができたのかもしれません。
“自分の子の教育は、自分でやる”
“結果は、すべて受け入れる”
今こそ、原点に、立ち返るべきなのでしょう。
小学生だった、あきおに、1つ1つ漢字を教えていったときのように、今一度、あの子には、時間をかけて、私が、これまでの人生で培ってきたものを教えてやらねばなりません。あきおが頑張ってくれたおかげで、コミュニケーションの手段は、もう十分に確立されているのですから。

8月29日、
なおこが、日本に戻る日がやってきました。
「パパ、ママ、サワッディー・カー。日本に着いたら、電話入れるから」
「なおこ、気をつけなさいよ。忘れ物は、ないわね」
久しぶりに戻ってきた娘が、再び旅立っていく・・・。母親にとって、それは、やはり寂しいことだったようで、ラントムの目には、涙が光っていました。

今夜、なおこは日本へ。マヨムも、もうすぐ、イギリスに。きよみも、「来年、日本に行きたい」なんて言っていますし、あきおは、バンコクなのか、自宅学習のままなのかは、わかりませんが、まあ、なんとかやっていくでしょう。

5人で揺られた道のりを、4人で戻る、帰り道、
「明日、お寿司食べたい。あきお兄ちゃんも、行くでしょ?」
「きよみ、食べることばっかり、考えるなよ。また、太るぞ」
あきおと、きよみが喋っている、その傍で、
「子ども達が全員、プーケットにいればいいのに・・・」
ラントムが寂しそうに、呟いていました。

突然の大雨で、視界は、ほとんど見えないけれど、
なおこの声が、聞こえるような、
子どもたちの声が、聞こえるような、
みんなの声が、聞こえるような、
そんな、不思議な、帰り道。

来年、また、会えるといいな、
子どもたち、みんなと、会いたいな、
ラントムと一緒に、会えるといいな、
プーケットで、みんなと、会いたいな・・・、

車は、カトゥーの山を超え、夜のパトンビーチが見えてきました。
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# by phuketbreakpoint | 2010-05-29 13:11

まずは自腹で

ついに強制排除です。
「黄シャツ」も、「赤シャツ」も、やっていることは同じで、私には、「目くそ、鼻くそ」に見えてしまいますが、当事者や、その応援団は、
「俺たち、目くそを、鼻くそなんかと、一緒にしてもらっちゃあ、困るよ」
と言いたいのでしょう。プーケットで暮らす知人の奥さん(40代前半、南部出身、心情的に黄シャツのファン)も、こんな風に説明してくれました。
「こっち(黄シャツ)は、弁護士とか、学校の先生とか、実業家とか、立派な仕事についている人が多いけど、あっち(赤シャツ)は、不労者とか、農民とか、日雇い作業人とか、そんなのばっかり」
だから、「こっちの勝ち」と言いたげでしたが、一昨年、黄シャツが空港を占拠したときは、
「幼稚園じゃあるまいし、元市長さんとか、大学教授とか、立派な職業に就いている人たちが大勢集まって、やっていことと、悪いことの区別もつかんのか?」
と、正直思ったものです。
そして、今回の騒乱も、変な話が、本当に多かったと思いまいす。

3月の末、私は、家族と一緒に、バンコクを訪れていました。
「おー、やってる、やってる。記念写真でも、撮っていくかー」
赤シャツ隊の人たちが、揃いのユニフォームに身を包み、ピックアップ(ダットラ)の荷台や、バイクに分乗して、街宣活動を行っていましたが、夜になって、ワールド・トレード・センターに、映画を見に行くと、
“ガラーん”
いつもは、ハイネケンや、ビア・チャンなど、ビール各社が競うように、ビアガーデンを営業している店頭の大広場は、どういうわけか、閑散としていました。
「変だなあ・・・」
と思って、プーケットに戻ってきたら、2~3日して、
「赤シャツ隊が、あの広場を占拠した」
というニュースが入ってきます。まるで、
“予約が入っていたから、場所を空けておいた”
かのような、準備のよさでした。

タイ関連の、この手のニュースは、大体が、こんな調子ですから、いちいち真に受けていたら、キリがないのですが、私は、この手の話を耳にする度に、いつも、アントニオ猪木さんの言葉を思い出してしまいます。
「我々の闘い(プロレス)は、すべて本気でやってしまうと、シャレにならない。かといって、まるっきり、デタラメだと、ただの茶番になってしまう。この辺のサジ加減が、プロとして難しいところだ」
大雑把な筋書きの元で始められた、擬似的な闘争が、途中から、話の筋を理解していない飛び入り組や、ドサクサに紛れて、窃盗や放火、殺人がやりたいだけの連中が、呼んでもいないのに大勢参加してきて、筋書きを書いた本人たちにも、コントロールが効かなくなっているのでしょう。

今回は、警察も、軍も、政権側だったわけですから、躊躇することなく、出動命令を出して、
「はい、みなさん、違法行為はいけませんよ。とっとと、帰ってください」
武装警官を、100人ほど、現場に急行させれば、
「ヤバイの来た。ズラかれー」
と、事態が大きくなる前に、いくらでも押さえ込めたような気がします。
モタモタしている間に、デモ隊のおばちゃんたちも、すっかり居心地が良くなったのか、のんびり寛いでしまったようで、軍が動き出した頃には、
「誰が帰るか、アカンベー」
子どもの喧嘩みたいに、なってしまいました。
ミヤンマー人相手なら、間違いなく、その日のうちに、皆殺しにしていたでしょうし(タイ警察のミヤンマー人に対する仕打ちは、苛烈です)、日本人でも、容赦しては、もらえなかったでしょう(何年か前、ドンムアン空港で、カウンター業務に業を煮やした日本人男性が、大声で怒鳴り散らしたところ、30秒もしないうちに、自動小銃を構えた兵隊さんが現れました)が、タイ人は、相手がタイ人の場合は、遠慮深いですね。

一票手に入れるために、
「3000バーツだ」
「じゃあ、こちらは、4000バーツだ」
「ええい、だったら、オレは、4500バーツだ。もってけ、泥棒(お金だけもらって投票しない、ドロボウのような人もいるようです)!」
と、大金を動かして、文字通り、命がけの選挙戦を戦っている南部の候補者(特にパトンビーチ町長選)から見れば、
「ナンプラー(30バーツ)、タダでくれたから、あの人に入れよ」
で、当選してしまう(?)北部の候補者は、ずいぶん、いい加減な選挙を戦っているように見えてしまいます。本来なら、反対派を封じるためにも、
「私が、まず・・・」
自ら率先して、貧困層の援助に、私財を投げ打って乗り出すべき、タクシンさんが、政治的地位を利用して、巨万の富を築き、税金も、ほとんど払っていないようですから、
「人のフンドシ(他人の税金)で、相撲をとっている(自分の人気取りをしている)」
と言われても仕方ありませんし、赤シャツ一人雇うのに、1日1500バーツ(約7500円)払ってるという話もありますが、タクシンさんが、初めて自腹を切って、貧しい人たちにバラ撒いた、とも言えますから、これからも、どんどん、やったらいいんじゃないでしょうか。田舎の人たちは、きっと、大喜びしてますよ。

ただ、今回の騒乱、海外のメディアが、
「好き勝手に、言い放題」
しているのは、タイで長年暮らしてきた一人として、ちょっと憤りを感じました。
“たまには、女房の悪口を言うこともあるけど、それを、「他人」に言われると、腹が立つ”
まあ、そんなところでしょうか。

5月17日付の、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は、
「政治が、富の増大と、同じ速さで発展することができなかったことが、背景にある」
と論評しているそうですが、一ヶ月の家賃が数万バーツもする高級コンドミニアムの窓から、下界を見下ろして暮らしている特派員に、
“タイの本当の姿”
なんか分かるわけもなし、しかも、この記事を書いた記者さんは、騒乱の激化以来、
「アパートでも、体に合わない防弾チョッキとヘルメットを着用して、過ごしている」
んだそうです(変態か?)。
衝突の、しかも、一番危険な中心部の取材に出かけ、人が倒れている横で、嬉しそうに、カメラを構えている白人ジャーナリストの群れを、報道番組で見るにつけ、
「流れ弾、飛んでけー!(宮尾すすむ風、古過ぎ?)」
と、私は思ってしまうわけです。

また、同日付の、ウォール・ストリート・ジャーナルには、
「今回の騒乱を、国王が収拾できなかった現実を目の前に、人々は、タイが目指すべき民主主義システムのあり方を、模索し始めた」
と書いているそうですが、うちの近所に住む、おばさんは、
「民主主義?そんなもんは、関係ない。とにかく、タクシンが悪い」
の一点張りで、まるで聞く耳を持っていません。どこから見ても、「模索」してるようには、思えないんですけど・・・。
「国王が死去した後の、国の姿を憂慮し続けたタイ国民は、その姿を垣間見ることになった」
とも書いていますが、確かに憂慮してるのかもしれませんけど、結局のところ、
「あの息子さん、なんとかならん?」
という方向に、話は向かい、
「そういえば、また、新しい・・・」
「今度の女は・・・」
「なんか、新聞に、写真載っとったよ」
と、どんどん話題は、三面記事に向かい、最終的には、
「王様は、次で、10代目だから、今月の買い目は、1と、0だ!間違いない!」
最後は、数字当て宝くじの、「当選番号」に、話は落ち着くわけです。
そして、そんなタイが、私は大好きなわけです。
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# by phuketbreakpoint | 2010-05-29 10:10